新しいブログへの引っ越しが完了しました。
かなり長い間でしたが、ありがとうございました。とくに、このブログ開設期から見ていただいた方、感謝いたします。
では、またどこかで会うこともあるでしょう!
ついにこのgooブログもなくなってしまうことになった。今はもうブログを書く人も減っているのだろうか、まぁ、僕が何十年か前ブログを始めたころによく見ていたブログもいまでは更新しなくなっているところがほとんどであることを思うと、もうはやらなくなっているのかもしれない。それにくわえて人口減少もあるのかな。
それとXやインスタグラムなどのより短文で即興的にできるSNSが主流になっていることもあるのだろう。
引っ越し先はどこにしようか迷っているが、gooブログがおすすめしているはてなブログにしようかなと思っている。ただ、ぼくはこういうデジタル的な作業があまり得意ではないので、できるかどうかはわからないが(笑)もしできなければまたどこかに新しいブログを作るつもりでいる。
さてなにをかこうかな(笑)
やはりあのお騒がせ男、トランプにしようか。
彼を見て思うのは、まず大統領制というのは結構危険な政治形態なんだなということだ。
というのも、もしアメリカが日本のような議院内閣制であったら、まずあんなめちゃくちゃな人間が国家元首の地位に就くことはないだろうから。(戦前のドイツのように全くゼロではないにせよ)
議院内閣制であればああいうめちゃくちゃな人間はそのまえに様々なふるいにかけられ、おのずと排除されていくだろうからだ。
間接民主主義であれば民衆の声をダイレクトに代弁するようなひとが元首に選ばれる可能性が薄まってしまう代わりに、大統領制のようにトランプやヒトラーなどのような極端で極度に愚かな人間でもつよいカリスマ性と大衆心理の扇動力にたけた人間が一時的な人気で一挙に元首についてしまう可能性は低い。(ヒトラーの場合は議院内閣制ではあったが)
日本にもこの間騒動を起こして切り付けられた人物のように、そういうタイプの政治家は少なからずみられるが、彼らが日本の首相に就く可能性は極めて低いだろう。
それはひとえに議院内閣制度では一時的に大衆の人気をつかむ扇動家肌の人間がいても、まず有力政党に属してそのなかで地道に活動を行い同じ党員たちの評価を勝ち取らなければならない。そしてその政党が選挙で第一党にならなければならない。そういう2重3重のフィルターにかけられるので、まずトランプのような極論を標榜する人物は排除されるのが普通だ。
大統領制や独裁制の国ではそうはいかない。その時の時勢、特に大衆の怒りや不満をつかんでうまく利用できる力にたけた人物が一挙に国家元首の地位に就くことができる。今回のトランプやヒトラーなどのような人物はまさにその典型だろう。
日本は議院内閣制でよかったとつくづく思う。特に日本人はその時の時勢、支配的な世論などに無批判で迎合してしまう(迎合しなくてはならない雰囲気)傾向が強い国民だからなおのこと。
さてさてアメリカは(そして世界は)これからどうなっていくのだろう。
僕が一番心配しているのはアメリカがこのまま独裁体制に移行していくことだ。そう、トランプの任期が切れる4年後にかれが政権の地位から降りないという事態が生じることだ。これは荒唐無稽なことではない、実際彼は前回(第1期)任期が終わり選挙で負けても選挙結果が無効だと主張して辞任を拒否し、それどころか彼の支持者を扇動して議会に乱入させた過去がある。こんなめちゃくちゃなことをやった大統領はながい米国の歴史の中でも過去に彼しかいないだろう。
そしていまも彼は最高裁判所の命令を無視し続けている……関税の問題だけに焦点が当てられているがこっちのほうがよっぽど恐ろしいことだ。アメリカの一部識者もそのことを憂慮していて、本気でアメリカの独裁体制化へ警鐘を鳴らしている。なかにはそれを予測して隣国のカナダに移住している知識人たちもいるぐらいだ。
そして僕が一番驚き、恐れているのは、大衆を扇動して議会に乱入させたり、最高裁判所の命令を無視しても、彼を抑止も逮捕もできずそのまま野放しにしてやりたい放題させているということだ。これはアメリカではすでに民主的な法治体制が部分的にではあれ機能していないことを意味している。そう、「部分的には」すでに独裁体制に移行し始めているといっても言い過ぎではないのではないか。
