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What is God?

2017-01-29 11:19:44 | 日記

『沈黙』という映画を見たいと思っている。
 いうまでもなくこの映画の原作は遠藤周作の「沈黙」という作品だ。

 僕がこの作品を読んだのは、「善と悪」という概念が僕の中でかなり重いウェイトを占めはじめた中学生のころだった。
なので相当前のことだ。正直、話の筋もあまりよく覚えてない。

 再びこの作品のことを思い出されたのは、僕の友人が手紙の中でこの作品について言及していた(もうかれこれ14~5年ぐらい前)からだった。
彼は非常に敬虔なキリスト教徒で、イギリスでオックスフォード大学を卒業して弁護士という出世街道を邁進していた人なのだが、なにを思ったのか神を布教することに人生をささげたいと思い、弁護士をやめて大学院の日本語に直せば神学部とでも訳すのだろうか、そういう学部に入ってきた人である。

 彼は卒業後、バングラディッシュにいき布教活動をしている。
たぶんだが、将来はその地に根付いて一生布教活動をするか、イギリスに戻って正式の聖職者になるか、あるいは大学の神学部で教えるか、になるのではないかと思う、そういう人である。

 そういうひとがこの作品を読んでいた、という事実はなかなか興味深い、というかある意味当然なのかなと思う。
どの宗教を信じているかにかかわらず、まじめに、誠実に、この問題「善と悪」を捉えている人であればあるほど、何らかの権威や既成概念にとらわれない自立した精神と知性を持っている人であればあるほど、この作品で扱われているテーマを心深く抱いているであろうことは間違いないからだ。

 さらに、海外の映画監督が、それも、彼がアメリカのアーチビショップという高位の聖職者にこの作品を読むことを勧められたと云う事は、その下にかなり広いこの作品の読者層が広がっているだろうと云う事はだいたい想像がつく。
 
 ただ、その人が真面目に信仰を持っている人であればあるほど、心の奥に秘めたこの懊悩を人に軽々しく相談などすることはできないはずだ。
なぜなら…この問題はそれを突き詰めると、信仰というものを持つ者にとって本質的に根源的な問題、つまり、自分が信じる存在の本質とは何か、という問題を避けては通れなくなるからだ。

 だから、この作品がキリスト教がマイナーである日本の作家によって書かれたというのはある意味自然なことなのかなという気もする。
欧米でこういう問題を取り扱うと、あまりにも微妙な問題でありすぎて、かなりの勇気を必要とするだろうから。実際、この作品が発表された当初は、あるキリスト教団体では禁書扱いされたという。
 もっとも、19世紀以降、欧米の作家たち(特にドストエフスキーなど)はかなりフランクにこの問題を作品のテーマにしてきたことも確かなのだが。

 最近、精神世界系のサークルの中では、ワンネス(Oneness)とか非二元などという言葉が、はやり言葉のように使われているが、彼らは本当にそれらの言葉の中に秘められた「恐ろしい」意味について考えたことがあるのだろうかと僕は思ってきた。
 単純化していってしまえば、キリストもヒトラーもその根源、本質は同じなのだ、という事だろう。

 それはもしかしたらおなじなのかもしれない、しれないが、仮に自分がアウシュビッツにタイムトラベルしていき、そこで殺されているユダヤ人たちを目の前にして、冷静な顔でこれもワンネス、非二元なのです、動揺してはいけません、などと言えるだろうか?
 あるユダヤ人だったと思うが、その人がナチの強制収容所で、殺された子供の遺体をたくさん積んだトラックから、その下に掘った穴に埋めるために子供たちの遺体がずるずると落されている光景を見て、あぁ、これで終わりだ、自分にはもう神はいない、と思ったそうだ。

 仮にその子供が自分の子供だったとしても、冷静な顔で「ワンネス」とか「非二元」とか言えるのだろうか?と僕は思うのだ。
なぜ神はそう云う事が起こるのを許すのか、あるいは、救いを求める信者たちに対してただ「沈黙」しているのだろうか、それも、何万年だかわからないが人類の歴史を通してずっと・・・

 本当に神(あるいはそれぞれが信じている絶対的存在)はいるのか?
いるとしたら「それは何」なのか?

 真摯な、誠実な、自分をごまかすことのできない信仰者であればあるほど、この懊悩を心奥深くに秘めているはずである。
遠藤周作はその問題に彼なりの「答え」を出し、マーティン・スコセッシも30年の苦悩を経て、それに彼なりの「答え」を出したのだろう。
ださなければおそらく信仰を維持することはできないだろうから。

 ぼくはといえば…ただ放棄、放擲している、というのが一番僕の心境に近い。
この問題はたぶん人間の知性ではその本質にたどり着くことはできないと感じるからだ。
 ひとつだけ、感じていることがあって、それは、自分を何らかの力で引っ張っているある力というか、ある一定の志向性をおびた力というか、そういうものを感じていて、それはあきらかに僕を「善」の方向に向けて導いている…ということ。

 誤解ないように言うと、これは「僕の」願望とか希望とか、そういうものではない。
その外側にある力、意志、である。

 それがいわゆる絶対的存在から放射されている力なのかどうか、それは僕には知る由もない。
ないが、ぼくにはもはや絶対的存在が善であるのか悪であるのか、あるいはその両方なのか、という問題はどうでもいいとは言わないが、考えても仕方がない、それよりも、仮にそうだったとしても、自分は今自分を導いてくれているこの力を自分に放射していくれている存在だけを愛し、それについていくだけだ、と思っている。

 なぜなら善でないものは僕にとっては美しくない、美しくないものは僕にとってはたとえそれが絶対的な存在だったとしても、価値がないからだ。
…「沈黙」というテーマに対して僕が今考え、感じていることはこれだけ…である。
 

 
 

コメント
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