賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

ヨナが魚に飲み込まれたことから神の性質を知る

2019-10-12 12:21:35 | 聖書の言葉

   ある日、私は聖書の写真を閲覧していた時、ヨナが海で大魚に飲み込まれる写真に惹かれました。そして私は聖書の中にあるヨナ書を開き、聖句にこう記述されているのを見ました、「主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、『立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである』。しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った。時に、主は大風を海の上に起されたので、船が破れるほどの激しい暴風が海の上にあった。…やがて人々は互に言った、『この災がわれわれに臨んだのは、だれのせいか知るために、さあ、くじを引いてみよう』。そして彼らが、くじを引いたところ、くじはヨナに当った。…そして彼らはヨナを取って海に投げ入れた。すると海の荒れるのがやんだ。…主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた」ヨナ書 1:1-4,7,15,17。「ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、…主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した」ヨナ書 2:1,10。「そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった」(ヨナ書 3:3)。「ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、『四十日を経たらニネベは滅びる』と言った」(ヨナ書 3:4)。


   

   これらの聖句を読んだ後、私はこう思いました:「どうしてヨナはヤ―ウェからの任務を拒否したのかしら?どうして彼は神の言うことを聞かなかったの?私のこの疑問にとても困惑しました。

   ある日の集会で、私はヨナがヤ―ウェ神からの任務を拒否した困惑について話しました。すると、ある兄弟がこう言って交流しました:「ヤ―ウェ神がヨナと話をして、彼に大きな町ニネべに行って神の御言葉を伝えるよう命じられた時、ヨナは二ネベの人々はヤ―ウェ神を礼拝しない、ヤ―ウェ神に抵抗までする異邦人だと思ったのでそこには行きたがりませんでした。神は直々に彼らを滅ぼすべきで、神の御言葉を伝える必要などはないと思っていたのです。こうして、ヨナはヤ―ウェ神の命令通りには行動しませんでした。すると、背を向けたせいでヨナに災いが下ったのです。ヨナはヤ―ウェ神の御言葉を2回目に聞いた時はそれに背こうとしませんでした。しかし、その時のヨナの姿勢は、神は間違いなく彼らを滅ぼされるからあまり喋る必要はない、というものでした。従って、ヨナは僅か1文しか伝えなかったのです。「四十日を経たらニネベは滅びる」ヨナが神の御言葉をいかにも簡略に伝えたことより、ヨナは二ネべの人々のいのちのために二ネべに行ったのではなく、むしろそれは形式的な理由であったことが分かります。もしヨナがイスラエルの人々に神の御言葉を伝えていたとしたら、彼は間違いなくそれについてもっと話していたでしょう。なぜなら、イスラエルの人々は神を信じており、神に選ばれた人々であったからです。しかし、彼は神の御言葉をこのような簡潔な文で二ネべの人々に伝えただけでした。ヨナの行動から、ヨナは神を恐れる心を持っていなかったことが分かります。彼は神の御旨に気を配らず、人間を救うことに対する神の御心を理解せず、神から託されたこともただ単に自分の我意を頼りに行っていたのです。神は怒りを発する決断をなさる時、それでも人々に悔い改める機会を与えてくださるということをヨナは知りませんでした。神は御自分で創造された人類をその御手で破壊することは耐えられないのです、そして神は人間が自分たちの堕落と抵抗を知る時にそれを悔い改めることができるようになることを望んでおられます。しかし、ヨナは神の御心を理解することも、神の御気遣いと御考えを把握することもできていませんでした。さらに、彼は、神の義なる性質には慈悲があることを知らなかったので、神の働きを限定してまでいました。そして、ヨナは庵を建てる場所を見つけ、神があの大きな町二ネべをどうやって滅ぼすかを見るためにその中で座っていました。ヨナはヤ―ウェ神が間違いなく二ネべを滅ぼすと思っていましたが、意外にも神は二ネべの人々による真の悔い改めにより彼らに対する姿勢を変え、彼らを滅ぼすことを思い返し、彼らに憐みと寛容を与えたのです。ヨナが神を恐れる心を持っていなかったこと、そして自分の観念と想像で神を限定していたことは明らかです。神を恐れる人間は、何かを理解できない時、または神の行動が自分の観念と一致しない時はこう考えます:「神が成されることは全てが義であり、神の行動には常に原則があります。私たち人間は愚かで無知であり、霊的領域を理解できません、そして私たち死を免れない者たちは神を知り得ません。」彼は神に対する観念や誤解を抱いていないので、神の各行動に対応する際には心の内に神に対する従順な姿勢を維持することができるのです。従って、彼は悪を遠ざけ、神を非難したり、神に抵抗することを避けるのです。