実際、マスコミからアメリカ大統領は2期(彼は今回2期目)を越えて就任することはできないがどうするのかと聞かれたときに、それはできるやれる方法はある、とはっきりと答えているし、今回の大統領選挙期間中に「今回私が選ばれたらもう選挙そのものをする必要はなくなる」とまで言っている。
これらの発言はほんとうに小さく扱われているにすぎないが、僕は関税などよりもはるかにはるかに人類の未来にとっておそろしい発言だと思っている。
それと今回のアメリカの理不尽な関税で各国がとった対応を見ていると、どうしても思うのは中小国の悲哀、とくにアメリカに防衛を依存している日本や韓国、台湾などのような中小国家の悲哀だ。
中国はもとより国境を接しているカナダ、今までの同盟国だったEUでさえ毅然とした対応をしているのと比較して、日本、韓国、台湾などの国々がとっているアメリカに対する隷属的な態度……仕方がないということはわかるが、ぼくはそれをみて、世界における日本の相対的な地位というものがいかに弱いものかということをまざまざと感じている。
トランプの課した関税に対抗して毅然と米国からの輸入を打ち切り、他国に切り替えている中国やカナダ、EUなどとは対照的に、アメリカが諸外国の報復関税で輸出できなくなったものを無理やり日本に押し付けられても渋々買わざるを得ない我が国の現状を見ても、しかたがないこととは言え、安全保障を他国に依存せざるを得ない国の悲哀というものを今回ほど感じたことはない。
もちろん、EUのようにアメリカへの依存を断ち切り、日本独自で自国を守っていくという選択肢もないわけではない。
ただそれをするには防衛費を今の数倍は上げなくてはならなくなるし、それに核兵器の所有ということも現実問題として考えなければならなくなる。少子化で経済力も衰退している日本にそれができるのかといえば……現実問題として不可能だろう。
そしてなによりも、この国に根強く根深く存在する戦前型の国家観に強い親和性を抱いている一定の層の存在を考えると、そうなることの別の危険性というものも浮上してくる。そうだ、日本が完全にアメリカから離れた時にうまれる常識、良識的な政治観を持った一般的な普通の日本人が見舞われるかもしれない危険性である。現状、北朝鮮を除けばこの『内側に存在する危険』のほうがはるかに我々にとって憂慮すべきものと考える。
もちろんこういう意見を書くと反発を感じたり、なにを馬鹿なことをと一蹴する人々も多いだろう、しかし、日本では本来このような超保守層を抑制、抑止できるはずのリベラル層が欧米のように強い政治勢力として結集できず非常に弱い、そこに一番の不安を覚えるのだ。他の人は知らないが、『僕は』確かにそう感じるし、それは間違ってはいないと考えている。
なので、トランプに対して毅然とした対応をとれず「朝貢外交」をせざるを得ない日本を見て悲哀を感じつつも、われわれ一般的な日本国民全体の大きな、広い意味での安全のためにはやむを得ないものだとおもい耐え忍んでいくしかない。
ただ、ただ耐え忍ぶだけではなく、中国やカナダ、EUなどがやっているように、貿易をアメリカだけに依存せず、より多角化していく努力は絶対に必要だろう。面従腹背というとあまりいいイメージはないが、自国の置かれている立場、国家の力というもの、そしてなによりも現在のアメリカというものを考えるとき、これは絶対にやらなければならない。中国は第1期トランプ政権のときの教訓から地道にその努力をしてきていて、それが今回トランプの理不尽な要求にもあれほどの強い対応をとれる礎になっていることを考えると、ますますそう考える。
アメリカに大変な大統領が登場してしまった…最近のニュースを見ていてそのことを強く実感している。
特にカナダ人の動揺を強く感じている。カナダとアメリカは大本では共通するルーツ(イギリス)を持ち、価値観も文化も非常によく似ている。よくアメリカとイギリスの同盟が世界で最も親密で強固な同盟といわれるが、その国の生い立ち、地理的な近さなどを考えるとカナダとアメリカの同盟はイギリスとアメリカの同盟よりも親密で強固なものだと僕は思う。
今起こっていることはそのほとんど血のつながった兄弟ともいえるこの両国の絆にくさびが撃ち込まれようとしているということだ。たぶん両国の歴史上はじめて。
