楽健法研究会 東光寺の楽健法セラピスト養成講座

楽健法セラピスト養成講座の記録・現在第12期(2012年)4月開講から来年3月まで毎月の記録です

楽健法経の伝授ムービー

2012年01月10日 | 第11期楽健法セラピスト講座
宥厳先生~楽健法経の伝授ムービー

羝羊(ていよう)&愚童(ぐどう)
嬰童(ようどう)
唯蘊(ゆいうん)
大乗(だいじょう)&抜業(ばつごう)
覚心(かくしん)
極無(ごくむ)
秘密(ひみつ)
一道(いちどう)

参考になさってください。

第9回12月9日(1日目)その1

2012年01月07日 | 第11期楽健法セラピスト講座
フライングで楽健法始めちゃました!







仕切り直しで、「楽健法経前編」



12/10 13:08

(宥厳先生)おはようございます。
(一同)おはようございま~す。

(宥厳先生)昨日からここに来る女性がみんな別人に見えるんです。どういうわけか。
(琴美ちゃん)先生、どうしたんですか。(笑)

(宥厳先生)どうも、おはようございます。
(一同)おはようございます。
(宥厳先生)全員そろってますね。
(ちあき)た、多分…。
(琴美ちゃん)絶対に!
(宥厳先生)はい。



(宥厳先生)あの~、昨日から本堂の方を色々と片づけたり、ピアノが届いたりして、それで今朝、調律に来られて二時間ばかり。さっき出来上がったばっかりです。それで、西澤先生がチェックした結果、まあ非常によろしいと(笑)、いう話だったんでホッとしています。  
 先月は楽健法経のテキストをお渡ししましたけれども、これを今日もとりあげます。これについて今回講義するのは、来年の、たぶん春以降になると思うんですけど、五月書房というところで新しい楽健法の入門書を出す予定にしています。数年前から出さないかと五月書房から声をかけられていたんですが、出版社のほうは実用的な楽健法だけに特化した入門書と言うか、図解入りの分りやすい実用の本を考えて私に話を持って来られたんです。
ところがもうすでに楽健法については、ベストセラーとまでは行きませんけども、長年ずっと皆さんが読んでくださってる私の本と、幸子先生の著作の本の2種類がありますしね。  
 
 それで、いまさら実用書で分りやすそうな本といっても、たとえば、ゴーストライターが書いたようなハウツーものの本なんかは、出したくないという気持ちがあるのです。 
 
 私が楽健法の活動をはじめて以来、自分の課題にしてきたのは、楽健法を世界中に広めたいと言うことです。そういう強い気持ちがあって、あのDVD、ビデオのなかにセットでいれている解説本には、楽健法経を掲載して、英語の翻訳も載せています。また楽健法経をインターネットにアップして、英語とスペイン語の翻訳もアップしてあるんです。10年ほど前に、英訳を読んだスペイン人の方が、訪ねて見えられて、東光寺に二週間くらい泊って、楽健法を教えてあげたことがあるんです。男の方でしたけれども。その人が英文からスペイン語に楽健法経を重訳してくれたわけです。だから、いま2ヶ国語の翻訳があるんです。で、更にこれにフランス語と中国語と朝鮮語とインドネシア語に翻訳して、それで、全部で7カ国になるのかな、日本語を入れたら。そういう楽健法経を軸にした入門書の本にしようと思っているわけです。今、増野真理子さんのお友達の松浦素子さんがイラスト描いてくれていまして、ほぼイラストも出来上がってきています。この講習会で先月も楽健法経のことを話しましたけれども、このテープ起こしをしたものを軸に、今度の単行本に、楽健法経を講義するというような形で、それで実技も同時に勉強できるような本を作ろうと考えています。

 楽健法経の7カ国語訳入りですね。講義の内容までは翻訳できませんが、楽健法経の翻訳で世界の人たちに楽健法が一応勉強できるようにしようという、欲張った発想で本作りしようとしてるわけです。

 それで、またちあきさんには御苦労をかけますけど、今日喋ったことも含めて、で、過去に楽健法経について喋ったことも含めて拾って頂いて編集したいと考えています。

(琴美ちゃん)あ!ちあきゴーストライターだ!
(宥厳先生)ゴーストライター(笑)ちょっとまた協力して頂こうかな、と言う風に思ってます。それで少しまだ喋れてない…あ、僕、眼鏡どっかに…あった!(一同笑い)。もう少しここで今日お喋りをして、ま、そういうことをベースに仕上げようかなと言う風に思ってるわけですね。まあ、よろしくお願いします。

 新しい本を書くと言うのはなかなか大変な作業です。今日も一冊家内が、昨日だったかだれかにもらったといって持ってきてくれましたけど、楽健法の本のパクリだ、なんてみんなが言ってる丁さんって言う人の作った本ですね、あの本が若い女性に喜ばれるかどうか分らないんですけれども、あの本も楽健法の普及には役だっています。呼び名が楽健法からほかの名前にかわっても、やってることは楽健法に違いはありませんからね。偽物と呼びたくなるようなものも現れないようでは駄目ですね。私は家元とか本家とかなどということにこだわりなんかしない。関係ないですね。足で踏む健康法、楽健法が世界に広がることを私は期待しています。

 今度の本で、楽健法経を取り上げたら若い人にはとっつきにくいかもしれないですけれども、本として寿命の短い実用書、一度出版したらもうそれで後は消えてしまうようなそういう本にはしたくないと言う気持ちもあって楽健法経の解説というスタイルの本を考えています。息長く人が読んでくれる本って言うのは何がその生命力を保ってるのかということですね。「二人ヨーガ楽健法」という1981年に出した本が、未だに農文協から継続して出版されて、まあ年に千冊前後くらいですけれども、やはり売れ続けているというのは、何か説得力や訴える力みたいなものが内容にあるからだろうと思います。
 書いている内容、問題意識が、過去のものになっていない、古ぼけていってないということではないかな、と思います。だから、まあそれは、私が自分が楽健法をやったりアーユルヴェーダ学会で色々勉強したりして、その中でいつも自分が強く持っていたものですね。それがやはり現代の文明、現代人の生活に対する批判精神だと思うんですね。それは、現代医学に対する批判精神でもあるし、それからいくらいいことを賢い人に教わっても決してそれを守ることができないような、たくさんの人達ですね、仏教的にいえば衆生ですが、そういう人たちに対して、今もって楽健法のあの本が訴えかけるもの、説得力を持ってるから、共感して読んでくれるんだろうと思います。

 みなさんが知ってるお経と言うのは本来、時代でいえば二千数百年以上も昔の釈尊が説法した内容を記述したものをいうのですが、釈尊の生の言葉が収録されたお経はそれほど多くはないし、これがそうだという特定もできないということがわかっています。仏教が時代の変遷とともに教団が分裂したり分派したりしながら発展していく過程で新しく書かれたものがほとんどだといっていいのです。

 先月、偽のお経(ぎきょう)のことを話しましたが…覚えていますか?「偽経/ぎきょう」と言う風に言います。お経と言うものはお釈迦様が話されたことをまとめたものということになっていますが、伝わっているたくさんのお経は、本当はどのお経がお釈迦様の喋った本当の記録なのかなんてことはわからなくて、ほとんどは後世の仏教の指導者たちが、仏教を布教するために創作したものが、釈尊の説いたものだという風に流布されているわけです。インドから中国へ渡ってそこで漢訳され、朝鮮を経て日本に伝わって来た多くのお経ですね。そういう大乗仏教の経典は一切経としてまとめられています。有名な観音経なんかが載ってる法華経も、釈尊が亡くなってから何百年も経ってから創作されたものです。私が毎朝お唱えする真言宗のお経もそうですけれども、後世になってから創作されたお経です。

 釈尊の言葉がそのまま伝わってると言うのは、テラワーダっていう、かつては小乗仏教と言ってましたけど、スリランカとかビルマとかタイとかそういうところに伝わってる阿含経典ですね。日本では発句経と言うような名前で訳されていますが、中村元先生が訳した「真理の言葉、スッタニパーダ」という名前で岩波文庫にもはいっています。そういうお経は釈尊の生のお言葉だろうと考えられているんです。それ以後のいわゆる一切経なんかにおさめられている何百巻ものお経は後世になって書かれ積み重ねてこられた文献ですね。そういうものだと思って間違いないです。

 現代になって新しくお経が書かれるということはまずないですが、私は楽健法を布教したいために楽健法経というお経の形で、いかにも昔からあったお経のスタイルで楽健法経を書いたわけです。では後世に書かれたお経は偽経だとした、それは価値がないのかということですね。大乗仏教の経典もそうですけれども、いつの時代に作られたものであっても書かれていることが真理(ダルマ・法)であって、それが本当に人々の救いや癒しになり、実際に役に立つものであればね、それはお釈迦様の言葉であろうと、ほかの人が書いたものであろうと、本当に役立つ価値があればいいわけです。人間は絶えず考え、工夫発明しながら、より人の役に立つものを作ることを繰り返してきて、今日の文明の発展させて来たわけです。多くの偽経なしには、仏教が世界の三大宗教には育たなかったでしょう。
 まあそういう意味で私も楽健法経と言うのを書きました。それと、楽健八句地蔵経なんていう八つの言葉で終わりになるお地蔵様を拝むお経も作ったりしています。
 そのお経は楽健法の本に掲載しています。






楽健八句地蔵経

南無地蔵尊
足裏抜業
心身仏界
一心同仏
現世楽健
華開楽土
楽々楽々
万民笑顔






こういうお経です。こんなお経をひらめいて書く気になったのは、楽健寺の御本尊さんはお地蔵さんですよね。このお地蔵さんの前でお勤めしながら、お地蔵さんは日本の佛さんの中で一番たくさんある佛さんではないかと思ったんです。お地蔵さんって言うのは法華経の「従地涌出品」というところに書かれていますが、地湧菩薩といって地面の中から湧いてくる佛さんだと言う風に書かれていますし、それで、日本中の至る所にお地蔵さんが祀られて、佛さんとしては数が最も多いかもしれないんですけども、このお地蔵さんを拝むための短いお経がないんですね。観音さんだったら延命十句観音って言うのがあります。お一番身近なお地蔵さんを拝む延命十句観音経のような短いお経をと思ってこの八句地蔵経を書いたわけです。
 延命十句観音経を知ってる人いますか?この中に。知らない?みなさん。観音さんのおまつりされてるお寺さんに行くと延命十句観音経と言って短い十句です、終わりがね。延命十句観音経ぉ~…おゆきさん、覚えてますか?



(幸子先生)今出てこない。
(宥厳先生)あ、そうですか(笑)。まあ、あのそのお経の話ではないのでやめときますけれども(一同笑い)。私も忘れたりして(笑)。まあ、あのーそういう意味でね、ま、楽健法経もいかにも昔から書かれてあったような形で書いたわけです。これは後に大阪の東方出版と言うところから経本として出版されたわけです。それで、この教本を允許状と一緒に皆さんに記念にお渡ししています。現在、東方出版で発行した経本がもうほとんどなくなってしまいました。それでまたお経の本を作るかどうしようかと悩んでたところですが、今回企画している本を出せば、楽健法経の欠本の穴埋めにもなります。

 経本は折本になっていて、お守りのように大事に持ち歩くひともいるほどで、有難いと大切に扱われているものですから、いつか再版しようかと考えています。東光寺にしかない大事な経本ですからね。
 楽健法経を出した時に、あの経本を書店に常時置いてくれたら、関心のある人が手にしてくれると思って、出版社に話をつけて出してもらったんですけれども、書店は1か月経つと本を配給元に返却しちゃうんですよね、売れ残った本は。ずっと置いとくと言うことなんかしてくれない。1カ月経っても返本しなければ請求書が来るわけです。買ったものとみなされる。だから、1か月以内売れない本は送り返してしまうんですね。そうやって出版社には返本の山ができるわけです。本が売れない時代ですから出版社は本はたくさん作らないようにするんです。楽健法経も常置してくれる書店はなかったですね。

今度、楽健法経のこの本は初版4,000部出す予定です。で、4,000部って言うたらかなりの部数ですよね。売れるかどうかわからないので近頃は1,500部くらいしか出さない本が多いんですよね、本が出ましたらだいたい九割が東京で売れます。関東圏で。それで、残りの一割が全国に散らばるんだそうです。

 では本文を見ていきましょう。






是(かく)の如(ごと)く我聞(われき)けり。或(あ)る時佛、喩師婆伽所(ゆしばかしょ)にて、楽健法を説きたまえり。春うららなる季節、圍繞(いにょう)する諸菩薩の中央に、乾闥婆(けんだつば)を寝かせて、佛、法を説きつつ、さらに実技を交えて、楽健法の指導をなしたまえり。



 是(かく)の如(ごと)く我聞(われき)けり。は如是我聞と書きますが、お経の冒頭にはかならずこの言葉がでてきます。このように私は釈尊からお聞きしましたという意味で、私というのは十大弟子のひとり阿難陀というひとでこのひとが聞いた内容を話したことがお経の内容になるという構成です。普通は如是我聞=にょぜがもん、と読みますが真言宗の理趣経では漢音で読むので、如是我聞=じょしがぶん、と読みます。

 ある日お釈迦さまが喩師婆伽所で楽健法を伝授すると言うのでたくさんの弟子が集まりました。春うららなる季節にたくさんの人、仏教の志を立ててこれから精進しようという人を菩薩と言うんですね。菩薩と言うのはもう悟りを開いてしまった人ではなくて、
向上心を持ってこれから求道しようというそういう立場の人を菩薩と言うんですね。釈尊が諸菩薩の集いの中央にいて、そこに敷楽健曼陀を敷いて乾闥婆を寝か楽健法をいまから伝授します。





 まず佛、座より立ちて自らの御佛足(おみあし)を具示(ぐし)して曰(のたまわ)く、乾闥婆ならびに菩薩等よ、わが足裏、汝(な)が足裏(そくり)を如何(いかん)んと考えるや。
 足裏(そくり)に触れるものは大地のみなるや否や。
 われらが足は大地を歩むにのみ用うると汝ら考えるならば、道を辿りて道を知らざるなり。
 それ道は、ただに地と地を結ぶもののみに非ず、人々の心と心を結び、生きとし生くるものの法をも結ぶものなり。




 足をどういう風に考えるかっていうことですね。ここで、強調したいのは、足はただ歩くためにあるんじゃなくて、楽健法をやって人を踏むためにあるんだと言うことを強調したいためにここで、「わが足裏、汝(な)が足裏(そくり)を如何(いかん)んと考えるや。」と言う風に書いたわけです。だから、足の裏は大地を歩くために、土を踏むだけではなくて、そのことだけに足を使うと思ったら大間違いですよ、と。足はもっと色んな使い方があるよ、というので楽健法への誘いを書いてるわけです。





 足裏(そくり)に触れるものは大地のみなるや否や。
 われらが足は大地を歩むにのみ用うると汝ら考えるならば、道を辿りて道を知らざるなり。




 普通ひとは足は歩くためにあるんだとしか思わないわけですね。しかし足は楽健法をするためにもある。また、足はただ単に地を歩くためだけでなく、歩いている道も、「それはただに地と地を結ぶ」、これは他の土地とこの土地、例えば、和歌山と奈良とか、東京と奈良とか言う風に地と地ですね。結ぶためにのみ道があるんじゃないよ、と。道は人々の心と心を結ぶためにあるんだということを強調したいわけですね。道を行き来するっていうのは物を運ぶためだけでもないんですね、それ人と人、心と心を結ぶために道があるのです。楽健法をする足は、心と心を結ぶんだと言うことを強調しているわけです。

「生きとし生くるものの法をも結ぶものなり。」法を結ぶと言うのは真理を伝えると言う意味ですね。法って言うのはダンマと言う風に言いますけど、これは真理のことですね。つまり、間違いのない、或いは科学的なあり方ですね。仏教と言うのは、霊感で見えないものを見て言ったりする不思議世界ではないんです。お釈迦様が仏教を開いたきっかけになったのはアーユルヴェーダだろうと言う風に言われてるわけですね。アーユルヴェーダと言うのはひとの役に立つものを科学的に考える生活の知恵です。そういう学問ですね。釈尊はこの学問を参考にして、当時いろんな摩訶不思議な世界に心を奪われたり、お坊さんが…当時のバラモンのお坊さんが怪しげな話だとかを人々が鵜呑みにしてですね、振り回されて、要するに搾取ばっかりされていた、そういう人々を救うために仏教をはじめたわけですね。宗教を駆使して人々を支配する立場に立つ僧侶などというのは、悪賢くて頭のいいのが、何も知らない無知な民衆を怪しい理屈でたぶらかして、財宝を集めるために存在してるようなものだったのです。そういうことではいけないと言うので、お釈迦さまが仏教を説くことになったわけですね。そういう風に考えて間違いありません。




道を歩まんには、健やかなる五体、ことに足の強健(きょうけん)ならざれば遠く歩むこと難し。




これは、まあ当たり前ですね。健やかな五体があって初めて道を歩いて行ける。




 また足が如何(いか)ほど強健、五体満足といえども地を伝い、草踏みわけて遠き地に衆生済度(しゅじょうさいど)に赴(おもむ)くには、健やかなる思い、慈愛の心、済度(さいど)せんとする衆生(しゅじょう)からも、常に学ばんとする求道(ぐどう)の心があって、はじめて強健なる足とはなるなり。

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これも足のことを言ってますけど、いくら五体満足でも、歩いて行こうと言う気持ちがなければね、うちのおかみさんなんかは出歩いて行くのが好きですから、行動範囲が広いんです。私は足は強健ですけれども、あんまりあっちこっと歩くのはめんどくさいからじっとしてようと思うほうで、ここへ来られたら踏んであげるよ、というような感じで生きてる部分があるんです。しかし足も人によって、どういう心を持っているかによって全然持ってる意味が違ってくるんですね。衆生済度に赴く、遠いところに行ってね、わざわざ東京まで行って毎月楽健法を教えるというのもそうですね。足を使って衆生済度に赴くわけです。そのことで自分も生かされています。

 楽健法を必要としているのに、まだそれがあることを知らない人たちに、楽健法の考え方を伝えたり、やってあげていかに有益かを伝えたりする。そのためには健やか想いがないといけない。自分だけが楽しもうとか、得しようとかいう自己中心ではなくて、困ってる人たちに何とかしてあげたいという、そういう優しい慈愛の心がなければだめですね。そして、苦しんでのたうちまわってるような人の姿を見ても、その姿から常に何かを学ぶという心構え、そういう衆生からも常に学ぶ。これが、「済度せんとする衆生からも常に学ぼうとする求道の心」ですね。だから、先生になったらもう全部知ってるから、引きだしに入ってるものを小出しにしてそれを講義したら役割が終わるんじゃなくて、師匠というものは常に謙虚に生徒からもっと学ぶことがいっぱい、常にあるんです。だから、そういう初心を忘れてはいけません。それが「求道」ということですね。道を求める。だから、私はなんでも知ってるんだから勉強する必要もなければお前たちから得るところは何もないよと言う先生がいたとしたらそれは馬鹿な先生ですね。もし、そういう態度で教えるような先生は人として偽物が多いです。本当に師匠になるような人は謙虚で、教養があるというのは引き下がって見ることができるということですね。  
 自分の持ってる世界と違ったものもちゃんと理解してそれを受け入れたり、そこからも学ぶ姿勢をもっている。それが求道ということですね。




 足に光あり。

 汝が足は汝の楽健法を学ばんとする求道心(ぐどうしん)と、衆生済度の慈悲の心が一つとなるとき、光を放ちて、闇を光に変えるものとならん。




 足と言うのは道を歩くだけでなく光を持ってる。すごいパワーを持ってる。だから、あなたの足は汝の楽健法を学ぼうとするそういう強い求める気持ちと、それで、それを学んで人を救ってあげたいというそういう優しい慈悲の心が一つになった時に足が本当に力を持つようになります。だから、「楽健法を行ずる者は光輝楽健菩薩と呼ばるるなり。」だから、今皆さんは光輝楽健菩薩と言うお名前を持った菩薩さんであります。そういうつもりで取り組んで行きましょうということです。

東西南北…ちょっと暑うなってきた、僕。何で暑くなってきたかというたら、下に綿入れ着とって(一同笑い)。この綿入れ、穴が開いてるんです。ほら!



(幸子先生)自慢せんでもいいやん。(一同笑い)
(宥厳先生)あ、あのー着替えがないんですよ、これしか(一同笑い)。あ、どこやったかな忘れてしまった(笑)。

(琴美ちゃん)東西南北です。
(宥厳先生)あ、そうそう。




 東西南北、赴く地に至れば、汝が足の光を求めて蝟集(いしゅう)する人々数多(あまた)あるなり。




 蝟集するっていうのは蝗(イナゴ)の大群のようにたくさん集まって来るということですよ。だから、皆さんの所にまだ蝟集する人々があまりないとすれば、まだ皆さんが修行が足りないと言うことですね。だから、修行が足りて有名になると蝟集してくる。蝟集するっていうのは、たくさんの人が集まると言うことですね。で、ここはまあ蝟集の五分の一か二分の一くらいの蝟集…し始めてるのかな。
(琴美ちゃん)違う臭いがするかもしれない。(異臭)(一同笑い)




富める者あり、数多の貧しき者あり。貧富を問わず強健なる者もあり病弱なる者もある。




 世の中には富める者のほうが少ないかもしれませんけれども、数多の貧しき者…たくさん貧しい人はおります。貧富を問わずですね、強健なる者もあり、病弱なるものもある。

病気って言うのは万人に常に平等ですから。金があるから病気にならないということはない。金のある人のほうが病気なりやすいかもしれませんね。貧乏人は病気しないかもしれません。貧乏人っていうのは病気したら治すためのお金もありませんからね。今の日本の貧乏人はみんな健康保険持ってますから、それで、良くないんですよ。生活のあり方を自覚しない。つまり、病気になったらお金がかかる。質素な暮らしでかつかつ食うだけのことしか出来なような時代に暮らした人はあんまり病気しなかったもんですよね。それで、子供はたくさん生まれます。貧乏人の子沢山って言うのはそれなんですよ。何故、貧乏人の子沢山かわかりますか。いまはみんな暮らし方が金持ち並だから、子供はようけおらんもんね。5人以上子供のおる人、この中で。いない?一人も?みんな金持ちなんだ。貧乏の子沢山って昔からよく言うじゃない。聞いたことあるよね。なぜ、貧乏人は子沢山か。それは、肉など贅沢なものを食えなかったから体が酸性化しないでしょ。それと、贅沢出来ないから他の遊びもあまりないし、ね。それで、もうガキがうるさいし。子沢山な夫婦はですね、他に楽しみがないもんで、子供が寝静まってから何かするんですね(笑)。そしたらまた子供が産まれる(笑)それが子沢山の理由なんですよ。それがね、お金があって子供もすくなくて、享楽でセックスするような、そういう夫婦には子供があまり生まれないですよ。だから、国が豊かになるほど子供が少なくなる。日本も少子高齢化、少子化してきたんです。子供が少なくなってきたのは、やはり経済的にレベルアップしたということもあるしね。貧富を問わず食べるものが贅沢になってきたということです。それは、文明国の…先進国は子供の数が減っていくというのはそういう理由なんですね。もう今やセックスそのものにも関心を持たなくなってくるようなね、そういう人がいっぱい出てきてるという現実があるんですね。なんか話が脱線しましたけど…ここのところはカットでよろしいですから(一同笑)。




 正にいま、死に至らんとして、なお光輝楽健菩薩にすがりつく者もあらん。




もう死の間際なんだが助けてくれって必死になってしがみついてくる人もいっぱいいるだろうと、で、




 此れを見、彼(か)を見るに至って、




これを見たり、そっちを見たりして、




 此れを見、彼(か)を見るに至って、菩薩等如何(いか)にしてこれらの人々に光を与うるや。




そういう病気で苦しみのたうちまわってるね貧しい人々にどうやって光を与えたらいいか。




 あに路傍(ろぼう)に座をしつらえて、法を説くのみにて、心の病める者、身体の病める者を救い得(う)るや否や。




まあ、お坊さんって言うのは説法するのが仕事ですからね。理屈のわかってない人々に理屈を並べて納得させようというのが説法ですから。しかし説法してですよ、どんな立派なことを喋っておっても、「Without楽健法(楽健法なしで)」ですね、本当に人を救えるかどうかです。道端に立って説教して立派なこと言って、「玄米菜食をし、ご本尊に朝夕参来参拝すれば、あなた方の病気は必ず治ります」という事をお坊さんから聞かされて病気が治ったらそれはありがたいですけれど、そんなことは滅多に起こり得ないということをここで言うてるわけですね。そういうことを、「あに路傍(ろぼう)に座をしつらえて、法を説くのみにて、心の病める者、身体の病める者を救い得(う)るや否や。」これは釈迦とかキリストとかぐらいだったら、ひょっとしたらそばに行っただけで病気が治る人がおるかも知れないけれど、僕はそれも多分あり得ないんじゃないかなという風に思います。
 インドの聖者と崇められているひとに楽健法をしてあげたこともありますが、働き疲れた普通のひとの身体でしたね。仏陀というのはそんなもんじゃいけないですね。ひょっとしたらこっちの方が仏陀かもしれない。そう思いながら踏んであげたんですよ。気持ち良さそうな顔していびきをかいていられたね。ああいう人がそばへ行ったら病気が治るかといったら、治らないと思いますよ。聖者におおきな期待などしないで、ご家族や仲間で楽健法をするほうが賢明で確実です。




 言葉の伝える法のみにて、病める人を救うは、至難の技とやいわん。




 言葉で人を救うのは本当に難しいことです。至難というより不可能だろうと思うくらいですね。論理的に納得できたからといって病気がすぐ癒やされるものではないですね。だけど、本当に真理を持った言葉をキャッチする能力を病人がもし持ってたとしたら、あ、そうだったんだって事に病人が気がつけば、それは治る可能性はおおきくなります。病気が治ると言うのは本人が気付くか気付かないかというところに本当は大きな鍵があると思いますね。傲慢な考え方で金はいくらでも払うから治してくれじゃあ病気は治らないですね。生活習慣は何一つ変える気はないんだけども、とにかく病気を治してくれたら、財産半分あげるとかいうひとがいます。僕も何人かそんな経験がありましたよ。この腰痛を治してくれたらもう財産半分あげてもいいなんて言うひとに楽健法をしました。酵素風呂からあがった人に、一生懸命踏んであげたら「あ~治った」って言って黙って帰りましたね(一同大爆笑)。半分持ってくるとは言わなかった。今でもそのおっちゃんの顔思い出します。



 この間もそう言えば酵素風呂の講習会に出席して火曜日まで泊まって行くって言ったおっちゃんがいたんですけど、ドタキャンどころか連絡も来なかったですね。そのひとは以前にやってきたとき、先生実はこの前宝くじが二千万円当たったんですよって、今度来た時にたんまり寄付しますからって言って帰って、その次に来られた時に、だいぶ長いこと考えてから財布から二万円出してくれました(一同笑)。自分でそう言って前回は帰ったんですから、出さないよりは出したほうがいいと思ったんでしょうね。そういう人もおります。  
 
 人間って言うのは面白いもんですね。ただ、そういう何か気持ちがなかなか吹っ切れない間はね、ものに執着してる、気持ちが切り替わらない、そう言う間は病気なんか治らないもんです。病気を治そうと思ったら物の執着をスカッと捨てる。病気にならないでいっぱい持ってる人は捨てなくてもいいですからね。これはおかみさんに向かって言ってるんですけど(一同爆笑)。まあ、僕が捨てたらいいなと思っても、向こうがそう思わなかったりするもんで。それで、どこ言うてたか忘れてしもたね(一同笑)。



 菩薩等よくわが教えるところを心眼(しんがん)をもって追体験し体解(たいげ)し、もって衆生を済度すべし。

まあ、心眼を持って追体験しっていうのは深く考察してですね、追体験する。つまり、やられてるの見たら、人が踏んでるの見たら想像力を働かせて踏まれてる気持ちでそれを見る。あるいは踏んでるつもりでそれを見るって言う風にしないと、ただ、ボーッと見とったんじゃダメだっていうことです。勉強っていうのはそうなんです。昔から職人でも何でもそうですけど、先輩の仕事を見て盗むということを言うんですね。だから他人の、優れた人がいれば、その人がやってることをその通り真似てみる。学ぶと言うのは真似るということでもあるって言うふうに昔から言われますけどね。

 なかなか上達しない人は見ていないんです。素晴らしいものを見ながら追体験してないんですよ、見てる時に。あーすごいなーっと思っても、観察が素通りしてるんですね。観察力が高まって、そういうつもりで見ていれば必ず人は見るだけでも体解できます。体解って言うのは体で覚えるということですね。自分がやられてるように、あるいは自分がやってるように同時に二つの事を見て覚えちゃう、というくらいの気持ちで、「体解(たいげ)し、もって衆生を済度すべし。」この体解っていう言葉が仏教では重要視されるんですね。体解って言うのは体できちっと覚えたこと。だから、覚えたこと、だから、しようという意思とやってることとの間に嘘がないことね。言行が一致してること。そういう事を大事にしないといけないですね。だいたい言うこととすることが違う人間はね嘘が多いということです、嘘が多過ぎる。言ってることが即考えてることであり、考えてることが即行動になっていく。楽健法の技を体解するということは心技一体、染み込んでしまうということですね。目をつぶっててもできる。自動車に長年乗って慣れてる人はね、車と一体になって乗れるし、自転車に乗れる人は転倒しないで軽々と走れるわけですね。それは体解してるからですね。ま、目をつぶってても体解してたらできると言うて、車を運転するときには目をつぶって運転しないようにしたほうがいいと思いますけど。




 かく語りて佛、乾闥婆を呼び寄せ、敷楽健曼荼羅(しきらっけんまんだら)に寝かせたまえり。

 乾闥婆、佛の意に従いて北枕にして、身体の左側を下にして左足を伸べ、右足を曲げて横たわり佛に合掌せり。




この、北枕にしてっていう風にわざわざ書いてあるのは、夜寝る時も北枕にしたほうが体に良くて、病気も早く治るのです。東西を頭にして寝てる人は是非北枕にして寝てみてくださいね。そうしたら、」地球の北から南に向かって流れてる力を頭の方からまっすぐ均等に受けますので病気が治りやすい。死んだ時は生き返る可能性があるので北枕に寝かせるんですね。死人を北枕に寝かせるので北枕は縁起が悪いなどと考えるのは間違い。そういう意味から北枕っていうことをわざわざここに入れたわけです。




この時、天香(てんこう)芳(かんば)しく妙音(みょうおん)とともにたなびけり。 佛、微笑みてうなずき乾闥婆の足許(あしもと)に立ちたまいて曰く、いまから楽健法を伝授するなり。




「この天香芳しく妙音(みょうおん)とともにたなびけり。」

 楽健法してる時にね、得も言われぬいい匂いが部屋に流れたりすること…体験した人いますか?僕は今まで何度か体験してます。お香も焚いてないのにいい匂いがしてくる。修業しよという気持ち、あるいは信仰しようという気持ち、そういう気持ちを持って楽健法をやっていますと、いい鈴の音色がきれーな何とも言えないような音色が聞こえたりすることがありますね。ある女流作家の方を一度踏んであげたことがあるんです。粟島行春先生の講義を高野山で受けたときに知り合った林えり子さんって人です。新幹線のグリーンに乗ると置いてある雑誌があるんですが、そこに日本の100人の若者って言うの毎月連載して載せていられます。30代くらいの若者がね、ユニークな仕事をしてる、そういうのを紹介しているページを3ページくらい書いてますけど、その林えりこさんに東京で楽健法やってあげた時に、突然天から良い匂いが降りて来た。それが、「天香(てんこう)芳(かんば)しく」って言うの、それを経験したことがありましたね。それで、「あれ、このいい匂いは何ですか?」ってふたりともびっくりしました。




 古来よりわが国にヨーガあり。ヨーガは自力自助の手段にして、いまだ発心(ほっしん)せざる衆生には病患(びょうかん)を癒すには、はなはだ遠き手段なり。




この意味はわかりますね?ヨーガは自分がしようと意志した人がヨーガができるわけです。、傍からこの人はヨーガをしたらいいなと思っても本人にやる気がなければどうにもならないんです。これは馬に水を飲ませるようなものですね。馬を水のそばへ連れて行ったってね、馬が飲みたくなければ水を飲みませんからね。それで、馬に水を飲ませるような話だって言うんですね。だから、関心のない人は水を飲みたくない馬みたいなもので、楽健法する人がそばにおったって、踏んでくれともいいません。意味もわかりませんから出会えないんです。縁なき衆生は救い難し、というのはこのことですね。「自力自助」ヨーガというものは自分でするものです。で、やる気があってできることですね。だから、病気の人に、「発心(ほっしん)せざる衆生」って言うのは、やる気になってない人にはですね、「病患(びょうかん)を癒すには、はなはだ遠き手段なり」ということです。




 また、手当療法あり、食養、断食あり、アーユルヴェーダあり。
 いずれも効多しといえども労も多くして、病の根源の因を断つには容易に至らざるなり。



だから、まあ食養、手当療法、色んな手当療法あります。この間も谷川さんがぼくの左足指が痛いのを気にかけてくださって足の裏に貼り付ける湿布薬を作ってきてくれました。 
 あれからあと続けてやってませんね実は。今日、ちあきちゃんがアップしてくれたブログ見たら僕の真っ黒けの足が写ってて、え~~~っと思って(一同笑)、飛び上がるような気がしましたが、こういう手当も効多しといえども労も多しってことですね。谷川さんが一生懸命あれを作ってくれた、そういう労、それをまた布に伸ばして貼り付けてラップでまいて、靴下を履いてと、色々な手間がかかるじゃないですか。何をするにしてもそうです。

 オイルマッサージにしてもそうだし、食事療法ったって玄米菜食するなら、これもなかなか手間のかかることです。まあ、断食。これは非常に簡単で誰でも出来そうだけれども、普通の感覚の人は断食って言ったら怖がってね。第一、ものを食べないほど辛いことはないと思ってる人が多いですから。僕ははものを食うほどしんどいことはないと思う方ですから。だから、なるべく食わないでおれたらどんなに楽だろうと思いながら生きてるところがあるんですけど。

 皆さんは毎日毎日もっと美味しいもの、もっと美味しいものと思って求めまくってる。それがまあ、普通の人ですね。だけど、そういう普通の人が病気になるんです、だいたい。何かわかってんのかいなって感じですね(笑)だから簡単に断食もできません。それから、アーユルヴェーダありって、このアーユルヴェーダって言うのは所謂全般的な医学のことですけれどもね。これも薬を飲むとか診察するとか適切な見立てを誤ったらダメだし。なかなか、いずれも効はあるかもしれないけど時間と手間がかかります。

 ここに、「西洋医学あり」って書いても、良かったんですけど、それは、西洋医学はお経の中に入れなかったですけど。「いずれも効多しといえども労も多くして、病の根源の因を断つには容易に至らざるなり。対症療法は色々あって、一時はちょっと楽になったりしますよね。西洋医学っていうのはだいたい対症療法が基本なんですね。その時の苦痛がとれたらいいんです。例えばステロイドを飲み続けたら、将来どうなるかっていうことは医者は重々知りながら、ひどくなっていくということを知りながら、なおかつ、薬を出していくという、結果がわるくなっていくことがはっきりしてるのにやり続ける。そういう不思議なことを止めないで繰り返す人たちですね。

 これも、やはり、理(ことわり)っていうか、理屈が分かってないからなんですね。本当は。病を治すには薬を飲まないほうがいいっていうことは本当は正しいんだろうけども、まあ金儲けをするためには結果は考えない医者。今の医療界がそうなんですね。で、「病の根源の因を断つには容易に至らざるなり。」ということです。




 宿痾(しゅくあ)を抱えて、如何なる前生の因縁によりてかくは苦しまん、と嘆くもの多し。




 宿痾って言うのは治りにくい持病のことですね。なかなか治らない病気。なんか前世に悪いことしたんだろうか。だけど、本当は毎日食ってるものに、暮らしに原因がひそんでるんだろうけどね、前世の因縁のせいにしたらいけないですね。生活習慣から出てくることが多いです。だけど、生まれたばっかりでね、生まれて間もなくそういう病気を抱える人もおります。両親が健全な生活を送ってなければ、生まれたこどもに病気がでたりします。生まれつき病気の人も結構いるわけです。子孫を健全にするには今が健全でなければいけないしその持続が大事ということですね。




 されど病気の由縁(ゆえん)は、精神生活の理法わきまえず、自我に気付かず、自省せず、食生活の無知なるに由(よ)ることほとんどなり。




とまあ、ここまでで言い切ってみたんですけど、病気になぜなるのか、これは心の持ち方。どういうふうにものを考えたらいいのか、どういう考え方が理にかなってるのか、ですね。「理法わきまえず」って言うのはそういうことですね。精神生活の理法。だから、我ばっかり強くて、知情意のバランスが取れてないとね、人間っていうのは。苦しまなくてもいいようなところで苦しんだり、苦しんだって何にも変わりもしないのに苦しむばっかりっていうような人が多いわけですね。これは、精神生活に理法と言うのがない、あるいはわからないからです。食、運動、精神生活も、自分で自分を観察しながらコントロールできるような精神のゆとりっていうのかね。そういうものが人間には必要だということですね。

