気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

由比ガ浜散歩

2014-09-29 02:29:46 | 日記
今日はゆみを連れて鎌倉、由比ガ浜に行く。
途中、ペットショップに預けて参拝をし、また引き取りに行きその足で鎌倉へ。

 最近はもっぱら写真はとらず、鎌倉に行くときはゆみのために行くことになっている。
とにかくあまり頻繁にはいけないので、行けるときは自分のことよりもゆみのことを優先している。

 浜にはどっから来たのと思うくらいサーファーがたくさんいた。
この時期は季節なのだろうか、確かにサーフィンにふさわしいいい波が来ていた。

 しかし、こんなことを言ったらそれまでなのだが、それでもあのような小さな波にほんの5~6秒乗るだけで満足できるのかなぁと思った。
いや、それは余計なお世話というものだろう、それでもみんな各々楽しんでいた。

 同じ色のダックスを連れていた女性がじっとゆみのほうを見ていた。
ダックスと一緒に生活するようになって以来、散歩をしていてもダックスを見るとつい見入ってしまう。


 帰りは駅まで20分ぐらい歩かなければならない。
ゆみを背負って歩くので疲れる。数日前くじいた足がまだ完治してないので、駅についたところでスタバで休憩。
表に設置してある椅子で休む。

 スタバはどうしても寄ってしまう。
ほかの店だと笑顔を見せるのももったいない、と言わんばかりの店員さんに遭遇する確率がままあるが、スタバはその逆だからやはり安心して入れる。
しかし、この店のサービスの質の高さにはいつも感心する。ここはひどい!と憤慨するような店が少ない。
それが企業文化だから、と言われても、非常に不思議である。

 さもありなん、先日アメリカのスターバックスが日本のスターバックスを完全子会社化すると発表した。
日本のスタバはそうとう業績がいいのではないか。
 一方、ここはひどい、と思わせられることがたまにある店のほうは最近業績悪化のニュースが流れたばかり。
うん、さもありなん。

 みんなただコーヒーを飲みに来ているだけではない、あの雰囲気の中なら安心、心地いい、という心もちになりに行くのである。
それも料金に入っているつもりで支払っている。だから多少高くても不満はない。
 ある意味、道を歩いていてもみんなわれ先に人を押しのけながら歩いていて、ただ歩いているだけでも心がカサカサささくれていくときがある。
そんなとき、スタバに立ち寄ってたとえ演技でもいいから店員の気持ちのいい応対に接するとほっとする時がある。

 すべてのスタバがそうだというわけではないが、スタバはまさに現代の砂漠のオアシスである。

 今日は充実した一日だった。
今度は一人で、あまりサーファーのいない季節あるいは曜日にあの浜に行って小一時間海を眺めに行きたい。
ゆみ、楽しかったかな。
ありがとう

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臨死体験しながら臨死体験の番組を聞く

2014-09-16 00:50:38 | 日記
 数日前、立花隆の臨死体験についての番組を見ようと思っていたのだが、食事の後急に眠くなり半分眠ったような状態になりながら(つまり臨死状態になりながら)臨死体験の番組の音だけを聞いていた。
 立花隆はたしか癌になっていて、彼自身死という問題がすでに差し迫った、払いのけることのできない問題なのだろう。

 理性で生きている人は、理性以外のものを無条件に否定する思考が無意識のうちにできあがっているので、理性の外にありながら同時に必ず経験しなければならない、そこに存在するもの、つまり「死」という人生最大の「矛盾」を目の前にして、困惑するのだろうし、わからないだけに恐怖も感じるのだろう。
 なにより、理性で考えれば死は存在しなくなることを意味するので、生物としてこれ以上の恐怖はないのかもしれない。

 この点だけを考えれば僕はラッキーだったなと思う。
死後の存在を否定するにはあまりにも不思議な体験をしてしまったからだ(笑)
 それらの体験から、論理的にどう考えても死後の存在を否定できない、否定することのほうが非理性的、非論理的だというところまで来てしまった。

 自分でもこれは本当に予期しないことだった。
30代まではUFOらしきものを見た以外は、不思議な体験というものを一度もしたこともなかった。
死後の存在があるかないかと言われれば、あるかもしれないし、ないかもしれない、と答えただろう。

