以前、東京国立博物館で国宝『松林図屏風』を観ました。
絵の前に立つと、まるで自分が霧の中の松林に立っているように感じられた
感覚が忘れられません。
■国宝『松林図屏風』
※桃山時代を代表する絵師・長谷川等伯の至高の傑作、国宝『松林図屏風』。
日本絵画史上においても類稀な完成度と様相と呈している本作は、
初冬の朝靄か雲霧(又は驟雨)がかかる松林の風景を描いた作品である。
その頃から水墨画に惹きこまれていきました。
私の亡き父も「山水画」が好きで、職人ならではの目線で話す襖絵の話を
よく聞いたものでした。
そういった影響が少なからずあるのかもしれませんが・・・。
それ以来、日本画の巨匠の展覧会があると足を運んでいましたが、
今回の、出光美術館で開催された「水墨の風」も楽しみにしていました。
五代雪舟を名乗る等伯。
雪舟は、先日東京芸術大学美術館で観た「雪村」の師匠でもありますので、
余計に楽しみにしていました。
■水墨の風 ―長谷川等伯と雪舟
(HPより抜粋)
墨の濃淡によって生み出されるグラデーションが、画面に無限の奥行きと広がりをもたらす水墨画。
中国を発祥とするこの斬新な絵画表現は日本にも伝播し、室町時代を経て独自の表現美を獲得することとなりました。
(中略)
日本における水墨の「風」を考える上で欠くことのできないのが、雪舟と長谷川等伯というふたりの画家です。
雪舟は、当時の日本で重んじられた画法を学びながらもそれに飽き足らず、中国に渡って日本とは全く異なる
本場の絵画動向に触れ、強い表現性を持つ水墨画を生み出すに至りました。
そして等伯は、雪舟以後に大きな飛躍をとげた水墨画をさらに変革し、日本人の心性にかなった、情緒あふれる
絵画表現にまで高めたのです。
今回は、雪舟の「破墨山水図」、そして長谷川等伯の描いた「松に鴉・柳に白鷺図屏風」という、出光美術館を
代表するふたつの作品を中心に、選りすぐりの中国・日本絵画の名品と、今回特別に出品される作品をまじえ、
伝統を基盤としながらも新たなる風を興したふたりの創作意欲の源に迫りつつ、さらに日本における水墨画が
いかなる遺風にならい、いかなる新風を興したのかを、深く読み解いてゆきます。
■「松に鴉・柳に白鷺図屏風」
■四季柳図屏風 長谷川等伯筆
今回、初めて観ました。
絵を観ていると、風がそよそよと吹くように感じました。
■長谷川 等伯(はせがわ とうはく) ※Wiki pediaより抜粋
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師
幼名は又四郎、のち帯刀。初期は信春と号した。
狩野永徳、海北友松、雲谷等顔らと並び桃山時代を代表する画人である。
能登国・七尾の生まれ。
20代の頃から七尾で日蓮宗関係の仏画や肖像画を描いていたが、
元亀2年(1571年)頃に上洛して狩野派など諸派の画風を学び、
牧谿、雪舟らの水墨画に影響を受けた。
千利休や豊臣秀吉らに重用され、当時画壇のトップにいた狩野派を脅かすほどの
絵師となり、等伯を始祖とする長谷川派も狩野派と対抗する存在となった。
代表作『松林図屏風』(東京国立博物館蔵、国宝)は日本水墨画の最高傑作として名高い。
等伯は10代後半頃から宗清や養祖父の無分(法淳)から絵の手ほどきを
受けていたと考えられ、養家が熱心な日蓮宗信者だったことから、
法華関係の仏画や肖像画などを描き始めた。
当時は長谷川信春と名乗っていた。
当時の七尾は畠山氏の庇護のもと「小京都」と呼ばれるほど栄え、
等伯の作品には都でもあまり見られないほど良質の顔料が使われている。
一般に仏画は平安時代が最盛期で、その後は次第に質が落ちていったとされるが、
等伯の仏画はそのような中でも例外的に卓越した出来栄えをしめす。
元亀2年(1571年)等伯33歳の頃、養父母が相次いで亡くなり、
それを機に妻と息子久蔵を連れて上洛
最初は当時の主流だった狩野派の狩野松栄の門で学ぶもののすぐに辞め、