   兄弟の交流を聞いた後、私は突然明かりが見えました。ヨナが神の任務を拒否したのは神を恐れる心を持っていなかったからなのです。彼は神の働きを非難し、限定し、自分の観念と想像に基づいて神から託された任務を行っていたのです。彼は二ネべの人々は異邦人で、神の選ばれし人々であるイスラエルの人々はそうでないと思っていたのです。では、彼らに伝えることに何の意味があるのでしょう?神は直接彼らを滅ぼすべきです。従って、彼は神からの任務に背き、結果として魚に飲み込まれてしまい、3日3晩その腹の中で過ごすことになったのです。

   神からの任務に対するヨナの態度から神の私たちに対する寛容さが分かります。ヨナは神に反抗し、神からの任務に背きましたが、神はそれでも彼に悔い改める機会を御与えになりました。ヨナは大魚に飲み込まれましたが無傷でした。これより、神は邪悪なものを嫌われ、神に逆らい神の性質を害するものを罰せられるということが分かります。しかし、神は人々が悔い改め、変化を遂げると、御慈悲と寛容を差し伸べてくださります。神の性質は威厳と憤りを有するだけでなく、御慈悲と愛も有しているのです。

   ヨナの行いは私たちへの重要な警告です。これを通じて、私はこう理解しました:神が私たちのために何の働きをされ、神が私たちに何を要求されようとも、私たちは自分たちの想像によって神の働きを非難するべきではなく、むしろ神の前で神に従い、神の御心を求めて理解し、心の中で神に対する敬虔の念を持ち続けるべきなのです。こうすることでのみ、私たちは神の性質を害さなくて済むのです。諺にもあるとおり、「従順は祝福をもたらし、反抗は不幸をもたらす」ということです。この諺は正に真実なのであります。

 

もっと見る:「三位一体」の神に対する最新の認識ができた


妨害をどう捉えるか

2019-10-11 23:17:33 | 聖書の言葉

   多くの兄弟姉妹誰もが、私達は主を信じており、主の御加護と愛により、すべてのことはスムーズに進むはずで、妨害や問題は私達に起きるはずがないと信じることがよくあります。しかし、現実には、私達の人生や働きの中には、あらゆる不快な物事があり、私達は妨害や苦難によく遭遇します。これらに遭遇することを避けることはできません。では、私達はこれらをどう捉えるべきでしょうか?この点に関して、小林さんと私は交流を行い、いくつかの知識を得ました。今から、それを皆さんと共有したいと思います。

   小林さんは感慨深そうに、「福音の伝道を始めた頃、私は情熱と自信に満ち溢れていました。私は、『私達の罪を贖うために、主は十字架に磔にされ、私達に主のすべての愛を与えてくださった。ですから、もし私が主の偉大なる愛を目撃したら、多くの人々が必ず感動し、主に帰依するだろう』と考えました。しかし、福音を伝導する中で、多くの人が疑いの眼差しを私に向けるか、忙しさを言い訳にして私を避け、主の福音を説く機会を私にくれませんでした。中には、話を聞いてくれる人もいましたが、私が多くを語る前に、「仕事へ行かなければ。また来てください」と言いました。それよりは少しましで、私の交流を最後まで聞いてくれる人もいました。私が教会に来て、集会に参加するように言うと、彼らはその時は同意するのですが、集会の時間になると、誰も表れませんでした。1ヶ月も過ぎると、あちこち移動し、たくさん苦しんだ割には、ほとんど人を獲得できていませんでした。その時、私はとても落ち込み、打ちのめされてしまいました。私は、『とても一生懸命に福音を説いているのに、なぜ、私は多くの人を獲得することができなかったのだろう?』と自問しました。心の中で、強い悲しみとフラストレーションを感じました。