 (電話の音♪♪♪~~~)
僕の電話かな?ちょっと待ってね。あ、ごめんなさい。
  ~~~中断~~~
孫でした。孫が車の停めるところがわからんってまごまごしてました(一同笑)。







 人間の存在の法を知り、




 人間の存在の法を知る、とは、自然の働きを知るということですね。人間の存在の法って言うのは皆さんもそれなりに考えていらるだろうと思うんですけども、法って言うのは在り方ですね。逆らいようのないものが自然にはあります。人間はどうやって、いかに生き、どこから来て何をしてどこに行くのかと言うようなことですね。これはもう人類の永遠の謎ですね。哲学の課題。人は、人はどこから来て、何をして、どこへ行くのか、ですね。




人間の存在の法を知り、生理の根源にさかのぼりて、身体の浄化をなし、流れを整え、三毒によってもたらされたる諸病を癒し、積年の疲労をとるに、楽健法こそは最良の、楽々健々(らくらくけんけん)の法なるべしと。



この「人間の存在の法を知り、生理の根源にさかのぼりて、身体の浄化をなし」って言うのは、やはり、生理の根源って言ったら食生活から見直していくっていう事ですね。だから、それは病気が起きた時に単にそこが痛んでるから、例えば胃が悪い、子宮が悪いって言ったら、そこをとったらいいとかいう問題ではなくてね。なぜ、それが悪くなっていったのか、その為にどういう長年の蓄積を、病気を作るような、蓄積するような食生活をどれくらい続けてきたのかというようなことがあって、そういうことに気づけば、悪かったことを止めたら病気っていうのは治っていくわけですからね。

 だから、まあ、それで、自然食に切り替えて治る人もいるし、何かそれなりにいろいろ自分で工夫されて、見つける人もおるでしょうけども、良くなるのは体の浄化をするっていうことですね。そして、流れを整え管にものがつまらないように、そして三毒によって、三毒って言うのは貪・瞋・癡(とん・じん・ち)って言う、仏教で三毒って言います。貪と瞋と癡。貪って言うのは貪る心。欲望ですね。で、瞋っていうのはすぐ怒ることですね。怒り。癡って言うのは愚かなって言う、無知なことですね。貪・瞋・癡。だから、無明と言う風に人々を言うのは、この貪・瞋・癡、三つのものを持っててね、物事の道理が十分わかってない人のことですね。それを衆生と言うものはそういうものだという風に、仏教というものはだいたい人々を少し上から目線で見ていますね、お前たちは要するに物を知らなくてレベルの低い救いがたい連中なんだから、教えてあげますよというような感覚で、宗教と言うのをやって来たわけですね。今だってそうなんですよね。どんな新興宗教が生まれたって、そこへ行ったらね皆さんが知らないものを与えられて知ることができるように思って勉強に行くわけですね。まあ、「三毒によってもたらされたる諸病を癒し、積年の疲労をとるに、楽健法こそは最良の、楽々健々(らくらくけんけん)の法なるべしと。」
楽健法をすることでひとは新しい発見と出会います。楽健法は人生の再構築の道案内です。無知無明から抜け出す合理的な手段です。




また佛曰く、楽健法はいかなる部位も左より行うべし。
 左より右に転ずべしと。




では、2時になったので、今からあとの部分の実技をしていただきますね。もう暫くしたら、堀江真美さんも来られると思うので、舞台の準備とか音響のチェックとか色んなことが必要になってくるので、僕と琴美ちゃんとが組む組み合わせで今から楽健法をやってください。来客が来たらぼくと琴美ちゃんの2人がサーっと逃げますから、みなさんは楽健法をやってくださいね、あとの用意もあるのだろうと思いますので早めの楽健法をパッと済ませて、という風にしたいと思います。

(琴美ちゃん)いやっ!ひっど~い。
(宥厳先生)琴美ちゃん、よろしいですか。
(琴美ちゃん)はーーい。
(宥厳先生)それで、今下に孫が来たみたいなんで、まあ、孫と息子が…上がってこないね、こっちに。
(琴美ちゃん)上に行っちゃったんじゃないですか?
(宥厳先生)行っちゃったんかな?
(幸子先生)上に上がったんちゃうん。
(宥厳先生)じゃあ、じゃあ、今から楽健法やりましょう。ハイ!ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
(琴美ちゃん)先生、私たちの布団がないって。
(宥厳先生)ないの!?(一同大爆笑)。あ、そうか。ほんなら上に行こうか(笑)。じゃ、ま、楽健法をさっと45分くらいで裏表やってください。
(受講生)裏表(一同笑)
(宥厳先生)裏と表やんか(一同笑)

第9回12月9日(2日目)その2

2012年01月07日 | 第11期楽健法セラピスト講座
楽健法(16)

おやつ~











奉納公演 堀江真美ジャズコンサートin東光寺 12月10日(土)夜6:30開演

オープニング






馬場健二郎さんとコラボ


宥厳先生のお孫さんの彩ちゃんとコラボ


宥厳先生とコラボ



受講生の感想
奉納公演 堀江真美ジャズコンサートin東光寺 12月10日(土)夜6:30開演

♪東光寺のコンサートは、蘇州夜曲や港の見える丘など好きな歌が聴けて、とても楽しかったです。先生の笛の音も大変良い音で素晴らしかったです。客席からとても近いので、迫力がありました。クリスマスソングと本堂のろうそくが、雰囲気出てました。(Miho)


♪宥厳先生とのコラボがあの場にピッタリでとてもよかったです。スケジュールが、開演までの時間はありすぎて、終わったあと忙しかったので、お客様のことを考えるとあの時間になってしまうのかもしれませんが土曜日だしせめて6時開演ならもう少しスムーズだったのではと思いました。(kimoto)

♪ピアノでのジャズバージョンを聞いてみたかったです。宥厳先生とのコラボは、とても素敵でもう少し聴きたかった。幸子先生の歌声が聴きたかったです。(Hiramatsu)


♪ 舞台を準備してくださった皆様のおかげで、気持ちよくライブを楽しむことができました。お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。今回から東光寺のコンサート&ライブのメンバーに見事復活を遂げたOyuki'sピアノ(ピアノOYUKIと命名しますか?)が加わりました。このようなときにCD‘復活’を出された真美さんが復活したピアノでライブをするなんて、縁浅からずの感があります。やはり生ピアノのライブは良いですね。真美さんの人柄も知ることができてよかったです。始に楽健をして、1か月分の凝りを解していただいたおかげで約2時間15分のライブも休憩無しで最後までしっかり聞くことができました。音痴ですが、「一緒に歌って」では、声もいつもより良く出たような気がします。昔の歌を知っていたということもありますが… 護摩のときのピアノも格別ですね。不思議な世界ですね。般若心経も鳴り物(?)付きのCDなどを聞いたこともありますが、ピアノ伴奏付きで詠唱したのは初めてです。欲を言うなら幸子先生の歌が聞きたかったです。ピアノも喜んだのではないでしょうか?セラピストの卒業式にでも是非お願いしたいです。お抱えピアニストもいることですし…山内両先生や前泊して色々準備してくださった方々に改めて、感謝したいと思います。合掌。(Toshiko)

♪堀江真美さんのジャズコンサートンを聞かせて頂き思ったことは幼少の頃からお母さんと一緒に音楽を楽しんでこられたのが よく伝わって懐かしい歌も聞き楽しく過ごさせて頂き有難うございました宥厳先生はじめ前日から準備して下さった方々有難うございました。(umeda)

♪今堀江真美さんのCDを聞きながら感想を書いてます。東光寺のライブの様子が蘇ってきます。真美さんのスタイル、ピアノ、歌声、トークなどプロってすごいなぁと思いました。私も真美さんの歌の様に楽しくリズムに乗って楽健が出来たらと思いました。(Takako)

♪今晩は、遅くなってごめんなさい。[お寺でのコンサートは、何かに包み込まれている様な不思議な心地良さを感じその時間だけが、無になれる様な気もしました。真美さんの歌声で元気もいただき何かホットする様な良い時間だったように思います。このような催しを立案していただきまして 山内ゆうげん先生 ありがとうございました。お世話かけてすいません。宜しくお願いします。(Takada)

♪12月のセラピスト合宿は東京からジャズシンガーの堀江真美さんを招いての素敵な夜のコンサートが催されました。東光寺の本堂は床や畳が新しくなり、きれいになった床に幸子先生の古いピアノが運ばれました。何年もの間、パン工房に置かれていたピアノは大改修されピカピカになって、その音色を聴けるのがとても心待ちでした。コンサートはスポットライトと蝋燭の灯りの中で、ピアノとキーボードそして真美さんの歌声がひときわ美しくスイングして楽しく素敵な時間が流れました。真美さんの歌声やピアノはもちろんですが、トークもまた大変興味深く話に引き込まれて2時間はあっという間に過ぎてしまいました。さて翌朝、いつものように本堂で護摩を焚く先生と般若心経を唱えるのですが、なんと真美さんがお経に合わせて即興でピアノを弾いてくださるとのこと、そのお経とピアノのコラボのなんと心地よかったことでしょう。般若心経を唱えているとピアノの音色が身体全体を包み込んでくれるような…Feel so good! 音楽って本当にいいものだとつくづく感じた時間でした。素敵な時間を過ごせて幸せでした。堀江真美さん、宥厳先生、幸子先生そしてありがとうございました。(小菅)

♪東光寺のコンサートは、蘇州夜曲や港の見える丘など好きな歌が聴けて、とても楽しかったです。先生の笛の音も大変良い音で素晴らしかったです。客席からとても近いので、迫力がありました。クリスマスソングと本堂のろうそくが、雰囲気出てました。(Miho)

♪堀江さんのピアノコンサート楽しい時間を過ごさせて頂きました。ご両親、ご先祖様への感謝の気持ちを持って、音楽をたのしんでられる様子がよく伝わってきました。私も改めて全ての人、物に感謝の気持ちを持って行動しなければと思いました。幸子先生のピアノ、新しく生まれかわった姿本当にうれしく思いました。良い物を大事にする気持ちも教わりました。 今度は、幸子先生のピアノと歌声を聞かせて頂きたいなあ。全てのことに感謝です。 (新田)

♪Mamiさんがピアノで奏でながら歌ってくれた曲は、マミさんのお母さんが子守唄がわりに歌ってくれた50年代のもので、私はもう少し若い世代なので、その時代を共にしていないのですが、どこかで耳にしたことのある曲ばかりでした。Mamiさんの歌の調べから、その時代の時のゆるやかな流れを感じ、私の中で眠っていた感情が揺れ動き、響き合って、静かに涙が流れつたっていました。”美しい言葉と音”は、いつの時代も変わらず、人の心の琴線にふれるのですネ。歌の合間でのマミさんトークも、マミさんの“こころの視点”がうかがわれ、貧富の差を超え、みんながハッピーでいられるように彼女が生きてきたことが、私のこころにも染みました。マミさんも神さまが天使として地球(ここ)に使わした一人なのですネ。みんなが自分の中にある宝ものをひとつひとつ、研いて輝いて生きてゆけますように、、、、途中、山内先生のお孫さんとマミさんのコラボで「海は広いな、、、」の子供の頃からなじみのある歌。大人になってくると「海は広いな」は、当たり前じゃないかと思ってしまうのですが、「月は昇るし、日は沈む」と遠くを眺めながら、その声は山々を越え、海へも届いているように感じ、「本当に海は広くて大きいんだなぁ」と再実感しました。そしてマミさんが「ハートがあれば歌は歌える」といいお孫さんが素人だった分、逆に彼女のハートが伝わってきて、“大きな海”を感じることができました。翌日、日の昇る前のシーンとはりつめた冷たい空気の中。暗がりにゆらめくローソクの炎といつになく静かに唱えられるお経とマミさんの場を読んだピアノの調べ。いつもとは違いピアノが入ることでお経を読む人、木魚をたたく人、タイコをたたく人、そして護摩を焚く山内先生、皆が相手を感じ気遣い、響かせ合ってゆくとこんなにも幻想的で調和した美しい場が生まれるのだということを見せていただきました。この感覚を日々日頃日常にまで日派ってこれたら、どんなに美しい世となることでしょう。きっとこの世は天国ですネ。それを目の前で見せてくださった山内先生を始め幸子先生、マミさん、皆々様に感謝感謝です。ありがとうございました。(Doi)

♪何と言っても堀江さんのピアノと宥厳先生の笛の共演は最高!感激のひと時でした。元々音楽なくても困らないくらい音楽とは縁遠いですが、音楽って良いもんだなぁと初めて思いました。心の奥に染み渡ったようで、途中 涙までこぼれてしまいました。翌朝の護摩ピアノもどんな風になるんだか想像もできませんでしたが、これもまた素晴らしく心地良い時間でした。いつもより踏み合いの回数、時間は少なかったですが、心底楽しめたセラピストの9回目でした。有難う御座いました。(山崎)

♪色々とお世話頂いていつもありがとうございます。感想文遅くなってすいません。 満月の夜、魂の歌とピアノ演奏を聞かせて頂き感動しました。世界中に笑顔があふれるようにと私も願います。 また、来年よろしくお願い致します。 (藤山)

♪ 昭和の香り漂う本堂に 戦後の音が広がる 絶望と希望の中 人々の心を癒し、力を与えた歌とメロディ 魂に響く音楽は時を超える 仏様と神様との出合い クリスマスソングに仏様も喜び 無限の光でみんなを照らし光輝かせる とても心地よい夜でした 皆さまありがとうございました。(Koyama)

♪般若心経のピアノにはその発想からして感動してしまいました。幸子先生の歌声が聴けなかったのは残念でしたが。(前々回歌うってえっしゃってたように記憶してたんですが)
生のピアノを聴ける、のはすごく贅沢感を感じます。音楽って素晴らしいとあらためて思いました。(須貝)

♪せっかくの演奏会でしたが具合が悪くなりご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。演奏会の最中にもかかわらず具合の悪い私の面倒をみてくださったやさしさにほんとうに 心暖まりました。今だに なぜに あんなに具合が悪くなったかは わかりませんが次のは 嘘のように 復活。自分でも 仮病かいと突っ込みたくなるほど元気になりました。なので 演奏は何も聴けていない状態で明かりも いじれず情けないかぎり、、、次回のイベントのときはこんなことがおこらないことを 祈るばかりです。みなさんご心配 おかけしてごめんなさい(Kotomi)

♪遅くなり申し訳ありませんが、堀江真美さんのピアノの感想をお送りします。東光寺には火鉢が置かれ、とても温かい雰囲気の中で、復元されたピアノの音色が奏でられました。
堀江真美さんが心の中にあるものをピアノで弾いているとおっしゃっていたことがとても印象に残っています。小さい頃に映画をご覧になった記憶はとても鮮烈なんだろうと思い、流れるような演奏でした。最後に弾かれたスマイルという曲は私も大好きです。ゆうげん先生の笛とピアノの音色もとても合っていて素敵でした。とても楽しいひとときをありがとうございました。(Fujiyama)

♪私にとっての音楽は、選んで聴く事は余り無く、自宅に居る時に着いているNHKラジオから流れる雑多な種類の曲を聴くとも無く聞いているくらいです。宥厳先生の所で聴いたり、ヨーガで使うマントラ、ジャパ、キールタンに良いなあと感じる事も有ります。そんな私ですが、まみさんの体から心に、心から音に、演奏する喜びが紡ぎ出されこちらまで楽しくなりました。私が映画の題名ドクトルジバゴで無く、曲名のラーラのテーマをリクエストしましたのに、思い出されてくださったのには、申し訳なく、お見事と、そして筋が通る生き方にも感心しました。曲名を聞いていると同年代ではと思ってしまいそうですが、お母様の年代なのでしょうね。こうして未知だった方に出会う機会を作ってくださった宥厳先生のおかげと感謝しています。ありがとうございました。以上です。(Kosamin)

♪東光寺には火鉢が置かれ、とても温かい雰囲気の中で、復元されたピアノの音色が奏でられました。堀江真美さんが心の中にあるものをピアノで弾いているとおっしゃっていたことがとても印象に残っています。小さい頃に映画をご覧になった記憶はとても鮮烈なんだろうと思い、流れるような演奏でした。最後に弾かれたスマイルという曲は私も大好きです。ゆうげん先生の笛とピアノの音色もとても合っていて素敵でした。とても楽しいひとときをありがとうございました。(kyoko)

♪クリスマスソングを生であんなに近くで聴けるなんてとても良い経験ができました。殺伐とした毎日に楽しい昔を思い出すことができました。キリスト教徒ではないのでクリスマスに感じることは、ずれているかもしれませんが…。翌朝の護摩の時のピアノも素晴らしかったです。是非、こちらhannyasingyo with mami.wmv でご覧下さい。(Chiaki)

♪幸子先生のピアノが、何十年かぶりにリニューアル!~なんてとても素敵なことですね。真美さんの歌声ともに、懐かしいメロディを奏でたピアノも喜んでいたと思います。翌朝の般若心経&ピアノ のコラボはピアノの音と26名の般若心経の声音が重なりあって本堂の空間に不思議な渦を巻き起こし、新鮮でした。(西澤さん)




懇親会









第9回12月10日(2日目)その3

2012年01月07日 | 第11期楽健法セラピスト講座
二日目の朝~





朝のお勤め









朝の作務







Breakfast
●天然酵母パン●かぼちゃスープ●野菜サラダ(柿、アボカド、玉ねぎ、きゅうり、レタス)●サツマイモ







楽健法特訓















【楽健法経の再現伝授】 12/11 10:00

 昨夜12/10の堀江真美さんのジャズライブのあと、道場で会食もあって楽しいひとときをみなさんで過ごしましたが、近藤琴美さんが体調不良でダウンしました。二日目の朝はまだ不調の近藤さんを宥厳先生が釈尊、近藤さんを乾闥婆に見立てて、楽健法を施しながらのお話です。



(宥厳先生)昨日は「楽健法こそは最良の、楽々健々(らくらくけんけん)の法なるべしと。」というところまで読んだと思います。この続きはずっとこうしばらく一通り踏むシーンがずっと出てきます。それで、仏…これは「いわく」と読んでもいいんですけどね。「のたわく」でも、よろしいですけど。ま、僕はいつも「のたまわく」と言う風に読んでいますけど。




また佛曰く、楽健法はいかなる部位も左より行うべし。
左より右に転ずべしと。




※参照 http://www10.plala.or.jp/touyouigaku/page037.html

 これは東洋医学の陰陽論という哲学的な考えに基づきます。陰陽論では万物は全て陰と陽に分類されるとしています。例えば、太陽が陽なら月は陰。上が陽なら 下は陰。男女では男性は陽、女性は陰に属するとされています。左右の陰陽というものもあり、これによると左が陽、右が陰となります。そこで原則的に、陽に属する男性は陽の側である左から、陰に属する女性は陰の側である右から治療を始めます。治療効果がどれほど変わるかはわかりませんしそれ程こだわる必要もないのですが、一応これは鍼灸の「お作法」ですから、できるだけこれにしたがって治療を進めています。(栃木県真岡市・工藤鍼灸院のHP)

この、左から行うのは何故かという質問をよく受けるんですね。上に引用したような説明もあります。東洋医学は大体左から治療をやることが多いでが、なぜかというその意味は私も知りません、だから、左右というでしょうというように「左」が先だから。それから、めんどくさくなると僕が決めたんだ!と、こういうんですね(笑)。で、皆さんが聞かれたら、これは宥厳先生がそう教えた、だから、伝授という、伝授というか密教なんかで教わるとね、たとえ師匠が間違ったことを教えてもね、教わった通りにやらんといかんと(一同笑)。大体それが密教の方法論なんですよ。ですから伝授阿闍梨が教えた事は、逆のこと教わってもその通りにやるんです。高野山でもね老僧になると、教え方を忘れて逆のことをいったりすることもありますが、弟子はその通りやれ!と指導教師にいわれたことがあり、伝授を受けた通りやらされます。本当は逆なんですけど、おまえはそう伝授受けたんだからそっちでやりなさい、というようなことですね。ま、だから、伝授というのはそういうものかもわからない。ま、左からか右からか、厳密に言うと、どっちから先にやったって、私は効果は変わらないと思うんだけれども、漢方にうるさい人だったら、左からやることに蘊蓄を傾けて説明してくれるかも知れませんね。そういう人がもしおったら話を聞いて来て私に教えてください。上の引用では女性は右からとありますね。




佛、乾闥婆の大腿部(だいたいぶ)の付け根に、並はずれて大きく、衆人尊崇(しゅうじんそんすう)の左の御佛足を乗せて踏みたまえり。この時御佛足、光を放ちて、並みいる菩薩の眼(め)に慈光を降りそそぎ、菩薩等の心眼開け、乾闥婆の大腿部が、にわかに柔らかくなるを目撃したりき。




いまから乾闥婆に見立てた近藤さんを寝かせて宥厳先生=お釈迦様のワークショップです。釈迦の御御足はとびきり大きかったそうです。土踏まずのないべた足だったという説もあります。有名な仏足石もありますが、仏足石がべた足につくられることからそういわれてるのかもしれません。、仏足石は信仰の対象となって崇められています。
 御御足で大腿部の付け根を踏まれると、たちまち硬い筋肉が緩んで、見ている菩薩等は目が点になったことでしょう。楽健法の威力に瞠目です。

座禅し瞑想するのが修行の中心になっている仏教では、長時間の座禅をする宗派がいまも沢山あって参禅するひとが多いですが、ひたすら座り続けると腰痛になったり、背中を痛めたり、座禅のあとしばらくは達磨さんのように座ったきり立てなくなることもあるでしょう。私の考え方では、座禅はハタヨーガと交互に修行することが大切ですが、座禅に専念することを重視してハタヨーガなど、緊張ほぐすことを一切しない座禅のもとでは、参禅による身体の硬化や退化が起こり病気の原因となることでしょう。ここに登場する乾闥婆は、座ることに専念しすぎて、身体を硬くしてしまったものと仮定して腰痛持ちだと書いているのです。そういう迷妄を解こうとして今、釈迦が楽健法を教えることになったわけです。釈迦はかくて軽快なる楽健法を眼前に見せてくれます。

 乾闥婆、たちまちにして長年月(ちょうねんげつ)の坐禅によって生じていた腰痛が癒え、如来の御佛足より流れ入(い)る聖なる力が、全身を駆けめぐるを覚(さと)って、涕涙(なんだ)下るを止(とど)め得ず。


 乾闥婆はいつも感じている腰痛が解消したばかりか、なによりも尊崇している釈尊に楽健法をやってもらうわけですから、感激のあまり涕涙がとまらないのも当然ですね。涙が流れた、というのを「涕涙(なんだ)下るを止(とど)め得ず。」と言う風に古典ではこういう言い方をするんですね。こういう言い方もあるということです。


 佛曰く、我がいま踏みし大腿部の付け根の部位をば、羝羊(ていよう)と名付く。身体の芯より足心に至る導管(どうかん)の筋なるべし。ここを左右ともにゆるめて血流、体液さかんに流動しはじめ、迷いより醒めて、向上心の湧きいずるところなりと。


 これが今やってる大腿部の付け根のところですね。この先の説明ではもう一段上の右の五行目くらいに、「乾闥婆、佛の意に従いて北枕にして、身体の左側を下にして」って言うふうに書いてありますから、そのポーズがこれです。この文章からも踏む姿勢が読み取れると思います。楽健法をやったことのない人にはどんなポーズだろうと思うかもしれないけど、楽健法の勉強をすこしやってたらこれを読んだらパッとわかりますね。それで、ここに、「佛、微笑みてうなずき乾闥婆の足許(あしもと)に立ちたまいて曰く、いまから楽健法を伝授するなり。」って、お釈迦様がしゃべった、ということですね。



 佛曰く、我がいま踏みし大腿部の付け根の部位をば、羝羊(ていよう)と名付く。身体の芯より足心に至る導管(どうかん)の筋なるべし。
 ここを左右ともにゆるめて血流、体液さかんに流動しはじめ、迷いより醒めて、向上心の湧きいずるところなりと。
 この「向上心が湧き出る」は長年の経験からこういう風に書いているわけですけど、楽健法で循環が良くなってきましたら気分が明るくなり生活意欲がもどってきて、やる気が出てくるわけです。



 次に佛、乾闥婆の足はそのままにして、上半身のみ上向きにさせたまいて、左足の羝羊よりさらに内側の筋を踏みたまえり。乾闥婆、痛きこと火を近づけたるがごとし、と覚ゆれど不思議に心地よく、神気身内(しんきしんない)に呼び戻されたるがごとし。


 上半身を上向きにして触れる大腿部の付け根の硬い筋肉は、楽健法で踏む部位のなかで、いちばん痛く感じるところですが、やさしく軽く数分以上根気よく踏み続けると痛みはその場で薄らいできます。生理痛の最中であってもその場で生理痛がなくなるポイントがこの部位です。このポーズで踏んであげたら、過度の疲労も瞬時にすかっと抜けてしまいます。強い疲労感がある時とか、二日酔いでくたくたというような時でも、ここを踏んであげるとその場で回復します。



「佛曰く、この部位を愚童(ぐどう)と名付く。」このポーズを愚童と言ってるんですね。

「これをゆるめれば、肝、腎の働きを盛んにして、婦人の生理を整え、」ここを踏むと生理を整えって言うのは、子宮の悪いような人、特に若い女の人で生理痛のひどい人はこの奥の筋肉が硬くなっています。多分初めて踏まれた人は、痛がってまともには踏ませないと思います。やさしくそっと踏んでいくと、ある回数をやれば痛さがそれほど感じなくなり、30分もしないうちに生理痛がその場でなくなります。楽健法をやってる間に治ります。

 東京で経験した事があるんですけど、二年間ほど生理の止まった状態で、いつも不機嫌で家族が手こずってる女子大生の娘を、お母さんが説得して楽健法に連れて来られたことがありました。仲間のご婦人方がぐるりに取り巻いて見てるところで、その生理痛の娘を踏んであげたんです。このポーズになって踏みだして3分ほど経って、まあ50回も踏んでないですね。ふと気がつくと、シーツが血で真っ赤になって広がっていく…ビックリしましたが、母親がさりげなくその子を起こしてシーツをまるめて娘を連れて行き、着替えをさせてからまたお願いしますって、なにもなかったように寝かせましたね。そのとき女の人ってのはすごいなと思いましたね。そのお嬢さんはいつも機嫌が悪くて困ってられたらしいですけど、生理がないってことは不機嫌の大きな理由になるんでしょうね。それがはじめて楽健法をやったところ、間もなくシーツに血が広がって生理が始まったんです。そういう経験があります。

「健やかな子宝を得るにいたり、」ここは高齢出産だと言われるような年齢、30代の後半になってからの初産では帝王切開することになるケースが多いんですけど、大腿部の付け根をしっかり踏んでゆるめておけば産道が開きやすくなって自然分娩で安産できます。20代の女性は30代に比べると身体が柔軟なんですね。楽健法はこの柔軟さを取りもどす方法なんです。足の付け根の硬い筋肉が締め付けて産道が開かないんですから、ここを柔らかくすれば自然分娩で何の問題もなく生まれます。

 妊婦さんには出産の間際まで毎日踏んであげるといいですね。臨月でお腹が大きくなっていてもうつ伏せになって背中を押しても大丈夫ですからね。もし不安がるようだったらちょっと座布団でも当ててやってあげてください。
妊婦さんによりますが、大きなお腹しても平気でうつぶせになる人もいます。なんにもそんなこと気にしない。身一つの時はお腹を下にして圧迫しようがね、別に赤ちゃんが苦しんだりそんなこと一切無いんですね。たぶん、中で喜んでるんだろうと思います。そういう刺激もあった方がいいのかもしれないね。

「健やかな子宝を得るにいたり、自己の存在の意味に気付くなり。」

それでこのように書いたわけです。






 次に佛、乾闥婆を上向きに寝かせ、鼠蹊部(そけいぶ)より膝までを、上から下へと踏みたまえり。




これで、この文章でこう踏んでいくというのがわかるね。



 佛曰く、この部位を嬰童(ようどう)と名付く。


嬰童(ようどう)と言うのは、みどりごのこと、赤ちゃんのことですね。



 嬰童を踏みて、生まれきたりしみどり児が、初めてこの世を見るが如く、胃腸の働き活然とし、視力も回復し素直な心が発動すと。


 ここをよく踏んでいたら胃腸の働きがよくなります。経絡で言うと胃経ですね。ここが硬い人に最近あなたは老眼が進んでませんかっていったらたいていそうですって言われます。最近の僕のやり方ですが、こうやって全身をかるく揺すって(ローリング)あげることから始めることが多いです。揺らすという感じで足を下へ下げてきて膝に近いところは、内側に引き下ろすようにかるく踏んであげます。そうしたらあんまり痛くないですね。揺らしながら強く踏まれると痛くてたまらないので、その位置ではもう揺らさなくていいです。

まあ、ここのローリングは蹴飛ばすことになると痛いので、ここは体重を加減してゆっくり持っていくという風にしてあげないと、痛くてたまらんです。だけどこれが一番難しいってみなさんここおっしゃるんですよ。そんなんじゃなくて優しい気持ちで体重を軽く乗せてゆっくり押しておけばね。相手が慣れてきたらだんだん強くしていけばいいですね。これが嬰童(ようどう)のところです。




嬰童を踏みて、生まれきたりしみどり児が、初めてこの世を見るが如く、胃腸の働き活然とし、視力も回復し素直な心が発動すと。
 乾闥婆、老眼なりしが御佛足が離れるやいなや、如来の御尊顔、常にも増して輝き、明らかに見ゆるを自覚して、いまここにわが不浄の身を横たえ、如来の御佛足を頂ける佛縁の不思議、有り難さを噛みしめたり。




(宥厳先生)これはあの、ここ踏んであげてる間に、ほんとに「あ、目が見えるようになった!」っておっしゃる人多いですね。そんな経験したひといますか?
楽健法のあと、新聞が眼鏡なしで読めるなんていうひとがいます。近視の人もかなり視力はよくなります。




 次に佛、乾闥婆の左の胸から腕の付け根を踏み、






 左の胸からですね、ここをね、以前楽健法の本を書いた頃は、のの字に回すなんて書いてあったのですがいまは回さないで踏むことにしています。昔は手を曲げたままでしたね。こうやって、やったら。

(琴美ちゃん)いて!!(一同笑)
(宥厳先生)なかなか踏みにくいね、これ。それで、まあ、昨日確認のためビデオを見ましたけど、あれにもちょっとこういう踏み方していますが…まあ、のノ字を書くように、こっちへ引っ張っぱるというような気持ちでやってたんですけど、今はここをまっすぐ押し込むように踏んでいます。このほうが踏みやすくていい、やりやすいです。安定しますからね。なんでこんなポーズで踏めたかというと、始めた頃には鉄棒を持って体重を加減してやってたからね。それでこうやって踏めたんですよ。鉄棒なしではそれがちょっと難しいので、今は素直にまっすぐ踏むんです。

「左の胸から腕の付け根を踏み」ここも、こ右の足でまっすぐ踏んでいくとよろしい。踏んでから足をずらしますと筋肉を引っ張りますから、引っ張らないようにまっすぐ踏んでください。こうやって横にずらすと痛い。それで、こう持っていくように、ね、いま。こっちでもまっすぐ下におろすだけだったらあんまり痛くないんです。だけど、こっちに立って全部やろうと思うから、横にこう。そうすると痛くなる。
(琴美ちゃん)いた☆⌒(>。≪)
(宥厳先生)それで左足でこう踏んでいったら、足が横にずれないので、それで、こちらの足で踏んで行きましょう。利き足を同じところに立ったまま踏むんじゃなくて、小刻みに移動させてまっすぐ下に踏んであげるようにしてください。利き足は絶えず、細かく動いてます。利き足を一箇所においてどこもここも踏もうなんて横着なことはしないで、こまめに動くことが大事なんです。




次に佛、乾闥婆の左の胸から腕の付け根を踏み、さらに指先まで御佛足にて踏み下りぬ。
 佛曰く、この部位を唯蘊(ゆいうん)と名付く。
 唯蘊をゆるめて見えていたもの、考えていたことが行為と結ぶなり。
心臓の病も、呼吸の病もかるく癒されるなりと。






 からだの腕の付け根から胸にかけてが硬いと、心臓や肺を筋肉に圧迫されています。風邪を年中引いてるなんてひとは、ここの緊張がとれないからです。
 骨盤の周り、鼠径部のあたりと、胸の緊張が緩んできましたら、たいていの病人は回復します。ここが硬いので内臓にゆとりがうまれないので、疾病が起きるのです。健康とは身体がやわらかくて、内臓に伸び縮みできるゆとりがあるということなんです。

 楽健法経は左側の踏み方を解説しています。偈の方で「次に右に転じて繰り返せ」と言う風に書いてます。いま胸のところは説明のために近藤さんの左だけ踏みましたので、バランスの問題だから右も踏んでおきましょうね。

 胸から腕にかけては心臓の悪い人なんかは硬く、腕の硬い人は便秘しているとか、腸の悪い人ですね。便秘してる人はとっても二の腕が硬いでものです。腕の硬いところをよく踏んであげると間もなくドカッと出る人がいます。ここが緩んだらお通じがいっぺんに良くなるんですね。そういうことを経験すると、体は不思議だなと思いますね。

「心臓の病も、呼吸の病も」これは、乳がんとかね、乳腺炎、まあいろんな病気がありますけど、胸から腕を緩めていくことで良くなります。要するに循環を良くしていかないと病気なんか治りません、どんな病気でも。




 次に佛、乾闥婆をうつぶせに寝かせたまいぬ。
 右の御佛足を、左の臀部(でんぶ)より



 
 うつぶせになって
 お尻を踏み足に下がってくるのですが、踏む人が両足の間に立つと、お尻は外側へ足が逃げるんです、どうしても。左の外側に立ったらスリップしないでお尻が踏みやすいです。足の付け根は両足の中に立って踏んであげると内側の筋肉にあたります。お尻は外へ出た時にまとめて踏むというやり方でもいいですね。スペースが広ければこうやって踏んだ方が踏む方も楽ですね。足は右で踏んでも左で踏んでも構いません。目的は踏むことにあるのであって、どっちの足で踏むかということは重要じゃありません。安全に踏めて効果があればいいわけですから。私は左右の足を変えながらふんでいます。硬いところを見つけたらよく踏んであげるようにしたらいいですね。まあ、




次に佛、乾闥婆をうつぶせに寝かせたまいぬ。
 右の御佛足を、左の臀部(でんぶ)より膝裏(しつり)のそばまで踏み下りぬ。
 佛曰く、臀部は大乗(だいじょう)と名付くなり。
 大腿部から膝裏は抜業(ばつごう)と呼ぶべし。
 いずれの部位にも筋肉の付け根に潜脹(せんちょう)あり。
 潜脹とは硬く結ばれたる筋肉のふくらみにして、潜脹の硬結(こうけつ)、肥大するにつれて、筋肉は縮み、血流を妨げ、体液の流れも減少し、冷えを呼び、病を生ずる因となるべし。











 この潜脹(せんちょう)というのは、私の作った言葉です、造語です。体の中に隠れて、潜ってて、硬く膨らんでるから潜水艦の潜と脹れるという字で潜脹という言葉を作ってみたんです。こういう言葉が医学用語にあるわけじゃないんですが、潜脹という言葉があると説明がしやすいですね。私が最初に京都の中心山荘へ二泊三日の講習会に10回ほど通った時には、先生方は体の中に玉があるって、「玉!玉!」って言ってました。ここの付け根にある玉、とか、そこらじゅうに玉がいっぱいできて玉だらけって言う風に言ってたんですけど、ま、玉というよりは潜脹と言ったほうがわかりやすいかな、ということで、言葉を作ってみたんです。

 潜張という言葉もだんだん僕の本を読んで知っている人がいて、「潜張がどうだ」とか言うようになってきましたから、言葉っていうのは理解しやすい概念を表す造語を使ったらいいですね。その他にも、私が作った言葉で「有害価(ゆうがいか)」有害の価(あたい)なんていう言葉を、楽健法の本に書いています。それは、例えば栄養価という言葉はよく使うでしょう?栄養価の高いものは体にいいと言うことで、昔から厚生省あたりが栄養価の高い卵、牛乳それから牛肉、そういったものどんどん食べましょう、なんて言って教育しながらずっと戦後やってきたわけです。

 で、確かに栄養価は高い。で、栄養価の高いものは体に良いっていう考え方が一般化しているわけです。カロリーが高くて行動の源になる、エネルギーになる。だから、栄養価の高いものはいいんだというというような考えでみんな食べてきたわけです。ところが、栄養価の高いもの中には成人病を引き起こす有害なものが潜んでるわけですね。僕は逆に栄養価は高いかもしれないけれども、有害価も高いよ、ということもわかりやすく言いたいわけですね。

 それで、栄養価に対して有害価という言葉を作って本に書いているわけです。だけど、あまり世間では有害価がどうかこうかというようなことは言われませんけれども、僕はまあ有害価という言葉で、「ああ、あなたはそれを食べてるの?」ずいぶん有害価が高いわね」というような話をすればわかりやすくなるかな、という考え方もあってそう言う言葉を作って使ってます。

 それから、他の言葉では例えば「自然治癒力」という言葉があるじゃないですか、皆さんは自然治癒力を持っているわけですけれども、人間には「自然致死力」っていうものもあるはずだと、死ぬ力ですね。それは医者が何も、スパゲッティー症候群にしてくれなくてもね、自分で死ぬ力があるんですから、だからほっといてくれたら安らかに死ねるわけでよね。だけど、なかなか今の世の中は安らかに死なせてくれない。それで、ま、自然致死力を利用してあの世に行きますから、ほっといてくださいって主張したいわけです。それで、まあ自然致死力っていうのを造語して書いてます。

 そういう何か分りやすい概念っていうのを提供することで「自然致死力」、いい言葉だな、と私はそれで死のう、などと聞いたら思いませんか?(一同笑)。ね、自然治癒力で治るというのと、自然致死力で死ぬっていうのも自然そのものですよね。老衰で本当に火の消えたように死んでいくっていうのは人間の権利です。医療で死のお手伝いなんかいらない。お節介なんかいらないです。

 この間からここでちょっと頒布なんかした和紙靴下の糸井さんっていう人は母親が104歳でこの間亡くなられたんだそうです。1年前に。その人は非常にシャキッとしたお年寄りで、まあ100歳過ぎてから、ちょっとこう施設みたいな、老人の介護の施設ですかね、そいういうところに入れたらしいですけれども、100歳過ぎても、そのお母さんは頭が非常にしっかりしてて、それでお花とかお茶を教えたりしてたらしいんですね。施設へ入ってから携帯電話使うようになって、それでご家族とメールのやりとりしてたそうです。104歳まで。

 そこのホームで100歳を超えて、もっと若い人もいっぱいおるんだけど、携帯電話使ってるのそのおばあちゃん一人だったそうですね。すごい人がいるもんだね、世の中には。それで、104歳になっても食事するときは必ずきちんと座って、それから、トイレでもきちんとトイレに自分で行く、そういうことを徹底してて、一切何か病院がこうしましょうか、とか、ああしましょうかとかいうことは聞かなくて、寝たまますますような世話を一切しなかったそうですね。

それで、104歳になってから、もう家に帰りたい、私はこんなところにいたくないとかって、家に帰ってきて、食事は机に向かいきちんと座って食べて、座ったままやったかな?きれいに平らげて、そのままで、今度食事を下げに行ったら息が切れてたんだそうです。そんなことを話していられましたね。これはもう自然致死力を活用した死に方ですね。素晴らしいなーと思いますね。そういう死に方ってなかなかできないもんですよ。

 私を額ぶち屋に仕立て上げた河野芳夫さんっていう絵描きさんがいたんですけどね。私よりだいぶ年上だったんですけれども、可愛がってくれましてね、   ちょうど二十歳のころに劇団月光会で知り合って何年目かのある日、河野芳夫さんの、アトリエに遊びに行った時に「山内君、いい職人さんを探してる額縁屋さんがあるんだけど、君やってみないか」って言って紹介されたのが額縁屋になるきっかけでした。ある額縁屋を紹介してくれたんです。河野芳夫さんの紹介ですって僕が行ったわけですね。私が23歳の頃はまだ女の子に間違われるような可愛い顔してたんです。それで、山内女子なんてみんなから言われて(一同笑)、そんな感じでしたね。赤い唇してね、小柄でね、姉のお古の背広なんて着て行くもんだから、額縁屋のオヤジはね、こんな若造に自分が欲しがってるような額縁ができるわけないとか思ったらしくて、それで、その店の中で一番高価な額縁を一点、サムホールっていってね、はがき大の額縁を僕に渡して、「この額縁、君作れるかね」っていうから「はあ、それはわけないです」って言ったんですよ。

 そしたら、信じられなような顔して、とりあえず持って帰ってできたら見せてくれって。それで面取り鉋を3つ4つ作って、額縁の模様になる凸凹のある面を取らないといけませんから。それで見本とそっくりに材料の木を削って額縁を作って一週間ほどして持っていったんですよ。そしたら、額縁屋のオヤジはね、まさかそんなに早くね、もう見せてくれた見本よりも立派なものができてくるなんて夢にも思ってませんから、ビックリ仰天して、それでもう早速、じゃ、お願いします、なんて、それから額ぶち屋になっちゃったんです。
 
 その額縁屋さんは、そういう仕事のできる職人さんがいなかったもんだから、今までね、それで、僕を一人占めしたいわけですよ。よその仕事をしてくれたら困るから、それで、もう、うちの仕事だけしといてくれ、専属で、その代わり仕事は十分回すし、その代わり、紹介してくれた河野さんにも僕が額ぶちやってるってことは内緒にしてくれって。それは、何故かというと、直接取引でやられだしたら困るから。それで、僕はまあ幼い真っ正直な青年でしたからね、まあいいでしょうってなことで、誰にも言わずにそこの仕事だけを受けてやりだしたんですよ。ま、それが額縁屋になった始まりですね。

