若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

規制緩和で必ず良くなるとは限らない。しかし、規制で良くなることはまずない

2010年01月09日 | 政治
la_causette: ILO対城?
 ところで、雇用規制というのは、連合が有力な支援団体となっている民主党中心の連立政権のみが唱えている政策ではありません。例えば、現在、国際労働機関(ILO)は、鉱業及び採石業における児童労働の廃止を目指しています。

 もちろん、ILOから批判を受けている国々が鉱業及び採石業における児童労働を禁止する法律を制定しきちんと実施してしまうと、それまで鉱業及び採石業における労働に従事していた児童は失業してしまうわけで、おそらく、そこで失業した児童を吸収する産業はかの国々にはないのだろうとは思います。従って、城さんの立場からすれば、鉱業及び採石業における児童労働を禁止しようとするILOは間違っている、鉱業及び採石業者が利潤を極大化できるような雇用条件で児童を雇用し労働に従事させることに政府は文句をつけるべきではないということになるのだろうと思います。



鉱業及び採石業における児童労働の廃止という雇用規制が上手くいくのは、児童が鉱業や採石業に従事しなくても家族が食っていけるような豊かな社会でなければならない。鉱業等に従事しないと家族が食っていけないような社会で上記の雇用規制を強制したら、児童は鉱業等と同程度かそれ以上にきつい肉体労働に従事しなければならなくなるか、性産業に体を売らなければならなくなるか、あるいは死ぬか・・・といった選択肢しかなくなるだろう。

豊かな社会を築くためには、限られた資源をもとに、人々の需要をより効率的に満たしていくことが必要だ。これが実現できるのは、自由経済市場だけだ。

こう書くと、「需要不足で不景気に陥っている時に『効率よく供給しろ』とか馬鹿じゃないか」と言われるかもしれない。しかし、需要とは場合によっては見えないものであり、場合によっては消費者自身も気づいていないものも多い。たとえば、20年前に携帯電話がここまで普及すると誰が思っていただろうか。

自由市場経済においてのみ、企業家の度胸と才覚は生かされる。企業家の度胸と才覚が、人々の生活を便利なものにし、生活コストを下げていく。この積み重ねの結果として、児童が鉱業等に従事しなくても食っていけるようになる。雇用規制は社会情勢を追認したものでなければ、社会に害をもたらす。

度胸と才覚のない私としては、立法等を通じて度胸と才覚のある者の足を引っ張ることを主張しないよう、自分を戒めていきたい。


さて。


 ただ、労働法制の歴史を振り返れば、明日の失業率の上昇を恐れて劣悪な労働環境を容認し続けると、いつまでもそこから脱却することができなくなるので、どこかの段階で悪循環を断ち切るアクションが必要となります。失業するリスクがあっても、米国の黒人奴隷の多くが解放されることを望み、北軍の兵士として戦ったのです。その選択は間違っていたのでしょうか。間違っていたと考える人は、城さんの見解をありがたく拝聴し続ければよいでしょう。


「身分から契約へ」という点から眺めた時、雇用規制の撤廃と奴隷解放とは全く矛盾しない。むしろ、雇用を含む各種社会保障に関する法律によって契約自由の原則がゆがめられ、当事者間の合意に政府が介入し、場合によっては一方に特権を与えるということが横行している昨今の社会情勢は、「身分から契約へ」に逆らう「契約から身分へ」の流れであると言えるのではなかろうか。

「リスクを恐れず悪循環を断ち切ろう!」という主張は、法律によって与えられている特権の廃止に対して用いたいものだ。たとえば、関税の廃止とか。



○参考
第22回  法制度改革支援—先進国による押しつけか? - ジェトロ・アジア経済研究所
そのような市場経済を支える法制度の基本は、「身分から契約へ」という植民地インドの法制度整備にもかかわったイギリスの法制史家メインの言葉に要約することができます。その意味は、人類社会は、領主と奴隷など固定的な身分からなる社会から、自由かつ平等な個人からなる社会へと発展してきたと考えることができるということで、この言葉は、封建社会を打破した近代市民社会の誕生という史実を見事に表しています。同時に、この言葉は、対等な個々人が生産や取引活動の分業を担い、自由に契約関係を結ぶ市場経済が近代社会の一側面であることを、簡潔に捉えています。


○メモ
先進的な法律は悪法だ - 若年寄の遺言

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