京都と堺を往復して、堺出身の千利休や日通らと交流を結んだ。
狩野派の様式に学びつつも、彼らを介して数多くの宋や元時代の中国絵画に触れ、
牧谿の『観音猿鶴図』や真珠庵の曾我蛇足の障壁画などを細見する機会を得た。
それらの絵画から知識を吸収して独自の画風を確立していったのもこの頃である。
『花鳥図屏風』(妙覚寺蔵)、『武田信玄像』(成慶院蔵)、『伝名和長年像』
(東京国立博物館蔵)など優れた作品を残しており、天正11年には大徳寺頭塔である
総見院に『山水、猿猴、芦雁図』(現存せず)を描いたという記録が残っており、
利休らを通じて大徳寺などの大きな仕事を受けるようになったという。
■『花鳥図屏風』(妙覚寺蔵)
■『武田信玄像』(成慶院蔵)
天正14年、豊臣秀吉が造営した聚楽第の襖絵を狩野永徳とともに揮毫している。
『本朝画史』には、狩野派を妬んだ等伯が、元々狩野氏と親しくなかった
利休と交わりを結び、狩野永徳を謗ったという逸話が載っている。
天正17年、利休を施主として増築、寄進され、後に利休切腹の一因ともなる
大徳寺山門の天井画と柱絵の制作を依頼され、同寺の塔頭三玄院の水墨障壁画を描き、
有名絵師の仲間入りを果たす。
秀吉が造営した仙洞御所対屋障壁画の注文を獲得しようとするが、
これを知った狩野永徳が狩野光信と勧修寺晴豊に申し出たことで取り消された。
この対屋事件は、当時の等伯と永徳の力関係を明確に物語る事例であるが、
一方で長谷川派の台頭を予感させる事件でもあり、永徳の強い警戒心が窺える。
************************************************************
以前行った展覧で観た「龍虎図屏風」のように迫力のあるものや、「松に秋草図」
のような豪華絢爛なものまで等伯の展覧があればまた足を運びたいです。
■龍虎図屏風(ボストン美術館)
■松に秋草図
絵の前に立つと、まるで自分が霧の中の松林に立っているように感じられた
感覚が忘れられません。
■国宝『松林図屏風』
※桃山時代を代表する絵師・長谷川等伯の至高の傑作、国宝『松林図屏風』。
日本絵画史上においても類稀な完成度と様相と呈している本作は、
初冬の朝靄か雲霧(又は驟雨)がかかる松林の風景を描いた作品である。
その頃から水墨画に惹きこまれていきました。
私の亡き父も「山水画」が好きで、職人ならではの目線で話す襖絵の話を
よく聞いたものでした。
そういった影響が少なからずあるのかもしれませんが・・・。
それ以来、日本画の巨匠の展覧会があると足を運んでいましたが、
今回の、出光美術館で開催された「水墨の風」も楽しみにしていました。
五代雪舟を名乗る等伯。
雪舟は、先日東京芸術大学美術館で観た「雪村」の師匠でもありますので、
余計に楽しみにしていました。
■水墨の風 ―長谷川等伯と雪舟
(HPより抜粋)
墨の濃淡によって生み出されるグラデーションが、画面に無限の奥行きと広がりをもたらす水墨画。
中国を発祥とするこの斬新な絵画表現は日本にも伝播し、室町時代を経て独自の表現美を獲得することとなりました。
(中略)
日本における水墨の「風」を考える上で欠くことのできないのが、雪舟と長谷川等伯というふたりの画家です。
雪舟は、当時の日本で重んじられた画法を学びながらもそれに飽き足らず、中国に渡って日本とは全く異なる
本場の絵画動向に触れ、強い表現性を持つ水墨画を生み出すに至りました。
そして等伯は、雪舟以後に大きな飛躍をとげた水墨画をさらに変革し、日本人の心性にかなった、情緒あふれる
絵画表現にまで高めたのです。
今回は、雪舟の「破墨山水図」、そして長谷川等伯の描いた「松に鴉・柳に白鷺図屏風」という、出光美術館を
代表するふたつの作品を中心に、選りすぐりの中国・日本絵画の名品と、今回特別に出品される作品をまじえ、