トランプが25%の関税を課すと決めた理由が移民と麻薬の流入だということだが、これはおそらく口実でありその真意はカナダの豊富なオイルと天然資源であることは間違いないだろう。それが欲しいために何の関係もない関税をかけてカナダ国民の雇用を奪い、独立国の自治権を奪う、つまり併合する、(カナダのトルドー首相もそのことを明言している)こんなことを目指したアメリカ大統領はかつてなく、たぶんカナダ人自身も実際に目の前で起こっていることを当初は信じられない思いでいただろう。
カナダのメディアを見ているとこのトランプの動きを Economic war 経済戦争と表現している。実際、その国の統治権を奪うことを最終目的としているのだから軍事力を使わない戦争といっても全然大げさではない。
トランプがこれほど過激になった背景にはプーチンのウクライナ戦争があることもほぼ間違いなく、あいつがやるなら俺もやる的な感覚を彼の中に生み出した可能性がおおきくて、その暗く激しいドロドロとした情念がこの二人の非常に似た気質の人物同士の間で地下水脈のようにつながっている。
ただ、非常に滑稽なのはこの関税で一番打撃を受けるのは外国ではなくアメリカ国民自身だということであり、世界最大の強国の大統領がその単純な子供でも分かるような未来を予見していないことだ。なぜなら、関税を払うのはカナダでもメキシコでも中国でもなく、アメリカの輸入業者でありそれを価格に転嫁されて払うことになるアメリカの消費者自身だからだ。
奴ら(カナダやメキシコ)はアメリカに借りがある、この関税でそれを払ってもらう、とトランプが言っているがそれを払うのは彼らではなくアメリカ人自身だということに一国の大統領が気づいていないということの衝撃、滑稽さ……なんでこんな人が大統領に?とおもっているのは僕だけではないだろう。
カナダはこれから新たな輸出先を探っていかなければならない、それはもしかしたら中国になるかもしれない。カナダが持っている天然資源は中国のハイテク業界が最も必要としているものだ、技術革新著しい中国にとっては渡りに船だろう。そしてカナダやメキシコ、そして中国の報復関税で売れなくなるアメリカ製品の代わりに中国の安くて品質の高い(中国製が劣悪という時代はすでに過去のものになりつつある)ものが流通するようになるだろう。
EUの外相が的確にも指摘しているようにこれで一番笑うのは中国だということが現実のものになっていくだろう。
まぁ、トランプのことはこれぐらいにして僕が今回触れておきたいのは中国のことである。
具体的にはかの国の科学技術レベルの目を見張るような発展だ。僕は写真が好きなのでその分野での中国の技術レベルの高さにはすでに気づいていたが、それはひとり映像関係のみならず、その他多くの科学分野でも同様にいま中国では驚異的といっていいほどの発展を見せている。
数十年前に鄧小平が来日した時に新幹線に乗ってその技術水準の高さに驚き、中国はいくら背伸びをしても不美人なのだから仕方がない、と彼得意のたとえ話をしたのを覚えているが、それがいまや中国の高速鉄道技術は日本に追いついたばかりではなく、それを凌駕するレベルにまで達している。
それだけではない、その他の製造業でも中国の今の技術は多くの面で日本をしのぎ始めている。
こんな世界というのは「あのかつての中国」を知っているものにとってはほんとうに隔世の感がある。
まぁ、おおげさではなくて自分が生きてそれを目にするとは思ってなかった世界が現出しつつある。
世界的な投資家のジム・ロジャースが19世紀はイギリス、20世紀はアメリカ、そして、好むと好まざるとにかかわらず21世紀は中国の時代になると予見したその世界が少しづつしかし確実に僕らの目の前で現出しつつある、その変化を歴史の地殻変動を、いま歴史の観測者としてリアルタイムに目撃しているんだなという実感が僕の中にある。
かつてまだイギリスが世界の覇権を握る前、スペインやオランダが世界の超大国、経済大国として君臨していたが、それらの国々が凋落していき時代はイギリスの時代に移り、そのあとはアメリカと変化していくその過程はまだインターネットがなかった時代であり、技術進化の歩みもいまよりもスローだったこともあって、その歴史の地殻変動の流れを目撃しているという感覚をもったひとはそう多くはいなかったに違いない。
