六本木の国立美術館でやっているオルセー美術館展を見てきた。
行くたびに新しい発見がある。おなじみの画家でも僕の不勉強のせいで、始めてみる作品がある。
今回素晴らしいと思ったのは、ルノワールの「イギリス種のナシの木」という作品。
全体的に写真でいえばピンボケでぼやぁーっとしていて、まるで記憶の中の風景のようだ。
たぶんわざとそう描いたのだろうが、これをみて驚いた。
写真で見るといつものようにその感動の100分の1も伝わってこないのが残念。
これをみて僕の中のルノワールの評価が一挙に10倍ぐらい上がった。
何でもそうだけど、あまりにも有名すぎる人を褒めるのは素人っぽくてためらう人が多い。
でも、有名であろうがなかろうが、素晴らしいものは素晴らしい。どんどんほめるべきだと思う。
あのぼかし方は、写真では簡単にできるのだが、それを絵筆でやるとなると…相当の力量が必要だと思う。
ルノワールの真価は人物画ではなくて、風景画にある、そんな思いを持った。
その次に、というか、今日一番仰天したのはモネの「死の床のカミーユ・モネ」だった。
もうなくなっているか、もうすぐなくなるモネの妻の肖像画である。
顔の上に白っぽいレースのようなものがかかっている。
モネ自身の言葉として、顔に死が刻んでいく刻印のグラデーション、とかなんとかいう言葉が説明書きに書いてあった。
白いレースのようなものは本当にあんなものが顔にかかっていたわけではないだろう。
それはモネが死の象徴として描いたものに違いない。
そのレースの布で少しずつ顔がぼやけていき、存在感が薄れていく、ちょうど映像にすると亡くなった人の顔に白い霧のようなものがかかり、そのぼやーっとした感じがどんどん濃くなっていくような、そんな効果を絵筆で描ききっている。
そう、だんだん死の世界に入っていく妻とそれを見ている自分が体験している「時間」と「感情」を見事に表現している。
妻を徐々に奪っていく「死」の力を、その時間の経過も含めて見事に描ききっている。
ただ…どうやってあんなに「冷静に」描けたのだろうと思う、自分の妻の死を。
妻の死さえも、美に昇華させる…芸術家の性というか、宿命というか…
僕が見ていると、隣にいた初老の外人が自分の子供に対してThis is incredibleと言っていた。
あぁ、この人も感じるんだなぁと思った。
ただ、10歳ぐらいのその子供にその絵に込めれられたものが理解できたはずはない。その父親は何を思ってそんなことを子どもに言ったのだろう。
僕が「死」というものを観念的に初めて意識したのがだいたい3~4歳ごろだっただろうか。僕の記憶の中でも最も古い層にある。幼稚園に通い始めたばかりか始める前かだと思う。
そこは病院だったと思う。大人に死ぬってどんなこと?と聞いたのをはっきりと覚えている。真昼間にぽっかり空いた暗いトンネルを見るような底冷えのするような気持ちになったのを覚えている。
やがては誰もがあの白いレースの向こう側に行かなければならない。カミーユのように。
まさかそんなことを教えたかったのだろうか、あの父親は。もっとも、実はわかるのだ、子供には、大人よりももっと直截に、直観的に。彼はそれを知っていたのだろう。(前言を翻すようだが)
最新の画像[もっと見る]
- 時代が彫り上げた人々 2ヶ月前
- あるこころづくし 5ヶ月前
- あるこころづくし 5ヶ月前
- あるこころづくし 5ヶ月前
- 最近のこと 5ヶ月前
- 最近のこと 5ヶ月前
- あの男が残したたったひとつの、しかしたぶん日本人にとって最重要なこと 10ヶ月前
- 健康でいるためのささやかな本質について 10ヶ月前
- 数正の孤独 ある仮説 1年前
- Light テート美術館展をみて 1年前
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます