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「不可視の両刃」放射線に挑む~英国大学院博士課程留学~

英国に留学して放射線研究に取り組む日本人医師ブログ

男子は生涯、一事を成せば足る

2017-04-03 | 学術全般に関して
かの秋山好古の口癖だったと伺います。
かつて私もそういう生き方をしたいとたしかに願ったはずなのに。今、我が身を振り返れば、余計なことばかりを気にしています。我ながら随分と愚かな真似をしてきたものです。

ここ英国に来て、今まさに、その一事を成そうと足掻いています。
あと5年か、あと10年か、おそらく20年まではかからないでしょう。放射線科学の教科書を書き換えることで、福島原子力災害の被害を最小限に留め、我が国のこれからの発展の礎になりたいと願っています。
放射線の単位を変え、放射線防護の在り方を変えます。
私には、あの放射線禍の悲しみを無駄にしない方法は、結局、それくらいしか思いつきませんでしたから。

浅学非才ではありますが、この命を賭してでも、為すべきことを為します。

自己満足なのかもしれないけれど

2017-01-23 | 学術全般に関して
研究を続けたいと願うなら、研究計画を描いて申請し、審査され採択されなければ、研究費は得られません。そして、研究計画書には、必ずその研究の「背景」を記さなければならない――その度に、いま取り組んでいる放射線研究の原点を振り返ります。
それは残念ながら、決して、楽しい作業ではありません。

私のやっている事なんて、所詮、自己満足なのかもしれません。

死の間際で故郷に帰りたいと願った人たちの希望を語って、その思いを自分自身の放射線研究の成果と共に残そうとする。浅はかな行いなのかもしれませんし、何よりも私が看取ってきた人たちの遺志ではないかもしれません。こんな事して誰が喜ぶのかと言えば、それはたぶん、自分だけでしょう。
故郷に帰りたかった人たちは、最期まで故郷に返してあげられなかったままです。それは変わりません。でも、これから私に出来る事なんて、そのくらいしかありませんから。つまり、研究して前へ進むしかない。

たしかに亡くなられた人たちにはもうその感想を聞く事は出来ませんが、もしも天国で聞くことが出来たならばあるいは「まあ、先生もそれなりに頑張ったんじゃないか」って、もしかしたら赦してくれるかもしれません。喜んでくれるかもしれません。それもまた、結局、自己満足にしか過ぎないとしても。

しかし、私にはそうするしか、ここまで来る方法を見つけられなかった。
あの原子力災害の被災地で失われたもの全てを無駄にしないために。前へ進むために。
私に出来ることをしようと思いました。
それこそがきっと、私が為すべきことだと信じて。

だから、今日も今日とて、私は拙い研究計画書を申請しました。
それは残念ながら、決して、楽しい作業ではありません。

強いられた言語と勝てる土俵

2016-11-26 | 学術全般に関して
日本語が第一言語になる我々にとっては残念ながら、現代の科学界では英語こそが世界の中心です。
科学はその性質からして否応なしに競争を強いるものであり、我々もまた、その競争の中で英語での表現を強いられています。医学を含めた自然科学では、社会科学、人文科学ほどに英語表現・パフォーマンスの優秀を問われることはありませんが、それでもある程度は英語での表現力を問われることになります。
この「強いられた言語」を使わざるをえない状況で、英語を第一言語にする人たち所謂ネイティブスピーカーを上回る表現力を発揮するのは、不可能とは言いませんが至難です。費用対効果を考えると、そこに必要以上の労を費やすのは、無駄になることも多いでしょう。

それなら、どうすればいいのか。

多くの先達が同様の結論に達していますが、逆境を好機に変えればいい、つまり「日本語による思考の強みを活かすべき」なのでしょう。英語での表現力はある程度捨てて、思考の質で勝負するしかないと思われます。
日本語はおそらく世界で一番複雑怪奇な言語の一つであり、例えば表意文字である漢字と、表音文字である仮名を併用しているように、とても柔軟な表現と思考を可能にします。この日本語の特徴あるいは恩恵をこそ我々は大事にすべきです。
もはや科学の分野で欧米のキャッチアップをすればいいという時代はとっくに終わっています。すでに英語で書かれた内容を日本語に書き直すだけの作業を期待される時代ではなく、これまでの世界になかった日本発の新しい内容を生み出す作業こそが日本の科学者には求められています。その時、「日本語で考える」「日本の文化的背景から着想を得る」ということは、英語をはじめとする他の言語を第一言語とする人たちには真似できないという意味で、一つの強みになりえるのです。
おそらくは、そこに「勝てる土俵」があります。