ところが、額ぶち屋というものは、そこの親父は特に大阪の商人の中でもなかなかずるい河内者で、まあ後から考えたらこんなずるがしこい奴はおらんというようなオッサンだったんですね。それで「とにかくうちはもうどんな額縁でもできますから」って言って注文を取って来るんです。それで、変形サイズだとか、それ1点物の別注だとか、納期があまりないので早く欲しい、って言ったら急ぎの仕事があるのにそれよりも先にこれが欲しいとか言ってね。ドンドン無理難題を言ってきて、まあそれを言うてきたら僕はみんなこなすもんだから、僕が。苦もなくこなしちゃうもんだから、夜中でもどうしてもこれ明日ほしんだって言って来たりするような、そういうのを全部こなしてやったんですよ。

 私は純朴で正直ですから、材料代が何円で手間賃が何円でって本当に原価に近いような形でしか出さないでしょ、そうすると、向こうの方はこれはもう別注の特製ですって、私が出した20倍くらいの値段で売るわけです。最初に説明を受けていたんですけど、そのオヤジの話では、額縁屋というのは大体仕入れたものを曲げて売るって言うんです。曲げるというのは倍にして売るってことです。ところがそこは30倍にもして売るんですよ。それだけ、まあ僕がいい仕事をして出したわけで、それで、天下の額ぶち屋と言えば東京に多聞堂っていう額縁屋があってね、多く聞く堂って書くんですけど、多聞堂、ここの多聞堂の額縁は日本のそうそうたる画家たちがそこへ額縁をオーダーする。そうすると、多聞堂の額縁に入ってるとそれは本物だという証拠だ、偽物でない贋作でない絵だっていうくらいね、多聞堂には権威がある。それで、その私が取引した会社は関西の多聞堂にしたいって言う風におっしゃるんですね。まあ、私も若いですから、それはいい心意気だと思って頑張って、いい額縁をどんどん作ってね。夜もろくに寝ないで。

ところが、支払いのときになると、一括でポンっとくれたことがなくて、三回に分けられたりとか、それで、額縁屋っていうのは材料買うて乾燥させないといけないでしょう。あ、楽健法と関係ない話を(一同笑)。

ところが、乾燥させたいために木材をようけ買うとったんです。トラックにいっぱい積んで。ところが、それを買うのには資金がありませんから、それを融通しろと、お金出してくれっていったら、それもなかなか出してくれなくて、というような事でね、まあ、結局20年くらい付き合ってあまりあくどいことをするのがぼくにばれて、最終的には大げんかして、別れたんです。

 で、別れた途端に売上が二十倍くらいにポンっと上がって、今まで一点ずつやってたのがもう多くの画廊が僕のこと知ってましたからね、まとめて六号を10点とか八号も10点とか言ってまとめてくれるじゃないですか。それまで一点ずつやってたのが一気に10点ずつやります、とかいう、まとめて買ってくれるところがどっと何軒も増えたもんだから、そうすると一カ月の売上が、それまでは月に100万行けばいいような感じだったのが、500万も600万も毎月売上が出るようになって、1年間で40,000,000円くらい貯金ができて、これはえらいことになってきたぞって家内と話してたら、そしたら野末陳平さんが国会で絵画の異常なブームについて質問したら、とたんに絵が売れなくなって額ぶちの注文がピタッと止まった。それで、元の木阿弥になったという話です。

従業員雇ってましたからね、そのうちに回復するだろうと思ってせっかくできた貯金を食いつぶしては給料を払ってら、一年も持たないでパンクです。それでもうこんなことしててはこれはもうしょうがないから、当時はパンの研究してましたからね、それで、ここは工場を1つ潰して、パン屋にするぞってある日突然宣言して、でもう家内も兄弟もびっくりして、パン屋なんて言って、お前頭おかしいんちゃうか、とか言われて、いや!このパンはその内有名になってマスコミがいっぱい取材に来るようなパンだから、心配すんな!とか言ってね。それで、思いついたら1か月もしない内に額縁の工場がパン工場にもうパーンと2階も全部作って、それで大きな機械がどっかーんと入って、それで犬も食わないようなパンを長いこと試作したり、作ってたわけですけど。なかなか膨れなくて、あなたの悩みどころじゃないよ(一同笑)。ま、そんなことがありましたね。え~何言ってたんかわからんようになってきました。




 潜脹とは硬く結ばれたる筋肉のふくらみにして潜脹の硬結(こうけつ)、肥大するにつれて、筋肉は縮み、血流を妨げ、体液の流れも減少し、冷えを呼び、病を生ずる因となるべし。




ここは大事な身体のシステムにたいする考え方ですね。筋肉の硬さに比例してからだの中の管が通りが悪くなるんですが、潜脹をほどけると筋肉がゆるみ管の締め付けがなくなって血液や体液の流れが良くなるんです。




 潜脹とは硬く結ばれたる筋肉のふくらみにして、潜脹の硬結(こうけつ)、肥大するにつれて、筋肉は縮み、血流を妨げ、体液の流れも減少し、冷えを呼び、病を生ずる因となるべし。
 病を癒すは管(くだ)を通すことに如かず。
 易行(いぎょう)なり。




これは力説したいところですね。「病を癒すは管を通すことに如かず。易行なり。」易行とは簡単に結果がでるんだということ。楽健法をやれば流れが回復するのは易行・簡単なんですね、あの、下水の会所の詰まったゴミを掃除すると排水は一気に快適になります。会所のゴミを取り除くという感覚が楽健法だと思ってください。潜脹イコール会所だから、非常に簡単なんだ、易行なんだということです。

 そういうことを知らない人が医者に行って検査を受けて薬だ手術だって大騒ぎになる。手術で取り除けってやられるわけですよ。潜脹をほぐして管を通したら治っちゃうのにね。そういうことを、多くの病人にやってみたらわかります。管さえ通れば治っちゃうんだということがね。ま、谷川さんなんかそういうこといっぱい経験されてきたんですね。病気の根治にはそれしかないんですね。それで、非常に易行と言うのは易しいということですね。簡単な方法なんですよっていうこと。




 ことに臀部の潜脹は冷えを呼びこむなり。

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 お尻は結構よく冷えて、お尻の冷たい人って多いですよね。女の人は特にね。短いスカートをはいたりしてね、足はむき出しで、スタイルのためには冷えを気になどしないのかな。

(土井さん)歌姫、寒そうでしたね。

(宥厳先生)あ、歌姫か!(一同笑)。まあ冷えるって言うのはやっぱり体の調子を悪くしますから良くないですけれども、かと言うて靴下5枚もはく人もおるけどね、あれも考えものだと僕は思いますね。なぜ、楽健法せんのだろうと、いうこともあるかもしれない。で楽健法で冷え治そうと思ったら、踏んでもらうことよりも人を踏むことですね。踏むことに如かずってね。




 潜脹をゆるめて、難治(なんじ)の宿痾も断ち切るに至るなり。
 心して踏むべしと。

 
 次に佛、乾闥婆の両足裏に御佛足にて乗りたまいて曰く、この部位をば覚心(かくしん)と名付くなり。
 足裏は反対側の頭脳と知るべし。
 足は実践を常に行ずる脳髄なり。
 愛しむべし。
 覚心は部分にして全体、全体にして部分なり。よく思案せよ。
 覚心を貴(とうと)び踏んで気をめぐらし、正精進(しょうしょうじん)に励むべしと。






反対側の脳髄というのは頭の中に脳髄があるわけですが、足の裏もそこで情報を的確にキャッチする賢い脳髄なんですよっていうことですね。足裏はやっぱり脳みそです。で、人を踏むときは足の裏で考える。頭で考える人は何かいろんな既成の知識が入ってたりして、胃の悪い人はあそこ踏んだらいいんだとかいうことにこだわる。だけど、足の裏が賢い脳髄になってる人は、ここが硬いんだからここを緩めるんだっていうことが足裏で直感できるんです。この人は胃が悪いから、ここにしようなんて思わない。硬いところを見つけて踏んでいくことですね。そういうことを脳髄だと言ってるわけです。

ま、だからこれは足の裏だけを踏んでも元気になる。これはまあこん中にも何人かの人が官足法だとか色々足の裏を揉む治療やってる人がいますけれども、足の裏だけでも確かに全身がよくなっていくんですね。だけど、まあ、直接ここが固いんだから足の裏だけ踏んでここを緩めるというよりは、硬い潜脹を直接踏んだ方が早いのは決まってますからね、だから、まあ楽健法は非常に合理的だと思うんですね。硬いところに直接アタックする。




 次に佛、乾闥婆の腕の付け根に御佛足を踏み与えたまえり。
 乾闥婆、痩せた背高き男なれば敷物に腕が密着せざるなり。

 
佛曰く、この部位を極無(ごくむ)と名付くなり。
 腕の敷物に着かざるは、胃の下垂あり。











 痩せっぽちの人は大抵背中が丸くなっててここが引っ付いてない人がおおいですね。胃下垂の人ですね。特に男の人で中年すぎたら胃下垂の人はそういう体型の人が多いです。腕がこう下にひっつかない。乾闥婆は痩せた胃下垂型の腕が床から浮き上がった人で、これが乾闥婆の姿勢ですね。そういう腕が床に着かないひとも、数回踏むと伸びて着く人は結構います。踏むと身体はすぐ変化していきます。あまりきつくない程度にこうやって踏んでいくといいんです。




 いまだ身体硬く、なお修行の余地大(おおい)なる証なり。
 心して楽健法を行じ、心身一如(しんしんいちにょ)の境地を体解すべし。と申されて、極無を御佛足にて軽く踏み,光明真言の呪を唱えたまえれば、乾闥婆の腕たちまちゆるみ伸びて敷物と密着す。

 
 菩薩等、開示悟入(かいじごにゅう)しつつ眺めるなか、次に佛、乾闥婆の頭上に廻り立ち、左肩の付け根に左足を与えたまい、




 ここは秘密という部位。秘密を踏むときは、相手のからだの外側のラインに立ちますが、踏む人は利き足と踏む足が直角になるよう足の位置と各度に注意してください。両足を前に向けると不安定でよろめきますからね。




御佛足の踵(かかと)が敷物に触れんばかりに踏み下げぬ。
 佛曰く、この部位を秘密(ひみつ)と名付くなり。
 諸々の病の予兆の現ずるところなり。
 肩凝りは未病の便り、便秘も未病の便りなり。あなどらず秘密を解くべしと。






 肩こりはつらいものですが、秘密を解いて緩めてあげることですね。肩から腕にかけて緩んできましたら、便秘まで解消していきますね。ここもそうですね。腕が硬い人は腸の働きが悪くてよく便秘してます。



第9回12月10日(2日目)その4

2012年01月07日 | 第11期楽健法セラピスト講座
 次に佛、乾闥婆の背に跨(またが)りて、両手を合掌の形になし、背骨の左右の筋を上より下へと押し下りぬ。
 佛曰く、ここを一道(いちどう)と名付くべし。
 ひとは背骨と筋肉とのつりあいを失って諸病を得(う)るなり。
 全ての部位の調整は、一道(いちどう)の調和をはからんが為なり。
 一道を触掌(しょくしょう)して愛を感じ、天地に生かされてある感謝の念が湧きおこるなりと。




 

 骨盤が左右均等でなくてゆがんでくると背骨のズレとか、背中が曲がって来たりして背骨が飛び出したりとかするんです。ま、それによって体が悪くなるので、脊椎の矯正をさえすれば病気が治るっていう理論がカイロプラクティック・整体と呼ばれている考え方です。
(宥厳先生)カイロプラクティックは背骨を矯正する。背骨のずれがあるから矯正するというので、左右の筋肉の緊張を取らないで、背骨だけ強制的にガッと入れるテクニックをカイロの人たちは勉強するんですが、ちょっと危ないですね。

 下手にやられると脊椎に損傷を与えて、障害者になってしまう人もあります。  
 大阪でも何年か前に背骨を損傷して半身不随になって車椅子で暮らすようになった人が、裁判を起こして2,500万円の賠償かなんか裁判所から命じられてたのを僕は新聞で読んだの記憶してます。ま、だから、背骨を無理に矯正しないで、楽健法で筋肉をまず緩めて行けば背骨のずれは、元に戻っていきますので、まず硬いところをほぐすていうことを中心にいつも考えていってください。

「全ての部位の調整は、一道(いちどう)の調和をはからんが為なり。」ま、他のところ踏むのも背骨をまっすぐするために、やってるようなものですよっていうことを言ってるわけですね。

「一道を触掌(しょくしょう)して愛を感じ、天地に生かされてある感謝の念が湧きおこるなりと。」触掌というのは、手のひらをかるく当てて、癒してあげることです。私もまだ楽健法も何にも知らないで喘息を患ってた頃に、かなり肩が凝って辛かったもんですから、大阪の城東区の初めて飛び込んだ、ある鍼灸師のところに行ったことがあるんです。そしたら、七十くらいのおじいちゃんでしたけど、その人が針をやってくれて、終わりの時にね、背中にほーっと手を当ててくれたんです。その手の暖かさがね、何とも言えない温かい気が伝わってきて、なんて気持ちの良い手だろうと思いました。

本当に数秒間でしたが、パーっと当ててくれたんですが、何か一生忘れられないような手の感触でしたね。だから、ああいう気のこもった手で人を触らないといけないなと思っています。何かこう癒されるというか、力を入れたわけでもなんでもなくて、両手を重ねて、ふぁっふぁっふぁ3回ほど押してくれただけなんですけど。その感覚を未だに体に覚えてて、だから、人をやってあげてる時に、あのような気をあげたいわけです。あのとき良い気持ちにさせられたということがいまもとても勉強になっています。

 皆さんも是非、ちょっと手を当ててあげるだけで、なんと気持ちの良い手なんだろうと、気持ちが相手に伝わるようにやってあげてほしい。まあ、楽健法やってるとだんだん、そういういい気が出てきて、相手が気持ちよく、その人のそばに行くとなんとなく感じが良くてね、何かさわやかな風が吹いてくるような、そういうキャラクターですね。楽健法を続けていると、そういうものにだれもがいずれ成長していくと思います。

はい、琴美ちゃんどうもありがとう。
(琴美ちゃん)ありがとうございました。




 佛、立ちて座にもどり、菩薩等にその慈顔(じがん)をほころばせり。
 菩薩等一同、追体験によりて、如来の楽健法をわが身に施されたる如く、乾闥婆とともに、浄福(じょうふく)に包まれたり。




(宥厳先生) はい、非常に幸せな気分になりましたか?乾闥婆さん(笑)
(琴美ちゃん)はい、なりました。







 佛曰く、病気にて夭折(ようせつ)するは治療の理法を得ざるが故なり。
 治らざる病はあらずと心得うべし。
 依(よ)るところの手段なによりも肝要なり。
 まず、否定的な心を棄(す)て、可能性を信ずべし。

 信じて楽健法を行ぜよ。




 この病気にて夭折って言うのは、若くして死ぬということ、まだまだ死ななくていい年齢に死ぬことを夭折するって言います。七十五も過ぎて死ぬことは夭折とは言わないですね。四十代とか三十代とか、まあ、五十過ぎたら夭折とは言わないですね。だいたいもっと若いときですね。

「治療の理法を得ざる」って言うのは、それが治るような治療法を行っていないということですね。西洋医学はそれが治るような治療を行なっているかどうかですね。何か行ったら直ぐにでも治してくれるようなことは言うんだけれども、本当は治るどころかますます悪くなったり、どうかしたら、慢性化させてしまったり、もっとひどくなればあっという間に死んでしまったりしますね。

 そういう、これは理法を得ていない、つまり理屈にあっていないということですね、その病気を治す方法が。だから理法を得れば必ず、病気というのは治ります。で、ここに「治らざる病はあらずと心得うべし。」って言うの、どんな状況まで追い込まれてもちゃんと理法にあえば、その方法さえとれば必ず治る道はあるわけですね。だけど、それが西洋医学一辺倒でつまり西洋医学依存症という風に僕が言ってるんですけど、日本人のほとんど九割九分までは西洋医学依存症という病気になってます。だから、他の治療法なんて考えようともしない。これはもう大変な病気ですね。だから、そういう人たちの意識を変えるためには、やはり楽健法をもっと広めないといけないだろうし、アーユルヴェーダなんかもね、もっと多くの人が知ってね、勉強するという気持ちになってもらわないといけないんですけどね、基本の基を勉強しようという人が本当にいないんです。

 何か手近にテクニックだけ覚えて早く商売しようとかいう人がたくさんいるんですけど、治療や健康法について深く考えて、所謂、原理…所謂ダルマですね。ダルマってのは真理のことですけど、そういうダルマを自分で考えて、それを会得してそれでそれに従って生きていこうということですね。自然致死力で死んでいこうとかいう風に思う人が本当に少ないんですね。

 ガンの患者がガンで後三月ですって言われたら、三月だったら何もしないほうがいいんですよね。それを後三月で死にますって言われてるのに、入院して点滴して、点滴やら抗がん剤やってコバルトも当てて、ね、ついに三月で死んでいくわけですよ。あんなことしないほうがいい。もう一切やめて。だから、残り少ないといわれたり、思ったりしたら、医者などにかからない方が理法にかなっています。六十歳を過ぎて医者に行くっていうのだいたい未熟なひとです。人生を誤って生きてきていますね。

 アントン・チェーホフって言うロシアの小説家のね、どの芝居だったか忘れましたけど、3人姉妹か、カモメか、桜の園かどれか忘れましたけれども、ある六十過ぎたお年寄りが、「私は今から医者に行って診察してもらう」って言うセリフが芝居の中に出てくる。そしたら、ある若い学生が「ケッ、六十も過ぎて医者に行くなんて」って馬鹿にするんです。

 六十も過ぎたら勝手に病気が治るか、自分の人生がどう言う風に後変化していくか、わかっとるはずなんですね。それがわかってないから、相変わらず医者に行ってね、何か見てもらってどないかなると考える。だから、六十過ぎて医者に行くっていうのは年の取り方を間違えた人ですね。考え方も間違ってます。まあ、あの目が悪いとか、歯が痛いとか言うのは行ったらいいんですよ。だけど内科的な病気なんかではね、医者になんか行く必要はあまりないですね。

 まあ、それこそ、「信じて楽健法を行ぜよ」って書いたのはこれでだいたい解決していくからです。まあ、健康診断に毎年行くとかね、そういうことは必要ありません。六十過ぎたら、どっちにしたって後五十年生きられませんからね。ま、(一同笑)
(斉藤さん)必要なくなっちゃってしまったわ、私も(一同笑)

(宥厳先生)だいたいそれは、だから理法を分かってないから医者の診察受けるんですよ。ね。診てもらたって本当にわかってないのよ、向こうだって。あやしいな、とかデータだけ見て、でデータが普通の人よりちょっと多かったら、あなたは異常だということを言うんですから、だから、データに体を合わす必要なんか全くありませんからね。自分の健康状態で自分を自覚して、自分の体感で毎日生きていくということが一番大事なことです。だから、敏子さんも医者に行くことも診察を受ける必要も、検診を受ける必要も全くないです、あなたはとても元気ですから。居眠り運転さえしなければ(一同笑)。

(琴美ちゃん)でも、会社で受けさされたらねぇ。
(斉藤さん)会社に入ったら受けないといけない。
(宥厳先生)そんな会社やめなさい。(一同笑)。そういう時は休む。もう家でちょっと受けましたから、とか何とか言って。
(受講生)結果を出さないといけないから、会社は。
(宥厳先生)ああ、そうか。偽造しましょう(一同笑)。
(受講生)私はもうそういう事してますっていうね。そういう決まりで。
(宥厳先生)それはもう病人を如何にして集めるかという工夫の輪の中に入れられてるねぇ。大変な会社におりますねぇ。(一同笑)
(琴美ちゃん)みんなそうですよ。それで、全員再検査だからね。
(宥厳先生)




 楽健法は易行にして、理法深甚(りほうじんじん)の理(ことわり)なり。
 他力のヨーガなり。二人ヨーガなり。



易行と言うのは易しいということですね。わかりやすい。わかりやすくて実行しやすいという事を易行ということですね。




 心してこれを行じ衆生を済度せよ。
 日々これを行ずれば足は光を放ち、東西南北へ軽々と歩を進め、ひとの世を共生浄土(ぐしょうじょうど)、即身成佛(そくしんじょうぶつ)の光の海と転ずること必定なり。

 これを与えられる者は病癒え、平安を得るのみならず、与える者も足による布施(ふせ)の行にて、慈愛による佛の法を知り、血気を盛んにして倶(とも)に功徳(くどく)を得べしと。

 さらに佛、偈(げ)に説いて曰く。

 
楽健法を学び行ずる者病を癒し人間を癒す。無畏(むい)を施し慈愛を自覚させる。たとえ病む者といえども他者を癒やさんとして楽健法を学び行ずれば自らの病が癒されること必定(ひつじょう)他者の救済は自らの救済なり。楽健法を行ずれば光の人となる。




この中で無畏を施しっていう言葉が出てきてますが、これは施無畏と言う風にいいます。無畏の上に「施す」という字を書いてね、お布施の施。施無畏(せむい)という言葉は仏教でよく使われます。

 この施無畏は人に正しい知識をきちんと与えて、恐れをなくしてあげることですね。それが患者が来たら、あんたほっといたら、この影とか、このデータではあなたは長くない。ほっといたら長くないよ、なんていうのはこれは脅迫ですね。これはだから、医者という…医者というかお坊さんというか聖職者にある人は無畏を施すのが仕事であって、正しい事を人に教えて畏れをなくしてあげる、つまりそれは科学的な知識をちゃんと相手に持たせるということでもあるんですね。それが無畏を施すことなんです。

 だから仏教というのは正しいことを教えて畏れをなくしてあげる、衆生は知らないから恐れるわけですからね。だから、皆さんは医者の恐ろしさを知らないからね、怖くないところで命を救ってくれるように思ってるだけで、それは、とんでもない誤解です。行けば死ぬかもしれない、あっという間に。

 私の姉も医者にいかなければ生きとったと思うんですけれども、行った途端に2時間で死にましたよ。点滴やられて。水膨れになってきてね。慌てて集中治療室に連れ戻したけど、一旦点滴で入れた薬なんか抜けないじゃないですか。ね。あっという間に死にました。だから、そういうことが起こらないようにもともと医者になんかいかなければこういうことにならないんですけど。

 姉はずっと医者に行ってましたから行くことに抵抗はなかったんでしょうが、昨日は無事だったから今日も無事とは限らないです。医者は思いつきで違った事をやるかもわかりませんからね。だから、本当に怖い。本当に体が弱ったときはだから医者に行かないほうがいい。元気な時はまだ抵抗力があるから(一同笑)、大丈夫ですけどね。そういう人は医者に行って点滴受けても死ぬ人はいないと思いますけど、本当に体が弱ったら医者にいかないほうがいいです。

 まあ、自然致死力に頼って死ぬのを待つ。それが楽健法してくれる人がいたらやってくれる人を待つというのが正解です。まあ、これが無畏と言うことですね。医者はやはり無畏を施すのが仕事であるべきなんですね。脅迫するなんてもってのとか、だから、脅迫するような、ほっといたら死ぬよ、とか脅迫するような医者とは付き合わないでよろしいです。それはもうレベルの低い次元の低い医者で、医者とは言えない。医者の資格っていうのはアーユルヴェーダでもやかましく言いますけれども、やっぱり正確な事を伝えるべき役割があります。死ぬよって言うのは単なる脅迫で正確なことではないですからね。そんなん、誰がいつ死ぬかなんて本当に分かる人なんていないですよね。

 とことん治療しても悪くなっていき、追い詰められた人のいのちはあと何日もつかていうのはそれは医者はよくわかりますよ、経験をたくさん積んでますから。だけど、元気な人がいつ死ぬかなんてのは本当にわかる人なんていませんね。だから、まあそういうつもりで、無畏を私たちは楽健法を通してね、楽健法を知らない人に無畏を施す、畏れなくていいよ、と教えてあげるんですね。

 だから、皆さんは施無畏をする、そういう立場に今立とうとしている菩薩、光輝楽健菩薩ですからね。皆さん頑張って、まわりの皆さんに無畏を施してほしいですね。まあ、あとはこの踏み方を書いてるだけなんです。まあ、これくらいにしておきますね。

 楽健法経はこういうお経ですけれども、まあ、今しゃべったようなことで、額縁屋になった話なんかは本に書かなくていいと思いますけれど(一同笑)。ま、ちょっとちあきちゃんにも頑張っていただいて、過去の楽健法のやつも出来たらね、先月もだいぶ書いてくれています。前にもいくつも触れてると思うので、まとめて、それで、もうこれで本にしたらいいよというのを私に是非ください。お願いいたします。(一同笑)。これで、もう本ができたね。じゃ、今から楽健法しましょう。40分くらいの楽健法やったらいけるね!はい!もうたっぷりやって昼からまた少し話して、昼からの楽健法なしにするか?食後もまたやりたい?
(受講生)みんながやりたいって。
(宥厳先生)じゃ、早いめの楽健法やって、サッと飯食って。ね、もう一回楽健法やって終わりましょう!
(受講生)何番ですか?
(受講生)7番です。 



楽健法(6)






Lunch
●カレー(じゃがいも、玉ねぎ、とうがらし、りんご、油揚げ、なす、ピーマン、チーズ、しいたけ、しめじ、セロリの葉っぱ、こんにゃく、マンゴー、にんじん、ニラ、トマト、にんにく、しょうが、ナンキン、ふき)●加賀の山芋●ぜんざい●高野豆腐●ゴボウ●漬物(日の菜、カブラ、ハクサイ)添え






楽健法(7)







終わりの会「礼儀」



12/11 15:32
(宥厳先生)メールアドレス、みんな渡りましたか?みんな中へ入って。
(琴美ちゃん)そこじゃなくて!
(宥厳先生)重ならない!これで、みんな揃ったんか?ニッシーがおらんのちゃうんか?
(ニッシー)いる~~~!!(一同大爆笑)



(宥厳先生)この間からね、京都のね臨済宗の、あ!そこ重ならないで、ほら!ニッシーのところ重なってるよ、そこ、ほら。ニッシーが悪いんじゃなく、土井ちゃんが悪い!とかくニッシーは濡れ衣を着せられる。あの、臨済宗の尼さんがイオンハウスの講習会にお越しになってね、それで私に挨拶するときにね、非常にこう礼儀正しくここまで頭を畳に付けるんですよ、それで私にそんなことした人ここに一人もおらん(一同大爆笑)。いっぺんやってみましょう、はい。頭つけて、はい。



(琴美ちゃん)そんな膝の近くに頭つかいないよ。(一同大爆笑)
(宥厳先生)だけど、衣を着て端然として真面目な顔でね、こう畳に頭つけてお辞儀されるとね、何か思わずドギマキしますね。
(琴美ちゃん)何か絵ずらがちがいますよね。
(宥厳先生)あんまり行儀のいい方じゃないですけどね。まあ、あの礼儀っていうのは折り目正しいっていうことですね。やっぱりひとつの生活の何か一番基礎をなしてる部分ですね。挨拶をきちんとするっていうのはね。
(幸子先生)まず来たらはじめに挨拶をする、と。あまりした人聞いたことないですけど(一同笑)



(宥厳先生)この二日間は少し、催し物をやったりしてまあ忙しい思いもしたけれども、楽しめたかとも思うのですが、是非ね、ちあきちゃんの方にメールで感想送ってください。手書きでも構いませんから。ちょっとハガキでも…。いつもハガキを下さる丁寧な人もいらっしゃいますけれども。
(琴美ちゃん)土井さんは私にFAXしてください。私が打ってちあきにメールしますからFAXの人は私にFAXしてください。ちあきに私が打ってメールします。
(ちあき)ありがとうございます。
(琴美ちゃん)これ以上ちあきの仕事を増やさない。
(宥厳先生)FAX送る人?
(土井さん)はーい!
(宥厳先生)あんただけ?(笑)じゃあ、あの是非感想書いてね、せっかく催し物をやってもね、何の感想も持たない連中かと思うのもね、寂しいですから。まあ、それなりの何かいろんな感想を受けられたと思うんですね。今朝もああやって堀江真美さんに般若心経ピアノでやってって言ったら、はいって言ってやったでしょう?ああいう姿勢は見習わなあかん人がおるんですね。
(琴美ちゃん)やれっていったのにね!
(宥厳先生)ねぇ!何度も言ってるんですけど。
(西澤さん)あれっあれっ?



(宥厳先生)何かね、やはりプロというものはそういうね、うじうじする壁がないんですよ。私でもそれは頼まれたらパッとやりますよ、何でも。できることはね、即やります。そういう風に積極的になっていかないといろんなところで、うじうじうじうじする癖がついちゃう。パッと実行する。そうやって手軽に取り組んでみることですね。何もそれは軽率なことでも何でもなくて、僕はそういうのが人間がこう一つ成長していった証だと思うんですね。だから、変なところでグズグズ後ろに下がらない。でも、あの大抵物事がうまくいかない人って言うのはどっかで手前の方でやる以前にね、グズグズグズグズ、何かやろうとしないで、別に抵抗しているわけでもなくて、それで嫌いなふりをしたりね、拒絶したりするふりするんですけどできることはさっと手軽に取り組むような姿勢で、これは僕は楽健法やっていくうえでも大事な心がけじゃないかなと思います。だけど、まあ、押しかけて言ってまでお節介はしませんけれども、頼まれたりしたらさっとやってあげると。

なかには厚かましい人もおってね、何かぼくとどっか会合に出て行ったりすると、その場でちょっとじゃあ踏んでみてくださいなんて言う人が、そんなのは応じる必要ないです。プロというのはそんなに軽率にやらない。そういうところではね。そういう何かけじめって言うのは勿論ありますけれども、まあ、あの必要な場面ではパッとやってあげたらいいですね。何かどんなもんかただで試してもらおうってね、大先生捕まえてちょっとやってみてくれ、なんて言う失礼な人がおるんですよ。そういう人には必ず僕は断りますけどね。そんなことはしませんけれども。まあ、皆さんもそういうあたりは普通の対等に付き合える相手には普通に接して気軽にあんまりグズグズ、恩にも着せないで、やってほしいと思います。また、来月、え~っともう次は正月やね。じゃあ、また正月明けてからお目にかかります。それで、年末いつも何人かの方がここへ30日餅ついたりして、源ちゃんも来て餅つき手伝ってくれたり、まあ、時間と暇があって行くところがなくて(一同大爆笑)、誰にも相手にされない人はここに泊まっていただいて結構ですので、まあお越しになっていただいたら、家内も喜ぶかと思います。
(幸子先生)いや~~~
(宥厳先生)怒ったフリしてますけど、本当は喜んでます。
(幸子先生)感情は表します。(一同笑)
(宥厳先生)じゃあ、これで終わります。ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
(宥厳先生)あれ、誰が額をくっつけるか見とった人おったんちゃう?(一同笑)
(幸子先生)ちあきちゃん、横向いとったんちゃうん。
(ちあき)いえいえいえ。
(宥厳先生)じゃ、どうもありがとうございました。



おまけ

羝羊(ていよう)




愚童(ぐどう)




嬰童(ようどう)




唯蘊(ゆいうん)




大乗(だいじょう)






抜業(ばつごう)




覚心(かくしん)




極無(ごくむ)




秘密(ひみつ)



一道(いちどう)



第8回11月12日(1日目)その1

2011年12月07日 | 第11期楽健法セラピスト講座

「ユリノキの種」



13:00本堂にて「新しい床板披露」

11/12 (土) 
13:10 本堂にて「新しい床板披露」

(宥厳先生)私が東光寺へ来てから21年が経過しました。本堂の畳は入山したときに新調しましたが20年以上も経ちずいぶん痛みましたので、今回、床板の張り替えと一緒に畳も入れ替えました。本堂の床はインド舞踊で足踏みを激しくやると、いまにも抜け落ちそうでひやひやしていたんですが、このような樫材の床に張り替えましたので安心です。ごらんのようにすっきりとなった本堂で、12月10日に堀江真美さんに来て頂きジャズライブを開く予定になっています。畳が減って床面積を増やしたのは、ここにピアノを置こうという計画です。ピアノは現在修理に出しています。本堂の限られた狭い空間ですが、それなりの楽しみ方とか活用の仕方とかがまあ出来るかと思ってこう言う風に改装してみました。   





それでここに何かなくなったものがあるのに気がつきますか?

(幸子先生)なくなったって言うたらあかんわ。
(皆)常夜灯!
(宥厳先生)ああそうそう、あの大きい灯籠ですね、大きくて舞台設営するときにいつも手こずっていました。邪魔になると思って祈願して、拝んでたらあんなにちっちゃくなっちゃったんです(一同笑い)。うまいこと、目開けたらあんなになっとったんです。それでスペースがここにちょっと増えたんですね。ま、そんなようなことであります。で、ここ、この床板はね、元はウイスキーの樽だった木です。樫の木ですね。
ウィスキーの樽は1回仕込むと廃棄らしいですね。次に仕込む時はさら(新)の樽にまた仕込むので樽は1回しか使用しないんですね。終わったやつを解体してこうやって集成材にしてフローリングができています。頑丈な樫の木です[ドン、ドンと踏む]。根太がしっかり入ってますので、これで少々暴れても大丈夫です。じゃあ、いまから般若心経をあげてから下に降りて勉強しましょう。

【般若心経1巻】

(宥厳先生)どうもありがとうございました。お経の後で真言を唱えましたが、東光寺では大日如来の真言、お不動さんの真言、その後に右側の仏さんの阿弥陀如来の真言をあげ、それからここの「オンベイシラマンダヤソワカ」という毘沙門天の真言をあげて、それから「オンソラソバテイエイソワカ」は弁財天ですね。この弁財天は学問の神様、智恵の神様でもあるし、芸能の神様でもある。その真言を唱えてから「エンノウバソクアランキャソワカ」ってのは、役の行者ですね。役の行者の真言を唱えてるわけです。その次、「オンカカカビサンマエイソワカ」って言うのは楽健寺の御本尊がお地蔵さんなので、ここからいつも東大阪の楽健寺のお地蔵さんを拝んでいます。次に光明真言をお唱えし、それからお大師さんのご法号、南無大師遍昭金剛と言う風にお唱えしてるわけです。

楽健寺の御本尊、地蔵菩薩は、私が38歳で頭を丸めた時にある詩人からいただいたものです。三年前に亡くなられたんですけど、詩人の末繁博一さんっていう方がくださったものです。楽健寺のご本尊の由来を何カ月か前のブログに、ちあきちゃんがアップしてくれたんですが、それを読まれて、末繁博一さんの甥の冨田尚志という方が昨日訪ねて来られたんです。その方は版画家で、棟方志功の版画に触発されて版画家になられたそうで、触発された版画そのものが東光寺の床の間に掛けられていたので、不思議な奇縁にますます驚かれました。
(宥厳先生)棟方志功の十大弟子の版画を持ってる人って言うのは滅多にいないそうです。ついでだから全部お見せしますよって、棟方志功の版画を座敷に並べて見せてあげたんですけど、非常にビックリ仰天していられましたね。棟方志功って言う人はあんまりたくさん版画を刷らなかったみたいですね。私のところで持ってるのは昭和14年に頒布された棟方志功の版画です。

 どういうルートで売られたのか知りませんけど、私はまあひょんなことから10年以上前ですけどオークションと言うのが始まったころに、たまたま見つけて売りに出してる人にメールを送ってみたら、父親からこれはとても貴重な版画だから大事にするようにと相続したものだそうですが、留学先でお金が必要だからオークションに出していたんです。全部そろってるということだったので、お寺に所蔵されるなら嬉しいですということで、まとめて入手できたんです。昭和14年に発売された当時の紙箱に頒布の書類もついていて間違いなく本物の棟方志功なんです。ま、そんなようなことから寺宝ができたわけです。額装はこちらでしました。

そんなことで、ここへ来て21年経ちますけれども、まあ少しずつお寺の建物はいたんでいくにはちがいないですけど、出来る範囲で綺麗にしていこうと思って手入れしています、今こうやって床板を張り直すこともできました。

 来年また、マドゥ・プリヤさんが、喜んで踊ってくれるだろうと思います。来月はピアノ開きの意味で堀江真美さんがジャズライブに来てくれます。ま、あの~こう言う遊び…遊びと言えば遊びですけれども、何かこういう企画を立てて実際に実行できるって言うような環境が持てたと言うことはとても有難いことだと思います。それは皆さんにとってもそれなりの楽しみ方が出来て、喜んで頂けるかなあと思って企画しました。で、ゆっこせんせいが、ライブの時にはカンツォーネか、じゃなくてシャンソンかなんか歌ってくれるというような話もありますので、真偽のほどは分りませんけれども(笑)。楽しみにしとって頂きたいと思います。じゃあまあ下へ行きましょう。





◎不動明王様


◎ちっちゃくなった灯篭

◎般若心経




◎宥厳先生が彫られた仏様



◎護摩壇説明

◎仏様


◎弁財天様


◎仏様


◎群がる人々




◎役行者


◎大日如来様





◎でっかいスズメバチ!!



◎かわいい花


13:40「「医心方」」

(宥厳先生)おはようございます。何度も、おはようございます。あのね、ここに今、持ってお見せしてる本は「医心方」(いしんほう)っていう本なんです。

※ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%BB%E5%BF%83%E6%96%B9


筑摩書房が出してる本です。全部で37巻くらい出るんじゃないかな。えーっとね、1冊3万円以上もするんですね。丹波康頼って言う人が平安時代に書いた本なんですね。これは当時の日本に入っていた色んな医学書、傷寒論だとか、皇帝内経とか、仏教のお経にもたくさん東洋医学の教えがあるんですが、いわゆる仏教医学ですね、お経に書かれているのはアーユルヴェーダといってもいいんですが、当時のいろんな文献から百科事典的に項目別にこの丹波康頼って人がまとめ上げて医心方という体系を書いてるわけですね。非常に信頼のおける本なんです。で、これは粟島行春さんって言う先生が大阪で長年漢方の勉強会やっていたんですが、私も20年前に1年間受講したんですけれども、その先生もこの本の中の「食養編」食事療法の部分を翻訳して出したりしています。この本は国宝にも指定されたのがあって、それを全巻を一人で一生かけて翻訳、現代語に訳してる作家がいましてね。女の方が。それが、槇佐知子さんって言う人です。「医心方」に、もう30年以上これに取り組んでる人ですね。だいぶお年だと思うんですけど、僕は電話で何回か話をしたことがあります。この本の購読を継続してくださいということでかけてこられたんです。

それはこの本は筑摩書房から出版されてるんですが、初めはねある程度の冊数が売れても巻数が多いですから、段々本が売れなくなるし、部数が少ないと本屋さんも採算が合わなくなるので、刊行をやめるとかって、この翻訳してる人のところに言ってくるもんですから、槇佐知子さんは生涯の仕事として取り組んできたので、全部出したいと言う気持ちがあって、そのためには定期購読してくれる人がある程度確保できないとね、本が出せないわけですね。そうでないと段々単価が高くなってくるんですよ。最初出てた頃より。それで、この槇佐知子さんって言う人のお友達で楽健法の古い仲間で、岡部米子さんって言う方が埼玉県にいらっしゃってね。その人の紹介で、「宥厳さん、この人の本買ってあげてくれませんか」と僕にふって来たもんだから、全巻を買うことにしたんです。それで、ときどき送って来るんです。これは昨日届いたばっかりなんですよ。で、どんなこと書いてあるかと思ったらね、まあ面白いのは、こんなことしたら治るよっていうのはもちろん面白いんですけどね、治るかどうかはやっていないと分らない。で、こう言う人は必ず死ぬよって言うことも書いてある。これを読んでたらめっぽう面白くて、ここにも当てはまるような人がおるかもしれない。

(琴美ちゃん)何とかは四日で死ぬ、とかね。(一同笑い)
(宥厳先生)それで、ちょっと面白そうな、ちょっと拾い読みしてみますね。

第二章 諸病における不治の証候(医心方pp.76-96)
「(1)およそ人は、健康でも病気をしていても、つねに上瞼をひっくり返し、その中をよく見て、赤い血管が上から下へ、瞳を貫こうとしている場合、その血管が一すじならば一年で死に、二すじならば二年で死ぬ。もしまだ血管下りていなければ治療すべきである。」

ちょっと瞼めくってみる?(一同笑い)

縦に血管がしゅっと貫いていたらね、だいたい命が危ない。こんなようなこととか書いてます。それからね、(一同爆笑)

顔面に…、はいちょいっと聞いて!「顔面に知らないうちに赤い色が現れ、頬骨の上に指くらいの大きさのものがある場合は急死する。」(一同爆笑)。鼻の上に達した場合もまた急死する。

急死するって梓わかるね?
(梓ちゃん)急に…死んじゃう!?
(宥厳先生)あ、そうそう。正解(笑)

「赤い色か黒い色か知らない間に額の上に出現することがある。そこから下って鼻の頭に達するものも急死する。」

こっからキューっと黒いものが下りてくるんだね。鼻の頭まで。こんなことも書いてある。

で、「知らないうちに黒い色が鼻の上に横たわり、あるいはそれが眉の下まで達した場合には、一か月以内に急死する。」

みんな顔をお互いに(笑)。まだ、死にそうなん、おらん!とか言うて(笑)。こんなこと書いてあるんですね。

「顔面に知らないうちに青い色が出現し、箒で掃いたようになった者は、百日以内に死ぬ。」

「鼻の上から眉や額にかけて、知らないうちに馬の肝のような色になり、遠目には青っぽく、近づくと黒っぽく見える者は、百日以内に死ぬ。」(一同笑い)

(琴美ちゃん)百日以内だって(笑)。
(宥厳先生)こんなこと書いてます。

「顔がいつの間にか潤いや艶を失い、新しい病気になるような者は、やがて死ぬ。」(一同爆笑)。わかりやすいでしょ。

「顔面がいつのまにか虚肥し、(まあ何か力なくなってくるんでしょ。)真白くて血の気がない者は、やがて死ぬ。」

