気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

霊的な俯瞰から

2020-09-29 08:39:11 | 内奥への旅

 

 

 

 まず近況から書き込むと、先週中華街に行ってきた。
当初は鎌倉に行く予定だったのだが、出かけたのが遅くなったので急遽横浜の西洋建築の建物をとってみたいと思い、あのあたりをぶらぶらしているうちに中華街にたどり着いたので寄ってみることにした。

 結果的にみるとこれが大正解だった。
昼間に見るとそうでもないものでも、暗くなってからイルミネーションに照らし出された建物や街の風景はまた独特の美しさを生み出していた。
特に横浜は古くからの港町で洋館なども多い。残念ながら山手のほうまではいけなかったが、それでも数枚はいい写真が取れた。

 
 さて、今回もエドガー・ケイシーのリーディングの中の一例を紹介したい。
今回のケースはカルマのシステムというものが実に微に入り細に入り巧妙にわれわれ人間の人生を形づくっているということについての好例である。

 ある夫婦の非常に興味深い、数世紀に及ぶ転生の物語(とはいえこれは実話であるが)である。
この本(転生の秘密)の文面を読む限りでは、まず妻のほうから健康上の相談をケイシーに持ち掛けたらしく見える。

 この夫の妻は夫と結婚した時は23歳の美しい女性であった。
著者の言葉を引用すれば

 

 『美しい茶色の眼、顔のまわりにゆったり波打っている美しい濃褐色の髪、すらっとした美しい容姿など──これらは彼女に女優のような外貌を与えていた。ケイシーからリーディングを受けたときは41歳だったが、そのときでさえレストランで人に振りかえられるほどの魅惑的な美を持っていた。』

 

 ということである。そしてこの美しさがこの二人の悲劇性を余計に増しているのだった。というのも驚くべきことに彼女はこの夫と結婚して以来18年間ずっと夫の性的不能に悩んできたのだった。

 ではなぜ彼女は18年の間離婚に踏み切らなかったのかということがまず頭に浮かぶが、それは著者によれば「彼女は夫を愛していたから」ということである。もちろんそれだけではなく、そもそもこの二人は数世紀に及ぶ輪廻を共に繰り返してきた間柄であり、そのこと自体からくる理性的には理解しがたいある種の特別な「絆」があったからだと考えるのが自然だろう。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのような二人の結婚生活は18年の長きにわたって続くのだが、あるときこの夫婦に決定的な危機が訪れる。
彼女の幼馴染で子供の時から彼女に思いを寄せてきた男性が突如再び彼女の前に姿を現したのだ。この時のことをつづった彼女のケイシー宛の手紙がとても興味深く、また、美しいと僕は感じたので載せてみたい。

 

 『私たちが再会した瞬間、彼の心に猛烈な勢いで情炎がもどってきました。そして私も反応しました。私たちはそのまま別れようとしました。けれど私は自分の健康が神秘学の研究を始める前のように衰えてゆくのを発見しました。
  私は彼が結婚していなかったら、彼と関係を結ぶことを躊躇しなかったでしょう。私は、あなたもご想像になると思いますが、いろいろな理由で夫と別れるつもりはありませんでした。それに彼(夫)は非常に立派な人格者になっていましたので……

 この男(幼馴染の男)に対する私の感情は多分愛情ではなくて、私の結婚生活の特殊な事情によるものです。でもこの人も立派な人物なのです。
彼は子供のころから私を好きだったのです。私のほうは知りませんでしたが、彼の母から聞いたのです。彼は妻を養うことができるようになるまで、私に知らせませんでした。

 しかし、その時はすでに遅かったのです。というのは、現在の夫との婚約を知らせに私がちょうど家に帰ったところでしたから。この特殊な事情が私にカルマを招き、三回にわたる私たちの前世につきまとっているのです。

 私は時折彼と密会しました。それは、一つには彼が身も心も八つ裂きになっていたからです。また他の理由は、そうすれば彼の欲望がいやされるだろうと思ったからです。彼は心理的に浄化されたいという欲望を持っていましたから……
 しかし、私はそれも途中でやめてしまいました。彼の妻を裏切りたくなかったからです。私は彼の妻を知っていましたし、彼女が好きでした。私は彼女の邪魔をしたくありませんでした。