   私は困惑し、苦しむ中で、主に祈りを捧げ、心の中の痛みについて主にお話しすることしかできませんでした。この後、聖書が、苦しみを通して主イエス様は全人類の贖いの働きを完了されたことを記載されていることを思い出しました。(ヘブル人への手紙第2章10節)コリント人への第2の手紙第4章7~9節には次のように記載されています。「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。」そうです。主は私達の苦しみの中で私達を導いてくださっています。主が私達の中にいなければ、陸の上の船同様、私達は脆く、一撃に耐えられず、ちょっとしたことで打ち負かされてしまうかも知れません。しかし、主が私達の中にいれば、私達の信仰は揺るぎなく、どのような大きな妨害や失敗があろうと、簡単に打ち負かされることはありません。これらのことを悟り、私は、『主はパワフルで、既にあらゆる苦難を打ち負かしてこられた。従って、主にできないことはない。私は主に頼り、福音を説き続けよう』と思いました。それからも、福音を説きに出かけると、未だに数多くの困難と妨害に会います。しかし、主が内側から私を導いてくださっていることを考えると、どのような困難であろうとそれらに立ち向かっていこうと思います。この経験を通し、これらの妨害により、神様に頼ることを学ぶことができ、神様との関係が一層近いものになったと、はっとすることがよくあります」と言いました。

   私はこのトピックの話を続け、「その通りです。実際、妨害や失敗が私達に起きるように許されたのも、神様の御心です。しかし、神様の御心を理解していないと、私達は、『なぜこのような苦難や妨害に遭遇したのだろう?』と、たいてい不平を言います。実際、私達はこれらに遭遇する理由や、これらは悪魔サタンからの攻撃であるか、神様の御痕跡などと聞く必要などありません。重要なことは、これらにどのような姿勢で対処するか、そこから何を学んだかということです」と返しました。

   小林さんは「あなたの言葉を聞いて、モーゼを思い出しました。神様がモーゼを使ってイスラエル人をエジプトから出国させる前、彼は40年間も荒野の中に1人で暮らしていました。私達の現在の寿命から判断するに、彼は人生の半分を困難と妨害の中で過ごしたと言えるでしょう。荒野の中で40年間も1人で暮らすことは、私達にとって、本当に生きるか死ぬかの試練です。信仰がなければ、私達は崩れてしまうでしょう。しかし、この苦難に直面しても、モーゼは神様に祈り、神様に頼ることにより、野獣がはびこる無人の荒野の中で40年間も暮らすことができました。モーゼが40年に及ぶ苦難という試練を受けた後、彼の中にあった気性の荒さや本来の性質はすべて取り除かれていました。彼はもはや石で人を殴ることはなく、彼の人間性は成熟し、安定したものになりました。これらは、彼がこの苦難を経験した後に訪れた変化、そして進歩でした。最後に、神様は、イスラエルの民をエジプトから出国させ、ファラオによる酷い扱いから彼らを救うという、重要な使命を彼にお任せになりました」と言いました。

   私は、「ふーむ。その話は、私に聖書の中の次の聖句を思い出させます。「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。」ヤコブの手紙 1:2-4。実際、妨害や苦難を経験することで、私達は傲慢さが抑えられ、謙虚で辛抱強くあること、神様に頼ること、神様を最も偉大な存在として称賛することを学びます。さらに、これらの経験の後、私達の人生はより豊かで完璧なものになります。

   10年以上前、私は教会で働き始めたばかりでした。私は、自分には人に訴える力と才能があるため、自分自身の努力に頼り物事を行おうと考えていました。私は福音の説教回数と確立すべき教会数を計画しました。何をするにしても、自分がリーダーシップを取ると考えていました。私は同僚に相談することはほとんどなく、常に重大な発言権を持っていました。しかし、私だけの意思により神様への御奉仕を行っていると、同僚が私と離れ、私達は同じ心でいないことが分かりました。また、兄弟姉妹が私の命令に従わなくなりました。その結果、教会の働きを進展させることはとても困難でした。数多くの失敗と妨害を経験した後、ようやく、私は傲慢で、常に他者に指示し、他者に命じたがっていたことに気が付きました。私がしたことは教会にとても有害で、そこから利益を得るものは誰もいませんでした。そこで、私は神様に祈り、悔い改めました。私は自分自身を謙虚にしたいと感じ、教会の働きを行うときは、同僚ともっと話し合い、兄弟姉妹の提案に進んで耳を傾けるようにしました。私の態度が変わったため、彼らも変わり、私と進んで協調するようになりました。一方で、働きもいくつもの成果を達成し、神様の御祝福を得ました」と答えました。