この「虚肥し」って言うのは虚ろに肥えるって書きます。顔ですよ。真っ白けで血の気がないものは遠からず死ぬ。顔面が虚肥しって今の総理大臣の顔だね。あれ、虚肥するんですね。あれで白ければ間もなく死にますね、あれ。今ちょっと赤いからまだちょっと持つ(一同笑い)。それから…まあ、こんなことこんなこといっぱい書いてありますね。それから、

「顔面がいつの間にか青ざめ、黒いはずの瞳孔がもし赤くなっているものは死ぬ。」
「顔面がいつの間にか白くなり、目が黒い者も死ぬ。」

あれ?俺もちゃうかな、これ(笑)

「顔面が黒ずんで目が白い者は死ぬ。」

とかね、こんなこといっぱい書いてます。

「顔面がいつの間にか赤くなり、眼が白く、もしくは目が青い者は、たちまち死ぬ。」(笑)

「目が突然見ようとするが、焦点がない者は死ぬ。」(笑)

(受講生)老眼だ!
(宥厳先生)目がこう虚ろになっちゃうんでしょうね。で、

「患者の身体に異臭がある場合は死ぬ。」(一同爆笑)

あんまり、変なにおいしだしたら危ないね。人間はからの内側から徐々に死んで行くんですね。昔から棺桶に足を半分以上突っ込んでるって言ったりするのはそういう状態ですね。本当はもう体が半ば死んでるのに、まあ生きてるように見えるんですね。だから、あのホントは内側がかなり死んでるやつが、歩いてホルモン食ってるなんてのがおりますからね。間もなく死ぬんです、そういう人は。

「患者がいつしか泣き悲しむようになった場合は死ぬ。」

って書いてます(笑)。あまり病気だと思って泣き泣き悲しまないようにしたほうがいいかもしれない。こんなこといっぱい書いてあるんですね。面白いですね、この本。

「患者がいつしか汚れを除去するように大汗を流すようになった場合は死ぬ。」

あんまり汗かきもねぇ。汗で体を洗うかと思うほど汗をかいてたら危ないですよ。

「患者が口を開けて息を吐くだけで、吸いこむことができないのは、肺気が絶えたのである。三日で死ぬ。」(爆)

それから、ここにもおるかもしれないけど、「患者の背が痛んで、腰の中が重く、寝返りができないのは、胃気が絶えたのである。五日で死ぬ。」(一同爆)

まあ、こんなことが書いてありますので。見た人はね(笑)。まあ、これくらいにしておきましょうかね。あ、まだこんなんがある。「患者が目をくるくる回し、見ようとするだけで、肩で息をする場合は治せない。」(一同爆)

けどね、今僕が読んだ状態の人間でもね、楽健法をやるとだいたい助かるんです。そのことを言うためにいっぱい読んだんです(笑)。で、楽健法をやらないから皆こうなる。楽健法をやってると内側からきれいになってくるわけです。

「患者が口を魚の口のようにあけ、閉じられなくて息がたくさん出るのに、吸いこめない場合は治せない。」当たり前やね、こんなこと。こんなこといっぱい書いてますね。だけど、ここらに書かれている死にそうなデータもね、何かこう今まで体弱った人踏んであげたら、本当に精気が蘇ってきてね、目の力が出てきて、元気になったのたくさん経験してますからね。だから、是非楽健法をやってあげることが大事ですね。楽健法もできなくなったような弱ったやつは必ず死ぬ、とか(一同爆)、という風になるかもしれませんね。

「体よりも財産を大切にするのは二つ目の不治である。」

これ、わかりますね。何かお金はあるんだけど楽健法を行ったら金払わなあかんからやめとこうとか、けちんぼの親父が川に流されて溺れかかってるのに「親父~なんぼか出したら助けたる言うてるぞ。高い!値切れ!(一同大爆笑)。これは助からないでしょ?だから、あの~。

(受講生)溺れかけてそんな冷静な人いるのかな。

(宥厳先生)落語にあるんですよ、こんな話がね。けちん坊比べみたいな話ね。もう、流れて行ってるから、助けてやろうかって、ケチなんわかってるからなんぼ出したら助けたるって、高い!値切れって言ってる内に流れて行った(一同大爆笑)。

ま、「衣食が適切でないのは三つ目の不治である」ってこんなことも書いてありますね。衣食足りて礼節を知るって言うけれども、まあ、衣食も食べ過ぎたら死の原因になっていきますからね、何事もコントロールできないといけないということでしょうね。人間は、ガンジーさんの、ここに「ガンジーの健康論」どっかに置いてありますけど。「健康とはコントロールでこる精神のことだ」というようなことね、書いてますけど。本当にそうですね。まあ、こうコントロールするのに、非常にこうプラクティスな、有効な手段として、私は楽健法をもっと多くの人にやってもらいたいと思いますね。鍼灸とか指圧だとか、オイルマッサージとかいろいろありますけどね。本当に起死回生のような、体がいっぺんに変わるというような方法というのは多分ね、楽健法で足の付け根のところをね、ほぐしてあげて循環が一気に回復するということ以外にはないだろうと思います。そう言う意味で僕はもっと楽健法というものを専門家が見直して来る時期が必ず来るんじゃないかなという風に思っています。

で、今、東京の増野さんなんかが、何とか言う東北の…

(受講生)「みっこクラブ」?
(宥厳先生)「みっこクラブ」だけど、行ってる場所。
(受講生)あの、宮城。
(宥厳先生)宮城!宮城のどっか行ってるんですね。それで、仙台の井上さんも5時間ほど自動車に乗ってそこへ楽権法指導に行かれてます。で、最初は踏みに行ってあげるつもりでボランティアに行ったんだけど。
(琴美ちゃん)田老だ!
(宥厳先生)あ、田老町。田んぼの田に老いるって書くのかな。ね。田老町っていうとこに行ってるんですね。そこに、なんか医者なんかもいて、医者が一人しかいなくて、ひとりの医者が2,500人もの患者さんを抱えて、一人で頑張ってるっていうような先生にも楽健法やってあげたりしたら、とても喜ばれてるという話とか、それから、消防団の人たちが団体で教えてほしいって言って勉強に何度目かに来られてるようですね。それで、時間がどうしても限られるので、それでそこでこの間井上さんからちょっと相談受けたときに、1か所を30回踏んだら次のポーズっていうね、だから、足をこうずらしていかなくていいから、付け根だけ30回連続して踏んだら、はい。次後ろ。それで、ひねってって言うような、それぞれ30回ずつやってそれで全身やったら30分もあればね、十分、ゆっくり踏んでも出来ますから、そういう方法でとりあえず教えるようにっていうことで、今、それをやってくれてるようですね。大変喜ばれて、反響も大きくて段々来る人が増えているって言うふうにうかがってます。ですから、まあそういう意味でね、本当にああいう大変な災害に遭って疲労困憊したような人がね、やはりすごい方法があるなっていうことに気付かれたらね、楽健法はもっと広がっていくんじゃないかな。

◎資料配布


◎資料


◎「医心法」紹介


◎あ~ちゃん、何わらってるの?


◎「医心法」を読む宥厳先生




◎「医心法」資料









第8回11月12日(1日目)その2

2011年12月07日 | 第11期楽健法セラピスト講座
「楽健法経」

今日は本堂を見てもらったりしましたので、この楽健法経を読まれましたか?読んだことある人、この中で。あなた読んでない?読んでない人もいるわね。まあ、これを私がサーっと終わりまで一気に読みますので、見ていってください。それで、それが読み終わったら楽健法やります。わからないところは、また次の時間にやりますね。間を見て質問なり、しながら受けながらやるようにします。





二人ヨーガ 楽健法経
大楽金剛不空真実佛足楽健法経(たいらきんこうふこうしんじつぶっそくらっけんほうきょう)

 是(かく)の如(ごと)く我聞(われき)けり。或(あ)る時佛、喩師婆伽所(ゆしばかしょ)にて、楽健法を説きたまえり。春うららなる季節、圍繞(いにょう)する諸菩薩の中央に、乾闥婆(けんだつば)を寝かせて、佛、法を説きつつ、さらに実技を交えて、楽健法の指導をなしたまえり。
 まず佛、座より立ちて自らの御佛足(おみあし)を具示(ぐし)して曰(のたまわ)く、乾闥婆ならびに菩薩等よ、わが足裏、汝(な)が足裏(そくり)を如何(いかん)んと考えるや。
 足裏(そくり)に触れるものは大地のみなるや否や。
 われらが足は大地を歩むにのみ用うると汝ら考えるならば、道を辿りて道を知らざるなり。

 それ道は、ただに地と地を結ぶもののみに非ず、人々の心と心を結び、生きとし生くるものの法をも結ぶものなり。
 道を歩まんには、健やかなる五体、ことに足の強健(きょうけん)ならざれば遠く歩むこと難し。
 また足が如何(いか)ほど強健、五体満足といえども地を伝い、草踏みわけて遠き地に衆生済度(しゅじょうさいど)に赴(おもむ)くには、健やかなる思い、慈愛の心、済度(さいど)せんとする衆生(しゅじょう)からも、常に学ばんとする求道(ぐどう)の心があって、はじめて強健なる足とはなるなり。

 足に光あり。

 汝が足は汝の楽健法を学ばんとする求道心(ぐどうしん)と、衆生済度の慈悲の心が一つとなるとき、光を放ちて、闇を光に変えるものとならん。

 楽健法を行ずる者は、光輝楽健菩薩(こうきらっけんぼさつ)と呼ばるるなり。

 東西南北、赴く地に至れば、汝が足の光を求めて蝟集(いしゅう)する人々数多(あまた)あるなり。
 富める者あり、数多の貧しき者あり。貧富を問わず強健なる者もあり病弱なる者もある。

 正にいま、死に至らんとして、なお光輝楽健菩薩にすがりつく者もあらん。
 此れを見、彼(か)を見るに至って、菩薩等如何(いか)にしてこれらの人々に光を与うるや。
 あに路傍(ろぼう)に座をしつらえて、法を説くのみにて、心の病める者、身体の病める者を救い得(う)るや否や。
 言葉の伝える法のみにて、病める人を救うは、至難の技とやいわん。
 菩薩等よくわが教えるところを心眼(しんがん)をもって追体験し体解(たいげ)し、もって衆生を済度すべし。

 
 かく語りて佛、乾闥婆を呼び寄せ、敷楽健曼荼羅(しきらっけんまんだら)に寝かせたまえり。

 乾闥婆、佛の意に従いて北枕にして、身体の左側を下にして左足を伸べ、右足を曲げて横たわり佛に合掌せり。
 この時、天香(てんこう)芳(かんば)しく妙音(みょうおん)とともにたなびけり。
 佛、微笑みてうなずき乾闥婆の足許(あしもと)に立ちたまいて曰く、いまから楽健法を伝授するなり。

 古来よりわが国にヨーガあり。ヨーガは自力自助の手段にして、いまだ発心(ほっしん)せざる衆生には病患(びょうかん)を癒すには、はなはだ遠き手段なり。
 また、手当療法あり、食養、断食あり、アーユルヴェーダあり。
 いずれも効多しといえども労も多くして、病の根源の因を断つには容易に至らざるなり。

 宿痾(しゅくあ)を抱えて、如何なる前生の因縁によりてかくは苦しまん、と嘆くもの多し。
 されど病気の由縁(ゆえん)は、精神生活の理法わきまえず、自我に気付かず、自省せず、食生活の無知なるに由(よ)ることほとんどなり。
 人間の存在の法を知り、生理の根源にさかのぼりて、身体の浄化をなし、流れを整え、三毒によってもたらされたる諸病を癒し、積年の疲労をとるに、楽健法こそは最良の、楽々健々(らくらくけんけん)の法なるべしと。
 
 また佛曰く、楽健法はいかなる部位も左より行うべし。
 左より右に転ずべしと。
 
 佛、乾闥婆の大腿部(だいたいぶ)の付け根に、並はずれて大きく、衆人尊崇(しゅうじんそんすう)の左の御佛足を乗せて踏みたまえり。この時御佛足、光を放ちて、並みいる菩薩の眼(め)に慈光を降りそそぎ、菩薩等の心眼開け、乾闥婆の大腿部が、にわかに柔らかくなるを目撃したりき。
 乾闥婆、たちまちにして長年月(ちょうねんげつ)の坐禅によって生じていた腰痛が癒え、如来の御佛足より流れ入(い)る聖なる力が、全身を駆けめぐるを覚(さと)って、涕涙(なんだ)下るを止(とど)め得ず。
 佛曰く、我がいま踏みし大腿部の付け根の部位をば、羝羊(ていよう)と名付く。
 身体の芯より足心に至る導管(どうかん)の筋なるべし。
 ここを左右ともにゆるめて血流、体液さかんに流動しはじめ、迷いより醒めて、向上心の湧きいずるところなりと。
 
 次に佛、乾闥婆の足はそのままにして、上半身のみ上向きにさせたまいて、左足の羝羊よりさらに内側の筋を踏みたまえり。乾闥婆、痛きこと火を近づけたるがごとし、と覚ゆれど不思議に心地よく、神気身内(しんきしんない)に呼び戻されたるがごとし。
 佛曰く、この部位を愚童(ぐどう)と名付く。
 これをゆるめれば、肝、腎の働きを盛んにして、婦人の生理を整え、心安けくなり、健やかな子宝を得るにいたり、自己の存在の意味に気付くなり。

 
 次に佛、乾闥婆を上向きに寝かせ、鼠蹊部(そけいぶ)より膝までを、上から下へと踏みたまえり。
 佛曰く、この部位を嬰童(ようどう)と名付く。
 嬰童を踏みて、生まれきたりしみどり児が、初めてこの世を見るが如く、胃腸の働き活然とし、視力も回復し素直な心が発動すと。
 乾闥婆、老眼なりしが御佛足が離れるやいなや、如来の御尊顔、常にも増して輝き、明らかに見ゆるを自覚して、いまここにわが不浄の身を横たえ、如来の御佛足を頂ける佛縁の不思議、有り難さを噛みしめたり。

 
 次に佛、乾闥婆の左の胸から腕の付け根を踏み、さらに指先まで御佛足にて踏み下りぬ。
 佛曰く、この部位を唯蘊(ゆいうん)と名付く。
 唯蘊をゆるめて見えていたもの、考えていたことが行為と結ぶなり。
 心臓の病も、呼吸の病もかるく癒されるなりと。

 
 次に佛、乾闥婆をうつぶせに寝かせたまいぬ。
 右の御佛足を、左の臀部(でんぶ)より膝裏(しつり)のそばまで踏み下りぬ。
 佛曰く、臀部は大乗(だいじょう)と名付くなり。
 大腿部から膝裏は抜業(ばつごう)と呼ぶべし。
 いずれの部位にも筋肉の付け根に潜脹(せんちょう)あり。
 潜脹とは硬く結ばれたる筋肉のふくらみにして、潜脹の硬結(こうけつ)、肥大するにつれて、筋肉は縮み、血流を妨げ、体液の流れも減少し、冷えを呼び、病を生ずる因となるべし。
 病を癒すは管(くだ)を通すことに如かず。
 易行(いぎょう)なり。
 ことに臀部の潜脹は冷えを呼びこむなり。
 潜脹をゆるめて、難治(なんじ)の宿痾も断ち切るに至るなり。
 心して踏むべしと。

 
 次に佛、乾闥婆の両足裏に御佛足にて乗りたまいて曰く、この部位をば覚心(かくしん)と名付くなり。
 足裏は反対側の頭脳と知るべし。
 足は実践を常に行ずる脳髄なり。
 愛しむべし。
 覚心は部分にして全体、全体にして部分なり。よく思案せよ。
 覚心を貴(とうと)び踏んで気をめぐらし、正精進(しょうしょうじん)に励むべしと。

 
 次に佛、乾闥婆の腕の付け根に御佛足を踏み与えたまえり。
 乾闥婆、痩せた背高き男なれば敷物に腕が密着せざるなり。
 佛曰く、この部位を極無(ごくむ)と名付くなり。
 腕の敷物に着かざるは、胃の下垂あり。
 いまだ身体硬く、なお修行の余地大(おおい)なる証なり。
 心して楽健法を行じ、心身一如(しんしんいちにょ)の境地を体解すべし。と申されて、極無を御佛足にて軽く踏み,光明真言の呪を唱えたまえれば、乾闥婆の腕たちまちゆるみ伸びて敷物と密着す。

 
 菩薩等、開示悟入(かいじごにゅう)しつつ眺めるなか、次に佛、乾闥婆の頭上に廻り立ち、左肩の付け根に左足を与えたまい、御佛足の踵(かかと)が敷物に触れんばかりに踏み下げぬ。
 佛曰く、この部位を秘密(ひみつ)と名付くなり。
 諸々の病の予兆の現ずるところなり。
 肩凝りは未病の便り、便秘も未病の便りなり。あなどらず秘密を解くべしと。

 
 次に佛、乾闥婆の背に跨(またが)りて、両手を合掌の形になし、背骨の左右の筋を上より下へと押し下りぬ。
 佛曰く、ここを一道(いちどう)と名付くべし。
 ひとは背骨と筋肉とのつりあいを失って諸病を得(う)るなり。
 全ての部位の調整は、一道(いちどう)の調和をはからんが為なり。
 一道を触掌(しょくしょう)して愛を感じ、天地に生かされてある感謝の念が湧きおこるなりと。

 
 佛、立ちて座にもどり、菩薩等にその慈顔(じがん)をほころばせり。
 菩薩等一同、追体験によりて、如来の楽健法をわが身に施されたる如く、乾闥婆とともに、浄福(じょうふく)に包まれたり。
 佛曰く、病気にて夭折(ようせつ)するは治療の理法を得ざるが故なり。
 治らざる病はあらずと心得うべし。
 依(よ)るところの手段なによりも肝要なり。
 まず、否定的な心を棄(す)て、可能性を信ずべし。

 信じて楽健法を行ぜよ。

 楽健法は易行にして、理法深甚(りほうじんじん)の理(ことわり)なり。
 他力のヨーガなり。二人ヨーガなり。
 心してこれを行じ衆生を済度せよ。
 日々これを行ずれば足は光を放ち、東西南北へ軽々と歩を進め、ひとの世を共生浄土(ぐしょうじょうど)、即身成佛(そくしんじょうぶつ)の光の海と転ずること必定なり。

 これを与えられる者は病癒え、平安を得るのみならず、与える者も足による布施(ふせ)の行にて、慈愛による佛の法を知り、血気を盛んにして倶(とも)に功徳(くどく)を得べしと。

 さらに佛、偈(げ)に説いて曰く。

 
楽健法を学び行ずる者病を癒し人間を癒す。無畏(むい)を施し慈愛を自覚させる。たとえ病む者といえども他者を癒やさんとして楽健法を学び行ずれば自らの病が癒されること必定(ひつじょう)他者の救済は自らの救済なり。楽健法を行ずれば光の人となる。

【 羝  羊・ていよう】
受者(じゅしゃ)は北枕に横たわれ
枕をして身体の左側を下にし
左足を伸ばせ右足を曲げよ
与者(よしゃ)は足許に歩幅広く立ち
左足で羝羊の付け根を踏み下がれ
一息一踏(ひといきひとふ)みゆっくりと踏み放せ
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 【愚  童・ぐどう】
受者は足はそのままにし
上半身を上向きにせよ
与者は右足を受者の右踵そば
左足にて愚童を踏み下がれ
大腿部の付け根をよく踏むべし
次に右に転じて繰り返せ
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【嬰  童・ようどう】
受者を上向きに寝かせよ
与者は右足にて受者の嬰童を
鼠蹊部から膝まで踏み下がれ
鼠蹊部をゆっくり深く踏め
一踏み一音(いちおん)光明真言唱(との)うべし
次に右に転じて繰り返せ
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【唯  蘊・ゆいうん】
受者は上向きにて
両手をコの字に曲げよ
与者は右足は受者の手首そば
左足で胸から腕の付け根
手先まで唯蘊をゆっくりと踏め
次に右に転じて繰り返せ
--------------------------------------------------------------------------------
【大  乗・だいじょう】
受者はうつぶせ
与者は受者の両足間(りょうそっかん)に立ち
右足にて受者の左の尻から足まで
抜業から大乗へと踏み下がれ
硬い部位は繰返し丁寧に踏め
次に右に転じて繰り返せ
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【抜  業 から 大  乗】
与者は受者の左外側に立ち
左足にて抜業から大乗へと
尻から足へと踏み下がれ
腰痛には大乗にことに念を入れ
固き部位を丹念にほぐすべし
次に右に転じて繰り返せ
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【覚  心・かくしん】
受者はうつぶせ
与者は足の裏覚心を踏め
多忙にて暇なしといえども
足裏は全身調和の秘点なり
怠らず日毎励むべし
後ろ向き踵にて上下しつつ踏め
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【極  無・ごくむ】
受者はうつぶせ
両腕をコの字に曲げよ
与者は受者の左手首そば
右足にて極無をゆるく踏め
肩から腕を手先まで踏み下がれ
次に右に転じて繰り返せ
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【極  無・ごくむ】
受者はそのままの姿勢にて
顔を右に向けよ
与者は受者の頭部(とうぶ)左肩(ひだりかた)上に立ち
左足にて受者の左肩極無を踏め
呼吸を合わせ吐きつつ踏め
次に右に転じて繰り返せ
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【一  道・いちどう】
受者はうつぶせに寝よ
与者は受者の上半身に跨(またが)り
膝をつき両手を合掌の形にして
背骨の両側を体重をかけて
一道をゆっくり押し下がれ
受者と与者と呼吸を合わすべし
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与者も受者もともに
感謝の念と慈愛の心にて楽健法を終えるべし
合掌し光明真言を唱え光を受け放つべし

 佛、法を説き終わりて菩薩等に右掌(みぎて)を向けたれば、菩薩等全身たちまち光明に包まれて 悟道(ごどう)を得、御佛足を頂礼し、楽健法を世界に布教すべく、菩薩おのおのの因縁の地へと歩みはじめたり。

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    ==== 跋(ばつ) ====
 この楽健法経は、楽健法を勉強するための使いやすいテキストとして新しく書いたもので、インド伝来の密教経典ではありません。楽健法は、二人ヨーガ楽健法と呼称(こしょう)しているように、他力によるヨーガです。与者も受者も呼吸を合わせながら、痛くない程度にゆっくりとやさしく踏み合います。そうすることで、人間の暖かさやスキンシップが、お互いの心を開き、失いがちな家庭内の会話もはずむようになり、慢性病や、心の病もいつとは知らず回復することでしょう。
また他人をして、楽にすることで、自分も楽になるという、布施の行の不思議を体験できることでしょう。
人間は支えあって生かされているのだということに気付いて、お互いに感謝の気持もきっと湧いてきます。       合掌
                   
               磐余山 東光寺 住職   山 内 宥 厳 識

  *** 光 明 真 言 ***

オン アボキャベイ ロシャノウ マカボダラマニ ハンドマ
ジンバラ ハラバリタヤ ウン

光明真言を暗記して楽健法をしているとき、相手をひとふみするたびに、一音づつこころのなかでお唱えしましょう。ごはんを食べるときも一音一噛みがよろしい。
真言は不思議なり、唱えれば無明を除く、と弘法大師は教えていられます。




◎早坂さん


◎あ~ちゃん


なかなかいい文章だと思いながら、いつ読んでもよく書けてると思うんですよ(笑)これは、英語にもなってますし、スペイン語にも今翻訳してね、インターネットで出してますから、外国の人はこれを見たら、ずーっと読んでいくと、楽健法やってる人はね、やってる風景がちゃんとこう見えてくると思うんですね。初めていきなりこれ読んでこの通りやろうと思ったら難しいかもしれないけれども、まあ、そういう意味でサーっとこう、楽健法通論みたいな形でね、楽健法の考え方からやり方まで短い中ですが一気に要領よくまとまってると思いますので。今読んだところでここは聞いておきたいところ、わからないところ、質問ありますか?梓もうみんなわかった?

(受講生)いいですか?
(宥厳先生)はい、どうぞ。
(受講生)この、第の隣にある「大楽金剛不空真実」、これはどういう意味なんですか。
(宥厳先生)これはね、大楽っていうのは真言宗のお経はね、理趣経のタイトルのつけ方が、まあこれなんですね。それのまあパクリでこういう名前付けてるんですけどね。大楽っていうのはね、「たいらく」っていうふうに言うんですけどね。真言密教では悟りを意味するんです。だから、涅槃のことを大楽っていうんですね。で、悟りを開くとは即身成仏です、つまり。即身成仏すれば仏そのものになって、それで非常に大きな楽しさ、それが悟道、ニルヴァーナの世界だというふうに真言宗で言うんですね。だから、ニルヴァーナに至るための確実な、金剛(きんこう)というのはダイヤモンドのように固い、つまり嘘偽りのない、も全く真実だと。硬い。そう言う意味で大楽金剛というんですね。それで、不空(ふこう)いうのは空しからざる、だから、嘘なんかどこにもないもう本当にダイヤモンドのように変わることのない、これはもう確固たる真実の悟りを開く意味の真実の佛足楽健法経ですよ、というタイトルですね。非常に欲張ったタイトルですけど、(笑)他に分からない言葉とか質問ありませんか。

(受講生)質問になるかわからないんですけど。
(宥厳先生)はい。前に本を読ませていただいたときに羝羊とか色々、それに対して心のこととかタイアップして書いてあるんですけど、これは山内先生に降りてきたそういうものなんですか。それともどこかにそういう教えがあるのですか。
(宥厳先生)これは弘法大師が書いた「十住心論」って言う弘法大師の代表作があるんですね。その中に第一から第十までの人間が進化していく、進歩じゃなくて進化していくね、精神が発達し、自覚し、そして別のものにだんだん発展していくんですね。その発展のプロセスが、一から十までずーっとあるんですよ。それの、言葉の中の例えば一番は「羝羊」とか書いてるのは「異生羝羊心」っていう、「異生」って言うのは異なって生まれると書くんですけど、「羝羊」っていうのは、迷ってる羊。「異生羝羊心」だから、迷ってる人を迷える仔羊とキリスト教でも言うでしょう。だから、人間が迷って人間としての自覚も十分持たないでね、何か獣のように無知なまま生きてる、そういう姿を「羝羊」という風に言うんですね。そういう空海の論文から、楽健法のポイントに当てはめて、名前にしてみたわけですね、私が。
(受講生)やっぱり、その場所を押すとやっぱりそこに合ってるんですか?
(宥厳先生)そういう感じがしますね。なんとなく上手いこと合うてるなという感じは致します。

◎土井さん

(土井さん)それは山内先生がそこの名前と部位を合わせた・・・
(宥厳先生)そうそうそう。そういうことですね。それをまあ、踏んでいく順番に当てはめていったんですけどね。何か後で考えるとうまいこと合うてるような気がします、それは。
(土井さん)ありがとうございました。

(宥厳先生)他にはないですか。まあ、あの短い文章ですけれども、何か色々…例えば足を「足は実践を常に行ずる脳髄なり。愛しむべし。」という風な言葉だとか、アーユルヴェーダのことも出てきたり、それから、「ヨーガは自力自助の手段にして、いまだ発心(ほっしん)せざる衆生には病患(びょうかん)を癒すには、はなはだ遠き手段なり。」なんて書いてますけど、まあ、ヨーガはやってる人は、ヨーガを万能みたいに考えている人もおりますけれども、病気してもヨーガをやろうかってという気持ちにならない人にはヨーガはもう全然縁のないものですね。だけど、楽健法知ってる人がそばにおれば関係ないしに行って踏んであげて、やることができますからね。それがやはり、一人で発心してやらなくてはいけない世界と、それから他人の力を借りて救ってあげたり、救われたりするということができるということが、私は人間としての得難いところだと思うんですよね。

人間が一人で何もかもやらなくてはならないでしょ。これは大変なことで、だから、夫婦で暮らしてるのに奥さんが病気になったら、もう旦那は仕事に行くから、奥さんほったらかしで、病気の奥さんが一人部屋に残されて、それで西式健康法とかヨーガとか勉強してですね。で、旦那がいなくなった留守の間に病気治そうと思って、両手両足を天井に向けてカ~~~~っと震わせてるというような、そういう孤独なね(笑)姿って言うのは僕はやっぱり…やらないよりはもちろんいいんですよ。やれたらいいんだけれども、やっぱりそれはご主人が楽健法を覚えて踏んでやろうかという風にならないと僕は本当の人間関係ではないような気がするんですね。だから、何でもかんでも一人で頑張らなければいけないというのは確かに正しいんですけど、しかし、やっぱりお互いに人は助け合って生くていくということですね。そういうことがより大事だと思うんですね。

だから、まあ命というのは一人一人別々の命みたいに思ってるかもしれないですけれども、何か命と言うものが一つだけあって、みんながそれを、その命を生きてるんだというような考え方もする人もおりますね。だから、時々ジョン・ダンの詩のことを僕言いますけど、「誰がために鐘は鳴る」って言う詩があるんですね。それはヘミング・ウェイが「誰がために鐘はなる」って言う長い小説書いてますけどね。その「誰がために鐘はなる」って言う詩の中にね、こう言う言葉があるんですね。村で教会の鐘が何でもない時に鳴ったりすると、それは誰かが村で死んだよというお知らせで鐘を鳴らす。そうすると孫にね、おじいちゃんが、誰が死んだか聞いてきなさいという風にね、聞きに行かせたりもする。ま、そういう光景を思い浮かべてもらったらいいんですけど、だけど、あの「誰が死んだか問うことはやめよ」という風にジョン・ダンは詩の中に書いてるんですね。誰かが死ぬということはお前が死ぬということなんだ。だから、人をやって問うことはやめよ。つまり誰かがが死ぬと言うことは自分が死ぬことと一緒だということのひとつの命に対する解釈の仕方ですね。だから、ま、そんな言い方もあります。それで、さっきの本にも書いてますけど、金がある、金がないとかそういう貧富によって患者を分けたりですね、そういうことは医者の世界では昔からどんな人でも平等に扱う、ということが医者の命に対する向い方ですね。そういうようなことを大切にしなさい、というようなことで、まあそういう考え方が仏教であれヨーガであれ、みんな基本になってると思うんですね。そういう人間の平等観、命の大切さ。それは西洋医学でも同じことであるはずなんですけれども、まああそういうところに経済がいろいろ入ってきたりして、経営感覚で物事をやっていくと、命が損なわれたり、粗末に扱われたりするようなこともいっぱい出てくるのでね。それで心ある人がこうやって活動して色々本当の考え方、本当の人間のあり方みたいなものをね、追求していこうとしているわけですね。まあ、そういうつもりでこのお経も書いたわけですけれども。もう他に分らないところはないですね?

じゃ、今から楽健法やりましょう、ね。またゆっくりこれやりますね。

楽健法()
◎鼠径部の踏み方




◎悶絶梅田さん、4連発









◎背中のおし方







◎おやつ~








Dinner~精進あげアラカルト
●干し大根の煮物●天ぷら(小茄子、かぼちゃ、しいたけ)ブロッコリー添え●自家製もろみ●かつおふりかけ●自家製かぶらの漬物●




◎古田さん~



11/12(土)19:05「僕の好きな彼女の話」
11/12(土)19:05

♪音楽

(梓ちゃん)あ、これ宥厳先生がYou Tubeで上げてたやつですね。
(宥厳先生)そうそうそうそうそう。みんな揃いましたかね。居ない人返事してください。
(受講生)はーい。
(受講生)はーい。

(琴美ちゃん)もらってない人いませんか。
(宥厳先生)居ない人がもらってないのちゃうん。
(琴美ちゃん)はい、返事しないから。
(宥厳先生)ニッシーちゃうか。ニッシーおらんのちゃうん。
(琴美ちゃん)鋭い!
(琴美ちゃん)いないいない!
(宥厳先生)ほら!!
(琴美ちゃん)さすがぁ!
(西澤さん)そんな気がしたの。
(琴美ちゃん)そんな気がしたんだって。どっちがそんな気がしたんだかよくわかんない。

(宥厳先生)どうも、お食事ご苦労様でございました。
(一同)ごちそうさまでしたぁ。

(宥厳先生)お渡ししたテキストは、今、歌っていたこの曲の歌詞です。今からちょっと1曲だけ聞いてもらいますけどね。それの歌詞なんです。もう随分むかし…僕が東光寺へくるずっと前に、ある一本の音楽のテープをもらったんです。そのもらったテープを聞いているうちに、何かこうすごく胸を打たれるものがあって、インドネシア語の歌ですから言葉は全くわからないんだけれども、何か強く訴えてくるものがあって、繰り返し繰り返し聞いてたんですよ。

聴いていると何か、その歌ってる女の子の声が体に沁み込んで来るような気がして、それで、いつからかこの子と夕陽の海岸を散歩してるような気持ちになってきて(一同笑)、たびたびこの声の女の子と夕日の海岸を散歩してたんです(一同笑)。イメージで。まあ、そういう何か悲しい思いがする歌なんです。何が…何故なんだろうと思ったんですけど、歌手の正体もわからないし、名前もわからなかったんです。それで最近になって、僕がこの歌に関心を持ってるってことをちょっとある人にはなしをしたら調べてくれて、それがYou Tubeに出てることが分かって、それでこの歌の女の子と映像で会うこともできたんです。
  

僕が想像していた通りの女の子が出てきたんです。この歌手はインドネシアの国民的人気歌手で、日本で言うと美空ひばりみたいな人気が出て、ファンクラブも出来て有名だったんだけれども、19歳の春に自分でHondaシビックを運転していて、大きなコンクリートのゴミ箱に激突して死んでしまったという、そういう可哀そうな女の子だということがわかったんです。それで、名前がニコ・アルディーラって言うんですね。東光寺へ来てからもしょっちゅう僕はそのテープを聴いていたんですけど、友人のベルギーのペテロ神父さんなんかも聴いて、「いい歌だね。」と即座に言ったりして、やっぱり分る人には分るんだと思ったりして、だけど何か…何か知らないけど琴線に触れるものがあったんですね。それで、その中の特にこう印象に残るような歌を、友人が訳してくれたわけです。それがこういう歌なんです。ちょっと聞いてみますね。

http://youtu.be/Rlf51DYWxWI

こんな曲でした。時代の寵児、売れっ子の歌手で多分薬をやったりいろんな事があったらしくて、それを見ていたマネージャーがこの歌詞を作ったみたいですね。何かこう、救いがたい悲しみを絶唱してるという感じですね。

 楽健法教室では時々歌にまつわる話をとりあげていますが、最近やりませんけど、ここでよく「人生よ、ありがとう」っていう歌のことを紹介して映像もみてもらったりしています。歌をめぐっての不思議な縁、出会いがあって、それで「人生よありがとう」という映像を見てもらったりしています。この中であれを見た人何人くらいいるかな?

 余り見てるひといないようですね。あの「人生よありがとう」って言うね、チリの歌手でビオレッタ、パラという詩人で歌手だった人の「人生よありがとう」…っていう世界的に有名になった歌をめぐっての話です。その歌のルーツを訪ねて一人の…どこの歌手かな、南米の人ですけどチリへ訪ねて行ったドキュメンタリがNHKで放映されたものを観てもらったりしています。ある歌との出会いみたいなものから人生が深まっていくこともあります。「人生よありがとう」は、私の友人で布村寛って言う詩人がいたんですけど、彼は僕が東光寺に来る前によく誘ってくれて、ドイツ料理屋へ二人でめしを食いに行ってたんですけど、彼が死んでしばらくして、上本町のホテルで彼の追悼会があったんですね。で、その時に、えーっとあれは何ていったかなファドの歌手で日本人の…月田秀子さんって歌手がギターを一本抱えて追悼会で自分の一番好きな歌を歌いますっ言って「人生よありがとう」って言う歌を歌ったんですね。それまでね、「人生よありがとう」って言う歌を僕は全く知らないわけではなかったということに気がついたんですけれども、それはビオレッタ・パラという人の詩集「人生よありがとう」をね、東光寺へ訪ねてきたある女性が一冊持ってきて私にくれたことがあったんです。その女性は家内がパンの指導にときどき行っていた甲府のベルクというレストランで働いていた人です。あそこもドイツ料理やね。

(幸子先生)もうない。
(宥厳先生)なくなったん?ベルクっていう店があって、そこで働いてた女の子が私を訪ねてきてね、それで詩集をくれたんですね。それで、その詩集の下訳を自分がして、それで詩人の水野るり子という人の翻訳で出ている本です。それをこの本ができたんだという事で私に一冊おみやげにくれたんです。その詩集を持ってきてくれた人の妹さんから以前に大阪で取材を受けて知り合ったことがあって、その子の姉さんがたまたま来たんです。その詩集を持って。

それで、この「人生よ、ありがとう」という歌についてもね、僕は本までもらって見てるのに、月田秀子さんがギターで♪グラシアス アラビーター ケミャーダドタント♪なんて聞かせてくれて、はじめてパッと一つに繋がったんですね。それがバラバラに詩集もらってたって僕の中では繋がらなかったわけですけど。それが「人生よ、ありがとう」という歌を聴かされてつながってきたんです。

 来月ここでジャズをやってくれる堀江真美のおばさんの高峰靖子さんが、僕がこの「人生よありがとう」という歌をこういう因縁で知ったって話したら高峰さんが京阪百貨店の音楽のレコードなんか売ってるCD売り場の店長がめっぽうそっちの方に詳しい人でそれでメルセデス・ソーサの歌から、ビオレッタ・パラの「人生よありがとう」など色んな人の「人生よ、ありがとう」を集めてくれたんです。

 そんなことがあってまあ人は皆「人生よ、ありがとう」というべきだというようなことがそのドキュメンタリーにも出てくるんですけど、また時間がある時にお見せしますけれども、まあ楽健法の夜が一晩潰れますからね。あんまりそんなんばっかり見て遊んどったら楽健法の上達の妨げになるかなと思って、この頃はあまり映像はやっておりませんけど、まあ歌をめぐって、そういうことがあったんです。

 このインドネシアの歌の歌詞も、日本ではこんな感じの歌詞出てきませんよね。なかなか暗い、何か不思議な雰囲気です。こういう絶唱が彼女の歌から言葉がわからなくても伝わってくるんですね。聴いていてるとつい涙ぐみたくなるような気持ちになり、それで二人で夕陽をあびながら海岸を散歩したいようなイメージが僕の中に湧いてくるわけですね。

 言葉はわからないながら、ラブソングではないなとは思ってたんですけどこの翻訳をもらった時に、なるほどっと思ったわけです。そういういきさつがある歌です。これはテープでもらったんですけど、テープがだんだん摩耗してきたもんだから、それでこれは伸びないうちにCDにしてもらおうと、友達にやってもらって、それで今CDになってるわけですね。ま、そういういきさつの歌です。で、あまり楽健法向きではありませんけれども、時々聴いているわけです。まあ、僕が一人でおるときは時々これをボリュームいっぱいにして聞いて、ここで踊ったりしながら(笑)、まあ楽しんでいるわけですね。

まあ、そういうやっぱりこうリズムに体を乗せて、動くと言うことはとても大事なことで、あるとき、パンの日に目が覚めて起きたと思ったら、ガクっと腰が痛くなって、あ、まいったなと思ったんですが、早い時間に起きますから出かけるまで二時間ほど時間があるので、真夜中にこんな音楽をボリュームいっぱいかけて、それでこうやって(一同大爆笑)、踊りまくったら、そうしたら、出かけるまでに腰痛がなおっちゃうの。だから、あのダンスって言うのはとっても大事な行動です。上手とかヘタとかの問題じゃなくて、悪いところを治そうという思いでダンスをしながら身体を動かしてると必ず治りますからね。もし腰痛になったら皆さんも音楽かけて、出来るだけ派手にダンスやってみてください。思うように動くと必ず治ります。
 あんたは家で夜中にやったらアカンよ(一同大爆笑)。追い出されるからね。

まあ、そんなことですね。じゃあ、楽健法やりましょう。護身法やって。


◎資料


◎宥厳先生






◎幸子先生




楽健法(4)
おやつの柿~


しょうがが美味しい~


双子!?



第8回11月13日(2日目)その3

2011年12月07日 | 第11期楽健法セラピスト講座
二日目の朝~
まだ暗い~




◎昨日のお話にあった棟方志功の版画







◎大日如来のご尊顔









朝のお勤め












Breakfast
●天然酵母パン●かぼちゃスープ●フルーツサラダ(柿、きゅうり、玉ねぎ、トマト、ブロッコリー、りんご、バナナ、ゆず酢、グレープフルーツ)





◎チーズと蜂蜜がけ



◎先生の足、真っ青!!クチナシの花でしたか?









◎琴美ちゃん!?


◎写真撮ってどないすんねん!「医心法」をみんなに見せないさい!




11/13(日) 9:00「楽健法経の続き」
(宥厳先生)みんな揃った?これで。ニッシーがおらんのちゃうか?
(西澤さん)いる!
(宥厳先生)だいたいニッシーがおらんのちゃうかって思ってるんだけど。たいていの場合は(一同大爆笑)。
(西澤さん)たまたま、ね。
(琴美ちゃん)たまたまねって自分でいっちゃった。
(受講生)たまたまいるわーって。
(宥厳先生)ニッシーもたまには間違うこともあるみたいで(笑)
(西澤さん)今日はたまたまいなかったってこと。
(宥厳先生)ああ、そうかそうか。
(琴美ちゃん)いやいや、たまたまいたんでしょ。(一同笑)
(西澤さん)違う違う。たまたま居たんだよね、先生。
(宥厳先生)そうそうそうそうそう。僕が言いたかったのはそれで。
(西澤さん)いなかったこと自分は知らないやんなぁ。
(西澤さん)昨日と、昨日の夜と…
(琴美ちゃん)外れないほうがいいよ。

(宥厳先生)Shut a mouth! おはようございます
(一同)おはようございます。