 社会は私の行動を非難するでしょうし、彼女がそれを知ったらとがめることはわかっているのですから、私はだれも傷つけたくありませんでした。
~中略~
 私の夫は、私があなたに健康上の助けを求めていることは知っているのです。しかし、彼はこの事情は知りません。』

 


 この問題はこれだけを読むとどこにでもある不倫(未遂)のように見えるが、実は実は、この手紙の中で彼女自身も言及しているように、その遠因は二回前の前世にさかのぼるのである。

 時代は中世のヨーロッパで、その時の彼女の名前はシュザンヌ・メルシュリュー。その時の夫も現在の夫だった。(もちろん前世なので現在の夫と同じ魂の人ということ)時代は十字軍全盛であり、その時の彼女の夫も情熱的にその運動に打ち込んでいた。
 さて、十字軍というと遠くヨーロッパから中東までの遠征軍である。当時その遠征軍に参加する男たちの唯一の心配事は彼らの妻の貞操であった。

 そのため、彼らは貞操帯という道具を妻に装着して遠征の旅に出た。貞操帯というのは女性の体に装着する道具で、それをつけている間はほかの男と肉体関係を持つことができないというものだった。

 リーディングの言葉をそのまま引用すれば、『この人は伴侶から疑われ、他の男との関係を防ぐためにベルトを無理やりにつけさせられた妻たちの一人である。』そのため、メルリシュー夫人は『いつかそれを取り外して姦通をも…』と考えたという。リーディングによれば『貞操を強制されるような状態に置かれたために、この人はためにならぬ決意をするに至ったのである。したがって、このことがこの人の現在の経験の一部になったというのはひとえに身から出た錆というものである。』

 あいかわらずケイシーのリーディングの言葉は痛烈である。(リーディング中に話しているのはケイシーその人ではなく、催眠中のケイシーの口を使って話している存在のことである)

 

 

 

 

 

 

 

 ここまで読んで察しのいい人であればわかると思うが、妻を疑い無理やり貞操帯をつけさせたその夫の行為が、現在の人生の彼の状態(性的不能)を招いているのである。
 
 ただ一つ腑に落ちないのは、この女性はあくまで身勝手な夫の犠牲になっただけであり、[すくなくともこの二回の人生に関する限り、あるいは表面的にあらわれる彼女の行動に関する限りは]、なにも悪いことはしていないようにみえる。それなのに二回の人生にわたって性的欲求不満の人生を送るようになったのは、あまりにも過酷ではないかと思える。

 ところがサーミナラ博士の叙述を読むにつれて、その彼女自身も夫からされたことに非常に強い怨恨と復讐の念を持ったということがわかってくる。ここがカルマのメカニズムのおそろしいところなのだが、かりに実際に復讐をしていなくても、心の中でつよい恨み、怨恨の念、憎悪を抱いただけで数回の人生に及ぶカルマとして自分の人生に深く影響を与えていくということをこのリーディングは明示している。

 それに関してサーミナラ博士は次のように述べている。

 

なぜなら罪は外的行為のみから成り立っているのではないからである。それは、意図、動機、心的状態、霊魂の態度から成り立っている。この夫人は不当に拘束された。彼女への不信に対するこの女性の反応や、それが意図した獣的計画は執念深さと憎悪から生まれたものである。この憎悪と復讐心はわれわれの知る限り何ら具体的行動へとは表現されなかった。
 しかし、だからといって復讐への決意がそれだけ弱まったわけではない。

 われわれはさきに、霊魂によってなされた決意はどんなものでも何世紀も持続することを見てきた。この女性の〈姦通をも〉の決意はそうする十分な機会を与えられたのである。
 彼女はこの上もなく美しく限りなく好ましい女性に生まれついた。

 彼女は前世で彼女を虐待した男と結婚している自分を発見した。嫉妬で彼をきちがいにし、友人たちの面前で彼を辱め、離婚によって彼を叩きのめしてやることのできる充分な機会を持っていた。~中略~ほこりやかな意気揚々たる復讐をかちうるのに、これ以上おあつらえ向きの環境があるだろうか。この環境は、激怒と怨恨の絶頂にあった彼女がかつて心に描いた、念入りな悪意ある復讐の成就のように見えるではないか。

