プロ野球 OB投手資料ブログ

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高橋昌也

2021-11-27 11:10:46 | 日記
1981年


主戦投手の高橋は181㌢、70㌔の体格。今年五月中旬にひじを痛めたが、最近は思いきって投げ込めるまでに回復してきた。指先に球がうまくかかった時の快速球は相当な威力。カーブも大きく割れる。


いやなすべり出しだった。一回、先頭打者に初球いきなり死球、二番打者にも粘られた末、死球を与えた。南宇和の主戦投手高橋昌也はこの日、マウンドに立った時、いつもと同じ不安に襲われた。右腕に痛みを感じたのは三年前。高橋は南内海中学野球部のエースだった。毎日二百球以上を投げ込んだ。南宇和野球部に入ったころには、関節部分の軟骨が飛び出してもりあがり、投球数百を超えると鋭い痛みが走った。それでも、マウンドを降りる気には一度もならなかった。去年秋、新チームが組まれた。一年生ながらエースナンバーを背負った。時折、襲う痛みに耐えて秋、春の県大会を投げ続けた。「大阪にプロ野球選手をマッサージしている整形医がいる。行ってこい」監督の竹内茂夫が勧めてくれたのは五月末だった。父寿介(47)が大阪まで連れて行った。「二年遅かった。野球を続けるのは無理だ。どうしてもスポーツを続ける気なら、体もあることだし、バスケットに転向したら」高橋の右腕をひと目見て、医師は告げた。二週間の治療はむなしかった。愛媛大会が近づいた。六月中旬、竹内は高橋を高知県土佐清水市のしんきゅう師のもとへ連れて行った。二人ともワラにもすがる気持だった。痛みは少し薄らいだ。帰宅後は、母保江(46)がおきゅうをすえてくれた。跳び上がるほど痛かった。保江は、高橋の寝入りばなにたっぷり線香二本分の治療をした。保江は、高橋が中学生の時、練習から帰ってすぐ、自宅から約四㌔の山の頂上にあるテレビ塔までのランニングを命じた。「ぼくだけなんでこんな苦労せないかんのや」高橋は口をどがらせた。「頂上に着いたら、大きな声でおらんでみい」懐中電灯を持たせた。二十分後、高橋の声が山にこだました。テレビ塔までの夜間ランニングが日課になった。ハンディキャップをはね返すバネになった。一回に与えた1点は、打たれてではなかった。しかし、二回には長短打二本を浴びた。歯を食いしばる高橋。スタンドの保江は一瞬目をつぶった。優勝候補の最右翼帝京五はさすがに迫力があった。完敗だった。高橋の目からどめどなく涙があふれた。ひとしきり泣いて高橋は顔をあげた。「来年があります」涙と土で汚れた顔で、目だけ、きらきら光っていた。


1982年


速球派の主戦高橋がひじの痛みを克服し、復調したのが大きい。恵まれた体格で投げ下ろす直球、切れのよいカーブで安定している。打の大黒柱、四番高橋は通算二十本余りの本塁打を放っている。

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