(宥厳先生)今からお経の勉強しようと言うんじゃないんですけどね、ちょっとこの最初の方に出てくる主人公の名前とかね、そういうこととか少し説明しておきます。読むときの、ケンダツバってなんだろうと思うと思うのでね。それで、お経と言うのは、佛…仏陀ですね。釈尊が喋った言葉を当時は文字で記録すると言うことがなかったんですね。それで非常にこう頭のいいテープレコーダーみたいに正確に話したことを頭の中にインプットできてそのまま再生できると言う能力を持った人がたくさんいたんですね。日本にもそういう人がいたと思うんですね。それから、文字もそうですけどね。写経するときに、今…ちあきちゃん持ってるのやね、ちょっと表のとこ開けて見せてあげて。そうそう、この本に古い時代の…お前、何してんの、それ。(一同大爆笑)。写真とらんでよろしい!向こうに見せてあげて。このね、こちら側のページはね、ずっと古い時代のものです。これがね。で、こちらが安政って書いてあった?安政本って書いてある、こっちの方がね。だから、大分時代が下がってこちらの本を、これを書き写したものなんですね。ところがこの二つを見比べてみると字がまったく一緒、と思えるくらいに良く似た字で書かれます。で、こういう書き方をするのを臨書するって言う風に言うんですね。写経なんかするときでも上手な人の写経を向こうにおいて、それでこれをこちらにおいて見ながら書いた時にもう全く同じ字を書く。そういうのが臨書するですね。だから、そういうコピーみたいにきちっと正確に写すっていうことができる能力を持った人が昔はたくさんいたんですね。だから、どんな字でも筆を持ってそれを書き写してくださいって言って頼めば、そういう専門家はきちっと同じ字で書くわけです。だから、弘法大師が書いた字を最澄さんが臨書したのがあって、それが「弘法筆」ということで伝えられていたり、そういうことがあるんですね。

弘法大師が書いた字をその通り書くわけよ。そしたら、もうそれが弘法大師の書だとして通用するくらいね。要するにコピーみたいに同じような字が書けたりする。同様に話したことも、話した通り癖までもそのまま再生できるような能力を持った人がいたんでしょうね。そういうことが出来る人を多聞天なんて言うんですよ。多聞第一なんて。それが例えば十大弟子のひとりの阿難尊者、アーナンダという人もそういう人ですね。だから、このお経の最初に「是の如く我聞けり」って書いてあるでしょ。この「我」っていういの誰かという問題なんですよね。ジョーシーガーブーン(如是我聞)って言う風に、漢文では訳されてますけど。このように私は聞きましたよって言うふうに喋るんだね。その時に要するに釈尊の言葉をテープレコーダーで再生して聴かせてくれるくらいに、正確にイントネーションも感情も込めて、そのまま伝えると言うことが出来る能力を、まあ昔の人は持ってたんですね。だから一度聞いたらもう全部ぱっと入っちゃうっていう。今もそういう人はたまにおると思うんですけどね。聞いたらパッと正確に出てくる。ま、そういう能力を持った人がおったっていうことですね。それで、このお経の場合は阿難尊者、アーナンダが、だいたいこの私はこのように聞きましたって喋ったっていうような形を取っているわけですね。

しかしながら、多くのお経がそういうスタイルで書かれているので実際に釈尊が喋った言葉をそのまま文字に写してるようなお経というのがじゃああるのかないのかということですけど、そういうお経はだいたい南伝仏教に伝わっている。だから、それは岩波文庫なんかでもたくさん翻訳されてますけども、いわゆるタイとかビルマとかスリランカですね。ああいうところへ伝わっていった南伝仏教。初期の仏教ですね。昔はそういう初期の仏教の事を少しこう見下してね、小乗仏教って言ってました。小乗というのは乗り物が小さいということなんですね。それがそれが中国へ伝わり、という時代になってきたら所謂、大乗仏教というのが起こってきたんですね。大乗仏教って言うのは要するに一種の宗教改革ですね。仏教の中における。それで自分だけが救われたらいい、というものではなかろう、と。小乗仏教というのは自分が修行して、要するにヨーガと一緒です。やる人は自分でヨーガをやって体が救われるけど、ヨーガをやって他人を救うと言うことは直接的にはできませんよね。やってる人だけには効果が確実に表れるから。小乗仏教っていうのはまぁだいたいそういうもんだという考え方なんですよ。だから、自分が救われるために行をする。で、自分だけ救われたら他の奴はほっといたらいいのかという問題ですね。それではイカンじゃないかと言うので、いわゆるみんなを救う大きな乗り物、マハーヤーナというんですけど、そういう大きな乗り物の、大きな船に乗せてあげるような、だから、あなたもここにいらっしゃったら、この船に乗ってれば、もう別にあなた自身は拝んだり、踊ったりしなくても幸せになれますよという、そういう乗り物を提供するのが大乗仏教なんですよ。そういう大乗仏教の経典もやはり、「じょーしーがーぶん」「私はこのように聞きました」という形で釈迦さまが喋ったと言う、元々はね。法を説いたというふうに書かれていくわけですね。これはだから釈尊が亡くなった後、数百年以降に創作された新しいお経なんですね。だから、そういう意味では本物ではないわけですね。実際に釈尊の息遣いが聞こえるような言葉っていうのは「法句経」とかね、いわゆる南伝仏教に伝わってる小乗仏教として、言われたものが伝わってるものがまずお釈迦様の真に近いだろうと言われてますね。だから、大乗仏教そのものは全部もう法華経も我々が唱えている真言密教のお経でもですね、全部後世の想像力豊かな筆者の手になる、創作のお経になるわけですね。だから、厳密に言うとそういうのは、大乗仏教のお経は偽経(にせきょう)と言う風には位置付けられていないんですけれども、真鴈を問えば厳密には偽経なんです。偽経という風になります。だから、そういう日本なんかであれは確かに偽経だろうと、言われてるのがここでも話したことがある父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)。父母の恩が重い経ね。父母恩重経っていうのがあって、これは日本で作られた偽経(ぎきょう)ではないかという風に言われてます。最近、有名になった偽経がこの楽健法経ですね(一同笑)。これも偽経です。これはお釈迦様が説いたんじゃないです。お釈迦様が説いたように書いてあるけれどもね、これは宥厳さんが書いたんです。これは偽経なんですよね。まあ、そういう形でお経のスタイルと言うものがあるということをね、知っていてください。

それで、お経というのは最初にずーっとこう長い文章が続いていって、段々と物語が展開していって最後にそのダイジェストが詩の形になって、短くまとめられて出てくるんですね。それを偈(げ)と言う風に言います。偈、ガーターともいうんですけどね。偈、これはアーユルヴェーダでもそういう形を取ってて、所謂、本文が長くて最後の方にまとめて、それはシュローカと言う風に言ってますけど、偈として短くまとめてあるんですね。そういう短くまとめてるところは暗記して、Learn by heartしてね。それで勝手にこう口から出てくるように暗記しやすように詩の形にするんですよね。だから、アーユルヴェーダでもそういう暗記するような部分って言うのは、アーユルヴェーダの学者になるような人は大体覚えてられますね。イナムラさんのご主人のハリシャンケル・シャルマさんなんかもチャラカが全部頭に入っていますね。だから、どこでもすぐに言うたらパッと出てきます。テープレコーダーみたいに。それで、例えば「ニーティアームヒタハーラビシャーラセーム…」とかいう形の、僕も忘れちゃったけどね…ちょっとパッと出てこない。今ちょっとまだ昨夜の寝ぼけたのが頭に残ってて出てきませんけど、ま、そういうシュローカというのがあって、それを朗唱することによって教えがきちっとその中に入ってるわけですね。

それがここでは終わりの方の、詩の形になって「偈にといて曰く」ってこれですねこれがそのシュローカの形、これもまあ一応お経の形を踏まえて、それで前半のものを後半に短い形でまとめてあるわけですね。ま、こういうのを英訳したのがぼくきちっと見てませんけれども、英訳したら、こういう偈のところはこの英訳のところだけを見ると実際に踏み方がもっと日本語で書いたよりは分りやすいかもしれないですね、と思います。そういう構成になっています。で、この中で「或(あ)る時佛、喩師婆伽所(ゆしばかしょ)にて、楽健法を説きたまえり。」って喩師婆伽所なんて名前ですね。これはまあ何かそういう説法する場所。で、もっと言うとものが生まれる場所。もっと突っ込んでいうと、女性の子宮の中。つまり…ここで育っていくでしょ、赤ちゃんがね。喩師婆伽所っていうのはそういう、女性の母体みたいなものね。そういう場所を喩師婆伽所って言うんですね。そこで、乾闥婆(けんだつば)と言う、何かわけのわからない名前、乾闥婆って言うのは阿修羅の中に一つありますけれどね、そうそう。これがチベットなんかではガンダルバって言うんですね。で、このガンダルバと言う人は、要するに皆さんがあの世にパッと魂が行った時に、その魂をさっと道案内してくれる人がガンダルバ。それで、次の生まれる母親の胎内のところまで導いてくれる。ね、こういう母親もおるし、こういう母親もいるし、おまえはどっちの方に生まれたいか、ということを案内してくれて、こっちがいいい~って言ったらパッと魂が入っちゃうわけですね。そうすると、また次の人生がそこで始まる。で、前世をもし記憶している人がいるとしたら、生まれてしばらくはだからみんな前世を記憶してると言う風に言われてますね。本当かどうかわかりませんけれどもね。

 今の14世のダライ・ラマなんかも、あの映画見ましたか?皆さん。「クンドゥーン」とかいう映画があって、13世のダライ・ラマが亡くなった時にチベット中を探して歩くんですよ。そうするとまあ3歳とか5歳とかだいたいものが喋れるようになった頃の子供が例えば今の14世も、13世のダライ・ラマが使ってた数珠だとか法具とかね、色んなものを見せるたら、そしたらそれを懐かしそうに手にとって、あ、これは僕のものだと言う風に喋ったりするんです。あ、この子が生まれ変わりだと言うことが分かったと言うんですね。そうやってチベットでは代々ダライ・ラマは、どこに生まれ変わったかと、国中探して歩くわけですね。たくさんのお坊さんが。それで、発見されたらその子を大事に連れてきて、それで次の後継にするわけです。で、今のダライ・ラマはそういう事をなくしますという事を言うてるわけですね。だから、ダライ・ラマは14世で多分もう終わりなんです。後々そういう輪回転生して生まれ変わりがどこに…というような事をもうしないと、そういうことが要するにチベットが救い難い国だというので解放してやるという名目で中国に侵略を受けた国ですからね。だから、民主化して行くというのが今のダライ・ラマの宣言ですね。最近の彼が言ってることですね。ま、そういうようなことで、そういう導きをしているのがガンダルバつまり、乾闥婆。で、そういうまあ主人公に楽健法をお釈迦さまが乾闥婆を寝かせて楽健法するという、そういうスタイルで書いたわけですね。

まあ、人間と言うのはどんな国のどんな環境に生きてる人もね、それぞれ生まれてきたらですね、一体人間というのは何のために生まれてきたんだろうかということを考えるわけですね。そういうこと考えなかった人種っていないと思うんです。じゃあ、どっかの未開の今でも南アメリカなんかにアマゾンとかの中にね、ごく少数で生きてる、その人たち数十人だけで生きてるような、それで数十人だけの言語で生きてるような未開社会みたいなものはだそのままっていうのがたまにあるみたいですけどね。そういう人たちは人生とは何かとかね、考えないだろうか。考えるのだろうか、ということですね。神さまって一体何だろう、とかね。この世に神も仏もあるものかとかね。神も仏もという概念もむしろないかもしれないですね。だけど、どんな民族も神とか仏とかいう概念は持ったみたいですね。だから、人間と言うのはみんな生きてきたら、いろんな問題に遭遇した時に、困難が起きてきたり、大きな災いが起きたり、自分の病気が発生したり、何故自分は悪いこと何一つしてないのにこういう病気にかかるんだろうとかね、色んなことを思うと思うんですね。そういう人生をいかに解釈するかという問題なんですね。それで、まあアーユルヴェーダだったらチャラカみたいな人が現れてですね。昔の人の教えを集大成して、整理して、それでチャラカと言う本にする。今そこにある医心方なんかは日本人が日本に入って来たあらゆる文献をショウリョウして、ショウリョウってわかりますね?あらゆる文献を調べて、それでその中でテーマごとにこう言う教えがある、こういう教えがあるというので、役に立ちそうな教えをズラーっと並べていってるわけですね。チャラカもそういう形で書かれてるし、これもう人間が勉強していくうえでね、分類し整理し、そして要約を抜き出したりして、わかりやすくしたいということです。

だけど、だいたい西洋文明っていうのは分析もし、集約もして演繹したり帰納したりした形で、まあわかりやすく勉強して行くんですけど、段々段々こう時代が進むにつれてね、社会が複雑になって来るとそれぞれのジャンルが共通のものを持たなくなってくるんですね。だから、その専門のことは良く知ってるけれども、隣のジャンルのことは全く知らないというような状態の文化のあり方というのが一般。ただ日本の医者は自分の専門のところだけは詳しく知っているけれども、隣のことは知らない。だから、例えば眼科の医者だったら、眼科を診察に行ったのに内臓のことがわかったりしてあなたはここが悪いから見てもらったらいいよっていって眼科から内科の方に送られるということもあるんですけど。内科の方から眼科の方へ送るということはあんまりないかもしれないですね。だから、それぞれに総合的に大きくものを捕まえて観るという見方がなかなか人間と言うのは出来ないんですね。だからそういうなるべく広い概観ができるような知識と判断力と言うようなものを身につけて行かないとね。正しいことがなかなかわからない。それで、そえぞれあの自分の立場だけの事はわかってて他の立場に立ってものを考えようとしないですから、だから、その立場にたった人はその立場でしかものを考えなくなる。そうするとそれをもっと高いところから客観的に見てる人から見るとバカみたいなことを本気で信じて一生懸命やってるということになるんですね。

で、そういう見方でまあ、例えばアーユルヴェーダの専門家と西洋医学の専門家とどっちがより深く総合的に広く判断していってるかというような問題ですね。だから、西洋医学批判というのはそういう専門的な立場からだけ見てる人たちに対する、総合的な見方の批判なんですね。それをそういう立場に立って、まあ私なんかもどちらかというと、それはおかしいんじゃないかと思うようなことを西洋医学の中にいっぱい感じ、見てきた事によってそれを批判的に外側からもっと客観的に見て行く。そうすると西洋医学であんなお金かけてすごいことするよりも、楽健法でもやって救われたほうが、はるかに安全でわかりやすくて完全で確実じゃないかとこう言うことを思うからこういう事を広めたいと思って活動し始めたんですね。で、アーユルヴェーダも私ずっと事務局長やって紀要の編集もやって会員が書いた論文を全部目を通して校正しながらやってきましたけれども、やっぱりね、色んなものを読まされるんだけれどもこんなことしなくたって、楽健法やったら解決するじゃないかというのがやっぱりあって、それで、アーユルヴェーダについてそんなに専門的にね、勉強してみようとかいうふうな気持ちには一切ならなかったですね。まあ、わかれば、さっと見とったら、まだアーユルヴェーダって言うのはだいぶ手前にあるなって感じです。楽健法から考えたら。だから、健康というのは、健康法とか治療というのは簡単であるほどいいし、早く治るほどいいわけであって、それはもうお大きな病院にいってお金を使わないと治した事にならないと言う風に考える人はそれはおかしいんですね。  
 病気は本当は簡単に治るほどいいわけなんです。だから、僕今朝護摩を焚きましたけど、あの護摩を焚いて1,000人の人いっぺんに治したらそれの方がもっといいですね。100人の人が集まって楽健法し合うよりも。だけど、その能力が如何せん私にはまだ備わってませんのでね、それでまあ、楽健法の方が絶対に確実。だから、護摩焚かなくていいとは思ってませんけどね。(一同笑)。だけど、楽健法の方がはるかに確実で確かなんですね。で、足が地についたって言うのはそういうことですね。正に足が地について、それで、相手の体を大地のごとく思って、腐りかけた大地にカッと(一同笑)。これが楽健法。


まああの、よく私が話をする考え方の非常に基本的なところで考えるきっかけになったある哲学者の短い言葉がなんですけどもね、日本の哲学者で田辺元って言う人がいるんですね。田辺元、ゲンは元(もと)という字ですね。田辺元さんって言う哲学者がいてね、彼の本はまあ皆さんお読みになってみたらいいですけれども、とても読んでも3ページも理解できないと思います。私も理解できないです。とても難しい。よくこんな難しいことを考えるのが哲学者かと思うような本ばっかりですね。多分、彼の本を読み通すって言うのは専門的な哲学勉強してる人でも相当困難を感じるんではないだろうかと思うほど、難しい文章なんですね。だから、それを僕は16,7歳の時に1冊買ってきて、1冊買って新本買ったんじゃなくて、10円のゾッキ本の中にあったからね、買ってみて、「哲学通論」と言う本ですね。岩波全書という本に出ています。これの中にね、序文があるんです。「哲学通論」いまも書棚に1冊あるんです。ちょっとお見せしようと思ったんですけど、どっかに突っ込んで見つからなかったので持ってこなかったんですけど、その序文の中に、短い文章があって、こういう文章。「立場はその立場に立つ者にとってのみ立場たる意味がある」という言葉を書いていますね。方法はその立場にとってのみ方法たる意味が、という事を書いてあるんです。「立場はその立場に立つ者にとってのみ立場たる意味がある」。だから、西洋医学の立場に立つ人はもう西洋医学から離れようとしないんです。そうすると患者を見つけたら検査して、次にはもっと詳細に調べて、それで、もうそれ以外に方法はないって、あなたはほっといたら死ぬよって、三日経ったら死ぬとか言われるわけです(一同笑)。それで、例えば皆さんがそういう目にあった知り合いの人が必ずいると思うんだけど、ガンだと診断される。後三月だって言われる。ね、診断の時点で。後三月だと言われて三月だと言われたら、それで、病院に入院しちゃうわけですよ。そしたら、それ三月が三年に延びるんじゃないのね、たいてい。三月で死ぬんです。三月だと言われた人が。じゃあ、なぜ三月だと言われて、死ぬ前に入院して点滴受けて、抗がん剤受けて、はげちゃびんになってね、それで、尚かつ頑張って、苦しみながら三月で死なないといけないのかというとですね。三月で死にますと言われたら、もうそんな、じゃあさいならって他のことやるべきですよ。それが要するに…だけど、西洋医学の立場の人はそれしかしない。だから、あなたは西洋医学やったらもう三月で必ず死にますから、だから、あなたはどっか行って宥厳さんとこ行って楽健法でも勉強してやったら30年持ちますからっていう風には医者は言わないんですね。それが「立場はその立場に立つ者にとってのみ立場たる意味がある」という意味なんです。だから、どんな立場の人もそれぞれ、国が違ったらその国の立場というものがあるでしょうし。日本人はまあ割と能天気であまり反省もしないし、反省したふりはいっぱいするんですけどね。心から反省なんかもしないし、それで、例えばアメリカが原爆落したって言ったらね、それは原爆に対して補償しろとか…これは補償しないということを約束させられて降伏しましたから、賠償要求とか法廷闘争はしませんけれども、だけど、例えば韓国人の小説家なんかの、あの「タクシードライバー」書いた、名前何ちゅうたかな、パッと出て来ないんですけど、彼なんかのエッセイを読むとね、日本にアメリカが原爆を落としたことでも日本人はとんでもない非道なことをしたというふうに主張したりもしますけど、大きな声では言わないけど、あんな酷い事しなくてもいいのにって思うかもしれないけれども、韓国人のように日本人から非道な事をされてきた民族にとってはあれぐらいのことされて当たり前じゃないか、当然だろうと言う風に考えるって言うんですね。当たり前じゃないか、あんなことやったんだからと言う風に思われるわけですよ、外国の人からは。これは立場が違うとそういう風に思うということですね。だから、本当に何かこう平和を維持して行くという共通のコンセプトみたいなものがみんなの広い立場、あらゆる立場の人を総括できるような立場というものがなかなか人間というのは見つけられないので、いつ迄経っても紛争が絶えないわけです。宗教が変わると争うし、宗教の中でも、同じ一つの宗教の中でも権力争いしたりしてね、日本でも曹洞宗なんて言う禅宗がありますよね。しょっちゅう中でよく上の連中が争ってますね。また騒動宗か、と言う風に悪口言われるくらいね。それは真言宗であれ、それが一下の会社の中で今は巨人軍でやってますね、昨日か一昨日か、社長と渡辺会長とがね、渡辺会長を社長が告発したりして。あれは裁判にしたわけではないみたいだけど、先号で許せないとか、ああやってちょっと立場が変わるとみんなそれぞれ自分の立場を主張して、それがそこに何か権力を持つと、そういう強いことを言ったりしてね、困らす人がいっぱい出てくるわけですね。だから、なかなかこう、和を持って尊しとする、和を持つというのはなかなか人間というのはできないということです。それは、それぞれ自分の立場に固執するからですよね。そういう事でみんな、こう立場をじゃあ持つのはいけないのかどうかということですね。立場を持つことは悪いことか。僕はやっぱり立場は持つべきだと思うんですよ。だけど、どっかでもっとフレキシブルというか、ニュートラルというか、私なんかはどちらかというとニュートラルに考えますから、だから、この人はこれがこういう考え方を持ってる人だな、と思ったらその人にいうことを聞いてもらおうと思ったら、その人の立場の中でできる事を教えてあげるという風にしないと、あなたは何がなんでも楽健法って言うたかって独り者のね、誰にも愛されていないような人に楽健法やりなさいって言ったって無理だからね(一同笑)。そうするとあなたには金魚体操が相応しい(一同笑)。それで、部屋の中で一人でこう天井向けて手足振るというようなことを勧めてあげますよ、やっぱり。で、僕は話の中ではね、一人で天井に向かって10時になったら金魚運動したりヨーガや運動してたりして、これは何と暗い世界だろうと、こう思うけれども、しかし、それを知らない人よりは知ってる方がいいんだからね。そうでしょ?だから、そう言う意味でその人に出来ることを教えてあげるようにしてるわけだけれども、まあ、できたら連れ合いも見つけてね(一同笑)、それで、私がお幸さんにやっているようにあなたもやってあげなさいと、こういう風にいうわけです。

何か(一同大爆笑)。何か笑い方が複雑になってきた(一同笑)。これくらいにして楽健法やりましょうか。じゃあ、護身法。






楽健法(5)
◎いちゃい~






Lunch
●だんご汁(こんにゃく、玉ねぎ、しめじ、人参、大根、水菜)●かやの実●ゴボウのきんぴら●●●



課外授業











楽健法(6)




11/13 15:20「終わりの会~」


◎はは~




(宥厳先生)もうみんな揃った?何か楽健法後でやってもらったら、寝ぼけてます。ぼーっとして。どうも、長時間ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
(宥厳先生)えーっと来月はちょっと催し物土曜日にやりますから、そのつもりでね。お願いいたします。えーっと、何か他に要望とかなかったですか。じゃ、今回は野田さんの代役で古田さんありがとうございました。
(一同)ありがとうございました~。
(宥厳先生)また、よろしく機会がございましたらよろしくお願いします。他にお母さんない?
(幸子先生)少しはドレスアップしていらしてくださいませ。
(宥厳先生)あ、来月の話か!ああ、そう。まあ、じゃあ楽しみにして。これでお開きにいたします。ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
(幸子先生)どうも、お天気でよかったですね。
(宥厳先生)また明日は早よからパン屋さんですので、琴美ちゃんと梓ちゃんが応援に来てくださるそうなんで、よろしくお願いいたします。それじゃあ、これで終わります。ありがとう。

第7回10月8日(1日目)その1

2011年10月30日 | 第11期楽健法セラピスト講座
10/8 13:06



 東光寺のセラピスト養成講座には、22名の受講生が参加していますが、講習会当日の午後1時の開講に間に合うよう早朝到着のバス便で早めに来るひとや、または前日、なかには前々日から東光寺へ来ている人もいられます。前々日に来られるというのは、木曜日の奈良イオンハウスの講習会にも参加されるからで、11月にも前々日組がいられることと思います。これを書いているのは11月4日現在です。
前泊組や早朝の到着組は、宥厳先生の運転する車で、阿騎野新鮮野菜直売所という隣市の道の駅と、スーパーに食材の買い出しにでかけます。購入するのは野菜類がほとんどですがとれとれの季節の旬の野菜たちで台所が満たされます。

ちなみに奈良イオンハウスの講習会は毎月、この合宿のある二日前の木曜日に毎月開催されることが決まっています。
http://www2.begin.or.jp/ytokoji/ionhouse.htm

 この合宿では毎回かなり長い記録を起こしてアップしていますが、宥厳先生の講義時間というのは楽健法実習の前に、すでに布団を敷き詰めた道場の布団の上に座ったまま、ざっくばらんに話されるので、講義時間として別枠が取られているのではないのです。
楽健法を体解することが大事という宥厳先生の方針なので、一泊二日の合宿で4回の実習をたいていこなしていますので、実習の開始前に短時間の話をされているのですが、それでもかなりの内容ではあるのです。体解というのは頭で理解してわかったつもりになる半可通では困るので、経験を深めて楽健法が体に染みこんでしまい、自由自在な楽健法ができるようになることです。泳げないひとは泳ぎを体解できていませんし、自転車に乗れないひとが自在に乗れる人になる、それが体解することです。楽健法の体解は自転車よりは簡単ともいえるし(心をこめて相手を踏んであげればいいのですから)経験を重ねるほど奥が深くて難しいということがわかってきます。
 講座は今月のテキストが配られて始まりますが、どうだんに書かれた短歌をテキストにお話がはじまります。

(宥厳先生)今月の短歌は30分ほど前に書いたばかりで、にわか仕立てですので推敲が足らないかもしれませんが。これからはじめます。

(みなさんの座り方を見て)そんなにひっついて座らないで、こちらの顔が見えるところへ、重ならないように座りましょう。

(ちあきのムービーカメラを見て)今日はなんでこのレンズ構えたあんの?
(ちあき)ちょっと活躍する場が欲しくって(笑)。
(宥厳先生)そっか…。あの、ここでは転落場面は撮影できませんから(一同爆笑)。
(幸子先生)唐招提寺までいかなあかん。
(ちあき)再現!(笑)
(宥厳先生)あ、みなもう回った?足りる?1枚足らんのちゃうん。足りてるか?ちょうど24枚あると思う。ああ、あったあった。

(宥厳先生)どうも、おはようございます。
(一同)おはようございます。
(宥厳先生)えっと、今日は恭子ちゃんが夜遅くなるみたいですね。幼稚園の何か行事が、運動会かなんかあるらしいですね。恭子ちゃんは夜遅くなるのと、今夜遅く帰らなくてはいけない人もおるので、それで、ちあきちゃんのお母さんに応援をお願いしました。どうぞよろしくお願いします。
(一同・ちあき母)よろしくお願いします。
(宥厳先生)ちあきちゃんのお母さんとは、初めての人いるのかな?だいぶおりますね。かの有名なちあきちゃんのお母さんです(一同爆笑)。何が有名か知りませんけど(一同爆笑)。ま、本当に今日はありがとうございました。無理を言いまして。
(ちあき母)いえいえいえ、ありがとうございます。




(宥厳先生)今朝和歌山に地震ゆった(揺れた)みたいですね。震度3とか言うてましたね。地震が段々和歌山のこっちの方に地震が近づいて来てるんでしょうけど、小刻みな地震がたくさんいって、大きなのが減ってくれたらいいんですけど、小出ししてその内エネルギーがゼロになるっていう風にうまくいくのかどうかねぇ、わかりませんけどね。まああの自然のことですから我々の予想のつかない様な想定外の事故が(笑)。想定外というのは原子力だけじゃなくて、宥厳さんにも想定外があるんですね(一同笑い)

(琴美ちゃん)想定はこっちだったからね。…ト、西澤真由美さんを見る。
(宥厳先生)あ、そうかそうか。こっちだったら想定内だったの。
(西澤さん)想定内?
(琴美ちゃん)うん、想定内。


13:00 「どうだん」

(宥厳先生)この短歌はさきほどあわてて書いたばっかりなんです。ひとつだけ、一番最後のんだけちょっと前に書いてあったもの、酔芙蓉のことを詠んだのが一首入ってます。いまは花の時期が合ってないんですけど、ちょっと、では頭から…あ、例によって朗読お願いしましょうか。
(早坂さん)ちょっとハスと読むかレンゲと読むかで間違えるかもしれません。
(宥厳先生)ええ、ええ。
(早坂さんの朗読 一首2回繰り返して…)






どうだん 十一月号
山内宥厳*

○黄ばみしきささげの葉に午後の日がこころを添えて優しく光る

○樫の木に鳴き盛りたる熊蝉の抜け殻残る猛夏はいずこ

○風もなく蒼天映えて青々と茂る蓮華の葉の大きさよ

○蓮池の葉のみごとさを写さんとファインダー覗く蒼天の寺

○枯れそめし蓮華の花托写さんと腕をのばしてシャッターをきる

○花なくもみどりに映える蓮の葉に吸い寄せられてカメラ構える

○蓮の葉と並んだモデル写さんと後ずさりたり池に転落

○泥濘に埋もり蓮の花ならぬ墨染めの衣蓮池に咲く

○古の仏居並ぶ天平の甍見上げつスマートフォン並ぶ

○酔芙蓉澄み渡りたる空映し恥じらうごとく微笑み染まる




○黄ばみしきささげの葉に午後の日がこころを添えて優しく光る
(宥厳先生)これね、あの関西では「きばみし」じゃなくて「きいばみし」って言う風に言うんじゃないかな。
(早坂さん)「きい」ですか?
(宥厳先生)関西風に言うとね。だから、僕の中では「きい」と二音になってるの。ま、そのつもりでちょっと読んでみて。

●10首読み終えた早坂さんは朗読の講師もされている朗読の専門家なので、よく朗読を指名されています。




(宥厳先生)どうもありがとうございました。
(早坂さん)失礼しました。
(宥厳先生)まあ、あの別に解説も何もいらんような歌ばっかりですけど。この最初の「きささげ」っていうのは昨日唐招提寺のえーっと、宝蔵…宝蔵やね、あれ。何ていうの?あれ。宝蔵庫?
(幸子先生)ん?ほうぞうって何?
(宥厳先生)宝の蔵やん。
(幸子先生)ああ、宝物殿。



(宥厳先生)宝物殿かな!特に古仏を集めてあった宝物殿に行ったときに、入口のちょうど右前のちょっとした50坪くらいのスペースに大木が5,6本株立ちで伸びてて、大きな葉がちょうど太陽をうまいこと浴びててね、すごくきれいだったんです。ところが、木の名前が僕もちょっと分らなくて、それで中に入って受付の人に聞いたら、「きささげです」って教えてもらって、それで、こう言う歌を作ったんです。

しかし「きささげ」って言う木については僕はよくあちこちで話はしてるんです。講演したりしたときにね。キササゲの木とユリノキとモクゲンジっていう木、そういう三種類の木の話をしますね。これは毛藤勤治先生の受け売りなんですけど、楽健法の本を最初に出した時のアボック社という出版社の社長のお父さんが毛藤勤治さんとおっしゃる方で、たしか農学博士でそれで色んな花とか樹木の研究をされてて、特に力を入れて研究されたのがユリノキなんですね。アボック社からユリノキの本を1冊出していられます。僕の本をこの出版社から出したころ毛藤勤治先生にお目にかかって、ユリノキの蘊蓄を聞かされたわけです。その話が非常に面白くて、それで、それからまあ私はユリノキの苗木も先生から送って頂いて、当時植えたユリノキが楽健寺で非常に大きく育ってたくさん花も付けて、種もいっぱい落ちてきますね。

 いただいたユリノキの苗木を家の壁際に植えたんです、1mほどの苗木をもらってあそこまで大きくなるのにかれこれ30年以上経ってるわけですね。木が成長するにつれて、後ろが狭いのでユリノキが勝手に前に歩いて来るんですね。長年時間が経つと。だいぶこちらに出てきましてね。植えた所よりも1mくらいこっちへ出てきてます。そこで太くなって行ってそれがちょうどガレージのまん前なんです。楽健寺のガレージは家の横についてるんですけど、ガレージの前には枇杷の木とユリノキがまん中に張り出てきましてね。車を停めるところなんかなくなっちゃったんですね。

それで、その木の下に植木鉢が無数と言っていいくらい並んでいて、つまり花壇になってるような状態で、それでガレージのシャッターは開くんですけれども、中に車は入れられないという不思議なガレージです。そこにユリノキが育ってます。で、このユリノキについて毛藤勤治先生にお話を伺ったときに、ユリノキの蜂蜜はとっても美味しいと言うようなことをまず聞いたんですね。ユリノキは日本に少ないので蜂蜜はあまりないのです。当時はまだ、日本でユリノキの蜂蜜を作ってる人なんかいなかったと思うんです。

 アメリカでは契約してる人にだけユリノキの蜂蜜が販売されたりしてる、というようなことをききました。毛藤勤治先生はユリノキの研究家ですから、ユリノキの蜂蜜を持ってられて、少しなめさせてもらったことがあります。

 そういう経緯でそのユリノキの蜂蜜がとても美味しくて、と言う話なんですが、この蜂蜜は今、日本で一か所、盛岡だったかな、販売されています。数年くらい前に、楽健法の本が農文協で扱われるようになったときに、東京の国際ブックフェアに呼ばれて行きましたが、私と同じブースで同じ出版社から蜂蜜の本を出した人が来てまして、そこの蜂蜜屋さんがユリノキの蜂蜜を販売してます。
http://www.fujiwara-yoho.co.jp/shop/index.html
一度食べてみられたらいいと思いますね。

 このユリノキって言うのはチューリップそっくりの格好した花で、ぼんやり見てるとわからない、注意力散漫な人が下から見ても花があると言うことに気がつかないような花です。緑の中に、下から見ると緑に見える花が咲いているもんですからね。ちょっと赤い部分があるんですけど。それで、その下、木の下にうっかり車を駐車したりしますと、風が吹くと花が傾くと上から蜜がポターっと落ちてですね、それで車の上が蜜だらけになる。誰がこんなところにこんなものを着けたんだと言って怒る人がおるくらいだ、というようなことを毛藤勤治先生から聞いたことがあります。ま、それくらい蜜が多いんですね。花の蜜にミツバチがおぼれ死ぬことがあるそうです。ま、それくらい蜜が取れる花なんですね。



で、この花とモクゲンジという木とキササゲという木、花キササゲとも言うらしいんですけど、山にこの三種類を植えると、花がちょうど1か月くらいの花期のズレで、交代に咲いて行くんだそうですね。そういう植え方をすると要するに蜜源を育てると言う意味ではとてもいいと思います、という、それは毛藤勤治先生のアイディアですね。

 それから間もなく和歌山の竜神村の森林組合から講演を頼まれたことがあって、私が林業について講演に行ったことがあるんですね。その時に、何故講演に行ったかというと、ちょうどその龍神村のひとりの青年が東京の農大を出て家に帰ってきてやりたいと思うことがあったんですね。

 紀伊半島は林業で杉と檜ばっかり植えたような暗い山がほとんどなんですね。それで、そんなところに木を植えてあっても、それが金になるまで30年も50年もかかるわけですね。で、その山を立体果樹園と言うような構想で、即、金になって行くような木をね、順番に計画的に植えたらいいんじゃないか、と言うようなアイディアを彼は持っておって、で、自分の山でそれを実験したいと思うんだけれど、お父さんが絶対にそういうこと、うんって言わないんですね。ま、田舎の人ですから。それで、僕にその応援のために講演に来てくれと言うような、こういうユニークな先生がいて面白い話をしてくれるから、と言うようなことで林業組合に話しに行って、それで要するに山のプロ相手にですね、その3種類の木をこう言う風にして植えたらいいのでは、という話をしに行ったんです。

 青年はY君って言うんですけど、Y君のアイディアを活かしてね、山から年中銭が稼げる山を育てたらすてきですね。あれから二十数年経つけど、彼は初心を貫いたかどうか。
 立体果樹園が出来たなんて聞こえてこないですかが、若いときの理想を実現しようとしないで、持っていた夢も忘れてただのおじさんになっていたらさびしいですね。 
 紀伊半島の山は針葉樹ばかりで暗い山なんですね、紀州のあのあたりを走って行くと、全部緑に見えて、皆さん自然がいっぱいだと思うかもしれませんけれども、本当は畑みたいな植えられた山で自然ではない。

今回の大水害になった一つの理由もですね、自然の山を破壊して、皆伐して植林したそのことのツケが回って来てああいう大きな災害につながるんですね。均衡を破ってしまうと破壊が起こる。山は自然のまま放置してたらね、要するに色んな木が原生林のままずーっと放ってあったらあんなことにはならんのですね。今回の和歌山の水害はねだから、まああれは、ある意味人災とも言える。そういう意味で自然と人間がどうやって付き合っていくのかって言うようなことですね、均衡をやぶらない、山を手入れしてきちっと守って行けばああいうことは起こらないんですけども、山は昔植えた後ほったらかし、そのままになってる。それで山が荒れて、水も保水しなくなって、それでなんかの時にああいう滑落が起こったりして大きな事故に繋がってくるんですね。

 自然と言うのは長い時間をかけて段々こうバランスを取っていくんですね。人間のからだもそうですが、均衡を崩したら破壊があってから自然体にもどる。それで、落ち着く方向に向かうわけですけれども、林業で皆伐して山のバランスを崩している。下草を刈るとか枝を払うとか間伐をするとかいうことを耐えず手入れして行けばまたああいう事故が起きないかも知れませんが、ほったらかしにするとバランスが崩れてくる。だから、管理し出したらキチッと面倒見ていかないといけないんですが、それが金にならないというとなかなか出来ないということですね。龍神村に話に行ったときにモクゲンジとキササゲとユリノキを植えて、それで、ユリノキと言うのは木材としても非常に素晴らしい木材で、アメリカから輸入されていますけれども、これはほとんど浜松辺りのヤマハの会社に木が買われて行ってそれがピアノに化けるって言うようなことも話しました。そんなことからユリノキというのに私は非常に愛着を持ってるわけです。

「キササゲ」と言うのを実際にこの目で間近に唐招提寺で見たわけです。それは池に落ち込む直前のことです(一同笑い)。葉っぱも大きくて、やや黄ばんで、真上から日差しが落ちてましたから、柔らかくて優しい感じですね。それをまあ「こころを添えて優しく光る」と書いてみたんです。

○樫の木に鳴き盛りたる熊蝉の抜け殻残る猛夏はいずこ
 東光寺には樫の木が多いですが、この間、強い風が吹いたりしたんですけど、クマゼミの抜け殻が頑固に木にしがみついていたのを見つけましてそのことを詠んだのです。

○風もなく蒼天映えて青々と茂る蓮華の葉の大きさよ
 唐招提寺みたいな大きなお寺は蓮池があっちこっちにあって、葉がすごく見事なんです。大きな葉なんですよ。それで、その葉をアップで撮ろうと思ってそばに近づいて行ったわけです(一同笑い)。それで、

○蓮池の葉のみごとさを写さんとファインダー覗く蒼天の寺

それから
○枯れそめし蓮華の花托写さんと腕をのばしてシャッターをきる
この花托(蓮台)と書いたのは蕾を持ったお皿みたいな形して立ってる蓮台ですね。あれが今頃は枯れてすこし首が折れたりして種が見えたりしていますけど、あれを写真に撮ろうと腕を伸ばすあたりまでは良かったんですけど(一同笑い)。葉もすごいな、大きいなあと思って、その内にはこれは、蓮の葉の大きさがわかりやすいようにモデルと並べた方が大きさがわかりやすい、と思ったので、西澤さんにここへ来て顔を並べてくださいっていってそれでこうのぞいたらちょっとアップ過ぎたんで、ちょこっと後へ下がって撮ろうと思って後ろへ下がったらドボンとはまった。プールみたいなコンクリで作られた池でしたけどね。だけど、それがね落ちた感じがしなかったんですね。家内が騒いでから落ちたって言うことに気がついた(一同笑い)。何を騒いだかわからないんです。あんた何してんの!?って言われたので。

(幸子先生)突然消えたんです(一同笑い)。



(宥厳先生)まあ、それで琴美ちゃんはモデルの方が落ちそうになって、「落ち~…」って言おうとして注意したったらこっちが落ちた(一同爆笑)何か、飛び出してたんですね、三角形に。そこの部分だけ、そこへこう歩いて行って写したんですね。被写体に近づこうと思って入って行ったのが間違いのもとだったんです。まあ、そんなことですね。

○花なくもみどりに映える蓮の葉に吸い寄せられてカメラ構える

○蓮の葉と並んだモデル写さんと後ずさりたり池に転落

○泥濘に埋もり蓮の花ならぬ墨染めの衣蓮池に咲く


っていう状態になったわけです。そしたら、お寺からビックリしてお坊さんと男の人が出てきて、「大丈夫ですか!?」って(一同笑い)。大丈夫じゃなかったんですけど。

(幸子先生)「何かあったんですか~」って「いや~」って言って(一同笑い)



(宥厳先生)それですぐ横に水道があったもんですから、ここでどうぞ洗って下さいって言われて、まあ水を使わせてくれたり、洗濯機も横にあって、泥だらけのズボン…このズボンですけど、脱いでそれで手で揉んで洗って脱水機にかけて、それが古い洗濯機でほとんど脱水しないんですよ(一同爆笑)べちゃべちゃなんですよ。それで、パンツ1枚になってね、ズボン下も濡れてしまったから、それで帰るわけにもいかんし、どうしようって、そしたら家内が…
(宥厳先生)ストッキング…タイツを脱いで、琴美ちゃんは上のズボンをはかせっていうんですけど、そんな派手な服の下だから、それはちょっとおかしいやろ言うて、下をはかせて(笑)。
(宥厳先生)つまり僕は、あの~、何ちゅうんな、アレ。靴下やね、アレ。
(幸子先生)いや、ストッキング。
(宥厳先生)ストッキング!?