 ただ、僕がたぶんまわりの人と違っていたのは、理性で理解できないからと言って頭から否定するということはしない気質だったことだろうか。
とりあえず「わからない、それは確かに理解しにくい、でも、だからといってないということにもならない、僕らの理解の範囲を超えている、ということだ」という考え方が小さいころからあったと思う。

 普通の人は、「理解できない、だから、あるはずない、まずありえない、あってもらってはこまる」という風に考えるのではないか。
たぶん、自分に理解できないことが存在するということを認めることは、なにか自分の存在そのものが崩壊していくような恐怖と不安定感を覚えるのではないかと思う。

 そのような人にとって、死ぬということはどう映るのだろう。
それに対して無限大の恐怖を感じるのではないか。ちょうど、自分がまったいらの海を航海している船で、しかもあるところまで行くと崖のようになっていてそこから奈落の底に落ちていくような。

 僕は臆病な人間なので自分がもしそのような立場だったら、本当に怖くて仕方がないと思う。
くり返すがその点だけは僕はラッキーだった。

 実をいうと、僕は死ぬということが楽しみでもある。
その先にどんな世界があるのか見てみたい、体験してみたいという気持ちがある。まるで子供が今まで行ったことのないテーマパークに行くような気分だ。
何人かのいわゆる超自然的な能力を持った者によれば、そこは無限大の愛にあふれていて、いちどいけば二度とこの世には戻って来たくないと思うそうだ。

 もちろん僕もそれを100%信じているわけではない。
人間というのは『自分の目で見たものしか』本当には信じることができないという。
それは本当だと思う。

 ただ、僕が何度も言うようにラッキーだったのは、それを頭ごなしに否定してしまうにはあまりにも理性では説明のつかない経験をしてきたことと、それらを経験する前から、うまれつき理性の範囲外にあることでも「とりあえずは否定しない気質」であったことがよかった。
 そのおかげで、否定するどころか逆に、理性的に考えるからこそ肯定するほかはないような経験をすることができたのだろう。

 そのため100%は信じることができなくても、70~90%はありうると思うことができる。
これは普通の人よりは大幅に死に対する恐怖が少なくなるということになる。

 それと霊的な世界のことを学んでいくと、生きていく「意味」が違ってくる。
おそらく大部分の人は、自分の欲望、感情の赴くままに(無論、他者や社会との関係があるからそれらの制約は受けるにしても)生きているのではないかと想像する。
だが、それではこの世に生まれてきた霊的な意味を成就することにはならない。

 それどころか、また新たなカルマを作ってしまい、解決するべきものとして来世に持ち込まなければならない。
いいかえれば、宿題を終わらせるために生まれてきたのに、今までの宿題にくわえてまた新しい宿題を作って次の長期休暇に持ち込まなければならなくなる。
こんなご苦労なことをしなければならないのだ!

 霊的な世界のことを学んでいくと、同じことで苦しんでいてもその意味が違ってくる。
だから、上述したように、死後に体験することにわくわくしている部分もあるが、だからといってすぐにでも死にたいわけではない。
なぜなら、今生きているということはそこになんらかの意味があるからだ。

 善悪、モラルの問題に敏感になればなるほど、それが浮かび上がって見えてくる。
このことはつまり、この世の中はともかく、この世を包含しているそれよりもはるかにはるかに広大な世界をつらぬく根本原理というか、根本法則というか、そういうものが善悪、モラルの概念であるということの間接的な証左でもある。

 ミシェル・モンテーニュという僕が大尊敬する思想家が中世フランスにいたが、彼の思想をつらぬく一生のテーマと言って大げさならば、「懸念」は、死んだあと自分はどうなるか、だった。
それだけ怖かったのだろうと思う、彼も。彼の著作を読んでいると憐れみを感じるほど、恐れているのが感じ取れる。
 頭のいい人だけに、立花氏と同じように、『理性的に』それを軽減しようと躍起になっているのがわかる。

 ただやはり、現在のわれわれの理性ではそれを証明することはできない。
いずれはできるようになるらしい、それはエドガー・ケイシーも、僕の信仰している宗教の教祖もそういっていたらしい。
だが、残念ながら今の科学レベルではまだそれはできないらしい。

