写真 1990年5月、栃木・足利市で4歳の女の子が殺害された「足利事件」で、午後4時前、菅家利和さん(62)が釈放された。
第1審での弁護人の有罪を認め情状酌量を求めていくとの弁護方針に従い受刑者は「自白」をし、捜査段階のDNA型鑑定結果と「自白」とを証拠として、最高裁でも全員一致の判断で、有罪判決が確定していた。
志布志事件や富山冤罪事件の例もあり、人間の判断に「絶対」はないことを改めて痛感する。法曹三者それぞれに恥じる部分のある事件だ。
足利事件はDNA鑑定の誤りが判明したことにより、受刑中に釈放される、という劇的な展開となった。ほかのことは格別、再審決定開始前に釈放するという判断をした東京高検ら検察庁の面々のこの判断は非常に勇気あるものと考えます。この1点につき英断と褒め称えたい。
人殺しと謗られ、20年近く収監された彼の人生にだれがどう報いるのか。
こういうえん罪をなくすためには、
1 まず、強引な自白採取が行なわれないように、警察の留置場を代用監獄と呼ん で使用させないこと({代用監獄の廃止」)。
2 次に、警察・検察の取調べを全部録画してあとで検証できるようにする「取調べの可視化」、これらがなにより大事だろう。
3 捜査機関手持ち証拠の裁判前事前全面開示
それにしても、鑑定、は怖い。専門家の理屈なんて理解するのも難しいから、鑑定の結果~~という結果になりました、といわれれば、はいそうですか、という気分になってしまう。
裁判員制度。。。何年か経てば、上手く機能し始めるかもしれないが。。。このことだけでなく、とにかく数年後に制度の抜本的見直しをすべきだろう。
話は変るが、昔から、刑事訴訟法では、自白は証拠の女王と呼ばれ、格段に証拠価値のある証拠とされる。犯罪の発端から動機から内容全てを証拠付けられる証拠は「真犯人の自白」しかないからだ。
しかし、自白偏重はえん罪を招くことが常識となり、科学捜査による物的証拠・客観的証拠の収集が大事だとされている。
以下の考察は公判も証拠も全く見ていないので、法的見解ではなく、一市民としての苦い感想である。
先日、最高裁で死刑判決が確定した事件に、いわゆる「和歌山カレー事件」がある。自白がなく、他の直接証拠がなく、状況証拠しかないうえに、動機も全く不明。死刑判決が最も重視したのが、カレーのヒ素と被告人宅のヒ素が同質性を持っているという、「鑑定結果」だった。
カレーを作るなべに近づける人が被告人以外にいなかったというが、パチンコなどの道具を使えば、なべまでヒ素の丸薬を飛ばすことなど分けなくできる。
被告人宅の庭などに犯行に使ったヒ素をそっとまくことも、そんなに困難とはいえないだろう。
もともと、夫がいうように、彼らはヒ素でもなんでもつかう詐欺夫婦。そのせいで、種々の場所にヒ素があったのはむしろ当然といえる。
金の亡者、常習的詐欺犯、それが被告人らの実態である。
しかし、だとすると、逆に保険金を受け取れるわけでもない人たちの食べるなべに、致死量以上のヒ素をどばどば入れた、だなんて、およそ、この被告人らのキャラクターや行動パターンにあわず、不自然不合理な感じがしてしまう。
でも、警察とマスコミは、古くは帝銀事件の昔から、脛に傷持つ人々をニセ犯人にしたててきたものだ。そういう人は世論の味方もなく、しずかに刑場の露と消え去るのみ。
で、ヒ素同士を比較する鑑定って、ほんとにどれくらいの信用性があるんだろう??