(幸子先生)タイツ!!靴下!薄いタイツ!
(宥厳先生)あれはタイツじゃないやん。
(幸子先生)タイツじゃないわな。靴下…
(宥厳先生)靴下やん。要するに女性の…
(受講生)タイツだよね。
(受講生)レギンス…
(幸子先生)上までのパンツ。
(琴美ちゃん)60デニールのタイツです!あれは!
(幸子先生)スケスケのんやから、
(宥厳先生)それをはいたら、何かこうパンツ丸見えで(一同爆笑)。それで、しょうがないから、そのこれを脱水機にかけたやつが、まあ水は垂れない程度の絞れてたんで、これをはいて。冷たいてなもんじゃない(一同爆笑)。それで、駐車場まで行って、それで、車の中で脱いで、そのストッキングのまま、何かもうすごい恰好で近くまで帰ってきたんです。それで、近くまで帰ってきて、何とかいう安物の…シ、シマ…
(受講生)シマムラ!!
(宥厳先生)しまむらっていう店に行って、それで体操着を一枚買ってきてもらって、それをはいてやっと、こうここへ帰って来たという…まあ、大変でした。まあ、しかし、こう言うこともなかったら人生ってのはね面白くない(一同爆笑)。誰が一番喜んでたか!?(一同爆笑)。それで、ぼくが溺れて死にそうになってるのに、はよ写真撮れって(一同大爆笑)。
(幸子先生)琴美ちゃんがオドオドしてよう撮らんから、「そんなこと言っても!!」とか言って(一同爆笑)。
(幸子先生)あかんたれ!
(琴美ちゃん)ねぇ…。もう何とでも言ってください(一同笑い)。心折れてるんですから。
(宥厳先生)まあ、そんなことがあったんですね。まあだから良いことの後には…しかし、それが悪いことだったかどうかわからないですね。僕は唐招提寺の蓮の池で花がもう一度開いたのかもしれませんからね(一同笑い)。これも悟りを開くための大事な手続きだったかも知れないです。まあ、そんなことでありましたです。それで、

○古の仏居並ぶ天平の甍見上げつスマートフォン並ぶ
 ま、たくさん来た人がみんなこうやってスマートフォンで写真撮ってますね。もう、こんな旧型の携帯電話流行らないね。ところが僕のその旧型携帯がジャボンっと浸かったもんだから、電話も何も出来なくなって、これは昨日ソフトバンクへ行ってちょっと機種は落ちるんですけど、これだと5,250円払ったらもうそれだけで終わりですっていうもんだから交換しました。も一つもっといい機種がありますって言うんだけど、スマートフォンも使ってるし、こっちはもう主に電話だけだから、もう安いのでいいわって言って、5,250円支払って、これ貰って来たんです。まあ大変でした(一同笑い)。まあ、そんなことですね。

○酔芙蓉澄み渡りたる空映し恥じらうごとく微笑み染まる
 あの、酔芙蓉って言う花をご存知ですよね。朝は真っ白に咲くんですけど、だんだん時間が経つにつれて赤くなっていくんですね、酒に酔ったように。で、夕方になったら赤い花に変わる。そういう花が酔芙蓉ですね。で、京都に水芙蓉で有名な大乗寺というお寺があって、そこのお寺に高峰靖子さんがよく、好きで見に行かれるんです。
http://www.scn.tv/user/tk118243/daijyoji/dtop.htm
高峰靖子さんが大乗寺というお寺の奥さんに東光寺の話をしたらしくて、ある日、酔芙蓉の挿し木するようにって大乗寺から挿し木を送ってくださって、去年くらいまで日陰ですがいくつか花が咲いてたんですけど、だんだんここの樫の木が大きくなってきて、それで、あまり木漏れ日も庭に落ちなくなってきたら、もう花が咲かなくなってきましたね。日陰でも強いとか言いますけど、年中日陰ではやっぱり花はダメですね。一日に数時間はやっぱり日が照らないとダメだろうと思います。まあ、そういう歌です。

今日の「どうだん」の歌は何点でしょうか?
(幸子先生)100点!(一同爆笑)
(宥厳先生)まあ、そんなことですね。え~っと、他に今日は、え~っと特に他に…皆さんの方から変わった報告とかありませんか。ないんですか。特にありませんか?

(受講生)酔芙蓉の有名なお寺って言うのは、京都の何てお寺ですか?
(宥厳先生)ちょっと今ね、名前思い出せない。うん。あんまり大きくないお寺だそうですけれども、酔芙蓉が何千本か植えられててね、観光バスも行くらしいですけど、そばまで、ここに番号…この携帯に電話番号入ってて、話したこともあるんですけど、ぱっと名前を思い出せない。調べてのちほどお教えします。まあ、そんなとこですね。まあ、しかし、池に落ちたお陰であっという間に十首できましたから(一同笑い)。落ちなければ3つくらいで呻吟してたかもね。



http://www.scn.tv/user/tk118243/daijyoji/dtop.htm 酔芙蓉の寺・大乗寺

キササゲの木って見たことありますか、皆さん。知ってる?皆さん、木。知らない?あの~けっこう大きな葉っぱで明るい木ですね。僕はかなり木のことは知っているんですが、それは材木としてよく知ってるという知り方で、生の木はあまり見たことがないんですね、例えば、この木なんかは木材としても知らないですね。
(幸子先生)これくらいの木、マメ科かな?
(宥厳先生)そうそうそう、マメ科。
(幸子先生)マメ科だから。
(宥厳先生)ああ言う豆をぶら下げる木って言うのはたくさん種類はあるんですけど。
(幸子先生)藤とかあるけど、あれより大きい。昔はもっと長かったけど、今ちょっとだいぶ短くなって。
(宥厳先生)うん、あそこのは株立ちしてました。株立ちってわかりますね?何本もこう立ってきて、だけど、まあ一本立ちでも行くんだろうと思いますけどね、ま、綺麗な優しい感じの木です。毒沢温泉の玄関前に、前にも話したと思いますけど、大きな桂の木があって、僕はその木と初めて会ったとき、あの木なんだろうと思って、経営者の小口さんって言う人に、あれ何の木ですかって聞いたら、「アデランス!!」って言われたから(一同笑い)。それはカツラの木だということなんだよ。敏子さんピーンと来た?今の話。
(敏子さん)朝電車に乗り遅れそうになったから、心がまだ落ち着いてないんです。
(幸子先生)なんや、それ。
(敏子さん)でも、ちゃんと普通の時間に間に合いました。

(宥厳先生)えーっと、そう言えば梓が12月にインドに行くんだね。うん。12月にインドに行かれるらしいです。もうインドが好きになったら帰って来ないかもしれない。そんなことない?あの~、インドにはくるみパンはないよ!(一同笑い)。
(受講生)観光で行かれるんですか?
(梓ちゃん)観光です。
(受講生)へ~。
(梓ちゃん)仕事先の人たちと。
(琴美ちゃん)仕事先の人は仕事ですから。
(宥厳先生)仕事先の人が仕事するのについて行くんやね(一同笑い)。それですることがないから観光してくるんやね。
(梓ちゃん)お休みをさせて頂きます。
(宥厳先生)まあ、あのいい経験ですよね。若い時にインドに行くなんて。こん中にインドに行ったことある人ちょっと何人くらいいる?あんまりたくさんいないね。ヨーガの関係の人はね、よくインドへ、アシュラムに勉強に行かれたりするよね。インドには大変素晴らしいグルがいられるんですね。で、僕もまあ何人かインドのグルに会ったんだけど、本当にグルが素晴らしいのかどうかなんて言う疑念をいつも持ちながら接してるところがありますけどね。ああいう人たちの持ってるのは、ノウハウゆえにグルなのか、人間の中味がまさにそういう聖なる蓮の花のごとく、悟りを開いたようなそういうグルなのかどうかな、というような感じでいつも思ってますね。ま、そういうことは思わない方がいいのかもしれませんけれども。単純にサイババはすごい!なんて言ってね。私は夢中になるタイプじゃありませんので、疑ってかかるわけではないんですけれども、スッと素直に信じたいところと、どうかなと思うようなところと大抵合わせ持ってますね、インドの先生方は。まああそんなことで…。じゃあ、今から楽健法やりましょうね。










第7回10月8日(1日目)その2

2011年10月30日 | 第11期楽健法セラピスト講座
楽健法(22)




Dinner~手間がかかった「春巻き定食」
●春巻き(にら、春雨、タケノコ、豚、エビ)●カボチャとこんにゃくの天ぷら●小松菜とあげの煮びたし●キノコのみそ汁●水菜の浅漬け●ふりかけ

















10/8 19:04 天竺菩提樹の挿し木



(宥厳先生)これは天竺菩提樹です。こうやって根がつくと鉢植えしていつも増やしています…
(幸子先生)挿し木するには葉っぱはなるべく切った方がいいねん。
(宥厳先生)うん。それで、根がでてくると鉢におろしてやるんです。この木はお釈迦様がこの樹の下で悟りを開いたというインド菩提樹で、日本では天竺菩提樹っていう木なんですね。ところがこの木を地植えすると冬をなかなか越せなくて、東光寺でも何回かおろしてだいぶ伸びてきて夏の間にはグーッと成長するんです。庭に植えたらね。ところが真冬をよう越さなくて枯れてしまう。それの繰り返しでしたね。

インドとかネパールとかタイへ行くとこの菩提樹が生えてないとお寺とは言えないと言う風に言われるんですね。それで、何とかこれ、育ててやろうと思ってるんだけど、鉢植えしかダメ、それで、今年も冬になると本堂の屋根の下に入れとくんです。霜をかぶらないように。ところが、今年の2月に妹がなにを思ったのか2月の寒い時にパッと外へ一日出したもんだから、それで1本ダメにしてしまってそれでまあ、そっからまた新芽が一本細い、下の方にいらないような軸が出てたんで、それをハサミで切ってここへさし込んどいた。ほらこんなに根が伸び始めています。
(幸子先生)インドから持って帰ったやつじゃないの?私が!
(宥厳先生)あれはそこで元気です。うん。それは、インドのホテルの庭に生えてたのを引っこ抜いて持って帰って来たんです(一同笑い)。それはちゃんと元気に育ってますからね、また見て下さい。今、鉢が三つほどあります、上に。それで、これを増やして、またこれここで切ってまた差してしたらまた出てくるんですけどね、ま、そういう風にして増やしていくこともできます。もし菩提樹を育てたい人がおったら枝をあげますから持って行ってやってみてください。こうやって。

 この葉っぱは柔らかい時に食べられます。でもあまり美味しいものではないですけどね(一同笑い)。体にはいいとか言う話で。このインド菩提樹と言う木は非常に成長が早い木なんですね。それで、この種があって、今、鉢の内1本は種から僕が育てたものです。で、その種はもう芥子粒の三分の一くらいのちいちゃなちいちゃな種なんですね。小指の爪よりも小さいような塊の中に100以上種が入っていると言うようなそんなちいちゃな種なんですね。これが、時期が来たら落ちて、それで人が踏んだりなんかして、風が吹くとどっか飛んで行く。それで、飛んで行ってどっか止まった先で運がいいと発芽するわけです。で、それが屋根の上で発芽したり、といの中で発芽したり、あるいはブロックの裂け目にね、家の、あんあなとこに入ってそっから目を出しているのもあります。

 シャルマ先生に以前この菩提樹の話をしたら、あれはもう挿し木以外ではつかないって僕に言うんですよ。それで、じゃああの大学の屋根の上に生えているあれは誰が挿し木したんですかって反論したり(一同笑い)。で、シャルマさんの家の隣のブロックの隙間からも生えてて、誰があそこに挿し木したんですかって(一同笑い)いったんですね。だから、あんまり学者の言うことも当てにならないっていうことですね。で菩提樹はそうやって出てくるんです。ところが、この木は非常に成長が早くて、インドでは、それで、家の横のそうやって飛んできて、そこに根付いてほったらかしとくとドンドンドンドン大きくなってきて、そしたら根が太く広がってきます。そこのちょうど根が一本太くなってるでしょ?ああ言う類で家の下で根が広がって来ると家を持ちあげちゃうんですよ。それで、ついに家が住めなくなって、立て直さないといけないと言うようなこともあって、温かい土地の植物って言うのは非常に生命力が強いです。で、まあお釈迦さまが悟りを開いた木で、インドとかへ行ったら葉っぱ一枚とってもね、叱られるくらい大事にされている聖なる木なんですね。で、それをまあここに取ってきて(一同笑い)。



(敏子さん)持って来ちゃっていいんですか!?
(宥厳先生)あ、これ!?それはあの種をお寺に育てようと思って抜いてきたわけですから。カルカッタの道路にも、コンクリの隙間からも出て来てるしね、。生命力が強くてね、いろんなところに生えてきます。インドの人は別に気にしない。けどまあ大木になるととても大事にして、お寺に育ってる菩提樹は聖なる木です。で、日本で時々お寺で菩提樹って言って植えられてるのは、あれは中国菩提樹っていって全然種類が違うものですね。

 お釈迦様の悟りを開かれた菩提樹の木は葉っぱの先がしゅーっと長く伸びてます。
 上に大きな葉っぱがありますからあとで見て下さい。葉っぱの先が長いのがインド菩提樹です。もうこやって育ててみると物言わぬ木も可愛いもんですね。ちょうどひと月ほどしたらこんなに根がのびましたね。
(受講生)うん~すごいよね~
(宥厳先生)この前は枝切って差したとこだったね。それで、2,3日で葉っぱ切っちゃったん。ま、そんなことです。
(敏子さん)それって時期ありますよね。お水に刺す時の時期ありますよね。
(宥厳先生)いつでも大丈夫。それで、日本では秋になったら普通葉を落とすでしょ。これも落葉樹なんだけど、日本では葉を落とすのが非常に遅くてもう新緑が出たころにやっと葉を落とすんです。それからだいぶ遅れて葉が出てきます。だから、そういう暖かい地方の植物だからずれがあるんだと思うんです。




 樹木をじーっと観察してると色んな事を教えてくれますね。面白いものです。
 興味のある人はこんな挿し木したりして、それでちあきちゃんがさっきユリノキの挿し木が欲しいって言うてましたけど。ユリノキは絶対挿し木では成功しないんだそうです。したためしがないって聞いています。それに移植も難しい。だから、大きくなって移植するとたいてい枯れてしまうんだそうですね。ところが街路樹がたくさん植えられうようになってますけど、あれはもう小さい時から根を養生してで、縄でくくった状態で植木屋さんが各地に運んで植えるから、まあうまいことつくんですけどね。ま、今そういう風に木が上手に植えられうようになってユリノキが広がって来たんですね。で、ユリノキの種が楽健寺にもたくさんこれから12月頃になったらもうちょうど種になって風が吹くとくるくるっと舞いながら、船みたいな形をしてるのが落ちてくるんです。この種が非常に発芽率が悪いそうなんですね。で、毛藤勤治先生の話によると、600に1個くらいじゃないかなんて言われてましたが、僕は3粒ほど植えたら出てきましたからね(一同笑い)。だから、まあ確率はそう悪くないかもしれないですね。で、まあこれも一度楽健寺の種を拾ってきて、それで、狭い面積の所に種を重ねるようにがばっと置いてそれで、土を重ねて置いておくと次々と毎年出てくると言う風に毛藤勤治先生はおっしゃってました。

で、そういう発根させる方法を先生が考えだしたのでそれで、街路樹として日本中に広まるようになっていったらしいですね。一番最初は明治3年かにアメリカから150本の苗木が日本に送られて来たそうです。ユリノキですよ。ところがそれがどこに植えたのも全部根付かなくて、それで新宿御苑に植えた3本のユリノキがうまく育って、3角形にこう植えてあるらしいです。で、お互いにまあ助け合うような形で大きくなって、それが今こんな太い木になってるんですね。それを母樹として種を拾って発芽させ、育てていくと言うことを研究されて、それからまあユリノキ全国的に広がったんですね。今あの本堂の横にもユリノキを1本、塀の外っ側に植えています。

その木は、この川向うにガソリンスタンドがあったんですけど、そのガソリンスタンドのご主人がユリノキが好きで裏庭に何本も育てていたんです。今はもう駐車場になってしまって1本もユリノキないですけど、そこの実生の苗木をもらったんです。

桜井駅前の街路樹が全部ユリノキです。ところがこの辺の街路樹はみんな季節が来ると枝を幹に近いところで切って落としてすっ裸にしてね、化石みたいなかっこうです。枝切っちゃうもんですから、非常に可哀そうに思いますけれども、あれでは花はつかない。

 だけど、今年はちょっと残してるみたいですね。今年は花が咲いてました。ユリノキを育てるのもなかなか大変なんですね。で、ユリノキは木と言うのは賢くて横を人が歩きすぎて地面が固くなって根っこが吸収力が落ちるとそちら側の枝をパターンと落とすんですね。それで、あのユリノキは枝を落とすから危ないとか言って植えるのを反対する人もおるという話を聞きましたけどね。木が判断して自分で調整するんですね、自分で。生きるために、何かこう微妙な調整をして枝を落としたり、こっち側を伸ばしたり、植物と言うのは頭を使ってやってるみたいですね。

ま、それがこの菩提樹の場合は、大阪でも正祐寺っていう上本町の近鉄終点の近くにお寺があるんです。そこでは割と大きく育ってます。私は20年ほど前に正祐寺へおばあちゃんの楽健法に通ってた時期があって、そこでペテロ神父さんが楠の下で日向ぼっこして本を読んでいる所に出あったんです。、それで友達になって、ちょうど東光寺に私が来る年のひと月くらい前にペテロさんと友達になって、で彼は当時宣教師でしたけれども、日本語を習い始めたばかりで、それで時間があると東光寺へ来ては私がお寺の整備をするのを手伝ってくれていました。

 今の庫裏の前に古い家が一軒、4,5坪かな、四畳半一部屋くらいの家があったんですよ。ボロボロの。屋根はトタンでしたけれどもね。吉野造りの家で、吉野造りって分かりますか?山の斜面に柱を立てて、地面のないところに家を建てるんです。下から見たら隙間があるんだけど、玄関の横から見たら奥のほうは斜面に柱が伸びて建ってる家なんです。    
 そういう斜面に建てた家を吉野造りっていうんですね。よくあるでしょ、そういう家が。

 吉野山の町に行くと旅館とか全部吉野造りですから、1階なのに下に降りていくところがあって、また下に部屋があるとかね。そういうのが吉野造りです。ここの吉野造りは柱を針金で縛りつけてやっと持ってるような、恐ろしい家でした。

 で、この家の中にもう長年のガラクタを全部放り込んでそのままほったらかしてあったんですね。

 これを全部解体処理したのですが、廃材をよそに持っていけませんから、それで、ペテロさんと二人で家を解体して屋根に乗ってるトタンを針金で結んで箱に組み立てて、今の私のトイレの奥のパソコン部屋のあたりですね、あの辺に四角いトタンの囲いを作って、ふたも作ってそこへ解体した廃材を放り込んでは火をつけて(笑)。毎日毎日、ひと月以上かかってね、家一軒分、灰にしたんです。

 まあそんなことがありました。だけどまあその正祐寺というお寺にはユリノキがだいぶ太くなってる、あ、ユリノキじゃないその菩提樹がね。東京のお寺にはもうだいぶ太くなったのがあると聞いています。だから、ここも上手にすれば育つよって言われるんですけど、やっぱり下が川で冬は風の通り道ですから、冷え込みが激しいのでね、まあ、根っこにきちっとこう枯葉とか藁とかかぶせて、養生してやると育ちますとか言われてるんですけど、どうもまだよう成功してないです。まあ温暖化が来てますから、その内育つかな。ちょっとまあ相当丹念に面倒を見てやらないとね。和歌山県辺りだったらひょっとしたら暖かいから、簡単に根付くかもわかんない、と言う風に思います。
(琴美ちゃん)千葉!
(宥厳先生)千葉も温かいの?またよかったら一度挑戦してみたらいいです。それで通信販売ではね、鉢植えのこれくらいの大きさに育ったものが35,000円くらいで売られてます。だから、まあその大きさで1700円くらいの値打ちがある(一同笑)。と、いうようなもんですね。まあ、あの菩提樹ってあんまり持ってる人がいないのでね、そうやって仏壇仏具売ってるような会社がそういうの育ててね、販売してます。まあ、今度インドへ行く機会があったら…
(琴美ちゃん)梓が!!
(宥厳先生)種をね、どっかで見つけてきたらいいですね。ちょっと難しいかもしれない。ピッパラのシードって言ったら誰か見つけてくれるかもしれない。シード オブ ピッパラって言ったら。ピッパラって言うんですよ、向こうではね。ピッパラの木。
(敏子さん)小さいやつは抜かれてしまうんじゃないんですか?
(宥厳先生)だけど、あちらこちらにありますからね、いろんなところにあります。だから、まあ時期が合えば実が下に一杯落ちてます。
(琴美ちゃん)だって!
(宥厳先生)うん。まあ、それ見たってどれが菩提樹の種やら分からへんかもしれないけど。あの、ちいちゃないちじくとそっくりの形してます。イチジク科なんですね。
(受講生)へ~。イチジク科なんだ。
(宥厳先生)うん。まあだけど、植物ってそうやって付き合ってみるといろいろ勉強になりますけどね。
(敏子さん)大きく根が張りますよね。
(宥厳先生)うん。お宅も家壊れるって思ってもう心配してるの(一同笑)。
(敏子さん)だから、建物の近くにはイチジク植えない方がいいっとか、
(宥厳先生)あ、そうそう。
(敏子さん)言われてますよね。先生のトイレもイチジクだったんですか。
(宥厳先生)あれはね~何かわからない。今言ってるのは、上のトイレですね。トイレの排水…ちょうど水流してど~っと流れる排水のつなぎ目の間から細い根が入って来て中でこうばーっと塊になるんですよ。それで、今も根が大きくなって来て時々水が詰まってます。ゴボゴボゴボって言って流れてますから、その内また針金を突っ込んでね、その根をかき出してやらないと。前に解体した時に見たら排管にもうびっしり根が広がってて、ビックリしましたね。山の中でだからああいう水回りの所は根が入って来ますね。植物って賢いもんですね、あれ。賢いって言うのかすごい嗅覚で生えてくるような気がします。

じゃあ今から楽健法やりましょうね。護身法済ました?皆さん。




楽健法(23)~究極の楽健法「宥厳&幸子」






第7回10月9日(2日目)その3

2011年10月30日 | 第11期楽健法セラピスト講座
2日目~





朝のお勤め













Breakfast
●天然酵母パン●カボチャスープ●フルーツサラダ(柿、きゅうり、梨、玉ねぎ、イチジク、オレンジ







10/9 8:50 「一病息災」

(宥厳先生)入口に座ってる人こっちに。そこまだ入り口!あの、写真機を持って写真を写す時は、池のそばであんまり後ろ見ないで後ろに寄らないようにね。こうやっていくとドボンと行くから。

(宥厳先生)何か…おはようございます。
(一同)おはようございます。
(宥厳先生)先、護身法やりましょう。

(宥厳先生)今日は僕は誰と組むのかな。
(西本さん)はい!ありがとうございます(一同笑)。



(琴美ちゃん)辻さん、おいしい所を帰っちゃったな。
(宥厳先生)あの~痛い目に遭いたくないと思って帰られたんやな(一同笑)。今、この中で体調の悪い人今日はいないよね。大体いいですかね。あんた調子よくない?どういうところが良くないですか。
(受講生)胃が…
(宥厳先生)胃。便秘されてる?
(受講生)はい。
(宥厳先生)便秘のために何かやってますか。
(受講生)やってません。
(宥厳先生)やってない。お腹のマッサージもやってない?
(受講生)なかなかできないです。
(宥厳先生)できない…。健康法と言うのは、やっぱり健康なときに続けるのが健康法で、悪くなってやったからと言って、急に効くもんじゃないんですね
。普段からやっぱりお腹を200回マッサージすると便秘治ってきますから、必ず。天然酵母パン作ってる?
(一同大爆笑)
(琴美ちゃん)今の笑顔が良かった(笑)。
(宥厳先生)何か本当に聞こえなかった。まず、あの天然酵母パンを食べたひとが最初に報告してくれるのは便秘がなくなって来たということです。大抵そう言われますね。それでも治らない人ももちろんいますね、おりますけれども食べてると次第にお通じが良くなって来るんですね。腸の中のバランスがとれてくる。腸内細菌叢が綺麗になって行くんだと思いますね。それで、有用菌が増えてきて、冷え症の人なんかは、あんた冷え症でしょう?冷え性の人なんかは体温が低いからそれで胃が冷えてね、足も…それで足が冷たいんですよ。大抵体の冷え性の人はお腹に触るとお腹が冷たい。で、胃が冷たいわけです。その冷たい胃の後ろを足の方を流れてる動脈が走ってますからそこで、胃で冷やされた血がこう脚の方に行くのでよけ寒いんですね。そのためにはやっぱり循環を良くしてやるために運動したりしたら体が温まって来るわけだし、ま、楽健法もそういう意味で体を温めるのにいいんですけど、胃下垂の人ほど胃が冷たくて、それで足が良く冷えますね。

 今から冬になって来るとますますこう冷えが厳しくなってきますので僕もいつも調子の悪いところがあって今も痛んで…痛いんですけど、左足のこの薬指ですね。これがいつも痛いです。これもこうやって歩く時飛びあがるほど痛い。それで、数年前からそういうことに気がついててこれが揉んでみてもどうしても治らないんです。たぶんどっか経絡からいうと、ま、喘息を持ってましたから、そういうところから痛みがここに来るんだろうと思いますね。靴を履けないのです、だから。履くと歩くたびにギュッと激痛が薬指に来るんです。

 それでまあ草履はいて五本指の靴下はいて、今はまいてませんけど点温膏を半分に切って薬指のここにきゅっとまきつけてね、だからパンの日はいつもここに点温膏を貼ってます。それから足の裏に三枚点温膏を貼るんです。そうすると疲れが全然違います。で、点温膏をうっかり忘れてパンの仕事すると夕方には足がパンパンになって我慢できなくなるくらいだるくなってくるんです。それが、あれを貼り付けることで何とかしのげる、それでテープのふちからネバネバがはみ出してきて靴下を履く度にべちゃっとするような感じが残ったりするんですけど、まあそうなって来ると靴下またひっくり返して、テープで粘りを取ったりして使ってますけどね。




 まあ、どっかにそうやって痛みがあることで、逆にね、これが自分の健康管理の一種のコーション(警告)になって、警告をしてくれているようなね、そんな感じで、ま、自分の不調を嘆くんじゃなくて、これがあるために、それを自分で注意しながらやって行くって。だからまあ、あの「一病息災」なんていう言葉がありますけどね、一つ病気を持ってると他の病気をしないってね、だから、ちょっと体調のよくないひとほど用心深くてそれで逆に長生きするなんてことを言われますね。

 で、健康で病知らずの人が突然ポカッと病に襲われたときにどう対応していいかわからない、と言うようなことがあって、だからまあ普段からやっぱり自分の体には、そんなことばかり意識して生きてるわけではないんだけどね、どっかがそうやって不調なところがあると、やっぱりそのことに気をつけて生きて行けますから、まあ、何かこれがなくなればいいのになとは思いますけれど、なくならないことがいいことだと、逆にいえばね。

 それから左足の親指、この左はここも痛いんですね、それがいまだに痛んでます。それはある日布団につまずいて、爪が剥がれたようになって爪の付け根から出血したんですね。それがいまだに足がしびれたような感じがしてますね。

 座布団とか布団につまずいたくらいでね、こんなことが起こりますから、まあ、今までそんなことがなかったと思うのがつまり、やっぱり老齢化して行くということかも知れませんね。想定外です、そんなことが起こります。ま、ゆめゆめ油断めさるなって言うことですね。油断してると、年取らない人なんて一人もいませんからね、まあ、ドンドン体が良くなっていくというよりは、ほっておいたら悪くなって行って当たり前なんですね。

 ま、そういうところにこう言う楽健法とかヨーガとか、ま、呼吸法とかね、どんなことをその人が生涯にわたって実行していくかと言うことによって、健康の管理、維持の仕方が違ってくると思うんですね。で、是非まあそれぞれ自分の出来る範囲で継続できることをやめないで続けて行ってほしいと思いますね。

 楽健法はどうしても相手がいないとできないことなんですけれども、しかし、人間というのは相手がいて当たり前だと言う感覚でないと困るんですね、本当は。誰も相手がいない、ま、結婚の相手が見つからないということはあり得るかも知れませんけれども、楽健法の相手くらいは見つけたいと思うんですね。(一同笑い)

(琴美ちゃん)ビックリした!笑顔になったから見つかったのかと思った。
(宥厳先生)結婚って言うのは、まああの縁があったらするもんで、縁がなったらしないんですよね。したくてもできませんから、まあしょうがないといえばしょうがないですけどね。だいたい人間と言うのは結婚しても後悔するし、結婚しなければしないでまたそのこと後悔するし、という…業が深いもんですからね、人間と言うのは。

 だから、まあだいたい結婚してバツ一になるのが正解なんて思ってる人もおるみたいですから(一同笑い)。そんな人もおるみたいですけど。まあ、楽健法やってると友達とか仲間が必ずできてきますからね。そのつもりで。それからやはり普段職場ででも付き合ってる人と親しく、親しい人には楽健法をたまには向こうが希望すればですね、やってあげて、そのことが理解が得られてもっとやってほしいとか言う人が増えてくれば、自然と楽健法する機会も増えてくると思いますので、ぜひそうしてほしいと思います。

 ま、まだまだこの講習会も当分はまだ継続出来るくらいの体力も気力も、私も家内もありますので、家内は毒舌がますます冴えてきたり、それでみなさんのまた違ったところにねピシッとこう刺激が入った入りしてね、それで面白がったり、まあ、池に落ちるような慌て者の院主さんもいますので、まあそれでも楽しく明るい雰囲気でやれたら何よりだと思います。

 まあ、ときどきね気難しい人も世の中にはおりますけどね、気難しい人ばっかりではなくて、気難しい人もここに来てたら、そう気難しくなくなって帰って行かれる人もおりますからね。だから、まあ何か輪が出来ると言うのはそういうことだと思うんですね。何かお互いにこうやって毎回交代で、相手が変わって踏み合いして、それでやはり普段はあまり物も言わないんだけれども、楽健法するとものが気楽に言えるようになることも皆さん経験されていると思いますので。皆さん、今からもしっかり和気あいあいと楽健法進めて行ってほしいと思います。えっと今日は昼からちょっと早い目に帰りたいと言う人もいますので、少し昼食の時間を前倒しするような形で、あんまりゆっくり…、ちょっと早い目の楽健法を、昼はさんで二回やりたいと思いますので。まあ、50分くらいで交代できるような雰囲気で、ね、持って行きましょうかね。お昼の用意はもうできとるんですか?

(幸子先生)えっ!?そんなんねぇ。
(宥厳先生そんなんねぇ、なんて言わないで、何か予定が、プログラムが出来てるかって聞いてるの。
(幸子先生)何とかいたします。葱をかじらせるとか(一同爆笑)。
(宥厳先生)それと、あの~え~っとね、今、この間も酵素風呂で講習会やったんですけど、この間は三人…向こうに申し込まれた人が三人で、こちらから三人行ったのかな、ね。私も入れて四人。お幸さん入れて五人、全部で九人。
(琴美ちゃん)8?9だっけ?
(宥厳先生)僕は相手がいなかったから、全部で九人だったね。それでまあ酵素風呂の方はね、例え人数が少なくてもね、できるだけやってほしいという…。
(琴美ちゃん)やってほしい!?



(宥厳先生)そりゃやってほしいでしょ。お客さん来てくれるんだから、ね。それで、僕の方は毎月って言うたら大変だし、まあ各月くらいにでもじゃあ考えましょうかって言う風に言ったら、毎月してくれても結構です!って言って。毎週でも結構ですって。まあだから、少し…私も酵素風呂に入りたいので、まあ月一くらいのペースでやってもいいかな。
(琴美ちゃん)毎月なんだ…ハッハッハッハッハ…
(宥厳先生)月一くらいでやってもいいかなと思っています。別に人が来ても来なくても構いませんから、決めた日に、第二週の木曜日くらいだったら僕時間取れるし、それで東京から琴美ちゃんやら時間がありそうだったら出かけてくれるでしょうから。
(琴美ちゃん)そうするとまた池に落ちる(笑)。
(宥厳先生)もう今度はドツボにはまらないようにやりますから。
(幸子先生)今度は他の所にはまって下さい(一同爆笑)
(宥厳先生)ま、そんなつもりでおりますので、あの~インターネットやブログで知らせます。この間は楽健法のページにリンクしてなかったのが、欠席が悪かった理由じゃないかな、と。
(幸子先生)「出席」が悪い。(一同笑い)



(宥厳先生)欠席が多かった!!(一同笑い)いちいち突っ込まれるから傷ついた!(一同笑い)じゃあまあ、今から楽健法やりましょう。
(一同)お願いします~。



楽健法24(1)











Lunch~みんなだんご汁「野菜総ざらへ」
●だんご汁(こんにゃく、あげ、とうがん、かぼちゃ、じゃがいも、水菜、セロリ、玉ねぎ、アボカド、パプリカ、切り干し大根●衣担ぎ



Happy Birthday Dear ゆっこ先生















楽健法25(2)











10/9 14:22





(宥厳先生)今日はもう帰った人いるの?
(受講生)平松さん!
(宥厳先生)平松さんと一緒に来た人は置いて行かれたん?それはそれは。小山さん、まだ間に合うの?
(小山さん)間に合います。
(宥厳先生)じゃあっまあこれで全員だ。
(受講生)まだいる!
(受講生)皆さん集合です!
(宥厳先生)何かよく食べて、よく楽健法したので、寝ぼけてますけど(一同笑い)。寝ぼけてる人が半分くらいおるんかな。琴美ちゃんも寝ぼけた顔してる。まあ、それじゃこれから寒くなりますので風邪ひかないように気をつけて。まあ、それで今回は応援ありがとうございました。
(西本さん)いいええ。どうも。
(受講生)お疲れさまでした~
(西本さん)お世話になりました。どうもありがとうございました。
(宥厳先生)またお願いするかと思います。
(西本さん)よろしくお願いします!!
(宥厳先生)じゃあ、まあ特に要望とかないですか?ご意見。ニッシーは?
(西澤さん)いや…あの…
(宥厳先生)ない!?
(西澤さん)はい!ありがとうございました。気持ちよかったです。
(宥厳先生)O型からの発言もありました(一同笑い)B型の発言ないですか?(一同笑い)
(幸子先生)発言しなくてもいつも発言しております。
(受講生)そうですね。
(宥厳先生)じゃあまあ。
(受講生)発言あります!
(宥厳先生)どうぞ。



(受講生)今日は宥厳先生と幸子先生に踏んでもらいまして、ありがとうございました(一同笑い)。で、まあちょっと言う人には言ったんですけど、まだまだ追いつけないと言うことで、悔しい!残念!ということで(笑)。まだ精進することにしますのでよろしくお願いします。
(宥厳先生)何か自分でやっててもうまいなんて自分で全然思えなくて、まだまだ未熟だなという思いがいつもあるんですね。それは、別に謙虚で言うてるんじゃなくてなかなか踏んであげてる人の痛みも感じさせずに気持ちいいな~っと思う内で効く楽健法をしたいと思いますが、ついきつくして顔をしかめられて、谷川さんなんか初めから逃げ腰で(一同笑い)。背中だけでいいとか(一同笑い)。まあ、だけど以前にも一回そんな話しましたけど、アメリカに住んでる人がね、ここへ男の人、体の大きな音楽やってるって言う男の人ですけど、来られてて、自分の数では三千人くらい踏んだと思いますと言う人が来られたことが合って、しかし、楽健法の本を読んで、独学でやってるだけなのでこれでいいか踏ませてくれって、踏んでもらったんですね、それがすごく気持ちよくて踏まれるなり寝てしまって、それで上手だったか下手だったかさっぱりわからないような感じだったんですよ(一同爆笑)。

 だけど、踏まれだしてこれはすごく癒し系の踏み方だなと思って。あの~怪我させたりしたらいかんって非常に用心深くやってる人でしたね。何か種子島の男の人でNASAで働いてるアメリカ人の女の子と結婚してそれでワシントンD.C.に住んでるとか言うてここへ寄られたんですけどね。まあ、あの優しく踏んでて、しかも何かいつの間にか気持ちよく効いてるようななね、楽健法ができたら一番いいんじゃないかなと思いながらついこれ、これでもか~って踏んでしまう癖があって。

 まあ、しかし、私の場合はここが固いですよって知らせる意味もあって、わざわざいじめてるわけではないので、ま、その辺誤解はされないと思いますけれども、優しく踏むって言うかパッと最初のタッチ…やっぱり最初のタッチは必ず、僕はどんな場合でもきつくは絶対に踏まないです。最初の1分か2分は軽く踏んで、それからだんだん力いれていくという風に。それはもう基本的に気を付けてやるようにしていつも同じ強さで踏んでいかないとということですね。そういうことちょっと気をつけてやっていけたら。



 まあ、しかし、皆さん相当上達してきたと思います。もう間もなく免許皆伝近いですから頑張ってくださいね。じゃ、これで終わりましょう。ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
(琴美ちゃん)ちょっと布団かぞえるから数えるから待ってね。あ~ちゃん!かず数えよう!
(宥厳先生)布団重いとか、ちょっと具合の悪いことがあったらいってくださいね。自分の寝てる布団でこんなん変えて欲しいわあって言うものがあったら遠慮なしに言っていただいて変えて行きますので。もう十年もここでね、やってて、まあ十年まえからここで使ってるものもあるだろうと思います。じゃあまあこれで終わりにしましょう、一度。ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました~


第6回9月10日(1日目)その1

2011年09月28日 | 第11期楽健法セラピスト講座

   お知らせ  奈良イオンハウスで、毎月、酵素風呂+楽健法講習会が開催されます。


      http://www2.begin.or.jp/ytokoji/ionhouse.htm






はじめに ゆっこ先生が屏風に揮毫すること


http://www.asahi-net.or.jp/~xq9m-ymnu/kasetsu_matsumoto/kasetsu1.htm  


 


上記のリンクは宥厳先生が友人の女流画家、松本華雪さんの作品を紹介するために数年以上前にアップされたものですが、先だって松本華雪さんから和紙に描かれた淡彩の墨絵が送られてきた。蓮華を描いたもので、蕾と開花した蓮華と枯れて種のとれる状態の蓮華三態の作品です。  宥厳先生がこの道場を使うようになった時に、二つ折りの屏風を表具屋で張り変えた状態でしまい込んでいたのを活用して、これに書を描いて蓮華の絵をはりつけることになり、楽健法の講義が始まる時間前にとりかかりました。  虚心合掌という言葉を書くということになり、竹筆で幸子先生が書くことになりました。宥厳先生が書けば?と思う生徒さんもいられるのですが、幸子先生に花を持たせるのが宥厳先生らしい裏方のやり方で、書く段取りをしてから幸子先生がいかにも大胆に一気に書きました。これに3枚の絵を張り付けて仕上がったのが写真の屏風です。宥厳先生が思いついて仕上げるまで30分あまりの早業。眺めて見飽きない屏風が誕生しました。







9/10 13:08
(宥厳先生)屏風が乾かないのでちょっとだけこのままにしておきます。もう、みんな揃ったの?まだ来てない人声を出して。そうか。どうも、おはようございます。 (一同)おはようございます。 (宥厳先生)先月、話していた釈尊の写真をプリントしてきましたので、一枚ずつ(31歳のお釈迦様の写真)。僕のパソコン、枠が出来たり、余白なしの目一杯に刷れたり、同じ設定で印刷しても同じにならなくなった。ちょっとおかしいね。これも一枚ずつ(弘法大使の写真)。どちらの写真も本からコピーしてプリントしたので、本物の原画から、ネガから描いた写真ではありません。








写真『若き釈迦の像』&『三田光一の念写、弘法大師』

この空海の念写の写真の話をしたかな?していない? 先週の東京のみなさんの合宿の時に話したんだったね。そうか、もう先週話したから今週は話さなくてええかな。 (受講生)えっ!(一同爆笑) (宥厳先生)この釈尊の写真はね、ここから三輪山に行きますと、三輪神社の右隣にね、平等寺っていうお寺があるんですよ。そこのお寺のお堂を覗くとね、この釈尊の大きな絵が本堂に飾ってあるんです。で、それはご住職の丸子さんっておっしゃる方なんですけどね、その人がね、この写真を見ながら一気に自分で画用紙かなんかに書いてそっくりのものをお堂に飾ったんだそうですね。それを初めて見たときに僕はどういうご住職か知らなかったのですが、ああ、ここの住職は変わった人やな。あんな写真、飾ってあるって、ぼくと一緒や、と思って(笑)。変わってると言うところがね。そう思ってたんですね。その後色々話をあちこちから聞いたところによると、そのご住職は、オープンドマインドの人で、つまり、気持ちの開かれた人ですね。それで、小さくまとまって気難しいことを言って生きてる人ではないみたいで、平等寺と言うお寺をいろんな催し物に開放したりなんかされたらしいですね。  そういうことが地元の人には気に入らないらしいんですね。いつか話したことがあるかも知れないけれども、ある寺にお坊さんがいなくなって、どこの馬の骨かわからないお坊さんがどこからかやってきて住み始めるとね、近所の人が冷たいじろりとした目で(笑)、こいつを仲間に入れてやるかどうか3年間ぐらい観察するんです。で、そういう目で見られてる坊主のことを他国坊主というんだそうです。たこ坊主ではないですよ(一同爆笑)。よその国から来た坊主だから他国坊主ですね。お坊さんって言うのはそういう風にどこか縁があったお寺に流れて行って住み着き、そこでまあ、お寺を守ることになるので、他国から来た坊主、他国坊主。あまり良い言い方じゃないと思いますが、そんな話を師匠から聞いたことがあります。

 それでその丸子さんって言う方だけど、そこの平等寺の息子さんがご夫婦で楽健法の勉強に来られたりしています。  この釈尊の原画はロンドンの博物館にあるということが、宮沢賢治の記念館のこの写真に解説が書いてあった。で、そういうものだということが分かったんですけど。私の持ってる材料では、橋本徹馬というひとの「般若心経講話」って言う本に写真が掲載されていて、二行ほど解説が書いてあって、それにはブッダガヤの石像の写真であるって書いてあるんですね。でも石像の写真がこんな風に写るわけはないよね。どういう石像か知らんけど。で、ひょっとしたら念写の写真なのかと思ったりするんです。要するにやや正体のわからない写真なんですけどね。まあ、しかし、31歳のお釈迦様で、もっとも真に近いと言われていると橋本徹馬が本の中に書いてあります。  で、この写真を宮沢賢治がどういうわけか、とても大切にしていたということが宮沢賢治記念館に書かれていたんです。  宮沢賢治と言う人は非常に信仰深い人のようでしたからね。あの人は浄土宗だと思うけれども、宮沢賢治さんという人は霊能のあるひとだったようですね、ときどき天から変な声が聞こえてきたりして、奇声をあげて、ひやっと飛び上がったとかいう話もありますね。だけど、宮沢賢治が亡くなった後、遺族の人は宮沢賢治がそういう霊的な、何か不思議な力を持っていたようなことは、極力言いたがらないようです。

 そういう話になると、日本の大多数のひとの常識と言うものは、そういうものを批判的に見がちなんですね。神秘的なものや、怪しい世界に関心を持っていると日本では世に入れられないと言うことがあります。霊的なことに興味を持っている人たちは、科学はそういうことを解明できないかも知れないが、やはり解明しようとする謙虚な気持ちで接しないと、それは科学的態度とは言えないとか言うんだけれども、現実には、実証できない、目の前で見せてあげることのできないようなものに関してはね、やはり疑ってかかって、疑ってかかるだけでなく攻撃したり排斥するっていうのが日本人の傾向ですね。

だから、そういう意味でもう一枚の弘法大使の写真は「心霊と神秘世界」というこの本に載ってる写真をコピーしたものです。この本を書いたのは文学博士の福来友吉という東京大学の教授だった人で、超心理学を研究された先生ですね。福来友吉はなかなか素晴らしい能力を持った先生です。この本は昭和57年刊行の復刻版です。最初は昭和7年にこの本が出版されて、それの復刻版がこれですね。それで、この福来友吉はこの写真の先生ですね。

福来友吉記念館というのが、えっーとえーっと、、、何とかう有名な古い町、、、 (幸子先生)飛騨高山!


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%9D%A5%E5%8F%8B%E5%90%89 (宥厳先生)そう、飛騨高山市に福来友吉の記念館があります。そこの記念館に行きますと、この本に載ってるこれらの写真が展示されてます。本の内容は超心理学の研究報告で、例えば誰かがこの屏風の言葉「虚心合掌(こしんがっしょう)」とか書いて桐の箱に入れて隠したとするでしょ?それを霊視能力を持っている人は箱の外から霊視して読むわけですね。そういう人間のもっている特殊な能力に福来友吉は関心を持って研究を始めたんですね。そういう研究をしてそれがさらに幽霊の研究だとか色んな研究をしていくわけですね。で、超能力を持った人達が世の中にいっぱいいるっていうことが分かってきて話題になると、私も出来ます、私も出来ますって言う人が日本中から現れるわけですね。  それで、第一次心霊ブームが日本に起こったんですね。で、その心霊ブームを引き起こしたりすると必ず弾圧する動きがでてきます。東京大学の学者たちなどが批判し、ああいう怪しげな狐狸の類。狐狸ってわかりますね?キツネ、タヌキの世界。そういう妖怪のような世界のことをね、くそまじめに学問として取り上げるのは学者としてけしからん、と言うようなことで、この先生は東京大学を追放されるんですね。で、追放されてから高野山大学に行って教鞭を取ったりするんですけど、やっぱりあのアカデミズムの世界の中では地位を奪われて正道を行けなくなっちゃうんですね。日本にはそういういわゆる心霊のことやら超能力の研究をしたりする有名な先生が淺野和三郎とかね、いろんな先生方がいらっしゃって、そういう人たちの側から言うと疑いを入れない事実だと主張されていますが、それを客観的に証明ができない。前世があったとか来世があったとか、死んだ人に会ってきて話したとかね。そういう話は無数にあって、今でもまあそれは沖縄のユタにしろ、青森のイタコにしろいろいろやって見せてくれますが、ホントに何が起きているのか他人にはわかりません。演じているのかもしれない。けれども、拝みやさんなどといわれる人に霊が降りてしゃべったりすると、死んだ本人しか知らないようなことしゃべったりもする。そういうのを目の当たりに見ると、霊界と現世がつながってるように思えますね。  

 そういう霊媒に死んだ人の霊が下りて来て話したりする、そういう経験とか、見たこととかありますか?  この中に見たことある人いる?霊や神様が降りてきて話をする。見たことない? 僕は子供のころからそういう人が家へよく出入りしていたので、何度も見ています。 霊が下りてくるとね、死んだ人の声になってしゃべりますね。

 最近では、京都の鞍馬寺へ行ったときに偶然あるお堂の横を通りかかったんですけど、そこで交霊をしていて「11年前のあのときにあそこでどうかなって…」と言うようなことを中年の男の人が女のような声で話をしているのを見たことがありました。霊を呼んでもらって拝んでもらってる女性二人が涙を流しながらその霊媒と話してるのをみたことがあります。死んだ人がまさにそこに出てきて話してるって言うような感じです。

 そういう光景を僕は子供の時から何度もみたことがあります。うちのおばあさんも霊能者でしたけれども、母にもときどきそういうところに連れて行かれたりして、体験しています。私がこどもの頃はわりとそういうところに伺いをたててもらいに行くことが日常的だったんですね。だからと言って、本当に死んだ人が出てきたかどうかはよう分らんのですけどね。トランス状態の霊媒がいうことが本当かどうか科学的に証明しようがないのです。

 この写真にはどういうわけか「金日成」なんて文字が書いてありますね。本文の解説を読んでいけばどういうことで書いてあるのかって言うのがよう分るんですけど。この中の一枚に弘法大師が、ほら。ね。こちらの写真ですね。これが今皆さんにお渡しした写真です。


この写真はね、どうやって写されたものかと言う話がこの本に出ています。念写ってわかりますか?ま、この中で念写できる人は多分いないだろうと思うんですけども、例えばカメラのふたをしておいて、何かを写そうと念じてシャッタを押したらそれが写るとか言うようなことなんですけど、この写真も念写されたものです。これは福来友吉の研究で心霊ブームが起き、非常に有名になって各地で、新聞社やら記者やら色んな人を集めて公開実験をするわけです。福来友吉のやってることがインチキではないかと疑う人たちが、絶対にインチキが出来ないようにと、みんなで集まって、福来友吉やらその霊能があると言う実験者に内容が事前にわからないにして、箱の中に文字を書いて持ってきたりして、それを当てさせるわけですね。そういうのがまあ的中していくとか、そういう不思議な話がこの本にいっぱい出てきます。 心霊現象、透視などの実験結果報告です。 それで、この弘法大師の写真は、京都のどこかの会館で数百人の人が集まって心霊の実験をしたんです。 その時に三田光一という人が、念写が得意だと言うので公開念写実験をするわけです。それでその時に京都のお寺、大覚寺の心経殿を念写してくれという課題を出されるわけです。

 何か念写してほしいものがあったら、お客さんの中から言って下さいと言うようなことで、それで心経殿を念写してくださいってことになったんですね。それで、写真の看板を13枚重ねて、カメラに入れるわけではなくてね、ガラスの乾板ですね、昔だから。それで、13枚の新しい乾板を重ねて置いて、それの6枚目に念写してくださいと、そういうオーダーが来るんですね。それで、三田光一さんが念写を何分か、3分くらいやるんですね。で、はい、念写終わり!って、念は送ったんだけど、どうも成功したように思わない、今日は失敗だと思いますって本人が言うわけですね。それで、写真の看板を上から順番に一枚ずつ現像していくわけです。そしたら、六枚目には何も写っていなかった。だから、ああ、今日は失敗だった。みんながそう思って、7枚目を、全部現像しますから、焼いてみたら、7枚目がまっ黒になっていたらしいんです。7枚目の乾板が。何か感光している。真っ黒なので実験は失敗と発表したら、その会場の中にプロの写真屋さんがいて、それをちょっと私に見せて下さいって言って、写真の液で何か薄めるような処理をするわけですね。現像したものを何かで薄めて処理したら、そしたらこの弘法大師の写真が浮かび上がったって言うことがここに書いてある。それで思わずみんが般若心経をあげたと言うようなことを書いてあります。それがこの写真。



私がこの本をもらってから、まあ、この写真のことを詳しく知ったんですけど、本の刊行は昭和57年…。それから後に、出会ったひとで原版から焼いたこの写真を何かのご縁でもらった人が何人かおるんです。その内の一人の人が広島県の府中市って言うところに、松岡さんって桐箪笥の会社の社長さんがいます。松岡さんは色んな事業に手を出すんだけど、全部失敗していたんだそうです。ところがある日一枚のこの写真をもらって、それを家に飾ってから、桐箪笥屋を始めたんです。木工には全く素人だったらしいです。だけど桐箪笥を作る会社をつくってから大成功して、松岡木工って言ったら、日本一の桐箪笥屋さんです。


 大きな木工所ですけど、ここの社長が裏山にミニ四国八十八カ所をつくったんです。  桐箪笥の工場に僕が招かれて初めて行ったときにびっくりしたのは、初めて見た大きな桐の木でしたね。桐の木って皆さん、どんな大きさか知っていますか?だいたい。これくらい?で、まあ日本の桐って言うたらそんなもんですね。で、この桐箪笥屋に行ってビックリしたのは直径が2mくらいの桐が、こんなんですよ。こんな桐の木がゴロンゴロン置いてある。みんなアメリカから入ってくる桐です。それで箪笥を作ってるわけですね。桐の木ってこんなすごいんだと思って。

 僕はそれまで桐ってこんなものだとしか思ってなかったですね。私も長年木工やって来ましたけれども、桐の木なんか使ったことないんですね。桐の木は和家具の方で使いますから、鏡台とかね。桐箪笥とか。あれは木工でもジャンルが違うんです。私は洋家具の方だからね。そんな木は使わないんですけれども、引きだしの側板にちょっと使ったりしたことがありますけど、日本には普通はそんなに大きな桐の木はないです。それで、日本で桐の木で何か作る言うたらこんな細い木をたくさんつぎはぎしてね、はぐって言うんですけど、はいで、それで一枚の板にして削って引きだしの底板に使ったりしますね。まあ、そういう形では桐を知ってるけど、あんな大きなデカイのは本当にビックリするような桐の木です。だから、同じ材木だと言っても、まあ削ったら正に桐の木なんですけど、あの大木が桐の木だなんて思えない。桐の木でもすごいものがあると言うことを初めて知ったわけです。

そこの社長が木工所の裏山に、近所の年寄りなどの健康増進に役立つよう、四国八十八か所を作ったんです。ミニ四国八十八ヶ所、石仏をずーっと山道に配置してね、それで本社に近いところに、ケヤキ造りの立派な大師堂を作った。大師堂が完成したときにそこにお祀りするお大師様を作ってくれませんかという注文が僕に来たんです。  その時に、この写真の顔を作ってほしいと言うことだったんですね。しかし、すでにその時に、僕は頼まれる前にその顔の御大師像の彫刻を作っていました。


 本堂の弘法大師の横に小さな座像を置いてありますが、あれはねこの写真を頭に置いて、写真を見ないでイメージで作ったんです、あの写真の顔にしようと思って作ったのがあの彫刻なんです。それを松岡の社長に見せたら、まあ写真とそっくりな顔ですから、感心して買ってくれたんですけども。小さいでしょう、とてもこんな。手のひらに乗るような。ちょうどその時に、これを作って置いてありましたから。そしたら、これを見せたんです。そしたら、これを気に入ってね。それで、これが今そこのケヤキの大師堂の中のお大師さんとしてまつられています。まあ、それであんなちっちゃなもんですけどかなり高い値段で買ってくれて。まあ、その社長はその写真がもとで大成功した。これは原画からプリントしたものではありませんけども、何しろ宥厳先生がプリントしたものですから(笑)効果は勝るとも劣らない。それで、みなんこれを大事にアルバムにでも貼るとか、額物にでも入れて密かにどっかに置いとけばその内素晴らしいことが起こりますからね。良縁成就を望んでる人は向こうからこんな顔の人がやって来る(一同爆笑)。と、思って。

  


写真『弘法大師像』  大師堂にお祀りされています それから、この写真を念写した三田光一って言う人は月の裏側を念写してます。それがソビエトがルナ何号とかいう月の裏側を撮影する人工衛星を打ち上げて月の裏側を写してきたら、まさにその三田光一が念写したものが月の裏側だったとわかったということがありますね。  月のことでいえば、二、三日前に僕ちょっとショッキングなニュースを見たんですけど、月に関することです。

(受講生)アポロ?

(宥厳先生)アポロの飛行士が歩いた後を、足跡をちゃんと写してきた写真がニュースにありました。何が写したのか?かぐやではなかったよね。アメリカのやつかね?あれもねつ造したやつ(一同笑い)。だから、…。
(琴美ちゃん)風も何もないから足跡がそのまま残ってるって言うんですよね。
(宥厳先生)そうそうそうそうそう。それはごく最近ですね。証拠としてわかったの。あの上を歩いた月上車っていうの?月面車か。それの轍の跡とかも残ってますね。ああ、すごいなぁと思って。本当に行ったんだわ、と思って。あれがまたでっちあげだったら大変だけどね。そんなことはようわからないけどね。それで、僕は月面着陸はなかったろう論とか、そういう類の本を二、三冊持ってたんですけど、昨日ゴミ箱へ入れた(一同爆笑)。今まだごみ箱に入ってます。やっぱりそうだったんかなって。それが本当だったとしたらすごいことよね。

(琴美ちゃん)その後全然行ってないって言うのが微妙だよね。そんな昔に行けたんならね。
(受講生)そろそろはっきりする時期だ、とか。
(宥厳先生)その内、どこが行くか知らんけど。月面に。中国辺りが行ってくるかもしれんね。月面に。それでアメリカが本当に行ったかどうか確認してくるとかね。みんな嘘あるよ、とか言うかも知れませんよ(一同笑い)。そんなこと言うたら怒られるね。 ま、そういうことがありました。それで先週、東京から合宿に来て、3日の日に上で音楽の演奏会を。なかなか面白かったです。琴美ちゃんの見解によると、いつもやってるのはセミプロみたいな人ばかりで、初めて本物のプロが来てやってくれたから、安心して見てられたって言ってましたね。それで、私も聲明を三曲コラボでやらしていただきました。 瞑想音楽を演奏してくださるので、聴きながらできるヨーガを、その時に教えましたので、ここでもいまちょっと教えておきますね。演奏は馬場??? (琴美ちゃん)健次郎!
(宥厳先生)あ、健次郎か!(一同笑い)馬場健次郎さんが、その~、瞑想音楽を演奏すると言うので、まあ、リハーサルが始まったときに瞑想にしてはえらい賑やかだな、と思ったんですけれども、音楽を聞きながらその場でできることを教えてほしいと言うので、それを指導しました。それを一ついまから伝授しますからね。

ひとつは、左手の平を上にして中指を立てる、右手の人差し指を曲げ、中指と人差し指の先をこうやって接触させます。指先がくっついてますね、その上に両親指先つけてを乗せます。こう言う感じですね。あ、だから、こうなってます。わかりますね。最初はこうやって教えたんです。こうやってこれを合わせて、それでこうやって。そうそう。この指と中指の先丸めてこっちも丸めてこれをこう合わせてほんでこうね、置いた時に人差し指の頭と中指の頭をピタッと接触させて、これをね、しっかり接触させて、それで、この人差し指と中指に意識を持って行きます。これ何をやってるかと言うと自己タッチトリートメントやってるわけです。

(受講生)あ~、なるほど!

(宥厳先生)ね!組んだ両手を丹田の所に手を置いて、それで手の脈動を感じながら瞑想しますと、全身の流れが良くなってくるんですね。僕も長年これを、今まで教えたことなかったんですけど、いつも自分では座るとこの印をいつも結んでるんです。食事作法のときはこうやってやりなさいって言ってますけど、私はこの印を結んでしてるんですね。  それによって全身によく気がめぐって行くので、健康に非常に役に立つんです。僕はこの印を結んで暇があれば光明真言を唱えることをもうずーっとやってるんです、長年ね。もう三十数年。暇があれば光明真言。で、光明真言の行者という自覚を持ってお唱えする、また光明真言を呼吸法にも使って絶えずやってますね。それが僕のひとつの健康維持の方法でもあるんですね。 …手に脈を感じるでしょ。そしたら、全身がこう何か違った感じになる。この間東京から誰か名前覚えてないけれども、ちょっと年配のご婦人がすごい感じましたって言ってましたね。誰だったか。
(西澤さん)山内さん?
(宥厳先生)山内さんはね、これを教えた時に体がきかなくなったんですね。しびれちゃって。しびれたと言うのか、カーッと硬化してそれで音楽も聞こえなくなって、ちょっとあっちへ持って行かれそうになったんだって、体を。それで、誰かが背中をまっすぐしなさいとか言って、あ、諸田さんだね。諸田さんが背中をまっすぐしたら、とか言われて姿勢を直そうとした、僕はその時ちょうど聲明やってましたからシンバルを、バァァァン!っと鳴らした瞬間に我に帰ったそうです。そのあと何か楽になったとかいうてましたね。不思議でしたと言うてましたね。だから、まあこういうムドラーって言うんだけど、こういうこんなムドラーは、多分インドにもどこにもないと思います。これは僕が発明したムドラー(印)だからね。

何でも簡便な役に立つようなことを考えてやってみるのが大事ですね。だから便秘を治す印なども考えてやりだしたムドラーです。

【便秘を治す印】

これも教えましたね?まだ、学んでない人いる?あ、そうか。あなた知らなかった?便秘を治すムドラー。便秘治すだけでなくてね、これをすることですごく気が高まるんですね。循環が良くなって来て、こういうムドラーです。うん。ここにピラミッド作る、ね。下の手で三角形作る。それで、人差し指の付け根が痛いと思うくらいグーッと押しつけて、ゆるめる。グーッとひっつけてゆるめる。ここひっつけたらだめよ。そうそうそうそうそう。指はこう丸めてしまって。そうそう。小指つけてないよ。うん。くのは…この指に力入れない。この二本の指に力を入れる。つかないよ。
(受講生)え~~~~~

動画「セルフタッチトリートメントと便秘を治す印」

(宥厳先生)こうまっすぐして。手をこう横に持って行かないと。そうそうそう。それで、グーッと押しつけてここが痛いでしょ?
(受講生)いた~い。これも付けちゃいけない。
(宥厳先生)これをやってるとね、まあ、こうやって二、三分やってる内にトイレに走って行く人が出てくるから。それで、ストンっと出てきます。だから、便秘で困ってる人がいたら、これをこうやって教える。それで、これをやって真言を唱えていると、小指の先からビームがピューっと飛ぶんです。ビ~~~~って(一同笑い)飛んだ!?(笑)。本当なのよ。 僕がね、いつやら岡山へ講演に行ったときにね、迎えに来てくれた人とタクシーに乗ったらね、タクシーの運転手が何か苦しそうなんですよ。喘息が起こって苦しいんですって言うから、後ろの席で印を結んで、しばらくこうやって、オントンバザラコク、オントンバザラコク…ってこうやって緩めたりしてたら、その運転手さんが真っ赤な顔になって、それで、何かしてくれたんですか!?って言って、呼吸がスーッと楽になりましたと言われたことがありました。印を結ぶと非常にパワーが増して、こちらのオーラがも高まってきますから、それで相手を包んで治療になるんですね。 それで、いま屏風に書いた「虚心合掌」って言うのは手の平をピタっと合わせて、ね。普通皆さん、神社に行ったらこうやって拝むでしょう?で、この合掌の時に手の平はピタンとくっつけないんですね。真言宗で拝む場合は。あそこに描いてあるのは全部、蓮華の花ですけれども。蓮華と言うのは、これは手を合わせた時、中指の先はつぼみをあらわしているんですね。だから、つぼみがちょっと膨らむ。掌(たなごころ)もわかりますね、ちょっと膨らむ。これが虚心合掌ですね。こうやってやったときに、少~し蕾の先を広げてあげる。中指と中指の先がちょっと開く。ね。これが要するに虚心合掌ね。だから、ただ単にこう手を合わせてるわけじゃなくて、今まさに開かんとする蓮華で、これから開いていくのですね。だから、護身法で印を結ぶと言うのはムドラーが蓮華を表してるんですね。だから、この手の指で、色んな蓮華を表すので、例えばチベットなんかではこう言う印を結びますし、これも蓮華、ね。こんなんやってごらん。できる? (受講生)え~~ (宥厳先生)薬指と薬指を立てる。ほんで、親指と中指、小指。小指を親指で押さえて、それで、人差し指で中指をおさえて、薬指を立てる。これ、見て分らん?小指と小指、こう組むでしょう?中指と中指を合わせてごらん。薬指を立てるん。それで、親指で小指をおさえる。それで、人差し指で中指を押さえて、そしたら、真ん中立つよ、ほら。 五弁になってるでしょ? パドマ!パドマ! 日本の真言宗なんかでは使いませんけどチベットでは使うらしいですね。オーマニペメフムですね。オーマニぺメフム。これも蓮華ですね。蓮華が開いて来て花が開いて、泥の中で花が開くとこういう形になってくる。 (受講生)へ~~ (宥厳先生)そうそう。そして指先がちょっと開く。そうそう、こんなことしない。これは、お金貸して~って言う時(一同爆笑)。だから、まあ、こういう印を結んで、それでじっと座って瞑想していると、空気が凛としたものになってくるね。だから、印を結ぶと、こうやったらおっとっとと呼ばれるでしょう?こうしたら。こうでもいい。(手招きをする)。要するに手というのは、そういうパワーを持ってる、ね。こうしたら向こうへ行け、向こうへ行けだけど、あの世まで行きなさいってこうでしょう。そうしたらあの世に行っちゃう。 (琴美ちゃん)あ、あの世へ行っちゃう(笑)。

(宥厳先生)神様をあの世に返したの。呼ぶ時はこうやってやったら、神さんがやって来る。そんなこと色々やって、こう手でいろんなこと印をしていくんですね。そうしたら、神様をこんなことして呼んで、で、神様がここまでやって来たら、逃げて行かないようにぐっとこう、そしたらそこにばっと神様が金縛りになって。神様を金縛りにしておかないと神様はずぐどっか行きたがるから。あ、神様ってうちの「かみさん」のこと?(笑)。だからこういう印を結んでるだけでも非常に健康にいいんですね。年とらないよ、こんなことやってたら。ま、一番しにくいっていうのが、こう、ちょっとこう手を入れてごらん。背中合わせにして。それで、こう起こして、それで親指を上に出して、ここへこう親指をひっかける。こうして、こう回して、それで、親指と親指合わせて。親指がこうよ!だめ!そんなん! これができないと真言宗のお坊さんにはなれない。これができない人はこういう誤魔化しをする。もうこれだけやったからだいぶ楽健法するのに足が楽になった。では、楽健法しましょうかね。じゃあ、護身法やって。それから布団敷いてやりましょう。あれはしばらくまだちょっとそのまま隣に部屋に持っていっとこ。たたんだらまた反対側についたら汚いから。子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥…。

楽健法(18)




充実のおやつ







夕食 むかごごはん「秋の兆し」


●むかごごはん●あおじその花と葉とズイキのゴマ酢味噌和え●煮物(かわらたまねぎ、あつあげ、さつまいも、モロッコいんげん、なす、しめじ、かぼちゃ)

机の脚切っちゃいました!高さ揃えたのん!


第6回9月10日(1日目)その2

2011年09月28日 | 第11期楽健法セラピスト講座
9/10 19:06『身体から邪気や疲れを取り去る秘法伝授』

(受講生) 邪気を抜くという座法のときの腕の組み方ですが、右が上とか下とか決まりがありますか。
(宥厳先生)決めてやらなくてよろしい。
(受講生)え~~~どういう意味!?どっちでもいい。
(宥厳先生)どっちでもいいって。パッと腕を組んだ時に、だれでも自然に決まって上にいく手があるのよ。で、反対にすると落ち着かないのよ。やってみ。
(受講生)じゃ、人によって違ってていいんですか。
(宥厳先生)それは、パッと組んだ時に楽な方に、楽なというか体に沿ってる、僕はこんな風に逆にしたら落ち着かんもん、全然。こうしてる気がしない。こうしないと。ね。誰でもそれがあるはずよ。まず、正座をする、はい。もうちょっと前に座って正座。ちゃんと正座してごらん。一人ずつ、はなれて、はい。ひっつかないで。あの~え~っと3日前だったかな、火曜日、あ、火曜日言うたら四日前か。三日前?四日前?四日前に東京の日経新聞系の「ヘルス」やったかな?ね、庫裡に本があったでしょ、「ヘルス」って言う雑誌があるんですよ。月刊誌が。そこが、今度10月号にふくらはぎのことを特集するというので、それで、何か教えてくださいって取材を言って来られたの。何か割と派手な顔をした優しい声の頭のよさそうな女の人が来たの。年は30前くらいかな。

(斉藤さん)何でこっち見て言うの?
(宥厳先生)何でそんな話せなあかんのって言う顔してるやん(笑)。それで、今度の10月号にふくらはぎを特集する。で、まあ、足の裏を特集するって言うのはね、よくどこの雑誌でもやるらしいですね。こう手のひらのツボとか足の裏のツボとか、だけど、ふくらはぎを中心に考えてみるって言う特集はまだどこもやってないというので、それでそういう企画が出てきたらしいんですね。編集部から。それで、その人がインターネットとか、それと「Lingkara(リンカラン)」、リンカランの楽健法の記事を読んでね、それで、取材したいと来られたんですよ。それで、まあ、僕もふくらはぎだけと言うのはね、そんなに考えたことなかったんですが、まず、読者が独身の、独身か既婚か知らないけど、20,30代の女性が多いらしいです。それで、そういう女性がパッとできるふくらはぎの健康法を、じゃあ、お教えしましょうって言って、で、最初に教えたのは今から教えますから…。コラ!こっちみとってんか!

(宥厳先生)正座して足首をクロスする。はい、やってごらん。
(受講生)ん?これで?
(宥厳先生)手じゃなくて足で!!
(受講生)あ、足でクロスするんですか。
(宥厳先生)あ~~~、もう。座るの、こう。
(受講生)あー。
(受講生)え~痛いよ~痛いよ~
(宥厳先生)それで、しずか~に、しずか~にクロスして座る。君の足、股開きすぎ、正座する。正座して足をクロスする。はい、それで座る。わかった?
(受講生)おしりのツボをかかとがとらえてて痛い。
(宥厳先生)みんな、できた?
(受講生)足が…足が痛いです。
(宥厳先生)そうやって座って、ね、1分間ほどじ~っと座って。1分、今から1分。足、クロスしないとだめよ。
(受講生)足首がクロス?
(受講生)何かこれ、痛くて我慢できないな。
(宥厳先生)そうそうそう。そうやって、まあ。足首をクロスさせて。
(受講生)痛くないの?
(恭子ちゃん)いた~い。我慢してます。
(受講生)我慢強いね(笑)。
(宥厳先生)そんなん手でそんなことしてたらアカン。
(受講生)痛いの、痛いの。
(宥厳先生)痛くなったら足を組み替える。はい。これで、どこを刺激してるか分かりますね。
(受講生)ふくらはぎ。
(宥厳先生)ふくらはぎだけど、いつも良く言うてるやん。女性にとって一番大事なツボ。そうそう、三陰交。それは自分で三陰交を刺激する座り方なんです。
(受講生)すご~い。
(宥厳先生)ね、だから、この座り方をしてるだけで健康になってくる。簡単でいいでしょう?座りなれたら楽に座れるようになってくる。3分くらいは平気で座れるようにじきになってくる。それで、こうやってすぐに痛がって我慢できないのは体があまり良くないの。ね。足が、ふくらはぎが疲れてたり、体調が良くない。で、それを我慢して座ってるうちに段々長く座れるようになってくる。長く座れるようになってくると体調が変わってきますね。
(受講生)何分ぐらいすわればいいですか?
(受講生)それは我慢できるまで。だから、時間はね、何分座ったらどうなるなんてことは、やってみないと分からないからね。だけど、まあ、ちゃんと平気な顔して座れるようにじきなります。慣れてきたら。琴美ちゃんも足、ダメ?
(琴美ちゃん)足、だめ!(一同笑)。だって。体重が重いんだから。
(宥厳先生)それはそれだけ三陰交に強烈な。
(琴美ちゃん)すごいもん!
(宥厳先生)圧がかかってるからいいんですよ、健康に。それを座ってるうちに段々上手にすわれるようになって平気になってきますからね。あの、ヨーガなんかやってる人は平気で座れるはずです。
(琴美ちゃん)ヨーガの人平気で座ってる人いるで。
(受講生)やりにくい方とやりやすい方がありますね?
(宥厳先生)そうそうそうそうそう。だけど、これはまあ両方やった方がいいね。僕はこんなん10分くらい座ってても何ともない。痛くも何ともない。
(受講生)修行がたらんのかな。
(宥厳先生)だいたい普通の正座もつらいんでしょう?だから、それではいかんわね。まあ、よろしい。それでは、足を外して。はい。
(受講生)は~~~~。(一同大爆笑)
(宥厳先生)それでもね、これを教えてあげたらね、その、なんて言ったかな菅原さんっていったかな、取材にきた菅原さんって言う人がすごく感激して「こんな素晴らしい方法があるとは夢にも思わなかった」って言って、早速帰って写真撮ってやります!とかって。

動画「足首を刺激する座り方」



(宥厳先生)その次に教えたのは、ふくらはぎにごま油で、こう、足首のオイルマッサージをやりましょうということね。だから、まあ、それは、オイルマッサージのオイルとか、馬油でもどっちでもよろしいけれども、まあ、ゴマ油で足首のマッサージ。ついでに手首もやりましょう、と。で、その前にオイルを手に落としたら、よくこすって、気を高めておいて、それでガーッとこう擦り込む。で、擦り込む時間とかはだいたいオイルが浸透するまでということで。そういうことを教えたんですね。で、後は楽健法での踏み方ですね。で、まあそれはやっぱりちょっとこう、ふくらはぎだけでなくて付け根もちょっと踏んで足の裏もちょっと踏んで、まあ、互いにやれる時はね。だけどふくらはぎって言うのは自分で踏めるんですよ。足伸ばして踏んでご覧。反対の足を。どうやって踏むか。そうそうそうそうそう。
(受講生)気持ちいですよね、これね。
(宥厳先生)だから一人で踏む場合は…。これもできない!?いつもやってる?だからまあ、反対の足でこう踏んでやったらいいことですから。そうそうそうそうそう。まあ、そういうことを教えてあげて、で、まあ10月号に出ますから、もし本屋で見つけたらね。
(受講生)先生も出るんですか?
(宥厳先生)写ります。どっかわからないそれは。写して帰ったけど写らないかも知れないし。そんなん写してもしょうがないもん。
(受講生)よく、芸能人の女の人がよく表紙になってるやつですよね。
(受講生)私も何度か見たことある。
(受講生)「日経ヘルス」かな。「日経ヘルス」ですよね。
(古川さん)「ゆほびか」とか「壮快」とかよりはもうちょっと新鮮な洒落てるやつですよね。
(宥厳先生)ああ、そうですか。僕はどれ見ても一緒に見えるわ。ま、「壮快」よりはちょっとマシだと思う(一同笑)。

(宥厳先生)それと、今度はひざ。胡坐かくか半跏坐。半跏坐って分りますか?それは半跏坐じゃなくて結跏趺坐。そうそうそう、片一方だけ上にあげるのが半跏坐って言うのね。真言宗の座り方は右足を上に乗せる。それが半跏坐っていう座り方ですね。あの、結跏趺坐は禅宗がする座り方ですね。座禅のときにね。で、まあ半跏坐のほうが楽、ちょっと楽なことは楽だけど、これでもなかなか長時間ね、やってると辛いものがあります。

 半跏坐で座ると。ま、この半跏坐で、この間音楽会の時に教えたのは、病を受けたり、それぁら体が非常に披露したりしてる時にその疲労を自分で抜く方法。ね。それが、こう腕を組んで、それで鼻から息を吸って吐くっていうことね。で、吐くときには息を吐ききって下さい。お腹の中に残ってるやつ、肺の中に残ってるの全部出す。そうすると自動的に新しい空気が多い目に入ってきますから。あんまり気張ってやると眩暈するから、慣れない人は。で、簡単に僕が呼吸法でこれをやって、こういうのんで自分で呼吸法してる時はいろんな真言使ったりするんですけど、まあ、一番皆さんに伝えて覚えやすいのへ、「オームマニペードムオーム」と言うね。「オーム」と吸って、「マニペードム」止めて、「オーム」って吐く。頭の中で「マニペードム」の間止めてるわけ。で、このアーサナを五分間やります。五分間。五分間て言ったら結構長いですけどね。五分間やると体の疲れがスカッと抜けます。それから、病気の人を治療して受けた時にもこれで抜けますからね。で、これは、いわば体をね、恐怖が襲って来たりしたときに、身を守る姿勢ですね、これは。心臓守って、怖い時はこうしますよ。寒くて震えるときもこうなるでしょ。ま、そういうポーズですね。それで、呼吸法して、五分やる。五分終わると今度は手を下して、手の平を広げます、で、ひざの両側に持って行って、触らないでどこにも、それで手の平、右の手のひらから左の手の平、ね。これに気がパーッと流れるまで、じーッとこう、宙に浮かしておく。じーっとこう気を、手のひらに集中すると、で、まあ、集中を細かくしたければ、人差し指の先と中指の先に意識を集中してください。そしたら、間もなく、こう、手の平全体に脈が起きてきます。これを五分間やるんですね。この時にチャージされます、力がね。蓄電されてくる。

動画「オームマニペードムオーム」

で、このことを僕に教えてくれたのは、ある絵描きさんなんですけどね。この絵描きさんが不思議な人で、何かあのよく山へ行って言うほどでもないんだろうけど、何か不思議な人で、柚木さんっていう人なんですけどね、この人が山に行ったりして、それで疲れるとこれをするんだそうですね。これとこれをする。そうするとその人はだいたいその場で二キロ体重が増えると言ってました。
(受講生)えっ、増えちゃうの?ザワザワザワ…
(宥厳先生)それでその人は普通の人が絶対通れないような、20cm位の隙間しかないような岩の間をくぐって向こうへ行ける。ね。だから、体をバラしたりできるんだね。そういうことが出来る人。その人がこれを教えてくれたの。何故教えてくれたかと言うと、僕が楽健法の教室やってたの、南のある教室でね。その時に、楽健法やったら体に悪い人の気を受けたりしてものすごくしんどくなることがあって、僕も何度も体験したんですっていう話をしてたのね。もう本当に酵素風呂へよく通って楽健法やってあげてる内に、だんだん皆さんが喜ばれるようになるんだけど、何とも言えない疲れが出てきて、病気でもないんだけど、すごく深い疲労感があって、何かこんなこととしてたら死ぬんちゃうかな、という感じがするくらいね疲労感があるんですよ。そういう話をちょっとしたら、そしたそこにたまたまその柚木先生がやってきてて、「それは山内さんこう言うようにしてやったらそれは回避できますからって教えてくれたのがこれなんですね。

 そういう不思議なことみたいに思うかもしれませんけど、やっぱりやってみると本当に効果があることですからね。だから、是非覚えておって、やってみないといけないですね。あの子丑寅卯でもそうですけどね。こんなとこで干支数えてアホじゃないかと思う人もいるかもしれない。だけど、何かこれをやるだけで何か気持ちがスカっとしたり、頭痛がその場で取れたりね。あ、さっきそう言えば誰か印を結んで頭痛なった人がおったね。そういう人もいるかもしれない。もう治ったでしょ?
(受講生)治ってます。(一同笑)
(宥厳先生)そういうと頭痛になったりしたりしたときに、こうやって、ね。まあ、あなたなんか毎日やった方がいいわ。このアーサナはね。それで、こうやって充電するのね。膝の横でね。そうすると段々元気に、悪いところが抜けていきますから。ま、そういうことを毎日少しずつやってみてくださいね。

他には…そんなとこだね。何か質問ありませんか?質問。ない?

(土井さん)ふくらはぎのついでに首を教えてほしいなって。この間すごいもう回らなくなるくらい痛くなっちゃって。これどうしたらいいのかなって思って。
(宥厳先生)何かに腹立てたりした?
(土井さん)いやいやいやいや。
(宥厳先生)怒ってない?
(土井さん)休日に楽健法を踏んであげてるんですけど(一同笑)。
(宥厳先生)やっぱり何かに力むとどうしても肩に来る。首のこる人はふくらはぎから足首を柔らかくする、ね。で、足首を。足首がグラグラになると首がグラグラになってくるんです。で、足首回しすぎると首がもう緩んでしまいますから。足首をしっかり回すのがいいね。自分でやる方法としてはね。足首の固さというのは首の固さと比例してます。
(土井さん)毎日やってんだけどな、足首回し。
(宥厳先生)まだ足らんのやわ。
(土井さん)足らんの?100回やんなきゃ、じゃ。
(宥厳先生)何回くらいやんの?
(土井さん)だいたい30位はやってます。
(宥厳先生)それはどれくらいの大きさで、どれくらいの角度で、ねぇ。まあそのつもりで少し足首しっかり緩めてごらん。で、ついでに足心道なんかも知ってるでしょう?指揉んで、足一本ずつ揉んで、押し込むようにして、回して。あれ?俺靴下はいてるわ。(一同大爆笑)。忘れてた!君の靴下は指切ったやつ?
(土井さん)あれはもう却下になったので。
(宥厳先生)じゃあ、護身法やって楽健法やりましょう。そう言えば日経ヘルスには護身法を教えなかった。
(受講生)あれはセラピスト講座に来ないと(笑)。



楽健法(19)


第6回9月11日(2日目)その3

2011年09月28日 | 第11期楽健法セラピスト講座
二日目の朝~




朝のお勤め







インド菩提樹の根が…




あ~ちゃん、大太鼓デビュー




護摩













朝日の木漏れ日キラキラ






朝食「さわやか御膳」

●コーン入りかぼちゃスープ●野菜サラダ(トマト、梨、バナナ、アボカド、オクラ、玉ねぎ、リンゴ、グレープフルーツ)●天然酵母パン●ハーブティー(デザートハーブ)



9/11 9:07講義「雲を消して、おねしょも消す」話

(宥厳先生)別に話もないんですけど。あのー、そこにも貼ってありますけど、奈良イオンハウスで講習会を予定しておりますので、存知おりの方がおられましたら宣伝してください。ここに案内を置いてあるので、誘ってあげよう、声かけてあげようかなって言う人がおったら是非宣伝してください。





 えーっとこれは日にちは、10月6日(木)。平日ですね。木曜日。
酵素風呂は木曜日はメンテナンスの翌日なんで発酵状態がいいんですね。で、火曜日なんかに行くとちょっと温度が下がってるそうです。僕のところに楽健法に来て帰りに酵素風呂へ行って泊まって帰るという人が今週も来てましたけど、やっぱり木曜日に来た方がいいとかって言ってましたね。誰かここで酵素風呂いかれたかな、泊りで。



(受講生)泊りで行きました。
(宥厳先生)あなた行ったの?何曜日だったの?
(受講生)私はいつだっけ、土日かな?
(宥厳先生)土日くらい。どうでしたか?気持ち良かった?
(受講生)気持ち良かったですけど…ちょっとかゆくなって、何かカブトムシになったみたいな気分になって(一同笑)。
(宥厳先生)カブトムシの幼虫になった気分だね。酵素風呂へこの教室みんなで行ったことがありました。何年か前に。何年前かな、五年くらい前かな。琴美ちゃん来てからは行ってないね?

 タクシーと僕の車とで走って行って、タクシーの運転手が道を間違えて田んぼの中に入って行ってね、あぜ道のギリギリのところを抜けて行ったんです、二台で。農家のおっちゃんがビックリして(一同大爆笑)、何であんなとこ車走ってるんだって言うような顔をして。落ちなかったけど。落ちそうなところやったね。

 酵素風呂へは20年以上も毎週二回ぐらい行っていました。僕と家内とはパンの日は終わってから必ず酵素風呂に行っていたんですが、そのうち酵素風呂が大阪になくなっちゃったので、縁が切れていたんです。
奈良の酵素風呂はここからちょっと遠すぎてね、行こうと思ったら半日仕事になってしまう。一時間走って、向こうで一時間くらい入っとったら、時間がなかなか取れないのでちょっとこの頃間遠になっています。しかし奈良イオンハウスへはよくいろんな方を紹介しています。ここでは新田さんが良く行かれてる。週に1回くらい?



(新田さん)週に一回くらいは行ってます。でも、おかげさんで今年ね、日光アレルギーが今年は出なかったんです。
(宥厳先生)日光アレルギーって何?
(新田さん)お日さんに当たったら蕁麻疹いっぱい出て。
(宥厳先生)あ、そう!
(新田さん)かゆかったんだけど、今年は全然…この間、あ!今年は何もなかったなって気付いた感じ。
(宥厳先生)それは酵素風呂か楽健法かどっちが効いたんですか?(一同笑)
(新田さん)楽健法で、パンを一年間、約一年。
(宥厳先生)あ、天然酵母パン食べたから?
(新田さん)パン食べてるのもあるんかなっと思ってますけど…。
(宥厳先生)そうか。この中で皆さんパン焼いてる?まだ焼いてない人何人かおる?ああ…。大体やってるんかね、パン。ね。ちょっとやっぱり、継続して食べてると知らないところで何か変わって行くんですね。そんな感じやね。食生活って言うのはね。なかなか一気には変わりませんけどね。
(幸子先生)いい食品かどうかのバロメータでパン食べてたら。
