気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

薄皮を重ねるように

2014-10-30 02:16:44 | 日記

 辰巳芳子という料理家がいる。
 この人見かけは普通のおばさんなのだが、いったん話し出すとただ者ではない、ということがわかってくる。
料理する哲学者、哲学する料理家、とでもいうべきだろうか。

 先日ユーチューブでこの人の動画を見ていたら、仕事をしながらだったのでよく注意をせず、聞き流していたのだが。
そうするとあることばだけが僕の耳に止まった。
 それは

「薄皮を重ねるように」ということばだった。

 たぶんその時彼女が語っていたのは、薄皮を重ねるようにささやかな幸せを感じ取り重ねていく、そういう日々の繰り返しが幸せというのではないか、というようなことを言っていたのではないかと記憶する。 
 もしかしたらこれは彼女が言いたかったこととは違うかもしれない、僕はただ「薄皮を重ねるように」と「幸せ」という彼女の言葉だけが断片的に耳に残ったので、おそらくそういう趣旨のことを言ったのだろうと推測しているだけだ。

 今日横須賀線の電車に乗っていて、対面に設置された席の窓側が僕の一番お気に入りの席なのだが、そこに腰かけてほほ杖をついたままじっと外を眺めるのがすきだ。
そのとき、ふと彼女のこの言葉がよみがえってきた。
 外に見える雑草や木々の葉っぱに反射する陽の光がなんともきれいで、このような瞬間瞬間を感じ取り記憶にとどめていくことが僕にとっての「薄皮を重ねる」行為なのではないかと思った。

 幸せはたぶん、こうすれば幸せ、こうなれば幸せ、と条件付けした瞬間から零れ落ちていくものではないか。
幸せはなるものではなく、感じるものなのではないだろうか。

 来週早々から仕事で海外に行くので、旅の途上で読む本を買っている。
ドストエフスキーの本一冊と、あとは、やはり五木寛之の本を数冊買っていくつもり。こちらはハードカバーなので重くなるのだが、夜は何もすることがなさそうなので暇な時間を持て余す。
重くても持っていきたい。

 五木寛之の本は「杖ことば」というエッセイ集。
彼の人生の途上、その都度その都度、苦難の時彼を支えてきた言葉について書きつづった本。

 同行二人という言葉がある。
本来の意味とは違うかもしれないが、とりわけ苦しいとき、さびしいとき、自分は一人ではなくそこに寄り添ってくれている人という意味に僕は解釈している。
僕にとって生身の生きている存在としては彼がそれにあたるかもしれない。

 こんなことを書くと五木寛之に対して失礼にあたるかもしれないが、この人に対してはある種の同質感を覚える。
作家によっては生理的に受け付けられない文章を書く人がいる。ぺらぺらと数ページめくるともう書棚の元の位置に戻してしまう、そういう文章を書く作家、エッセイストだ。
 五木寛之はそうならない数少ない人の一人だ。

 このエッセイ集の中に「わがはからいにあらず」と題された文章がある。

 「昔から、生きていくことは大変だ……と感じており、またそう率直に言ってきました。年を重ねるごとにその思いは強くなるばかりです。生きていることは面白いと表現を変えてみても、根っこにある生き難さはびくともしません。

 そのような苦痛に満ちた毎日の暮らしの中で、私がいつも思うのは、何百年も昔の三人の宗教者のことです。
まず、法然。
そして、親鸞。
最後が、蓮如。

~中略~

 できるだけ簡単に言ってしまえば、難儀な人生を、なんとか投げ出さずに生きていく力を、その三人から与えられているように思うのです。
苦しみや不安に満ちた日常の中で、とことん落ち込んでしまうことなく、きわどいところで自分を支えて、あるゆとりさえ感じさせてくれるオーラを、その三人に感じるのです。

 ~中略~

 法然の教えの中で、私が最も感動するのは、〈易行往生〉ということです。
そして親鸞の場合は、〈自然法爾〉という言葉です。有名な〈悪人正機〉説よりも、はるかに深いものを感じるのです。
そして蓮如について言えば、〈他力本願〉というところにひきつけられるのですが、この三つの言葉は、つまるところ同じひとつのことに違った光をあてているような気がしないでもありません。

 どれも背後には、『わが計らいにあらず』という他力の声が響いているように思えてならないのです。

 法然は、その〈往生〉を求める当時の人々に、『難しい学問や、苦しい修行はいらない。ただ一筋に仏を信じて念仏しなさい。それだけでよい。そうすれば必ず救われるのだから。』
と、言いました。
 これは当時の仏教界から見れば、相当にスキャンダラスな、いわばラジカルな言動です。

 


 言うまでもなくブッダが説いた仏教というのは、基本的には出家遁世者の宗教であり、その教えは非常に厳しくほとんど人間の本能、本性を否定しなければたどり着けないような彼岸を目指して進むことを教えている、と言っていい。
 法然はその重要性は認めつつ、それでは大衆は救われないと思ったのだろう。