 しかし、彼女はそれまでの間に、霊的に成長していた。

 彼女はもはや人に不親切をする気になれなくなっていた。彼女の手紙には彼女の思いやりが一貫して現れている。彼女は戻ってきたかつての愛人を関係を持つことができたかもしれない。それは夫に秘密にしておくことのたやすい関係であった。
 しかし彼女はその男の妻を傷つけたくなかった。彼女のほうはたやすくそれにきずいてしまうであろう。彼女は控えた。彼女の肉体と感情の健康さは何らかの形で性的表現を要求していた。

 しかし彼女は夫を愛していた。彼女は彼を離婚しなかった。彼女は自分の性欲と美と若さを忠誠と献身の情にささげたのである。
リーディングの言うようにそれは正しく身から出た錆であった。つまり彼女はそのような環境に置かれることによって自己のカルマの償いをしているのである。
そして6世紀前に自分自身に課したテストをパスしたのである。』                       
                                                             太字は筆者


 


 

 

 

 ここまでよんできてどうだろう…ある種の戦慄に近い感覚をおぼえないだろうか。
僕らが普通理解しているカルマの法則とかいうものは、自分のやったことは自分に返ってくる、という非常に漠然としたものでしかないはずだ。

 ところが、この事例(ケイシーのリーディングとして今でも実際に記録されている実話)にみられるように、自分の犯した行為というものがこれほどまでに、実際に実行に移したものは言うまでもなく、実行しなくても心の中でつよく抱いた感情までがこれほどまでに微に入り細に入り、カルマとして実に数回の人生にわたって、英語で言えばまさにUnfold、展開、現実の人生として現象化(物質化)するものであるというのは……正直ぼくもこの本を今回読み返してみるまでは知りえなかった。

 僕ら普通の人間は普段、何かを考えるときや何かを行う時、それが誰も見ていないときや心の中でひそかに思うときは、文字通り誰も知りえないこととして行っているだろう。しかしこの事例は、文字通りどのような行動も、どのような思考も、神という言葉が適切でなければ、より高い次元の存在たちにはすべて知られているということをはっきりと示している。

 あらためてぞくぞくっとするほどの戦慄をおぼえないではいられない。

 この事例の中でもう一つ僕が注目するのは、サーミナラ博士の文章の中にある「彼女はそれまでの間に霊的に成長していた」という言葉だ。
夫の不能に悩みそれを乗り越えるのに、様々な「神秘学の研究や、瞑想の行」を行ったことが彼女の霊的な成長に大きく寄与したであろうことは想像に難くない。

 それゆえ、彼女は自己の中にある数世紀にも及ぶ怨恨と復讐心を乗り越えることができた。つまり、自己のカルマを乗り越えたのである。
僕らはそれぞれさまざまな文字通り数世紀あるいは数千年に及んでつづくカルマを持ちながら生きているのだろう。その過程でおそらく何回も落第し、落第してはまた生まれ変わり、また落第して……それを何度か繰り返したのち、この女性のように苦悩の中で自己の霊的成長を十分に成し遂げて、己に課された霊的課題を乗り越えていくのであろう。

 そう、霊的成長、そのために僕らはなんどもなんども輪廻転生という本当に長い長い旅をしているのである。
ぼくはそれをおもうとき、すこしためらいをおぼえるが、しかし決して委縮はしない、何度転んでも上を向きまた立ち上がり歩いていこうという気になる。なぜかというと、僕はこの事例を読んで、恐怖よりもむしろ鼓舞、励ましをおぼえるからだ。

 今自分が直面している人生がどれほど困難であろうとも、それには霊的な意味があるのであり、それを乗り越えることによってさらなる霊的な高みに達することができるということがわかるからである。一度それに目覚めると、希望、勇気というものが自分のなかに生まれてくるのを感じる。
 しかも見えない世界からの支援、ガイド、導き、というものが様々な形で(たとえそれが僕らの眼には偶然に映ったとしても)僕らを導いているのである。それがこの女性の場合であれば、苦悩の中で出会った神秘学の研究や瞑想であり、そのような体験やきっかけに僕ら一人一人も注意深く生きていれば、気づくことができるはずである。

 それらのことを知った時、僕らの目の前にある苦悩、悲劇、挫折、絶望といったものが、全く別の相貌、意味を持ち始める。

 

 

 

 

 

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困難の意味ということ

2020-09-01 07:18:28 | 内奥への旅

 

 

 

 

 職場で険悪な関係になっている同僚たちがいる。
最近そのはざまに立ってつらい立場にいる人とそのメールのやり取りをした。

 僕がやがて自分の経験からお互いに分かるときが来るでしょうと書いたら、その二人はもう50~60代なのでその人はもうそんな時間は残ってないよといった。僕はこの一生で間に合わなければ、来世かそれでも気づかなければその次の来世で気づかされるでしょうと書いた。
 そのひとはそういうことをまんざら否定する人ではないので、そのメカニズム(カルマのメカニズム)について僕の知っている限りのことを説明した。

 そのトラブっている二人はたぶんこの人生で初めてトラブっているのではなく、前世かその前の何回かの前世で同じようにトラブっているはずであり、彼女たちはそれでも自我強く、自分の非に気づかず相手を責めるばかりだったので、何度も何度も同じシチュエーションを生まれ変わるたびに繰り返しているのですよ、しかも同じ相手(肉体は異なるのでわからないが魂は同じ相手)とと書いた。

 そのはざまにたっている人は、いまも言ったようにあながちそういうことを頭から否定する人ではないため、そのことをそのトラブっている人に説明したらしい。だが…その後のその二人を見ていると、その僕が言ったことは彼女には何の影響も与えていないようだった…

 



 



 

 

 


 もちろん普通の人がいきなりそんな話をされても、?なんか宗教にでもはまってんの?となるだけであり、そんなことよりも悔しい、自分は被害者だ、という想いにだけ支配されてしまい現状は何も変わらないだろう。
 普通の人々のために少し説明すると、カルマや輪廻転生というのは今ではもはや特定のカルト、特定の宗教、特定の文化、国とはかかわりなく、精神世界系の世界では普遍的なもの、常識的なものとして世界的に受け入れられている。

 このことがあって僕はやはり近世になってカルマや転生というものに関する知識を広く世界に普及させることに貢献した偉大な人物について書かれた本を思い出しもう一度読んでみた。それはジナ・サーミナラというアメリカの哲学博士がエドガー・ケイシーの様々なリーディング(彼がクライアントを診たときなどに残した言葉)を分析した「転生の秘密」(Many Mansions)という本である。

 これはとても興味深い本で、もうずいぶん前に読んだ本だが今回また読んでみてまた新たな感銘を受けた。その事例を一つ紹介したい。

 それはケーシーが、ある得体のしれない(病名のわからない)病気にかかっていた34歳の電気技師の相談を受けたときに残したリーディングである。
その病気はかなり深刻で、彼は3年間働けず、目がかすんで読むことも書くこともできなくなり、時々歩行も困難になるほどだった。
 彼のリーディングにはまず医学的用語で病理学上の説明がなされ(ここで注目すべきはエドガー・ケーシーその人には医学的な教育を受けた経験は全くないということ。そのひとが非常に正確に医学の専門用語を使って話しているということだ)、その病気がカルマからのものであるから、心の持ち方を変えて憎しみや敵意を意識から完全に取り除くように、との勧告がなされ、最後に治療法に関する入念な指示を以て終わっている。

 それから1年後、彼から再びリーディングを受けたいとの手紙をもらい、それには指示通りの治療を行ったところ、すぐに回復の兆候が表れたのだが、4か月ぐらいするとまた症状が逆戻りして体力の衰えが現れたということが書いてあった。それに対するケーシーのリーディングの内容が興味深い。

 

『そうだ、この体は前にも見た体だ、なるほど体の中の肉体的な面はだんだん回復してきた。しかし、まだまだしなければならないことがある。前にも言ったようにこれはカルマから来たものである。隣人や物事に対する本人の心の態度を変えなくてはだめだ。
 機械的な手段(医学的な治療)を肉体面の匡正に用いた限りでは、回復は表れている。

 しかし本人があまりに自己満足し、あまりに自己中心的で、霊的なことを拒否してその態度を改めないならば──また憎しみや敵意や不正や嫉妬がある限り──また忍耐や長期の苦しみや隣人愛や親切ややさしさと矛盾する何かが心の中にあるかぎり肉体の治癒は望めない。