 いまはただ、体験するほかはない、ぼくのように。
そして、そこから演繹的に考えてやはりあるのだ、そうでなければ説明がつかない、ということに思い至る。
「とりあえずは否定しないでおく」
ということ、その「広がり」をもてるものにしかその幸運は与えられないのかもしれない。

 これは特に僕ら日本人には難しいのかもしれない。
気質が本質的に保守的なため、思考の「広がり」を持ちにくいからだ。
 これが日本人はすでにある技術の模倣をしてそこから発展させることはうまいが、全くゼロのところから新しい原理的なものを生み出すのが苦手といわれるゆえんではないかとおもう。

 これは特に現代では、ソフトウェアの開発の現場において、圧倒的に欧米(特にアメリカ)の独壇場であることを見ても分かる。
なぜ、ソニーがアップルに負けたか、なぜ日本の携帯の技術が世界一であったにもかかわらず、最後にはソフトウェアを中心に据えたアイフォン、アイパッドに負けてしまったか、ということの答えもこのあたりにあるような気がする。

 『枠』を越えた思考が苦手なのだと思う、我々日本人は民族的な気質として。
枠を超えることに言い知れない不安を感じるのだろうと思う。
 だから、外国と違って圧倒的に無宗教の人が多いのもそうだし(つまり理性を超越したものを受け入れにくい)、それゆえに、「死」に対する恐怖も日本人は外国の人よりも大きいのではないかと思う。
 これはとても興味深いことだと思う。

 
 
  
 
 

 

 
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ケーブルテレビ開通

2014-09-08 22:28:53 | 日記
 今日からケーブルテレビが開通した。
ちょっと見てみたがなかなか面白そうだ。
 ヒストリーチャンネル、ディスカバリーなどドキュメンタリー番組、また、BSではNHKのドキュメンタリー番組などが楽しみだ。

 ただ、もうかなり長い間テレビ離れが進んでいるので、いまさらまた戻っていくかどうかはわからないが。
いままでは本当にたまにいいドキュメンタリー番組があるときだけ見ているだけだった。

 あと機械の使い方も多少不安だ。
こういうことが不安になるということは、年を取ってきたということなのだろうか。

 インターネットも一緒にセットになったコースに入ったので、今日はネットの設定でわからないことがあり、サポートに電話したところ最初に出た若い男性では解決できず、
これ以上はわからないからコンピューターのサポートに電話してくれと言われた。

 なかなか正直でいいと思ったが、プロのサポートでわからないで済ませるのはどうかなぁと…(笑)少なくとも周りの人に聞くくらいはしてほしいな、と(笑)
自分でいろいろやってみたがやはりだめで、もう一度だけ聞いてみようとケーブルテレビのサポートに電話した。
 今度は中年の女性の声が聞こえてきた。

 女性ということで内心あぁ、またダメかな…と思った。女性はITが苦手なのではないかという先入観があったからだ。
ところがどっこい、その女性は実に有能な人で、すばらしいIT知識を駆使して、だいたい30分ぐらいだったろうかかけて複雑な問題を鮮やかに解決してしまった!
はなしていて、この人はできるなと感じた。

 問題の解決の仕方がよどみがないのだ。
これがダメならあれ、あれがダメならそれ、と次から次へと僕に指示を与えてくる。
そのほとんどすべてが適切な指示で、ほとんど横道にそれることなく最短の作業で問題を解決してしまった。

 また元に戻せと言われても絶対にできないくらい、ソフトの設定を変えてしまった。
それくらい複雑な問題だったにもかかわらず、あれよあれよというぐらいに手際よく解決したのだ。
感銘を受けたのはその知識の広さと手際の良さだけではない、サポートの態度も素晴らしかった。

 彼女の言うとおりにした後、僕が「はいできました」といって彼女の次の指示を促すと、「ありがとうございます」と言うのだ。
このさりげない言葉がどれだけぼくの焦りと、不安、イライラを押さえてくれたかわからない。
こういうサポートは単なる小手先のテクニックだけではできない。彼女の人格の力もおおいにあると思った。

 僕は感動して、これでもかといわんばかりの感謝の気持ちを彼女にささげた。本当にありがかかったからだ。

 結果として今まで契約していたNTTは解約しなければならない。
NTTとほぼ同じ料金でケーブルテレビ、BS、CSまでついてくるとなれば、それはやはり誰でも変えるだろう。
NTTはこれからどうするのだろう。