しかし、インターネットの登場で地球の反対側で起こっていることをほぼリアルタイムで見ることができるようになり、技術革新も加速度的に速くなっている現在、たぶん僕らは人類の歴史上はじめてほぼ「リアルタイムで」この変動を目撃することができる、そんな時代に生きている。
そして、人類の歴史上はじめて白人以外の人間が世界の覇権を握る時代の幕が開けようとしている。
欧米の人々は口にこそしないもののやはり自分たちは優越した人種であるというプライドのようなものをその心の奥底には持っていると思う。すくなくとも「物質文明」においては歴史がそれを示唆してきているし、ごくごく一部の知的にすぐれた洞察力、慧眼を持った欧米人を除いてそれは暗黙の了解のようなものだっただろう。
しかし、彼らが優越性をほこってきたその物質文明においてさえいまや新しく勃興してきた中国という国に追いつかれ部分的には凌駕されつつあるという時代が到来している。
この事実にたとえ中国という国に反感を持つ日本人でさえ、胸のすく思いを抱いている人々は実は多いのではないか。
さて、これから日本はどうするのだろう、すぐ近くの隣国に歴史上はじめての欧米文化圏以外の超大国が出現してくるわけで、しかもその国は民主主義国ではなく、日本とも友好的な関係にはない。日本はこれから徐々に衰退していく古い超大国アメリカと同盟を結んでいる。
アメリカは今回のウクライナ戦争でロシアにさえ手を出せなかった、ましてやこれからアジアに出現する超大国はそのロシアの何十倍も強大な国になるだろう。日本に何かあったときにも果たして救ってくれるのか……いうまでもなくたとえ日米安保があってもこれからの中国の超大国化への移行の度合いが進めば進むほど現実的には手を出せなくなっていくだろう。そうなったとき日本はどうするのか…これまでのような硬直した外交ではどうにもならなくなっていくに違いない。
歴史の地殻がリアルタイムで変動するその鳴動というか大きな潮流の変化というか、そういうものをたぶん人類史上初めて視認、触感している世代として、様々な思いが交錯している昨今である。
あけましておめでとうございます。
つい1月ほど前に高尾山から見た富士山があまりにも素晴らしかったので、元旦にぜひ見てみたいと思い前回一緒に行った友達とまた訪れた。
今度も幸い天気に恵まれてすばらしい初富士を見ることができた。友人の仕事が終わるのを待って一緒に行ったためついた時はすでに日が昇っていたが、僕らがついた時にはかなりの人々が下りてきていたところを見ると、みなさん暗いうちから登って朝日にあたり徐々に明るくなる富士山を見たのだろう。さぞ素晴らしかったろうとおもう
2日は普通に仕事をして、今日3日は休みを取った。
ことしからいままでの寺社を中心とした写真からストリートフォトグラフィ(街中で撮る写真)に少しシフトしていこうかなと思っている。
そう思い始めたきっかけはドイツの写真家、Siegfried Hansen氏の写真を見てこういう写真なら取ってみたいと思ったから。
それでさっそく青山、表参道のほうに出かけて写真を撮ってきた。
どうだろう、まあまあのものが撮れたような気がするのだが。
いままでストリートフォトグラフィというとどうしても人間をとらなきゃいけないという固定観念があり、相手が人間だとトラブルに巻き込まれる危険もあり、非常に気を使わなければいけない。また、それいぜんにそういう写真を撮ることにあまり意欲がわかなかった。
でも、このSiegfried氏の写真を見て、あぁ、こういう写真なら取っていて楽しいし、面白いと思った。結構頭も使わなければならないし、なにか謎解きや宝探しのような喜びがある。
そう思い始めたもう一つの理由は、僕が住んでいるのは都会の中であり、きれいな風景写真を撮るには交通費(レンタカー代なども含めて)泊まる場合は宿泊費などの出費が物価が上がっている今、結構バカにならない。それならば、自分が住んでいるところで何かとれるものを見つけて撮りたいと思い始めた。
ただ、いままでみたストリートフォトグラフをとる写真家の写真を見ても、ソウル・ライターやヴィヴィアン・マイヤーの写真を除いて、ほとんど共感できるものがなかった。
そんなときにこのドイツ人の写真や動画を見てピン!とくるものがあった。これなら取れるかもしれないし、何よりも撮っていて楽しいと思った。