(宥厳先生)まあ、あの楽健寺の天然酵母パンを赤ちゃんの時からずーっと食べて、もう二十歳過ぎたような子おるね。田中さんの息子さんなんかそうやろ?田中さんの息子さん。何とか言うの。
(幸子先生)他のは食べられない…
(宥厳先生)えっ!?



(幸子先生)いや、他のはもう食べられないって、美味しさがよくわかるって。
(宥厳先生)なんか、あの、その家庭に生まれて幸せだったと思ったのは物心ついて以来ずっと楽健寺のパンを食べてきたことですって、お母さんに言ったそうですね。男の子ですけどね。
(幸子先生)あのやんちゃ娘も結婚しまして子供ができた(笑)。なんでも絶対に反対に言う子。
(宥厳先生)天の邪鬼の辞書みたいな女の子で(一同笑)。何を言うても逆らうんよ。憎たらしいガキで(一同大爆笑)。それでも、顔見たらケロッとして物言うてね。遊びに行くわ~とか言うて。
(幸子先生)小っちゃいころ、私の顔見て、キャンシー、キャンシーのおまじない?キャンシーってあったやん、昔。
(受講生)キョンシー?
(幸子先生)キョンシー?キョンシー?のおまじないのアレを作ってくれって言って、私は紙でこう…(一同笑)。
(受講生)貼ると止まるんですよね。




(宥厳先生)こないだ、そう言えば、2日、3日の合宿の時に、山内綏子さんと言うちょっと年配の方が来られたでしょう、あの人七十後半かな?
(幸子先生)綏子さん?
(宥厳先生)そう、彼女は10数年か前に東京で初めて、東京の一期生で楽健法の勉強して、その時に雲を消すことを伝授したら、そしたら、上手に雲が消せるようになって、それで、おねしょが止まらない孫がいて、6年生の。それが、間もなく修学旅行なんだけれども、おねしょが怖いから、ノイローゼみたいになって、何かね。修学旅行には行きたいし、おねしょして恥はかきたくないしって言うので、すごく悩んでた男の子のお孫さんがいたんですね。ある日おばあちゃんのところへ遊びに来た時に、孫に目の前で雲を消して見せたんですね。そしたら、僕にも教えてって喜んで、で、教えたら雲が消せたわけです、その孫にも。

それから、その子がえらいなと思うのは、雲は水だよね、僕のおねしょも水だよね、だから僕おねしょ消すって自分でおねしょを消しちゃった。それっきりおねしょしなくなって、無事に修学旅行も行って、それが今週かな、結婚式って(一同爆笑)。そのガキが(一同笑い)。何か、歳月は恐ろしいね、何か考えたら。10年経つということはね。その時13くらいまでおねしょしとったのかな。小学校6年って言ったら13歳くらいですか?
(受講生)12?
(宥厳先生)12か。それで、おねしょを自分で消したからすごいね。だから、雲を消すなんて、つまらないことだと思っててもね、そうやって役に立つことがあるんですよ。皆さんもおねしょしてる人は、、、(一同笑)。病気と言うのは体内の水が悪いわけよ、結局。私たちの体って水だからね。水が淀んで濁ると病気になるんです。念力って言うのは水に働く。楽健法は淀んだところに流れを作るのだから、雲を消せるようになると、自分が念じた相手の中の悪い水が消せる、水が変わるわけです。

で、雲はじっと見つめてね、消えろって命令すれば必ず消えるんです。やったことある?ないの?(一同笑)。後でやってみてください。だけど、雲を睨んで消えろと思いなさいと言うのではね、これだけでははあんまり消えない人もおるんですよ、思えって言うのに、よう思わん人がいる(一同笑)。人間は教えられたらそれが出来るようになるかと言ったらそうではないのね。教えても、その思えって言っても思えない人がいっぱいおるんですよ。それで、そういう人にはできない。そうすると、具体的な、何かプラクティスな方法がいるんですね。

それで、こうやって手を出してごらん。手と言うのはやっぱり、宇宙を表している。片手、両手でもどっちでもいいんだけど。で、これは…地球は何ができてるかと言うことを知っていますか。昔から。人々が言ってきたこと。え?それを総称して何と言いますか。まとめて言えば。あんまり知らない?地水火風空って言うでしょ。で、指でいえば小指から順に数えて、これが地水火風空ですね。



指で地水火風空をあらわす、5つあるでしょう?それで、五大って言うんです。五大って言う言葉聞いたことあるでしょう?地球のあらゆるものはこの五大からできている。で、僕たちの体も五大そのもの。全部、全ての要素を体に持っている。それで、この五大で私たちが、これは小指が地、水が薬指、火が中指、風が人差し指、空が親指、ね。お墓もね、そういう風に地水火風空と積んでできてるんですよ。お墓はこう下から台が段々小さくなって来てるでしょ。地水火風空として、空が石頭になる。その下の段がね。だから、一番下の土台が地でしょ。地水火風空って、五段になってお墓と言うのは構成されている。それをキャ・カ・ラ・バ・アって言う風に言いますね。あの梵字書いてあるでしょう?縦に。あれ、下からこう呼んでいくとキャ・カ・ラ・バ・アって書いてあるんですね。そうそう。そして一番上がアなんですね。で、こう言うのを応用して雲を消す方法を伝授すると、そうするとね、念を送れない、集中力の思えない人も思えるようになってくる。まず、雲は水ですから、ね。それで、地水だから、水に親指を念ずるってこうやるんです。これにタッチするって言うね。そうすると、こういう印ができる。



こうすれば、ね。昨日言ったタッチトリートメントは、人差し指と中指、こうしてこうやって、ね、組むって言ったでしょう?地水火…火やね、これ。これは、右手は人差し指。地水火風…風と、地水火…がね、こうやって触るわけですけど、ま、そういう交流があるという風に理解していくとね、そうすると、何故、それがどういう風に働くのかと言うことなんですけど、だから、雲を消そうと思ったらまず、水神様をお坊さんが拝むとき、水の神様ですね。水神さん。水神さん。こうやって呼ぼうと思ったらこうする。ね。カモン!ってこうする。ね。だから、雲を呼びたかったらカモン!ってこうする。ね。そうすると雲がこっちへやってくる。雲を追っ払おうと思ったらこれをパーンと飛ばす。ね。そうすると雲が飛ぶんです。で、これを両手でこうやってね、それで、雲を飛ばす…消したいときは病気でもなんでもそうなんですけど、物を消したいときは左手に少し、こうビャクジョと言うんですけど、左手に(反時計回り)にこう回すと、物は嫌がって逃げていく。消えていくんですね。消したいときには左に回すんです。左に回してそれでパンとはじいてやる、両手で。それで、そういう時に真言も唱える。水の神様の真言。これが「オンバロダヤソワカ」っていうの。だから、あの雲を消そうと思ったら、雲をにらんで、「オンバロダヤソワカ」パンパンパンパンってはじくんですね。そうすると目的の雲がしゅ~っと消えていく。ホントよ!何か嘘みたいな顔して。梓、信用しとらんな。
(琴美ちゃん)梓飛ばさな。(一同笑)
(受講生)みんなで飛ばすの?



(宥厳先生)まあ、あのこういうことをすることで、本当に働くのかどうかって言うのはやってみたらわかることですね。だから、まああの、曇天で曇ってる時にね、空中の雲全部消すってのはなかなか大変ですわね。三日くらいかかるから(一同笑)。三日目に晴れますって言うとかな。で、ちいちゃなポカッと浮いてるような雲じゃいとね。ま、大きな雲はちょっと時間がかかる。3分くらいかかる。5分くらいかかったり。その大きさによる。雲がシューっと形を変えていくのが見てて分かります。そして、雲らしくない形になる。消えていくときに。何か雲がモヤモヤっとした状態になって。面白いですよ。雲消すの。今日、消したいような雲があったらちょっと消してみてごらん。

雲は消せるんだけどね、お月さんは土でできてるから、地だから、月を消すとかそんなことはしないほうがいいね(笑)。まあ、あの水、雲くらいは消えますけどね。塊の水を、バケツに入った水を消すなんて、これは無理です。そういうことはあんまり考えない方がいいね。バケツの水を消したいときはほった(捨てた)方がいいです。(一同大爆笑)。雲は消したらいい。だから、なにかをするときには非常に具体的に発想してやって行くということですね。出来もしないことしようたって無理なんです(一同笑)。だけど、体、この人の頭がまあ悪いとして、ね(一同笑)。原因がどっかこの辺にある。その悪い原因だけ取り除いてあげようと思ったら、こう左に回したら…ちょっと問題や、これ。

(土井さん)ん?
(宥厳先生)この辺からリークしてる。ほら。こうやって手持って行ったらもやっと触るのよ。



(土井さん)何かもやっと来ましたよ。
(宥厳先生)リークしてる。こっからエネルギーが。もうちょっと出した方がいいね、これ。
(土井さん)そしたら難しい本も読めるかな。
(宥厳先生)(笑)。それで治したい時は、こうやって左に回してあげて追っ払って、それで、こうやってパチパチパチっとやっておく。あるいはフッと吹き飛ばす。強い息で吹き飛ばしても出て行きます。そっちへ吹き飛ばすから皆さん逃げて(一同大爆笑)。伝染った?ま、そんなことをして、遊び気分でもいいんですよ。だから、病気なんかでも、遊び気分で病気を受け止めて、それで楽しみながら取り組んだら軽々と治るもんなんです。それを、深刻な顔してね、何かもう終わりだと言う気持ちで受け止めると本当にそうなるのね。だから、まあ、あの、この前も言ったかもしれないけど、一引き手、二弁、三チャラ、四学。この三チャラで病気も対応していくとね、ま、気楽になれるわけですね。あんまり深刻に考えたって、気楽に考えたって同じことなんですよ、人生。あんまり物事深刻に考えないことね。






それでさらっとこなしていくような癖にして、困難があったらパーンっと飛ばしたりしてね。で、嫌な奴が来たなって思ったら、ポーンっとやっとくと、親指を握ってみぞおちに当ててパチッと叩いておくと、そしたら嫌な奴が来てもね、何か嫌なことを言わないですっと帰っちゃうんです。だから、何か苦手な人と向かい合うときは、相手をこちら側に座らせる。右側に。こちら側(左側)に座らすと自分が受けてしまうんですね。だから、どうぞってイスに座らせて、長椅子があってこっちにイスがあるとしたら、テーブルはさんで向かい合ってるとしたら、苦手な人はこちら側に座ってもらって、自分はこっち側に座る。そうすると自分の主張が相手にシュッと入って行く。逆にすると相手の主張がスッと入ってくるんですね。それで、それでやられちゃうん。

だから、そういうの受けたくない時にはこう、手を握って、親指握ってね、ここにみぞおちに当てて、パチッと叩いておくんです。そうするとここにポンッとガードができる。

ね。ほんで、もっと用心深い人は子丑寅卯…って最初に、朝の内にやっとくんですね。そしたら、それでガードができて、まあ、医者もだから、患者さんを見るときにね、左側で患者さんを置いてみてる医者はちゃんと患者の容体が分かる人ですね。で、こっち側に患者さんを置くような医者はだいたいやぶ医者です。自分が感知能力がないくせに、だから、パソコン見て、データで何かしようとするんですね。まあそういうようなことが本能的にあるんですね。だから、まあ人間と言うのはとてもそういう意味でね、色んなことが面白いですね。考えていくとね。

で、まあ遊びでね、後で雲でも消してみてください。それで、誰かが病気を持っていたら、その病気のことを頭の中で思って、それでポンポンと病気を飛ばしてあげる。それで、まあ手でこうやって悪い所をビャクジョ。ビャクジョって左に回したら出て行きますから。後はこうやって気を入れてあげたらね。こうやった時にほら抜いてきたって言う風に(笑)。

まあそんなことして、気で、病気って言うのは気が病むっていうことですからね。ま、だから考え方次第で、気楽にもなれるし、あの人に会うと何か後が楽だ、と言うような、そういう人に是非なってください。楽健法やる人はそういう人でないといかんね。何かあの人が来た後は気が重くていやだわぁ。ほうき立てといたりしても出て行かない人。そういう人っておるでしょう?だらだらだらだらお喋りしてね、もう、かなんなって思ってるのに全然わかってくれないのね。


(木本さんうつむく)(一同笑)

(宥厳先生)なんで?
(受講生)私みたいな?
(宥厳先生)何か思い当たることがあるんですか?(一同笑)ああ、思われてると思ったんか。(一同笑)。ああ、私は思ってませんからね(笑)。だけど、面白いですね。人間と言うのは気の交流だからね、だから、まあ、僕は誰と付き合ってもあんまりこう人に負荷をかけないようにって言うのが僕のいつも根底にある意識ですね。だから、よう考えたら僕はたくさん友達がいるようでいて、向こうからやってくる友達がいても、僕が友達のうちに行くと言うことはめったにないんですね。そういう付き合いをしている友達がいないなと。何かこう行って、甘えるようなことをする友達と言うのは全くいないですね。誰かに負荷をかけないようにはしているんですね。まあまあ、琴美ちゃんや西澤さんは東京でいっぱい負荷かけてるじゃないかと思うかもしれませんけど(笑)。



(琴美ちゃん)こっちに来たよ!(一同笑)
(宥厳先生)だけど、まあね、そんなに人に重圧与えたりね、あんまり負荷をかけないようと言うのが基本的に僕の、、、。
(琴美ちゃん)日々プレッシャーで(一同笑)ニッシーは平気だけどね。
(宥厳先生)それは向こうから来るんちゃうか。あの辺から。
(琴美ちゃん)あの人は平気よ。私はダメだけどね。
(西澤さん)すぐに忘れちゃうから?(一同笑)
(宥厳先生)西澤さんと琴美ちゃんはだいぶ体質が違うのよね。
(琴美ちゃん)体質一緒ですけど、性格が違うだけです。(一同笑)。
(宥厳先生)だから、トリドーシャで言うとねちょっと違うんですよね。琴美ちゃんはカファの体質だからね、タフそうに見えてるんだけど非常に傷つきやすいのね。で、傷つきやすそうに見えててあんがい平気なのが、、、、。
(琴美ちゃん)さあ、みんな、それはどっちが怖いかな。
(宥厳先生)もう、これ以上言うたら後が怖いので(一同大爆笑)。楽健法にしましょう。何か段々本当のことを言いそうよな気になってきた。(一同大爆笑)では護身法をして。
(幸子先生)もうやめたほうがいい。
(斉藤さん)おあとがよろしいようで。
(宥厳先生)僕がこの護身法を教えてね、真面目な顔してやってますけどね、世間の人が見たらどう思うやろうなとか思いながらやってるわけです。



楽健法(20)






雲を消す二人








昼食「茶がゆセット」

●茶がゆ●小芋の月見団子(お好み焼き粉)●ゴボウと人参のきんぴら●大根、こんにゃく、なすび、人参、あげ、しめじの煮物●高菜の漬物



楽健法(21)




最後のお掃除




終りの会





第5回8月6日(1日目)その1

2011年08月17日 | 第11期楽健法セラピスト講座
合宿前泊組の冒険

山田寺跡探検。中のお地蔵さんを覗き込む宥厳先生(笑)


ここに柱があったのかな?








日本たんぽぽ!?初めて見た気がします。


風になびいてかわいく揺れています。


磐余道


万葉館へ行ってきました!

すごい、切り絵!








この後、昆虫館へ。蝶々を捕まえて嬉々とする幸子先生。蛇と見つめ合い、「ワンワン」と話しかける幸子先生。すっぽんと恋をする幸子先生。とっても面白い一日でした(一同笑)

晩御飯!にら焼きとあったかそうめん!








当日朝の買い出し!
24人分ですからね!半端ない量です!!




ブランチ!


お花を活けます!


お盆ですね!蓮が!花が咲くかな~


カブトムシ襲来!


カブトムシ撮影会


パン種を仕込みます!






第5回楽健法セラピスト講座スタート
8/6 13:00

(宥厳先生)最近は異常と思うような気候で暑さが続いていますけれども、皆さん元気でしたか、このひと月。
(受講生)いや、へばってました。暑いせいじゃないですけど。まあ何か仕事で。
(宥厳先生)へばってたん。ああ、そうか。
パンがへばってる人いる?この中で。うまくいってる?いってない?
(宥厳先生)あなた何で焼いてるん?
(小菅さん)機械で。
(宥厳先生)で、時間は?
(小菅さん)5時間。
(宥厳先生)5時間?ナショナル?
(小菅さん)はい。
(宥厳先生)ふ~ん。
(小菅さん)種がダメみたい。
(宥厳先生)種が切れたん?
(小菅さん)しばらくぶりに過発酵みたいですね。
(宥厳先生)こんな暑さのときはパン作りは成形とかのタイミングに気をつけないとやばいですね。パン工房で焼くときも、いまも大体うまくいってるんだけど、夏になってきたら早め早めに作業したほうがいいですね。夏以外は第一次醗酵させて2時間経ったら次の工程にちょうどいいくらいなんだけれどね、この季節は1時間半くらいでもう次の仕事に取り掛からないと醗酵しすぎますね。

楽健寺パン工房は、分量が多いので作業時間が長くかかるでしょ。たくさん作るから。そうすると、最後の食パンなんか過醗酵気味で、生地が言うこときかなくなってくるんだね。発酵しすぎてね。それで、表面がバーっと割れたりして、みじめなパンになるね。まあ、いつもきれいなかっこいいパンを焼きたいなと言う気持ちで作ってるんだけど、思ったような形に焼き上がる、そういうパンがめったに焼けないですね。長いことやってても。なかなか難しいもんです。

だから、僕はパン屋さんの前通ると、イーストで焼いてるパンで、イーストで焼いてるパンは軽視してますけど、格好には感心するね。うまいこと焼いてる。僕らこんなパンよう作らんわ。どうしたらこんなパンができるんだろうと思って見ています。天然酵母パンってのはそんなに言うことを聞いいてくれないんですよ。イーストで焼いたパンは何度でもねガスを抜いても、また形がふぁーっと戻ってくるんですね。でも、天然酵母パンの場合はそううまいこといかないですからね。なかなか思ったように成形するのは難しいです。

だから、もう本当に素朴な自然任せの、その時に出来た形です。こういう形のパンを作りたいと思ってもそれはなかなかそうはならないんです。ちょっといつも悔しく思いながら、パン職人としてはやってるわけですね。そういう傾向が天然酵母パンにあります。

それで、他には…っと、今、木本さんが運転…必死になって走ってるみたいですから、まあ慌てないで事故起こさないようにゆっくり来て下さいって電話しといたんですけど。もう…1時10分くらいには着くだろうと言ってましたが、もう数分したら到着するだろうと思います。

【木本さん登場】


それで、今日はまた「どうだん」原稿を書きました。「どうだん」という雑誌はときどき二カ月分合併号があるんですね。だから、本当は今月はもう書かなくても、先月やった分が次の号に載るんですね。だけど、まあ折角、毎月合宿で短歌をはじめにみてもらってるので、さっきちょっと上がって書いてしまえ、と思って、慌てて書いたんです。それで、もう生々しいやつもあって、例えばね、下から…終わりから3つ目ね。

○蚊遣りつけ消したい時間の位置あたりコインを置きてタイマーとす

(宥厳先生)さっき、1円玉を蚊取り線香の上に乗せたクイズを出したらね、優秀な回答をくれた人がいたんで、さっそく歌にしちゃったんです。これ、意味わかりますか。だいたい。1円玉を置いた写真をね、僕は昨日、消すためにときどき1円玉置くんですよ、パッと。まだ、蚊取り線香ね、いらない時。
(受講生)消えるんですか。
(宥厳先生)消えます。そこへ来たらね。で、それを「タイマーですか?」という回答をちあきちゃんがくれたので、これは素晴らしい!タイマーに!これからはタイマーとして用いようと思って(笑)。
(琴美ちゃん)やってみよ!
(宥厳先生)ん!
(幸子先生)コインじゃなくてもいいよ。
(宥厳先生)えっ!?
(幸子先生)いやいや。(一同笑い)
(宥厳先生)1円玉より10円玉が良く消えるとかそういう心配はないです。1円玉で大丈夫です。
(受講生)何cmで何時間とか分りますか?
(宥厳先生)いや、そんなん大体ヤマカンで、この辺(一同笑い)。蚊に刺されたらまた1円どけて火つけやなあかん。ま、そんなんで今ちょっと出来たてのほやほやの歌ばかりです、これ。

え~っと、この最初のはね、ちょっと、この前、関西で地震がゆったとき、月曜日ですね、書いてあったんですよ。で、最初の2つは。後は今さっき書いたばっかりです。後の8つはね。ちょっと頭から、例によって朗読の先生お願いします。



(早坂さん)はい。1番目、はんすい(半睡)と読むんですか。
(宥厳先生)そうです、はんすい。
(早坂さん)それから、三番目。これは、はかない(儚い)?
(宥厳先生)そうそう。
(早坂さん)はい。








「どうだん」十月号  山内宥厳*
○起きるかな半睡しつつ自問する今日と明日の時間の狭間
○びしっという音に続いて揺れがきて大地の息吹に夢破られる
○儚いと消えるいのちに幾たびか思い馳せつつ老けゆく我は
○甲虫光る甲殻みなぎらせ畳這うなり意外の速度
○日は過ぎぬ心にかかることどもも彼方におしやり自分を生きる
○自分とは狭き門より入りきたり作りあげたかあるべき日々を
○青春と言葉は若葉のいろなれど苦しみ多き若き日のわれ
○蚊遣りつけ消したい時間の位置あたりコインを置きてタイマーとす
○パソコンや携帯にぎり対話する文字と言葉とjpg写真
○ほめられも苦にもされずに生きたいと願った人からもらえる元気








(宥厳先生)どうもありがとうございました。別に説明のいらんような短歌ばっかりですけどね。一番最後のは何の歌かわかる?梓ちゃん。「ほめられず、苦にもされず」
(梓ちゃん)…。
(宥厳先生)何を言ってるか。わからない?「ほめられもせず、苦にもされず、そういうものにわたしはなりたい」という歌作った人。
(梓ちゃん)あ!宮沢賢治!?
(宥厳先生)そうそうそう。
(梓ちゃん)わわわわわ!
(宥厳先生)おう!(笑)。この間、ちょっと梓ちゃんとのメールで、青春と言うことについて少し話をしたときにね、それがここの最後の所に、2つ3つ入ってるでしょ。青春と言うのは非常に無残でみじめなものだと言うのが僕の認識ね。大体、青春なんてばら色に輝いてないって知ってる?一番人生でしんどい時ですね。これから、そういう苦しみをいっぱいすることによって自分が、こう伸びて行くね、そういう時間なんですね。



だから、10代後半。番茶も出ばな、というね、花も十八番茶も出ばな、なんてことも言うんだけど、本当は人生で一番しんどい時です。ものを考えるようになってくるし、まじめに考える人ほど苦しむ、と言うことになるし、で、色々考えていくとみんな空しくなってくるし、そういう空しい…ニヒリズムって言うんだけど、虚無ですね。そういう。私のこの間やった「がらんどうは歌う」もそういう世界を書いてるわけですね。虚無の世界ですね。

だから、そういう虚無を大きく何か自分で戦って掴んで考えて苦しんでのたうちまわって行くほど、内面的に豊かになって行く。後になってそれが実を結んで来るという考え方ですね。だから、この前もちょっと言ったけど、「我に艱難辛苦を与え給え」って山中鹿之助って言う昔の武将がね、「我に艱難辛苦を与え給え」って神様に願ったんですよね。幸せで豊かで恵まれて、何の心配もないような生活をしている自分ではね、大きくなれないっていう考え方ですね。

だから、何もかも保障された中で人間が、もらって、保障されてのうのうと生きて行ける人間が果たして幸せかどうかですね。

賢治のいう、そういうものになろうとして生きて来たんですよ、考える人は。

いまは人生如何にあるべきかという問い、そういうものがなくなった。考えなくても生きていられる、それがまあいわば一種の間違いですね。与えられた命と言うのは、自分で何かを獲得していく以外に、本当は生きようがないんですが、過保護にして、庇護してくれる人なんかがいて、人間は家族がおったり、何か引っ張り上げてくれたり、過保護にしてくれたりするような、そういうスポイルしてくれる人がおるからね、自分に気づかないまま、何となく、ものを考えないでスポーンとこう大人になって行く人がいるんだけど、そういう風に大人になって行った場合は、果たしてその人が人間になったかどうかということがわからないんですね。だから、人間の目的と言うのは、この最後の詩のように、「ほめられも苦にもされずに生きたい」と宮沢賢治が歌ったように、だけど、それはその中で宮沢賢治はどういうことを目指して、何を考えて、こういう言葉が出て来たのかということ、深い意味があるんですね。

そういうことをいつも考えながら、苦悶しながら生きていくということが人間にとって大変大事なことだということです。

まあそんなにわざわざ苦しまなくてもと思うかも知れないですが、考える葦である人間は考えることで、人間になっていくんです。楽健法は楽々健々でよろしいけれどもね、そういう楽健法に出会うまでにもいろんな苦悶を、病気をして、治らなくて、どこへ行っても治らなくて、ますますひどくなって行くというような、そういう苦悶を経て、それでやっとこういうものに、巡り合ったりする。

偶然ですね、それも。だから、巡り合えない人は永遠に巡り合えないわけですね。だから、何か人間と言うのは、苦悶して努力してると、何かしら向こうからそういうものが出あうように、要するに神の経綸が働くんですね。「神の経綸」という言葉があるんですね。神様は何か、まあ昔からよく宗教家はそういうこと言うね。いいことしたらいい結果が出てくる。悪いことしたら悪い結果が出てくる。それで、インド人なんかは今、現世で悪いことすると来世はゴキブリに生まれ変わるかもしれないからね、だから、そうならないために、今いいことしよう、という風に考えるわけですね。

輪廻転生して、リ・インカーネションと言うことが起こったときに、だから、現世どういうふうに自分を律して、努力してきたかということが、まあ来世でいい結実を結ぶ、ということになるわけです。で、現世で努力して、もういい結実を結んだらね、生まれ変わらないわけね、インドの考え方で行くと。成仏すると言うのはそれですね。仏になっちゃうともう生まれ変わって来ないんです。それで、またこの世に生れて来た人は前世で落第した人なんですね。だから、前世ろくでもないことをして生きてきて、落第して生まれてくるんだから、生まれて来たやつは皆ろくでもない修業の必要な人間なんです。それで、悪い奴がいっぱいおってね、その中でやはりどう生きるべきだろうかということを、自問しながら努力して、ちょっとでもいいことをして生きていこうと言う風に努力して生きた人が、ま、来世がまたあれば、あるいは、うまくいけばそのまま卒業して天上界に行けるかもしれない。そうでなかったらまたこの世に舞い戻ってくる。だから、時代と言うのは進むにつれて人間の数はどんどん増えていくし、前世みんな落ちこぼればっかりが生まれてくるわけだから、時代がさがるにつれて世の中は悪くなります。悪人も増えてくる、と言うことになるんですよ、理論的に言えばね。ま、そういうシニカルな…シニカルではなくて、ま、そういう考え方を僕はしながら生きてきたわけですね。

○起きるかな半睡しつつ自問する今日と明日の時間の狭間

これは月曜日のパンの日の朝のことですね。もっと眠りたい…大体8時半か、9時ごろに寝たとしても、12時半には起きるわけだからね。そうすると、大体1時間くらい前に頭の中ではタイマーが鳴り始めるわけです。そうすると、起きちゃおうかな、どうしようかなっというような、そういう時に、この間は11時36分かに地震がグラっと来たわけですね。それが、この最初の2つの歌。だから、まあそうやって僕のくらしを書いているわけです。それで、

○儚いと消えるいのちに幾たびか思い馳せつつ老けゆく我は

まあ、これは震災でたくさん死んだ人もそうだし、もう四カ月経つとですね何か遠いところの出来ごとのよう。それで、自分自身もね、これまでに何人か身内を見送って来ましたけれども、ま、そういうものに想いを馳せつついつの間にか自分も年をとって行って、それで、ああ、宥厳さんもとうとう死んじゃったな、と思われるようにその内なるんですね。まあ、しかし今は思う側であって、思われる側ではないですね(笑)。
それから、

○甲虫光る甲殻みなぎらせ畳這うなり意外の速度

これはさっきここで写真撮って騒いでましたから。皆さん、見た人は別に説明も何もいらないですけどね。ま、しかし、あの甲虫も意志を持ってる。感情を持ってると言うことがわかりますね。パッと手を持って行ったら、パッとこう構えますからね。兜振り上げて。だから、生き物と言うのはみんな自分の命が大事で、やっぱり甲虫もゴキブリもみんな幸せになりたいから、殺されたくないから慌てて逃げるんですよね。昨日ゴキブリ捕まえて、座布団でパンと押さえつけてね、それで掃除機の中に吸い取ってやろうと思って、掃除機持ってきて!言うて、琴美ちゃんが掃除機持ってきて吸い取ろうとしたんだけど、シューっと逃げちゃった。どっかにね。まあ、命を奪わないということはとても大事で、それはインドなんかに行くと蚊も叩かない。我々はついこうパンっと叩いて真っ赤になったりしますけどね、絶対蚊が来たら、蚊は餌が必要なんだから、あげるって言う発想ですね(一同笑い)。
(琴美ちゃん)かゆくなかったらあげてもいいけどね。
(宥厳先生)まあ、そういう絶対に生き物を殺さないなんていう宗教ねぇ。あの…何やったかな。
(早坂さん)ジャイナ教。
(宥厳先生)ジャイナ教やね!そう言うところはとってもきびしいです。で、仏教も殺生は禁物、今朝も不殺生とお唱えしてお経あげましたけど、つい何か、蚊遣り…蚊遣りだったら直接殺さないから、蚊遣りってわかる?蚊取り線香のことね。それで、ま、虫殺してるわけですね、ああやって。殺生をしないということは、争わないということでもあるわけですね。だけどね、野生の動物はね、例えばライオンが自分より弱いものを、ライオンっていうのは嫁さんに働かせて男は働かないのよ。絶対。ライオンが餌取るのは全部メスなんですって。オスは待っとって食うだけね。たてがみは立派な頭してますけど、狩りの能力は低いんですね。種つけする能力があればいいんですね。それで、種をつける権利を獲得するためにオス同士戦うと言うことはやってますけどね。

だけど、野生の動物と言うのは決して殺生しているのではなくてね、あれは自然の摂理ですね。弱いものを殺して食べる。だけど、人間のように例えばアメリカの大平原でもねかつては何十万、何百万頭って言うバッファローが走りまわっとったけど、白人が銃を持って入って行ったら、もう必要もないのに撃つのが面白いから殺しまくるんですね。それで、バッファローが絶滅の状態に追い込まれるっていうようなことにもなってくるんですね。

そういうのはまさに殺戮で自然の摂理ではありませんね。人間が一番自然を破壊する生き物です。ライオンは他の動物を殺して食べる、それは生態系が保たれる原因にもなってる。肉食動物がいなくなると、草食動物が増えすぎて、食べ物が不足したりするんですね。うまく均衡がたもたれるのが自然界というものです。ちゃんとバランスが取れてるわけですね。

今日は原爆が落とされた日ですけどね、広島に。二十万人くらいの人が死んだという風に言われています。その時に直接死んだ人は十七万人くらいですね。大変な虐殺、殺戮ですね。人間はそういう考えられない殺生をしたりもするわけですね。一人の命は地球より重いなんてときにはいったりする同じ人間が虐殺もやってのける。

人間と言うのはそういう意味では非常に得手勝手な、許しがたいような存在かもしれないんですけど。ま、そういうものが人間だと言うことも知ったりして、そういうことを考えて悩んで、それでいいのかって言うことを深く思索して行く、それで何かを自分で見つけて、それで見つけて答えを考えながら人が人間になってくるんですね。何となくご飯食べて大きくなって、年とったら人間になるんじゃないということですね。そういうこと思います。

だから、楽健法を人にやってあげる人なんてのは、人間として極めて高度な部類だと私は思いますね。何かを人に奉仕、サービスしてあげると言うことですね。それが一番大事だと言うことが仏教であれ、キリスト教であれ、宗教の考えの基本になってるわけですね、

ところが、キリストの名のもとに、インディアンなんかは人間じゃないから殺してもいいんだ、ババーンとこう殺してしまうと言うようなね。アメリカ映画見ててもそうなんですけどね、「駅馬車」なんて言って、ジョン・フォードが作った時代はインディアンって言うのは、単なる、もうバッファローと同じなんですよ。映画の作り方も。インディアンが生活持って、苦しんで、恋もしたりね、子供育てて幸せになりたいと思ってるなんて絶対に描いていない。昔の西部劇なんてのはね。だから、それが1960年代くらいになってからかもしれないけど、インディアンの生活に視点を当てて西部劇を作って行くというような、作り方がでてくるんですね。だから、それはアメリカの黒人運動なんかが盛んになってきて、それで人々の意識が変わって行くことによって、単なるバッファローと同じように、鉄砲持って行って兎に角ババババーンって撃ったら、痛快で面白いというようなね、そういう白人中心の見方の感覚で作ってた西部劇から、インディアンも人間で、苦悩を持って一つ一つの生活があるんだと言うようなことを描くようにだんだん変わってくるんです。

だから、そういうことが変わって来たのが20世紀の大体後半になってからですよね。ま、そんなようなことで人間て言うのはなかなかね、人類と言う大きな意識で考えたらなかなか進化してない。昔よりむしろ退化しているかもしれないね。そういうことを思いますね。

まあ、今の日本なんか、これから先どうなって行くのか、大変な謎ですけど、僕はもっともっと落ちないと本当の転換期に行かないんじゃないかなって言う風に思います。一度そういうこと経験したんでしょ。戦争に負けてね。もぅ、どん底まで落ちて、で、そこまで行ってこう転換していく。だけど、転換してきてちょっと良くなってくるともう喉元過ぎれば熱さ忘れると言うようなことになってね、深くものを考えずに政治を行ったり色んなことしてる。

だけど、システムそのものは、社会保障だとか色んなものは整備されてきたけれども、また、それを、整備されてきたシステムを利用しようとして、働かないで生活保護だけもらおうとか言うような人がいっぱい出てくるとかね、それから、まあそういうあさましい、自覚を持たない人間が段々増えてきて、自分のことだけ、自己中心にものを考えて生きていく人間が増えてくると言うのは非常におぞましいことです。
だけど、まあみんなの意識が、国民みんなの意識が高くなっていくという風なそういう自覚を持った国民性ですね、そういうものが本当は出てこないと、本当の世の中の平和なんて言うのはあり得ないですね。日本は非常に外国から見たら平和な国なんですけれども、この平和な国に放射能がああやって垂れ流されて、これが広島の、この間、国会で証言した何とか言う今話題になっている東大の医者の先生ね。広島原発の20発分って言ったかな、そんな大量の放射能が今日本にまき散らされている、と言うようなことも言ってますからね。だから、まあ色んなあってほしくないそういう結果が出てくるのはこれからずっと先のことですね。

え~っと、それから
○日は過ぎぬ心にかかることどもも彼方におしやり自分を生きる

まあ、考えとってもしょうがないからとりあえず自分は彼方に押しやって今日を生きると言うようなことでちょっと書いてみたんです。まあ。こうやって楽健法の勉強でもしないと気に入らないからと言ってデモをやったら世の中が変わるわけでもありませんし、それぞれの場で自分が何かやって行かないとしょうがないですね。

○自分とは狭き門より入りきたり作りあげたかあるべき日々を
この、「あるべき日々」と言うことについて考えてる人と考えてない人がおるんですね。で、これを、「あるべき日々」と言うものを考えている人が人間になっていくんですね。あるいは、迷っていてもね、あるべき…こうあるべきじゃないか!人間とはかくあるべきではないか。だけど、それは他人に要求することじゃなくて、自分が自分に要求することなんですね。そういう自分が自分に対する要求を何も持たない人が結局人間になれないんだろうと僕は思うんですね。

だから、それは完成したかどうかということではなくて、まあそういう自問自答する。だから、悪人は悪人でも構わないんだけど、悪人は悪人に徹するっていうね、姿勢も持ってて、よくテレビなんかではね、悪人捕まえてお上に御用になったらね、もう観念して白状しろって言ったらね、自分のやった悪事をぺらぺらと喋るってのがあるが、これは悪人じゃないんですよ。悪人って言うのは絶対に喋らない。どんなことをしても私は知らね、存ぜぬって言って通し貫くのが悪人なんですね。

そういうのは自民党の代議士なんかに多かったですよ、かつてはね。裁判になったって絶対にしらじらしい嘘をつき続ける。反省して「私が悪ぅございました」なんて涙流すようなのは悪人ではないね、そういうのは悪人たる資格なし。悪人って言うのは徹底する。やりたいやつはちゃんとやれ、悪人らしくね。そういう意味では東電の責任者なんか立派な悪人ですね。見事なもので、敬服に値する。あの傲慢さというのはね。そういうものに負けないように、柔軟に対応していかなければならないね、これから。

だから、今77%の人が原発反対って言う世論を形成しようとしています。菅さんに早く下りろとか言われてますけど、反原発、脱原発っていうことを、首相が言いだしたんだからあれを言質に取ってね、それをみんなが支持すると言うような形で反原発の空気を育てることにもっていく、やっぱりね、世論が強くなっていけばそういう方向に向かわざるを得なくなってくると思うんですね。そうすると本物の悪人もやっぱり、善人が80%、悪人が20%で、だいたい善人の方が勝つことになるでしょうね。デモクラシーの世の中だから。

それと、
○青春と言葉は若葉のいろなれど苦しみ多き若き日のわれ

まあ、皆さんは青春を謳歌したんだろうと思いますけどね、僕は二十歳の頃非常に中年のような意識で生きてましたからね。色んな荷物を背負って。それで、青春と言うのは一度もなかったような気もするし、ひょっとしたら今頃になってやっと青春に差し掛かったのかもしれないとも思ったりもする。で、青春とは何かと言うようなことでね。福田恒存っていう評論家がかつてね、「青春とは生きがいの感情である」っていうことを書いてるんですね。生きがいの感情。「それはまた可能性の感情ともいえる」と書いています。

だから青春と言うのは混沌ですが、本当に可能性を持っているということですね。私の芝居のなかの、原野の思想というのも、そういうこと。だから、その可能性を何にも…あるべき…この最後の方の「あるべき日々」ですね。前の「狭き門より入り来たり作り上げたかあるべき日々」。「あるべき日々」と言うものを自分の課題として持たなかった人はですね、まあ、そういう意味での深い内省的な自分というものを経ないで、毎日飯食って、それで毎日過ぎて、生きていくわけですよね。そういう風になってくる。

まあ、だけどものを考えるから必ずしもえらいとは限りませんけどね。何にも考えずに生きられたらこんな気楽なことはないんだけど、ま、しかし、考えざるを得ないと言うのがホモサピエンスですね。知恵ある人間としての存在なんですね。だから、人間はみなさん、考えに考えて来たわけです。だけど、三千年前に考えた人がね、レベルが低くて今の人がレベルが高いということは決してないんですね。

三千年前、ソクラテスだとかね、ギリシャ哲学あたりから多くの人がいろんなことを随分考えたことを書き残して来て、お釈迦様も考えたし、中国では孔子も、キリストも色んなこと考えてきましたけど、だけど、その人達を時代が経てば乗り越えられるか、できない、なかなか。乗り越えられないんじゃなくて人間と言うのは誰が考えても、お釈迦さまが考えたと同じ時点(レベル)の所まで一人で考えていったら到達するんです。誰かが教えてくれたから初めてわかるというものじゃないんですね。もの考えるってそういうことなんですよ。どんな人だってもうこれ以上は考えられないと言うところまで行くんです、物を考えていたらね。そういうレベルのことを誰でも考えられるわけです。だから、やはり考える習慣って言うかね、そういう考えざるを得ないような自分になると言うことはとっても大事なことだということですね。まあ、それくらいでいいのかな。

○蚊遣りつけ消したい時間の位置あたりコインを置きてタイマーとす
これは、ちあきちゃんが「タイマーですか?」と言って返事くれた時ショックを受けたの、ほんとは(笑)。ええ~そうなん!?って。
(琴美ちゃん)それまでなんだと思ってたの?
(宥厳先生)いや僕ただ消すためにポッと置いただけで(一同笑い)。一円玉タイマーとは思ってなかったの。

で、
○パソコンや携帯にぎり対話する文字と言葉とjpg写真
JPG(ジェイペグ)って言うのは、皆さんが携帯やデジカメで写真を写して送りますね。それの、写真のデジタルの記録のシステムで、色んなシステムがあって、写して記録媒体に保存するときに写真の使用目的によって保存形式が選べるんですが、携帯やデジカメは自動的にジェイペグってJPGという形で保存されるようになっています。軽くてあまり画像が乱れない。そういう形で写真が撮れるので、今のカメラで写したのはほとんどJPEGで保存されていますね。だけど、ピクトなんていう形式で保存するとJPEGの何倍にもなるんですね。だから、それをメールで送ったり、インターネットにアップするときはピクトで写しても、それをJPEGに変換すると言うような作業をするのです。それでまぁ拡張子って言うんですけど、パソコンの色んなファイルには全部拡張子と言うものが付いていて、その拡張子によって大きくも、大きい拡張子に、出来るだけ精密ないい写真を大きなポスターに引きのばしたりと言うようなときには普通はJPEGでは使わないですね。

JPEGって言うのはかなり伸ばしても画像が荒れない、そういう一種のデジタルの形式なんですね。まあ、フェイスブックなんて言うのをパソコンで色々覗いたり、送ったりして、これも皆さん、話をしているわけですね。文字と言葉とJPG写真、というように書いたんですね。まあそんなとこでいいですね。



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