 市場からどんどん追い出されていくのではないだろうか。
そりゃ、コンテンツ(BS,CS)を持っている会社がネットに進出してきたら勝てないだろう。
NTTはそれに対して何か対抗策をとっているのだろうか。

 会社の規模が大きいだけに、市場のシェアを失えば失うほどその反作用は大きくなっていくだろう。
まさかいまだに電電公社だったころのプライドに浸っているわけではないだろうけど、頑張らないと本当に存亡の危機に立たされるだろう。自動車の世界の三菱自動車のように。
そもそも、昔は電話を引くにもその加入権として7万円ぐらい出さないと電話が引けなかった。

 しかも解約時は権利を戻すことになるのでお金が戻ってくるとして7万円も出させておいて、いざ電話が自由化されてだれでもNTTを解約できるようになると、こんどはあの時はあの時、今は今、と言わんばかりに、たとえ解約しても7万円は戻さないといっている。
 こんな理不尽なことがあるかと思う。やくざ顔負けの商法だと思うのは僕だけだろうか。

 そういう経緯もあるので、わるいがNTTに同情しようという気にはならないのです。
でも、いとこがNTTに勤めていることもあって、多少は不憫だとは思う。
 だがそれが資本主義、自由市場主義の現実。とくにITの分野は栄枯盛衰の波が激しく短い。

 弱肉強食の極致ともいえるIT業界に生きている、おさないころはおとなしくおっとりしていたいとこの顔が脳裏に浮かぶ…
がんばれよ!生き抜けよ!と心の中で祈らずにはいられない。

 それにしても、今日のサポートの女性、ほんとうにプロフェッショナルだった。
あんなにできる人には、たぶん一生生きていてもほんの2~3人ほどしか出会えないだろうとおもう。

 

  

 
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回想

2014-09-02 03:40:22 | 日記
 以前、楽天ブログをしていたころ、僕のブログをよく見に来てくれた人々のブログを久しぶりにめぐってみた。
東北のどこかに住んでいた人は今は南の島に住んでいるという記事があった。引っ越しの理由は明記していなかったが、あの事故のあと更新が長く途絶えていて、再開した時にはもう引っ越していたこと。その当時の文面に急にどことなく悲壮感が漂うようになったことなどから、福島原発事故が契機であったと僕は推察している。
まだ生まれてそれほど間もない幼児がいた人だから、彼女にとっては自然な選択だったのだろう。

 幸せな人だなと思う、なぜなら奥さんが避難したくても旦那さんの反対で泣く泣くとどまっている人は大勢いるのだから。
そう思ってみるせいかその人のブログからは、幸福感があふれているように見える。

 一人だけ訪問できない人がいた。
その人はやはり写真が趣味で、よく自分で撮った写真を載せていた。
ところがある時期に奥さまが脳の病気で倒れられて、それ以来仕事を辞めて奥さまの介護をひたすらやっていた人だった。

 更新回数も激減し、たまに更新されてもその記事にはやはり悲壮感があふれていた。
その人のところだけは「お気に入り」に入っているのだが、いけなかった…

 SNSの世界もやはり現実と同じで縁というものがあるみたいで、すれ違う人はすれ違うし、何度も帰ってくる人は帰ってくる。
そしてこれもやはり現実と同じで、適度な距離が大切。ほどほどに、ほどほどに。

 2012年12月以降(マヤのカレンダーの終焉以後ということ)、自分とバイブレーションが合わなくなった人々との縁は徐々に切れていくということが、スピリチャルな世界では言われていた。魂の波長の違うもの同士は共存できなくなるかららしい。
 驚くべきことに、僕を巡る人間関係もこれとほぼ時を同じくしてかなり変わった。
さて僕は高いほうに行ったのだろうか、それとも低いほうに行ったのだろうか(笑)

 まぁどちらでもいい。なぜなら今のフリークエンシーを楽しんでいるから。

 夏も盛りを過ぎてようやく乗り越えたなという安堵感に浸っている。

 今は久しぶりに小説というものを読んでいる。
ドストエフスキーの大作だ。これだけは読んでおかなければ死ねないと前々から思っていたもの。
自分の頭がついていくかどうか正直不安だが、なんとかいまのところついていっている。

 
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