 法然は一部のエリートのような修行者、出家者ではなく、出家すらできず、あるいはしたとしても非人間的な厳しさを要求する戒律を守ることが不可能な、日常の生き難さに呻いている普通の人々を救いたかった。だからあえてあのような「跳躍」をしたのだろうと思う。ある意味確信犯だったのではないか。

 その彼の根底に流れているのは、今風の言葉でいえば「愛」であろう。
そして、頭脳明晰で9歳の時から厳しい修行を続けてきて、それでも煩悩深くどんなに努力しても「悟り」というものに到達できなかった親鸞が、法然の教えに吸い寄せられるようにして惹かれていく。

 親鸞の自己への倫理的厳しさは、ほとんどヨーロッパの修道僧のそれをさえ思い起こさせる。
あの当時、善悪の高度な倫理的基準をもたない「非キリスト圏」であった日本で、彼ほど厳格な倫理観をもち、その理想と自分の本質とのかい離に苦悩していた人間は、おそらく東洋には親鸞ひとりであったのではないか。
 だから、親鸞の存在はアジア宗教史上の偉大なる異峰といっていい。

 その親鸞が苦悩の果てに巡り合ったのが法然だった。
ここにしかない、と思っただろう、自分の救いの道は。なぜなら彼ほどの誠実な厳格さで自分を追い詰めれば、もはや自力での救いはなく、他力による救いしか残っていないからだ。

 キリスト教、とりわけプロテスタントでは、その人の魂の質のいかんにかかわらず、洗礼を受ければ本質的に救われるということを、僕は昔敬虔なプロテスタントの友から聞いたことがある。
法然、親鸞の思想は、だから、とてもプロテスタンティズムに近い。
 ただし、親鸞の〈易行〉は文字通りの易行ではなく、難行苦行の果てにたどり着いた易行である。自己の闇を生半可ではない厳しさで洞察しえたものだけがたどりつける〈易行〉である。

 その彼が絶望の中、山を下り、おそらくは修行者として最後の望みをかけた苦行を六角堂というところで行う。
そこで経験した彼の神秘体験が、法然の教えとの出会いのプロローグだったといえる。罪業深き(深すぎる)人間は、他力という「跳躍」なしでは救われることはない、という確信に達したのだろう。

 「『わが計らいにあらず』という言葉が、私の頭の奥にいつも響いて消えません。
人生の苦しい局面に立たされたとき、『わが計らいにあらず』とそっと呟いてみる。
そして『なるようにしかならない』と思い、さらに、『しかし、おのずと必ずなるべきようになるのだ』と心の中でうなずきます。

 そうすると、不思議な安心感がどこからともなく訪れてくるのを感じます。~中略~じたばたしながら、そのじたばたにとことん打ちのめされることがなくなるのです。
そして『わが計らいにあらず』と、親鸞の静かな肉声が聞こえてくるような感じがするのです。


 

関連記事  気の向くまま足の向くまま (goo.ne.jp)
 
 

 
 


 

 

 
 

 

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陰陽の反転

2014-10-24 04:37:50 | 日記

 最近時々ユーチューブでホームレスの動画を見たりする。
なぜかというと、自分がもし食いあぶれたらやはり彼らのようにならざるを得ないだろうし、どうやって食料を手に入れているのか等、そうなった時に備えて彼らの暮らしぶりを見ておこうという意図からである。

 なんて馬鹿なことを縁起でもない、と思う人が大半かもしれない。
でも僕の場合、そうやって心の片隅で最悪の場合を想定して準備しておくことで、何か逆に肝が据わってくるのだ。

 曽野綾子もまだ駆け出しの作家のころは、よく新聞の求人欄に目を通していたという。
もし作家で食べていけなくなったら何をやろうかと考えていたからだそうだ。
 僕には彼女の気持ちはよくわかる。

 あらかじめ最悪の事態にどうなるか想像しておくことで、恐怖心をコントロールしようとしていたのだろうと思う。

 最近はやりのなんでもポジティブに考よう、というのとは真逆の生き方である。
でもこういう備え方が僕のような人間には、やはり合っている。
 無理にポジティブなことばかり考えようとすると、かえって不安が大きくなってくるのだ。
ネガティブシンキングが僕の場合、かえって力を与えてくれている。

 これが結局僕の「器」なのだろうと思う。
やはり成功する人、いわゆる人もうらやむ人生を生きられる人々は、こういうときでもポジティブに考えられるのだろう。そしてそうしても何のストレスも感じないのだろう。
もともと、心の耐性、筋力が違うのである。

 そういう人々と僕のような人間を同列に並べて、ポジティブに生きていこう!と明るく言われても土台無茶な話である。
普段継続的に思考していることが、物質化してその人の現実になるということを体験的に知っている僕でさえそう思うのだ。

 いずれ近い将来、日本が経験するかもしれない戦争直後以来の財政破たんにしても、そういうことに全く興味のない人、わからない人を除いて、多くの人々はあえてそんな暗いことは考えないようにしているのだろうと思う。そんなことは考えても仕方がない、その時はその時だ、と。

 僕はそれではかえって不安なのである。
僕は、いろいろと考えている。ハイパーインフレが来て日本の通貨が事実上、無価値になって、ワイマール共和国時代のドイツのように紙切れになったとしたら、どうやって生きていくかしきりに考えている。