   私の言葉を受けて、小林さんは次のように言いました。「妨害と苦難は、実際、霊的人生の成長に必要なものです。妨害や失敗に苦しんだ後は、妨害や失敗に苦しんだことがないときと比べて、より強固に立ち向かうことができます。これらに苦しんだ後、私達は理性と人間性を持ち、神様を心から信じ、従うようになります。従って、妨害があるとき、私達はこれを回避したり、不平を言ったり、なぜこのような苦難に遭遇するのかの理由を突き止めようとする必要はありません。私達がすべきことは、神様の御前に来て祈り、神様の御心を求めることです。なぜなら、神様はこれらの苦難を打ち負かせるよう、私達を導いてくださるのですから。主イエス様も次のように仰っています。「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」ヨハネによる福音書 16:33。

   「あなたの言葉を聞いて、私の心は大いに照らされています。そうです!苦難や妨害はよく起こるものですが、神様を私達の支えそして岩とするならば、苦しみや弱さがあったとしても、心の中は平和と喜びを感じます。私達クリスチャンは、私達が直面した妨害や苦難について長い目で見るべきで、瞬間的な妨害により打ち負かされ、前進を止めるべきではありません。主は私達の道であり指針です。私達が主に頼る限り、あらゆる苦難や妨害に打ち勝つことができます」私は確信を持って言いました。

   「その通りです。今日の私達の交流をお導きくださった神様に感謝します。分かち合いはこれで終わりにしましょう」小林さんは言いました。

   「そうですね。また次回お話しましょう!」

   「さようなら」

   「またお会いしましょう」

   リサ(米国)

 

あなたの祈りをもっと主に聞いていただくために、より多くの 神への祈り方 を求めましょう。


ゴスペル音楽 「あなたが神に心を開く時」

2019-10-10 10:29:47 | 讃美歌

 

あなたが神に心を開く時

神の性質を知らず理解しないと

あなたが神に心開くことはできない

神を理解すれば

信仰で神の心を知り

又それを味わえるだろう

神の心を日ごとに味わえば

心は神に開くだろう

本当に神に心を開く時

本当に神に心を開く時

贅沢で利己的な願いを恥ずかしく思う

真に心を開けば

真に心を開けば

神の心に驚くべき無限の世界を見出す

神に心を開くと、闇、悪、欺きはなくなり

真実・信仰・光のみ残り 全てが義となる

神は愛である。神は思いやりがあり

無限の哀れみを持つお方である

人生、喜びに溢れるだろう

神の知恵・力・権威と愛が世に満ちる

あなたは神が何を持ち

どのような方であるか知ることができる

神が何に喜び、悩み、悲しみ、怒るのか知るだろう

あなたが神に心を開き、受け入れる時

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より



更に多くの内容を読むには、聖書の部屋のウェブサイトへどうぞ

霊の束縛を振りほどく

2019-10-09 08:39:40 | 勝利者の証し

   私は傷つきやすく、弱い人でした。神様を信じていなかった頃は、生活の中で起きる物事によく落ち込んだり、動揺したりしていました。こうなる時が頻繁にあり、人生は厳しいものだといつも感じ、私の心には語るべき喜びも幸福感もありませんでした。その痛みは私を絶えず縛り続ける足かせのようで、私はそのせいでまったく惨めでした。全能神を信じて初めて、神様の御言葉の中に問題の根源を見つけ、徐々に足かせからの自由を得ていったのです。

   

 