伝統を基盤としながらも新たなる風を興したふたりの創作意欲の源に迫りつつ、さらに日本における水墨画が
いかなる遺風にならい、いかなる新風を興したのかを、深く読み解いてゆきます。
■「松に鴉・柳に白鷺図屏風」
■四季柳図屏風 長谷川等伯筆
今回、初めて観ました。
絵を観ていると、風がそよそよと吹くように感じました。
■長谷川 等伯(はせがわ とうはく) ※Wiki pediaより抜粋
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師
幼名は又四郎、のち帯刀。初期は信春と号した。
狩野永徳、海北友松、雲谷等顔らと並び桃山時代を代表する画人である。
能登国・七尾の生まれ。
20代の頃から七尾で日蓮宗関係の仏画や肖像画を描いていたが、
元亀2年(1571年)頃に上洛して狩野派など諸派の画風を学び、
牧谿、雪舟らの水墨画に影響を受けた。
千利休や豊臣秀吉らに重用され、当時画壇のトップにいた狩野派を脅かすほどの
絵師となり、等伯を始祖とする長谷川派も狩野派と対抗する存在となった。
代表作『松林図屏風』(東京国立博物館蔵、国宝)は日本水墨画の最高傑作として名高い。
等伯は10代後半頃から宗清や養祖父の無分(法淳)から絵の手ほどきを
受けていたと考えられ、養家が熱心な日蓮宗信者だったことから、
法華関係の仏画や肖像画などを描き始めた。
当時は長谷川信春と名乗っていた。
当時の七尾は畠山氏の庇護のもと「小京都」と呼ばれるほど栄え、
等伯の作品には都でもあまり見られないほど良質の顔料が使われている。
一般に仏画は平安時代が最盛期で、その後は次第に質が落ちていったとされるが、
等伯の仏画はそのような中でも例外的に卓越した出来栄えをしめす。
元亀2年(1571年)等伯33歳の頃、養父母が相次いで亡くなり、
それを機に妻と息子久蔵を連れて上洛
最初は当時の主流だった狩野派の狩野松栄の門で学ぶもののすぐに辞め、
京都と堺を往復して、堺出身の千利休や日通らと交流を結んだ。
狩野派の様式に学びつつも、彼らを介して数多くの宋や元時代の中国絵画に触れ、
牧谿の『観音猿鶴図』や真珠庵の曾我蛇足の障壁画などを細見する機会を得た。
それらの絵画から知識を吸収して独自の画風を確立していったのもこの頃である。
『花鳥図屏風』(妙覚寺蔵)、『武田信玄像』(成慶院蔵)、『伝名和長年像』
(東京国立博物館蔵)など優れた作品を残しており、天正11年には大徳寺頭塔である
総見院に『山水、猿猴、芦雁図』(現存せず)を描いたという記録が残っており、
利休らを通じて大徳寺などの大きな仕事を受けるようになったという。
■『花鳥図屏風』(妙覚寺蔵)
■『武田信玄像』(成慶院蔵)
天正14年、豊臣秀吉が造営した聚楽第の襖絵を狩野永徳とともに揮毫している。
『本朝画史』には、狩野派を妬んだ等伯が、元々狩野氏と親しくなかった
利休と交わりを結び、狩野永徳を謗ったという逸話が載っている。
天正17年、利休を施主として増築、寄進され、後に利休切腹の一因ともなる
大徳寺山門の天井画と柱絵の制作を依頼され、同寺の塔頭三玄院の水墨障壁画を描き、
有名絵師の仲間入りを果たす。
秀吉が造営した仙洞御所対屋障壁画の注文を獲得しようとするが、
これを知った狩野永徳が狩野光信と勧修寺晴豊に申し出たことで取り消された。
この対屋事件は、当時の等伯と永徳の力関係を明確に物語る事例であるが、
一方で長谷川派の台頭を予感させる事件でもあり、永徳の強い警戒心が窺える。
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以前行った展覧で観た「龍虎図屏風」のように迫力のあるものや、「松に秋草図」
のような豪華絢爛なものまで等伯の展覧があればまた足を運びたいです。
■龍虎図屏風(ボストン美術館)
■松に秋草図
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