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60年前の奇跡 ------テニス試合における感激と苦痛(中学時代)

2022-06-23 07:49:07 | 思うまま




    60年前の奇跡-----テニス試合における感激と苦痛(中学時代)

  正式には、今から63年前の中学校における、部活としての軟式デニスの各種試合の

結果には、感激と日々の苦痛が忘れられない、貴重な経験であった。

  この学校は、兵庫県の淡路島にある洲本市立州浜中学校である。テニスには硬式と軟

式の二種類があり、現代では、硬式テニスが主流になっている。あのプロ選手の錦織選手

は硬式テニスである。私の中学校時代には部活、クラブ活動は軟式テニスが主流だったの

である。

  私は、8歳上の兄が高校で軟式テニス(これからは、総てテニスと呼ぶ)をしていた関
係で、特に勧められたわけではないけれども自然な形で中学校に入学した直後から入部し

た。それまで、兄とは年が離れていたこともあり、一度も一緒にしたり、教えてもらった

ことはなかった。

  三年間の各種の試合において、最後の試合に奇跡が起こったのである。各種の試合と

いうのは、地元の洲本市内のもの、そして、予選を通過すれば、兵庫県の大会がある。そ

して最後の大きな大会は近畿地域大会である。つまり、兵庫県、大阪府、京都府、奈良県、

滋賀県、和歌山県の県,府6地域での予選を勝抜いた選手の試合である。全国大会は当時は

なかった。
  私は、所属している学校でも二番手という実力は卒業するまで、変えることが出来なか

った。それでも、兵庫県大会でベスト8にくらい付くことが出来た。そして、三年生の最後の

年に兵庫県大会で3位までに入れば、近畿大会に出場できるわけだが、これまでの成績ではと

ても叶わぬ実力であったのです。

  でも、何と奇跡が二度訪れることになる。まず、兵庫県での大会において、ぎりぎりの3

位になり、近畿大会に出ることが出来る結果が得られた。このことは学校の関係者や家族も誰

一人予想していなかったのです。私にとって、これがまず、一つの小さな奇跡です。そして

10月に開催された近畿大会がいよいよ迫ってきていた。

  近畿大会においては、これまで、兵庫県から選ばれた選手が良い成績を上げていた。他の

地域の実力は全く情報がなかった。試合のプログラム(組み合わせ)はベスト8まで第一シ-ドか

ら与えられていた。当然、私はシ-ドなしで相手もシ-ドされていない選手との試合が3試合続

いた。3試合続いたということは、2試合に勝利したからである。その後は、いよいよ実力のある

と言われているシード選手やそれらに勝ち進んできた選手との試合になった。

  もちろんこの中学生最大かつ最後の大会で優勝しようなどという大それた目標は全く持てな
かった。とにかく、一試合でも多くやりたいという思いであったと思う。それが、あれよあれよ
というまに、決勝戦まで行ったのである。相手は奈良県の選手である。事前に彼らの試合も観察
することはできず、その実力は白紙の状態で決勝戦に臨んだ。たとえ負けても、準優勝というこ
とで胸をはって地元に帰ることができるという気持もあっただろう。

  この決勝戦で、私は一つの作戦を考えていた、それに徹して臨んだ。それは、相手側に取り
にくい強いボ-ルを撃てばいいのですが、その実力に自信がないので、その逆に、相手の打ちや
す緩やかなボ-ルを根気よく打ち返そうと考えて、かっこは良くない姿でのテニスであったと思
う。当然に決勝戦まで勝ち進んだ相手の選手であるから、その実力は相当のものがあって、こち
らが返した緩やかなボ-ルを強く打ち返された。前半は相手の強打に太刀打ちできなく不利なカ
ウントに追い込まれてきていた。

  それが、不思議なことに、こちらが初めから緩いボ-ルに徹していると、徐々に相手がミス
をし始めた。その時の思いは、相手も中学生であり、まだ、精神的にも充実していないだろう、
チャンスボールが続くと、却って力みが出て、肩に余分な力が入り、ネットに当ったり、オ-
バ-になるなどのミスがでるものなので、それを期待した。それは誰でも解っていることであっ
ても、ミスの確率が高くなる。それが中学生としての最大の大会であるならば、よりそのことが
顕著にでてしまう。その試合の結果は、観客の予想とは裏腹な結果になった。つまり、勝って優
勝してしまった。
  決して実力で勝ったとは到底思えない試合運びであり、我ながら呆気にとられたというのが
正直な思いでありました。

  そんな奇跡的な裏では、苦痛を感じていたこともある。軟式テニスは前衛と後衛のダブルス
での試合である。つまり、私が一人で優勝したものではない。たわしは後衛であったが、前衛の
相棒がいた。この相棒とは3年間一緒だった。実はその相棒との人間関係というか、大きな窮屈
さを常に感じながらの日々の練習であり試合でありました。相棒の人は、気持ちはやさしい面も
ある半面、私がミスをすると鋭い目で睨みつけらた。気の弱い面がある私は萎縮気味の苦痛を感
じていたのです。相棒とは、同じ高校に進んだ時に、相棒を離れることになった。

  60数年たった今、改めて思うと、そのような緊張するような相棒であったのが、却って練習
に励み、ミスをしないように努めた結果であったかも知れないと思うこともある。遠くから相棒
であったK君に感謝したい、お互いに消息は分かり合えていないが今でも元気でテニスをやって
いるだろうか。私は、71歳になった日から市の体育館で週一回硬式テニスをしている。 0

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