頭の体操、ちょっと知恵の輪を解くような面白さがある。人をとるときのようなストレスもない。また、これを始めるもう一つのいいところは街を歩く口実ができるということ。
僕はカフェめぐりが好きというわけでもなく、洋服なども興味はあるが身銭を切って買いたいと思うほどのこともなく、クラブなどのようなところにもいかない。だから、さすがに家にばかりいないでどこかに出かけようと思っても、ついだらだらと過ごしてあっという間に夕方になってしまうという休日が多い。
でも、ストリートフォトグラフィをはじめればとにかく出かけようという気持ちになる。そう、上に書いたように宝探しのような気分になるからだ。
やってみようと思った。
よい趣味を持つということは人生のおいしいソース、調味料を手に入れるのと同じこと。
今後そういうたぐいの写真をちらほら投稿しようと思います。
今日は撮影をしながら本当に穏やかな心で過ごすことができた……いい趣味を持てたと感謝している。
今年の紅葉は2日間だけ楽しんだ。高尾山と鎌倉の妙本寺、そして同じく鎌倉の妙法寺。
高尾山の紅葉は素晴らしく、まにあった!という喜びが大きかった。とくに僕の現在の親友の一人と行けたのでその喜びもさらに大きかった。
上りながらずいぶん前、母と一緒に行った時のことを思い出した。
実はこの日は新しく買ったカメラ、Sony のZV E10を使って撮った。
なぜカメラを購入したかというと数週間前に行った箱根で僕の愛用カメラであるNikon D7100を失くしてしまったから。
失くした場所は大体わかっていたのでそこに電話して届いてないかどうか聞いたのだが、届いてなかった……いままでの経験から言って大体届いているだろうと思っていたのでこれはショックだった。
よく外国人などが日本では物を失くしても遺失物として届いていることが多い、素晴らしい国だなんていうユーチューブ動画などがよくあるし、実際僕もそれは日本の素晴らしい点だと思っていた。まぁ、一回そういうことがあっただけで断定はできないが、僕はこの経験で日本もすこし変わってきたんだなぁという思いを持った。昨今はやりの闇バイトなどを見ても、その思いを強くしている。
それともう一つのカメラCanon Eos Kiss10も買ってわずか3年にも満たないのに不具合で使えなくなっていることもあり、しかもその修理に4万円弱ほどの修理代がかかるといわれ、新しいカメラの購入に踏み切らざるを得なかった。
ただ、このソニーのカメラはこれから動画に注力しようとしている僕には最適のカメラであり、結局これでよかったのだろうと思う。
出来上がった写真を見ると画質がとにかく素晴らしく、今はどこのどのカメラを使っても質の高い写真が撮れるということが実感できた。
なので新しいカメラが出たからと言ってそれを次から次へと追いかけるのではなく、一つのカメラに習熟し、カメラの機種などよりずっとずっと大事な写真撮影の腕を上げること、画像加工の腕を上げることに注力することのほうがはるかに大事であることを再確認した。
高尾山に行ったときは朝8時くらいだったのでそれほど人はいなくて安堵したのだが、下山するころには100mはあろうかと思うほどの長蛇の列ができていて、しかもそのほとんどが外国人、ニュースなどでよく報道されているオーバーツーリズムを自分の目で確かめることになった。高尾山でこれなら、これは京都にはもういけないなぁなどと嘆息……
高尾山に行ったときは友と二人、鎌倉に行ったときは動画を撮影したこともあり一人で行った。
友といったときはただひたすら楽しい喜びが増幅する旅であり、一人で行ったときはじっくりと自然や寺社の美しさをあじわいその中にひたることができる旅であり、どちらもそれぞれに貴重な体験だった。
今年は僕にとって非常に貴重な年であることは最近とみに感じていて、長年の心の夢が形となって生まれようとしている。そんなとしに上に載せたような感動的な富士山の姿を目にすることができたことはほんとうにぼくにとっては吉兆だと感じている。この高尾山頂から見た富士山は僕が今まで見たどの富士山の風景よりもすばらしく心動かされた。一生に一回は見ておくべき富士だとさえ思う。
生きてきてよかった…そう思うことが重なる、ありがたい年である。