気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

あぁ、ありがたい。

2017-05-08 23:05:04 | 日記
 先週はブリューゲルのバベルの塔を見てきた。
ゴールデンウィーク中であったにもかかわらず案外すいていた。
 やはり人気がないんだな、と思った。

 やはり、と書いたのは、やはりそのテーマがネガティブだからだろう。
ブリューゲルや彼の同時代人の画家の絵を見て思ったのは、これはあの時代のアニメだなということ。

 こう書くと元も子もないが、この作品の価値は古美術品としてのものであり、純粋な意味での芸術的な価値はほとんどないと思う。
ただそうはいっても超有名な絵である、一見の価値はあった。

 そして今日は休日を利用してゆみを連れて動物病院に行った。
フィラリアの薬とノミダニの駆除の薬をもらうためである。

 ついでに簡単な健康診断もしてもらったが、もちろん異常はなかった。
健康おたくの飼い主に飼われているのだから当然かもしれない。 
 帰りに近くにある井之頭公園によって散歩をする。

 この子を見ていて思うのは、この子にとってどこに行くかは重要ではなく、ただ僕と一緒にいることだけが大切なのだな、という事だ。
注意の焦点がほとんど僕の方に向いているから。
 このことを思うたびに感じるのは、どこに連れて行ってやるかよりも、どれだけ長くこの子の意識に向き合ってやれるか、それがこの子の幸せにとって重要なことなのだろうと云う事だ。

 これはしかしとてもありがたいことである。
これほどの熱意と関心を持って他者から意識を向けられる、という事がとてもまれな人間界に生きていがちな僕ら人間にとって。
僕ら犬の同伴者たちはこのことのありがたさに本当にきづいているだろうか…それを当たり前と思ってはいないだろうか。

 だから、その犬たちの気持ちにこたえてやらなければならない、僕ら飼い主の意識をできるだけ彼らに向けてあげることによって。
こう考えるのはある意味傲慢なことかもしれないが、そのあまり長くない寿命の中で、めいいっぱい僕らのために生きてくれているこの動物たちの気持ちに、
彼らの短い命の間に、できうる限りこたえてやりたい。

 数日前の事だが、同僚からはっと目を開かされるような言葉をもらった。
それは彼女が以前、かなり長時間働いていた時のこと。
 その時は、仕事が終わったら何もする気が起きず、生きるってなんて苦しいんだろうと思っていたという。
でも、その仕事の合間の短い時間に、何か楽しいことをすることで、苦しい毎日がパッとあかるくなり、その瞬間がとても幸せで、人間関係もみんな私が悪いんだ、気づかなかった私が悪いんだと思うようにすると、苦しかった人生が一変する、ということを実に明るい笑顔で語っていた。

 この人は特に知的な人でもなく、なにが深遠な学問を学んだ人でもない、ごくごく平凡な人である。
ただ、心がとてもSimpleで、およそこの世で70年近い年月を過ごしてきた人とは思えないほど簡質な心の持ち主であることは、出会ったころから感じていた。

 僕はこの人のこの言葉を聞いて、これは「よき人生」を過ごすために知っておくべき、ほとんどたった一つのエッセンスだと思った。
どんな哲学者や作家の深遠な言葉よりも、はるかに大きな深い感動を覚えている。
 これは僕が以前このブログに書いたこととある程度重なっているのだが、書いた僕自身このことの大切さから離れかけていた。

 「みんな私が悪いんだ」という部分は、極論のようにも響くかもしれないが、この人の言わんとするところはたぶん、なにがあっても人を恨まない、憎まない、という事ではないかと思う。
 彼女の言ったことは、ほとんど宗教的な叡智と言っていい。

 この世で生きていくためにはほぼこのことだけを知っていればよく、それを毎日実践していくように努力さえすればいい。
そう思った。

 それとは別件で改めて感じたのは、本当に善良な人の笑顔を見た時の喜びであろうか。
そう云う事はまぁ、1年でも数回しかないのだが、そういう笑顔を見たときいつも思い出すのがドストエフスキーの言葉である。
その人がどういう人間か知るにはその人の笑顔を見ればいい、という言葉だ。

 心のきれいな人の笑顔は、カラッと晴れあがっていて、シンプルで、2~3歳の幼児のそれのようで、こちらもつられるように笑いたくなる。
それは明らかに普通の人の笑顔とは違う。
 僕はそういう笑顔を見る時、あぁ、ドストエフスキーもこういう笑顔を見ていたのだなと思う。

 あぁ、ありがたい、そう思った先週1週間だった。
コメント
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