我々は、勝てる土俵の上でこそ、勝負すべきでしょう。すなわち、「日本語で考えたことを英語で発信する」というスタンスで勝負すべきであり、英語で考えて英語で発信するのはやはり避けるべきなのではないかと考えています。数式で考える数学や理論物理学などの分野はともかく、他国語での論理的思考はどうしても科学的に質が落ちますから。他国語思考による脳への負荷の影響とも言われます。日常生活においては思考レベルが多少低下しても問題にならなければ構いませんが、研究の最先端で最高峰の勝負をするには間違いなく不利であり、真剣勝負に挑む際にわざわざ負ける土俵を選ぶのは愚かしいでしょう。

一点付け加えると、私は他国語から日本語への変換もとても大事な作業であると思っています。
かつて「Physics」という英語をただフィズィクスと仮名表記するのではなく「物理学」あるいは「究理学」と訳したように、日本文化外に現れた概念を日本語に取り込む作業は、未来の日本語を豊かにし、日本文化を幅広いものにする意味で、欠かせないものです。日本の科学者は、かつても、今も、そしてこれからも、この作業を行っていかなければならないでしょう。
それがきっと、日本が明日勝てる土俵を作ることにもなりますから。

11月8日は国際放射線医学の日

2016-11-08 | 学術全般に関して
今日は11月8日であり、おそらく多くの方々は第45代米国大統領選挙の日と記憶していることと思われますが、それだけではありません。本日は国際放射線医学の日(International Day of Radiology)です。1895年11月8日にドイツ人物理学者のヴィルヘルム・レントゲン博士(Dr. Wilhelm Conrad Röntgen)がX線を発見したことを記念して、各国の放射線医学に関連する学会が参画しています。
言わずと知れた第1回ノーベル物理学賞に輝いた「X線の発見」ですが、この不可視の両刃の発見はまさに人類の科学史上に残るものでした。X線という「目に見えないもの」を利用して、人類はそれまで見通すことが出来なかった「多くの影を見る」ことが出来るようになったわけですね。

Seeing is believing.
(見ることは信ずることである → 「百聞は一見に如かず」)

私の好きな言葉です。教科書に書いてあるものを疑い、他者が言うことを信じず、最終的には自分自身が見て、感じて、考えてから、はじめて納得するのが科学者です。私もその端くれとして、やはり「自分の目で見てから信じたい」といつも願っています。そのような性を鑑みると、「目に見えないX線が写し出した未知の影」が当時の科学者たちに与えたインパクトはさだめし大きかったことだろうと思うのです。

レントゲン博士が人類に遺したプレゼントは、今日も今日とて、我々の医療を支えています。彼は、X線の特許を取得せず(万民が使えるようにするため)、巨額のノーベル賞金を大学に全額寄付した、清貧の士でもありました。
ですから、皆で彼に感謝する日があってもいいんじゃないかなと、個人的には思っています。

科学者の良心 ~査読制度~

2016-10-25 | 学術全般に関して
久しぶりに「査読(peer review)」を依頼されたので引き受けることにしました。
渡英してからは初めてです。以前に私の論文を掲載してくれた医学誌からの依頼でしたので、正直申し上げれば若干面倒ではありますが、浅学非才の身の上と知りながら査読者になることにしました。インパクトファクターはそれほど高くはありませんが、歴史と伝統のある医学誌ですので、かなりの時間と労力を割いて、しっかり査読する必要があります。