 普通は最悪の事態を考えることによって不安になるのだろうが、僕の場合は考えることによって不安や恐怖を排除しようとしている。
幸いにも原発事故直後から郷里の田舎に避難しそこで生活した経験が、この先日本の財政破たんが来て通貨が役に立たなくなった時にどうすればいいのかのヒントを与えてくれている。
そしてその「ネガティブ」な思考が、かえって僕に力を与えてくれている。

 ヨーロッパの一部の国やアメリカの一部の州では、安楽死が合法化されている。
もちろん、末期の不治の病に侵されていてもはやどのような医学的治療を用いても回復の見込みはなく、その病気から生まれる言語に絶する苦痛、激痛、苦悩から解放されない場合のみという厳格な条件付きであることは言うまでもない。

 これにちなんだある人の言葉が報道されていて、それがとても印象的だった。
それは、この制度(安楽死)があるおかげで、苦しみなく眠るように死ねるという保証ができたわけだから、これで生きていくことが怖くなくなり、生きる勇気が出てきたというものだった。
僕にはこの人の気持ちがよくわかる。

 人生の最大の恐怖はやはり死である。しかも、多大な苦痛を伴う死である。
現代の不治の病にはそれが伴う可能性が高い場合が多い。だから、それをさけるためにその前に自死を選ぶ人も多いと想像する。
しかし、自死を選ぶまでの心の軌跡そのものも地獄の苦しみであろう。

 それに対する恐怖に、たとえ健康な人でさえも、生きる気力を奪ってしまうほどに絶大な影響力を持って支配されてしまうこともあるのは、僕にはよくわかる。
とくに、だれか親しい人を不治の病で亡くしたその過程を見た経験のあるものほど、そう思うだろう。
 やがては自分も苦痛、苦しみの中で死ななければならないのかもしれないということへの恐怖は半端なものではない。

 安楽死は悪である、と物知り顔で説教をする人は、ちょうど戦場に行ってそこの阿鼻叫喚の生き地獄を見たことのない人が、自分は安全な場所にいながら自国の民に向かっては国のために戦って死んでくれ、というようなものであろう。すくなくとも「戦場」を見てきた僕にはそう思える。

 ところが、合法的に最後の最後には安楽死が認められている場合、その恐怖からは解放される。
ちょうど例えれば、下にセーフティネットが張られた空中ブランコに乗るようなものであろう。たとえおちてもけがをすることもなく激痛を感じることはないので、思いっきり飛べる。

 これなどもネガティブな(と考えられている)要素が、かえってポジティブな結果を生み出す具体例だろう。
要は覚悟が決まり肝が据わってきて、なんでも来い、という気持ちにさせてくれるのである。
 
 いわゆるポジティブ思考とは真逆の考え方だが、それはそれでよく、どちらが優れていてどちらが劣っているという問題でもない。
ただ「違う」というだけである。




   


 

 

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東京駅

2014-10-12 04:17:47 | 写真



 昨日は友と東京駅の撮影に出かけた。
こんどリニューアルしたこの駅を撮影する番組をBSで見て以来、自分も行ってみたかった。

 この駅は小さいころから親しんでいるが、こうやって遠くから鑑賞するものとしてみたのは初めてだった。
一見するとどこが改装されたのかわからないぐらいなのだが、それだけ忠実に再現を試みたのだろう。

 上野駅がリニューアルされた時は、昔の面影が駅の構内の一部だけを残して、あとは近代的に生まれ変わってしまったのが残念に思っていたのだが、この東京駅はさすがに
気をつけて昔のままを残している。

 なんでも古いものを壊してきたこの国で、こうやって経済発展・効率よりも歴史的文化を残そうという動きが大きくなってきたのはいいことだと思う。
ただ、少し手遅れかもしれないけど…でもBetter late than neverともいうし、せめていま残っているものだけでも後世に伝えていってほしい。

 久しぶりに一眼レフを使ったので、使い方を忘れてしまい、友の指南を受けながらのスタートだった。
やっていくうちに勘が戻ってきて、気持ちがのってきた。

 この建物を見ると、つい40~50年ぐらい前まではちょん髷をつけてサムライが歩いていた農業国家だった国が、一生懸命背伸びをして西洋に追いつこうとしていたころの日本人の
意気ごみみたいなものを感じる。
 場所は忘れたが、東京駅の構内には戦前に、たしかこの駅で原敬首相が右翼の凶弾に倒れたスポットに今でも小さな目印がついているはずだ。

 また、この駅の中にあるステーションホテル(現在も営業している)には、川端康成もよく泊まっていたという。
そんな風に考えると、いかに長い歴史を内包している建物か感じ取れる。

 写真をとっていて思ったのだが、自分はやはり写真をとることが好きなのだと改めて思った。
これを一生続けていこうと思った。そうして、この世を去る前に東京をテーマにした写真集を自費出版しておこうかななどと考えている。
 今、昭和時代の写真が価値を持ち始めているのを見るにつけ、平成の東京の姿というものを残すのも悪くはない。



  

 
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