韓リフの過疎日記

経済学者田中秀臣のサブカルチャー、備忘録のための日記。韓リフとは「韓流好きなリフレ派」の略称。

反大塚英志論の準備と藤本由香里『私の居場所はどこにあるの?』

2008-08-28 23:35:14 | Weblog
 これはmixi日記に書いてたのを諸事情で表に出したほうがいいかな、と思い掲載。基本的に僕はちゃんと最後まで読まない本の感想はなるべくブログにはあげない方針なのですが、いま書いた諸事情で掲載。藤本氏の本はまだ最後まで読んでません。

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いま、積年の課題を果たすべく(というか単にそろそろ資料を捨てたり、研究室から図書館に戻したいのでw)、大塚英志の本を読んでいる。

彼の『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』は非常に面白く読める。僕も20世紀までの態度だったらもろ手をあげて誉めて終わりそうだw。なぜならここで大塚が摘出している江藤淳とは、僕が以前書いた大熊信行論で摘出したものと見事に重なるから。大熊論はそのうちどこかに書くとしてw

さて問題はこの本をいま半分まで丁寧に読んでて非常に奇怪な気持ちになるのが、大塚が頻繁に「サブカルチャー側の人間」であることを述べている点である。この本自体がその立場からする江藤への返礼である、という。

例えば、僕でも「経済学者田中秀臣」あるいは「経済思想史家田中秀臣」ということがあるが、、無条件的に「経済学の側の人間としての田中秀臣」という言い方をすることはない。

いや、そもそも「サブカルチャー」はなんらかの職業的属性で、大塚は使ってはいない。言葉の正しい意味の「部分文化」として使っている。

だからそれに対応する表現とすれば、「経済側の人間としての田中秀臣」という表現が可能だろう。しかしそんな馬鹿げた言い方がなんで可能だろうか?

 これと類似の表現として、最近読んだ藤本由香里氏の文庫本(『私の居場所はどこのあるの?』(朝日文庫))があるが、ここでは文庫本前書きとして、非常に奇妙のものを読ませられた。そこでは<私>や<私たち>や<少女たち>を女性たちの共感をベースにして使い分けているので、男性の評論家や読者にはわからないかもしれないからここで説明しておく、という文章だった。

正直、ここでバカらしくなってこの本を放ってもよかったのだが、なぜなら「<私>や<私たち>や<なんとかたち>を共感をベースに交互に使う」という手法は、別段それ自体へ珍しくもなんともなく(僕はほとんど使わないが)、いま書いた大塚氏も似た用法をもつと拡張して使っている(大塚氏の方が病的なものを感じるのだが)。

 だから、男だから女だからではなく、むしろそのような言い換えが単行本のときに一部の男性評論家にわからないといわれたのならば、それは単に藤本氏の文章がわかりにくかった可能性の方が数段大きい。

 ただし藤本氏はこの男性評論家が誰なのかまったくふれていないので僕にはその評論家がどんな趣旨でいったのかわからないのだが。

 こう思うのも男性ゆえ、といわれたら困るがw ただ単に僕には
この文庫版まえがきは、藤本氏の作品を非常に損なものに貶めていると思った
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