査読は、研究者にとっては馴染み深いものですが、一般の人々はよく判らないものだと思います。
我々研究者は、研究者としての存在意義をかけて、自分たちの論文を学術誌に投稿します。しかし、そのようにして寄せられた論文全てが学術誌に掲載されるわけではありません。掲載前に論文の内容が科学的に妥当であるかどうか、学術的に価値があるかどうか、ミスがないかどうか、それらを様々な観点から同業の研究者たちが評価して、その評価をもとに編集者が論文の採否を決めます。したがって、一般的には、評価が高い論文ほど有名な学術誌いわゆるトップジャーナルにすぐに掲載され、それほど評価が高くなくても重要な論文は中堅の学術誌に紆余曲折を経て掲載され、評価が低い論文はどこにも掲載されないあるいは名も知れない学術誌になんとか掲載ということになります。このような同業の研究者による掲載前の評価システムを査読と言います。

この査読という作業は、ほぼ完全に研究者たちの良心に委ねられており、つまりはただのボランティアです。どれだけ一生懸命に時間をかけて行ったとしても、基本的に、謝礼などはもらえません。作業後に編集者から「ありがとう」というメールを頂戴するだけです。
それではどうしてそのような奉仕活動をするのかというと、「自分の論文も誰かが査読してくれるから」という一点に尽きると思います。私もこれまでに筆頭著者として書いてきた論文は、15報が既に世に出ていて、1報が採択されて印刷待ちであり、3報が査読中で、1報が投稿する直前の状態です。おそらく多数の査読者の方々にこれまでお世話になってきたはずであり、これからもそうなるでしょう。だから、私もまた、誰かの論文のお世話をするのは当然というべきです。
とはいえ、正直言って、やはり楽しい作業ではありません。自分の研究と関連した分野の論文について査読を依頼されるのが一般的ですが、それでも読みたい論文ばかりではありませんから。査読も勉強の一環と言いたいところですが、自分自身も論文を投稿する直前の最終調整段階なので気忙しいところです。さっさと作業して、出来るだけ早く、査読評価を編集部にお送りしたいと思います。

振り返ると、英国にいても、日本にいても、やっていることはあまり変わらないのかもしれません。
たしかに臨床はしなくなりましたが、研究活動自体は世界のどこにいても大体同じです。実験をして、論文を書いて、査読して……
街中で救急車を見かけるたびに、ちょっと「ドキッ」として、医療従事者の血が騒ぎますが、英国での免許がなくて何もできない自分がいます。
医療人として必要とされないのは、やはり、寂しいものです

2016ノーベル生理学・医学賞の単独受賞 ~大隅良典教授とオートファジー~

2016-10-03 | 学術全般に関して
大隅良典教授が今年のノーベル生理学・医学賞を単独受賞されました。
単独受賞というと、湯川秀樹博士、利根川進博士に続く3人目です。「単独だから3人分の価値がある」というと言い過ぎかもしれませんが、その分野で突出した貢献が認められたのだろうと思います。たしかに水島昇、Daniel J. Klionskyの両氏にも受賞の可能性はあったと思いますが、単独ということならば、それはやはり「大隅良典」の名前だけだったのでしょう。

医学部生だった頃、たしか2009年だったと思いますが、大隅先生の「オートファジー(autophagy)」の講義を初めて拝聴した時のことを思い出しました。
ご子息も医師ですが、私の大先輩です。私の同級生もたしか東工大の大隅研にお世話になっていましたし(飲み会が多いとぼやいていましたが)、これまでのノーベル賞受賞者の中では最も親近感を抱くことが出来る先生です。「オートファジー」という言葉は一般にはあまり知られていないかもしれませんが、タンパク質の再利用は細胞にとって非常に重要な意義があり、このメカニズムの破綻は多くの疾患病態に関連します。大隅先生は、このオートファジーに関わる遺伝子の多くを同定し、その分子基盤を明らかにされたのでした。生理学・医学賞の受賞に相応しいテーマだと思います。おそらく今後多くのテレビ番組などで採り上げられるでしょうから、一般の人々はそちらを参考にされると宜しいでしょう。

「誰もやらないことをやりなさい」と、大隅先生はかつて我々に話してくれました。
他人と違うことを恐れずに、私もまた自分だけの道を進もうと思います。