これから何年か10何年か後に、「ヒ素の鑑定が間違っていた」という報道がなされるのでは。。。
そんな、うそ寒い想像をして、暗澹たる気持ちにな今日の私である。
第1審での弁護人の有罪を認め情状酌量を求めていくとの弁護方針に従い受刑者は「自白」をし、捜査段階のDNA型鑑定結果と「自白」とを証拠として、最高裁でも全員一致の判断で、有罪判決が確定していた。
志布志事件や富山冤罪事件の例もあり、人間の判断に「絶対」はないことを改めて痛感する。法曹三者それぞれに恥じる部分のある事件だ。
足利事件はDNA鑑定の誤りが判明したことにより、受刑中に釈放される、という劇的な展開となった。ほかのことは格別、再審決定開始前に釈放するという判断をした東京高検ら検察庁の面々のこの判断は非常に勇気あるものと考えます。この1点につき英断と褒め称えたい。
人殺しと謗られ、20年近く収監された彼の人生にだれがどう報いるのか。
こういうえん罪をなくすためには、
1 まず、強引な自白採取が行なわれないように、警察の留置場を代用監獄と呼ん で使用させないこと({代用監獄の廃止」)。
2 次に、警察・検察の取調べを全部録画してあとで検証できるようにする「取調べの可視化」、これらがなにより大事だろう。
3 捜査機関手持ち証拠の裁判前事前全面開示
それにしても、鑑定、は怖い。専門家の理屈なんて理解するのも難しいから、鑑定の結果~~という結果になりました、といわれれば、はいそうですか、という気分になってしまう。
裁判員制度。。。何年か経てば、上手く機能し始めるかもしれないが。。。このことだけでなく、とにかく数年後に制度の抜本的見直しをすべきだろう。
話は変るが、昔から、刑事訴訟法では、自白は証拠の女王と呼ばれ、格段に証拠価値のある証拠とされる。犯罪の発端から動機から内容全てを証拠付けられる証拠は「真犯人の自白」しかないからだ。
しかし、自白偏重はえん罪を招くことが常識となり、科学捜査による物的証拠・客観的証拠の収集が大事だとされている。
以下の考察は公判も証拠も全く見ていないので、法的見解ではなく、一市民としての苦い感想である。
先日、最高裁で死刑判決が確定した事件に、いわゆる「和歌山カレー事件」がある。自白がなく、他の直接証拠がなく、状況証拠しかないうえに、動機も全く不明。死刑判決が最も重視したのが、カレーのヒ素と被告人宅のヒ素が同質性を持っているという、「鑑定結果」だった。
カレーを作るなべに近づける人が被告人以外にいなかったというが、パチンコなどの道具を使えば、なべまでヒ素の丸薬を飛ばすことなど分けなくできる。
被告人宅の庭などに犯行に使ったヒ素をそっとまくことも、そんなに困難とはいえないだろう。
もともと、夫がいうように、彼らはヒ素でもなんでもつかう詐欺夫婦。そのせいで、種々の場所にヒ素があったのはむしろ当然といえる。
金の亡者、常習的詐欺犯、それが被告人らの実態である。
しかし、だとすると、逆に保険金を受け取れるわけでもない人たちの食べるなべに、致死量以上のヒ素をどばどば入れた、だなんて、およそ、この被告人らのキャラクターや行動パターンにあわず、不自然不合理な感じがしてしまう。
でも、警察とマスコミは、古くは帝銀事件の昔から、脛に傷持つ人々をニセ犯人にしたててきたものだ。そういう人は世論の味方もなく、しずかに刑場の露と消え去るのみ。
で、ヒ素同士を比較する鑑定って、ほんとにどれくらいの信用性があるんだろう??
これから何年か10何年か後に、「ヒ素の鑑定が間違っていた」という報道がなされるのでは。。。
そんな、うそ寒い想像をして、暗澹たる気持ちにな今日の私である。
同種の事件(秋田の畠山被告の事件などもそうですね)が裁判員制度で扱われたとき、
裁判員は相当バイアスかかってそうで、
そうでなくても膨大な資料をもった検察との対峙で大変な刑事弁護人に、余計負担がかかるんじゃないかと予想しております。
この講演はローの事務員さんが録音されていたようなので、
先生は聞くことができるのでは。
司法研究科長のT先生と、刑訴のK先生、刑法のA先生のほかなんでか民法の先生もいらっしゃいましたよ。
でも、それで三審制で死刑判決3回って、うちの裁判官の能力はどうなんだろうと思わざるを得ません。
講演会があったので、参加してまいりました。
講演会のときは、裁判員制度の質問にとどめ、
後々、個人的に、被告人に動機が見えない点
質問させていただきました。
被告人は、保険金詐欺のプロなのだから、団体保険でもかけていてその受取人にでもなっていない限り実行犯になるのは考えにくいし、仮に個人的な恨みがあったとしても
自分たちが使っていた砒素を凶器には使わないだろうな~っていうことになりえそうなんですけどね。
有罪か無罪ではなく
有罪か有罪ではないか
になるのはいつのことなんでしょう。