 この人は何のために病気を治したいのか、自分の肉欲を満足させるためか、ますます利己主義になるためか、もしそうなら今のまま治らぬほうがよいのだ。

 もし心の持ち方や目的が変わり、口にも行いにも変化を表すならば、そしてそのうえで指示したような物的療法を行うならば本当によくなるであろう。
 
 
だが、まず心情と精神と目的と意図を変えなくてはならない。あなたの目的とあなたの霊魂が聖霊の洗礼(比ゆ的な表現で良心に目覚めるという意味であろう)を受けないならば、あらゆる機械的療法(医学療法)を用いても完全な回復は望めないであろう。この勧告を受け入れるか拒絶するか、それはあなたの心しだいだ。

 あなたが償いをしないならばリーディングをしても無意味である。もうこれで終わる。』

 

 ズバッと一刀両断という感じである。特に最後の厳しい言葉を読むと、僕の眼からはこの人物はかなり品行の悪い人であることが想像できる。
次に、サーミナラ博士の言葉を載せたい。


 『ここで注目されるのは、意識の内容や人生における霊的目的を変えるならば治る見込みはあるといっていることである
~中略~このあからさまな叱責の言葉には、名医の総合的人間観が現れている。~中略~しかしこの例のように、彼がいかに憐れみを持っていても、その病気がその人の道徳的矯正という目的を持っており、その病気の原因である道徳的欠陥を治さなければならぬことを指摘せざるを得ない場合も多くあるのである。

 病気に悩むものは、できえる限りの方法を用いて、それを治すことに努めなければならないが、同時に彼の霊魂の内的欠陥を矯正するために人生が彼に与えてくれたきっかけをしっかりつかまなければならない。
 自然の宝庫や現代医学の生み出した妙薬によって一時的な病気の回復は得られるかもしれないが、カルマという道徳的な力の前には、これらも結局は無力なのである。

 つまるところ、治療は内部から霊的にもたらされなくてはならない。でなければ長くは続かないのである。』

 

 僕の個人的見解ではすべての病気にカルマ的な要因があるとは思わないが、そういう要因から生まれる病気もあるということは十分想像できる。前々から思ってきていることではあるが、僕らが病気に限らずこの世で経験する困難には「なんらかの遠因」があるということである。僕らが目覚めなければいけない何かがあってそれらを経験している可能性が高いということである。

 仏陀ご自身もおっしゃっているように、「私がこれほどまで長きにわたって輪廻を繰り返してきた」理由(仏教用語でいえば因縁)があるということであろう。
 
 このリーディングを普通に読んでしまうと気づかないかもしれないが、自分の内面の過ちに気づきそれを変えることで病気の症状までが癒されてしまうということ。つまり、「カルマから来ている病気の場合」そのひとの肉体的な疾患と人格的、霊的な状態とこれほどまでの強い相関があるということだ。いうまでもなく現代医学ではこれらの相関の存在は認められていないが、ケーシーのリーディングではそれがはっきりあると述べられている。

 僕がこの本を読んで一番強く感じたことは、自分でやったことの責任は『いつかは』自分でとらなければならない、ということである。それが今世であるか来世であるか、そのまた先の来世であるかはわからない、だが、『いつかは必ず』自分でとらなけらばならない、ということである。

 このことを思う時「復讐するは我(神)にあり」という聖書の言葉があるが、わざわざ自分が復讐しなくても、やがてはその人自身が自分自身を罰するときがやってくるということであり(自分ほど厳しい裁き人はいない、といったドロレス・キャノンの言葉を思い出す)、そういう意味ではバランスはとれているのかなと思うし、表面的に見えるこの世の理不尽さもある程度は飲み込めるような気になる。

 ケーシーのリーディングを読んでいて思うのは、僕らは自分の行為にたいして非常に重い責任を負っているということだ。旅の恥は掻き捨て的な生き方は絶対に出来ない、許されない、ということである。そう思うと毎日、毎瞬の自分の行いに対してもっと注意深くなる。そして、これが重要な副産物なのだが、上に述べた「復讐するは我にあり」的な霊的法則というものが存在するということを知ることで、他者に対して寛容になれるということであろう。

 このほかにもう一つ気づいたことがあり、そのことは機会があれば書きたいと思う。

 

 




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