韓リフの過疎日記

経済学者田中秀臣のサブカルチャー、備忘録のための日記。韓リフとは「韓流好きなリフレ派」の略称。

韓流以外映画:『ハーフェズ ペルシャの詩』と竹取物語

2008-02-20 09:00:45 | Weblog
 東京都写真美術館で朝一の上映。観客は10名以下。年齢層はかなり高め。


 ハーフェズ(コーラン暗唱者)という資格を持った青年が大師の(母親方の出身である)チベットから戻ってきた美しい娘の家庭教師になる。しかし青年と娘は壁に隔たれていて、両者は顔をみたり『コーラン』の音読教授以外の会話を禁じられ、また常に家政婦の監視の下におかれている。しかし青年はその娘の美しい声に魅かれ、ついに戒めを破って詩について語り、また互いに見つめ合ってしまう。家政婦はすぐに大師に報告し、青年はハーフェズの資格を剥奪され、鞭を打たれるなどの罰を受ける。青年の母親も戒律を破ったことで暴徒と化した人々によって打ちのめされて死んでしまう。青年は作業労働者として苦界に身を潜めることになる。


 物語の冒頭近くから、この青年とまったく同じ名前(風貌も髪の長さや身なりの清潔度の差異以外はかなり似ている)をもつ法学士の青年が登場する。この男はやがて大師に娘の婿として認められる。しかし娘はハーフェズだった青年への思いが忘れられず、青年と結婚するやいなや人事不肖に陥る。ここで法学青年は娘の処女性を尊重する行為にでていることが物語の伏線になっていく。


 大師は娘の病状を回復させるために祈祷やあらゆる手段を尽くすが無為に終り、ついにはその原因がハーフェズだった男にあることを突き止める。大師は青年の罰を許すことを認める一方で、娘への愛を忘れるように迫り、そのために鏡の誓願を行うことを条件として出す。この鏡の誓願とは、鏡に水を撒き、それを7人の処女がふき取り磨くことで、従来の慣習では愛の成就を願う風習である。それを大師は転倒させ、愛を忘れる行為として行えと強制するものだった。


 青年はこの鏡の誓願を果たすために、砂漠を放浪し、処女を探して、彼女たちの願いをかなえるという苦行を行う。その処女たちの願いはいずれも現実的(目が悪いとかパンや水がほしいとか、高齢結婚したいとか)なものであり、青年の解決策もすべて現実的なもの(眼鏡やパンなどを肉体労働で得たお金で買うとか、結婚してあげるとか。ただし結婚の誓いの前にその高齢処女は誓いを口にする前に昇天する)であるけれども、その実現は一種の奇跡、あるいは実現不可能なものの成就として噂されていく。

 面白いのは、この鏡の誓願を後追いしているのが、娘の夫である。夫はハーフェズの後を追跡することで、このハーフェズの「奇跡」や「苦行」のしんどさを身をもって体験していく。時には誤解されて鞭を打たれながら。


 やがて夫はハーフェズが愛を忘れるための誓願を追う事が、実は夫自身が娘への愛を忘れるための道程になってしまっていることに気がつく。いつの間にか両者の立場が入れ替ってしまったのだ。


 結末は必ずしも明示的なものではないが、鏡におかれたハーフェズの言葉を書き記した粘土板と娘のケープ?が重なることで、7人目の処女として娘が鏡の誓願を愛の成就としてかなえたことを暗示している。

 全編が乾いた大地とときたまの水のイメージで構成された断章形式の物語であるが、話の核になるものは、観ている間から思い当たったのは、例えば日本では『竹取物語』で姫が求愛者に次々と難題を与えてそれを克服できないことで愛の喪失(本編ではこれに身代わりという形で愛の成就を重ねることで複雑さはやや増している)を知るという古代からの逸話に似た単純な寓話である。


 本編の娘がチベットからやってきたこともかなり象徴的なように思える。実際にチベットとイランとの関係は私にはよくわからないが、本編を見た限りでは異世界からの来訪者といえる位置に娘はあり、それはまた『竹取』の姫に類似した地位を物語で与えているように思える。これは映画を観てから調べたものだが、チベットにも(厳密な考証ではいろいろ論争があるようだが)『竹取』と類似した物語が伝わっているという(「斑竹姑娘」)。そんな連想もこの映画を事後的に楽しいものにさせるのではないだろうか。
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