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コロー 光の創造者

2018-05-21 00:32:23 | 



コロー 「夕暮」





 プーシキン美術館展を見てきた。
今回僕の心にしみこんできたのはコローの作品だった。
彼の光の扱い方に感心した。

 よく全体的な色彩に明るい色を使ってない作品を見ると「暗い」といって一刀両断に切り捨ててしまう人がいる。
僕が以前一緒に美術館に行った人にもそういう人がいて参ったものだが、コローの作品はたぶんそういう人には縁はないだろう。

 この上の作品からも感じられるとおり(もちろん本物を見るに越したことはないが)、彼のこの光の繊細な扱い方…ほぼ神業といっていい。
僕の好きな夕暮れ時の光の質感を本当に見事に表現している。
 僕のような絵の才能のない人間から見ると、「あの光」を絵具と筆で再現してしまうということ自体が奇跡のように思う。

 
 ちなみにコローの絵をネットで検索していてほかにもいい絵を見つけたので載せてみたい。























 同様に神業である。
夕暮れ時の光が空間全体にもたらす質的変化をとても緻密かつ繊細に表現している。
とくに空の描き方、樹の枝ぶりなどを見ると、まさにThe Artという感じで、天よりあたえられし才気としか言いようがない。

 コローという画家の存在は知っていたし、彼の作品もいくつかは見てきた。
でも今までは「いい画家だな」とは思ってはいた、思っていたがそれほど強い印象は持っていなかった。
 それがなぜ今の僕の心にこれほど強く刻まれるのか…
思うに、これほど「光そのもの」を緻密に観察し、「ただそれのみ」を表現しようとした画家がほかにいただろうか…

 もちろん、印象派は皆そうではないか、といわれるかもしれない。
しかし、印象派の画家の描く光は「光そのもの」ではない。光が照射する「もの」にあたってみえるその印象を表現している。
一方コローは今も書いたように、「光それ自身」を描出している。
 ぼくは今回それを感じて、改めてこの画家の偉大さをみる思いがした。

 コローの絵がなぜ今の僕の心にこんなに強く刻まれるのか、という問いに対する答えはたぶんそれだけではないだろう。
自分でもうまくそれをまとめきれていない。
 ただ一つだけ言えるとすれば、光というものをこれほどまでに自分の全魂で感じ取り、それをまるで仕事に誠実な職人のように、これほどの繊細さとこれほど多くの労力をついやして描き上げた人に対する敬意の念というか、感謝の念というか、そういう気持ちで今は満たされている、ということ。

 ぼくは芸術に限らず仕事における誠実さということにもっとも敬意を払う。
これと同じ誠実さをフェルメールの絵からも感じる。そこにはこれからも依頼を受けるようにうまく見せようとか、これで名を上げようとか、そういった気持ちは一切ない。
ただ自分に与えられた力のすべてを使って、目の前に存在しそれから自分に見えるもの、感じ取れるものを忠実に表現したい、という気持ちがあるのみだ。

 僕が以前読んだ谷川俊太郎のフェルメールの作品に対する評論(確か「んまであるく」という氏のエッセイ集の中におさめられている。僕がいままで読んだフェルメールに関する文章の中で最も優れているもの)の中にあったように、彼らのような芸術家のその「職人のような誠実さ」が、彼らの天才と相織りなして彼ら自身も気づかないうちにいつのまにか「向こう側に突き抜けていた」ということだろう。

 僕は今回の自分のなかに起こった変化を感じたうえで、改めて思うことがある。
それは芥川の「秋山図」という作品があるのだが、あの作品の中で芥川が言いたかったことの少なくとも一部はわかるような気がした。
 秋山図を読んだことのない人のために、簡単にあらすじを言うと、ある絵画に造詣の深い人がいて、その人が何十年か前に幻の絵といわれている名作を見た。
それがなぜ幻の絵といわれていうかというと、ある時期にその絵がなくなってしまいそれ以来誰もその絵を見たものがいないからだ。

 それは大変な名作であり、その主人公はなくなって以来必死に探したのだが、もう何十年もその絵を見ていなかった。
ある時期にそれが発見されたという知らせを聞き、その主人公はとても喜んで急きそれを見に行った。
ところがだ、その絵に再会した喜びもつかの間、初めて見たときの感動と同じものを感じない。なぜなのか?しきりにその主人公は自問していく…というあらすじである。

 芥川はこの物語の中でその答を明示しておらず読むものににすべてをゆだねている。
今回の展示会で僕の中に起こったことは、この秋山図の逆のバージョンである。初めて見たときはとても上手であることは感じ取れたが、まぁいわばそれだけだった。
ところがその数十年後(今回の美術展)に再び見たときに、心の最深部に浸みこんでいくほどの感銘を受けた。

 作品が変わったからなのか、それとも鑑賞者が変わったからなのか、もちろん作品そのものが変わるわけがない。
鑑賞者の変化である。鑑賞者がたどったそれまでの時間、経験、それらがもたらすなにがしかがその鑑賞者の心、魂に質的な変化をもたらし、それが以前は見えなかったものを鑑賞者のなかに映し出した、ということだろう。
 もちろんその逆の場合もあり、僕のなかにも数十年前は大感動していた作品も、いまではありきたりの傑作になってしまったものはある。

 つまり、絵に限らず、芸術作品というものは、同じ鑑賞者でもそのひとがたどってきた人生の時間、経験がもたらした質的な変化に応じて、その「価値が変わっていく」、いいかえれば、「すぐれた作品というもの」はそれほどまでに多層、重層的なものであるということではないだろうか。

 今回コローの作品を見て、絵とは違うジャンルである小説、芥川のあの地味ではあるが、いぶし銀のような光彩を放つ名作を思い出すことになったのは意外だった。


 付録として、今回この展示会で印象に残ったいくつかの作品をのせてみたい。



セザンヌ


 

この絵は後のキュービズムに影響を与えたといわれる作品。中央の山や前景を見ても、一部を別の画角から描いているように見せている。それまでの絵の描き方と比べるとまさに革命といってもいい描き方で、セザンヌはある意味キュービズムの生みの親といってもよく、今回これを見てこの人の偉大さを改めて感じた。この写真からも感じ取れるが、本物のこの作品を見るとさらにさらにその斬新さに驚かされる。






ルイ・ヴァルタ


 

ゴッホを彷彿とさせる。決して軽くみられるべきではない作品だと思った。






ギヨマン


 

この人などはもっと高く評価されていい人だと思った…が、あの時代の綺羅星のごとく出てきたそうそうたる印象派の画家たちの中ではやはり、これほどの才の持ち主でも埋もれてしまったのかな…
 説明書きの中で面白いと思ったのは、このひとは最初仕事をしながら絵を描いていたのだが、あるとき宝くじに当たって生活に困らなくなり、それ以来仕事をやめて絵描き三昧の生活をしたというもの。僕はこれを読んで早速宝くじを買った(笑)



プーシキン美術館展公式サイト







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