   私は次の全能神の御言葉を読みました。「人々は自己愛が強すぎるため、その全人生が苦悩に満ちた空虚なものになっている。」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第四十六章」より)その時、自分の悲しみの原因が分かったような気がしました。私はあまりにも思い上がっていたのです。他人から少しばかり不快な言葉をかけられたり、横目でちらっと見られたりすることに対し、頻繁に動揺し、痛みを感じていました。取り扱われ、刈り込まれる時は、傷つけられ、悲しいと感じました。自尊心が傷つけられ、面目を失ったように感じたからです。私は人生のこれからの道について心配になりました……これらはすべて、自分の評判、地位、見栄、欲望、将来の終着点について気にしすぎていたことが原因ではなかったでしょうか。これまで、これらが明るみに出るのは、自分の心と頭が多くのことでいっぱいになっているからだとか、心が重いとか、面子を保つことは自分にとって大切なことだとか、自分は表面的な人間だとか考えるばかりで、入りの道という問題を解決してはいませんでした。これは、私があまりにも思い上がっており、サタンの苦しみの中で、それに拘束されながら生きていたということでしょうか。私は静かに心の中で答えを求めました。その後、『闇の権力から逃れよ。そうすればあなたは神のものとされる』という本をパラパラとめくっていると、神様からの次のような御言葉を目にしました。「解き放たれて居らず、何らかの物事により常に支配され、神に心を捧げられない者たちは、サタンに呪縛されたものであり、死の雰囲気の下で生きている。」それを読んで思いました。これこそまさに私の状態ではないか。きっとそうだと思いました。続いて、私は神様の御言葉をさらに読みました。「暗闇の影響から脱するためには、まず神に対して忠実であり、真理を追い求める熱意がなければならない。そうしてはじめて、あなたは正しい状態にあるであろう。正しい状態で生活することが、暗闇の影響から脱する前提条件である。正しい状態にないということは、あなたが神に忠実でないこと、真理を求める熱意が無いことを意味する。これでは、暗闇の影響から脱することは問題外である。人間が暗闇の影響から脱することは、わたしの言葉に基づいているのであって、もし人間がわたしの言葉に従って実践出来なかったなら、そうした人間は暗闇の影響の束縛から逃れることは出来ないであろう。正しい状態の中で生活するということは、神の言葉の導きのもとで生き、神に対して忠実な状態で生活し、神のために誠実に尽くす現実の中で生活し、神を真に愛する状態で生きることである。このような状態と現実の中で生活する者たちは、真理の中に一層深く入るにつれて、次第に変化するであろう。また彼らは、働きが深まるとともに変化して、最終的に神のものとなることは確実であり、神を真に愛するようになるであろう。」(『言葉は肉において現れる』より)これを読んで、私の心は明るくなりました。人間が自身を愛している時、神様と適切な関係をもつことは到底できず、真理を求める心もそれほど崇高なものにはなりません。つまるところ、その思い上がりによってサタンの支配下で暮らすようになり、自滅するのです。神様の御言葉による啓きのおかげで、私は自分の危険な状態に気づき、闇の勢力を打ち破る道があることを知りました。それはつまり、真理を求める心をもち、問題に遭遇したときは神様を仰いで頼り、神様の御言葉をもっと読み、神様の御言葉の中に実践の原則を求め、いつも神様に忠実であるということです。聖霊の働きを得る時、人間の中にある堕落は、真理への入りとともに変わってゆきます。しかし、私はこの側面を無視し、自分の腐敗した性質に自力で受動的に対処しようとするだけで、自分自身を変えるべく聖霊の働きに積極的に頼っていませんでした。自制が一時的にしか続かなかったのも納得できます。この状態を根本から変えていなかったのです。神様の御言葉にも次のように書かれています。「神の前にいればいるほど、神によって完全にされることはそれだけ容易になる。これが聖霊が働く道筋である。これが理解できないのであれば、正しい軌道に乗ることは不可能であり、神によって完全にされることは問題外である。…自らの過酷な働きだけがあり神の働きは一切ない状態に陥る。これはあなたの経験の何かが間違っているということではないのか。」(『言葉は肉において現れる』の「経験について」より)このことを理解してからというもの、私はより意識的にこの道に自分を置き、自身を捨て、自らの感情や考えに注意を払わなくなりました。その代わりに、神様の御言葉についてより考え、自分の行動において神様の御言葉に頼り、正しい状態で生きていけるようにするため、真理を求めることに心を捧げ、熱心に本分を尽くすようになりました。特定の実践においてまったく正しくない行動をしてしまうことも何度かありましたが、光の中で生きる解放感と自由を覚え、聖霊の働きを享受してきました。私は自分の堕落や欠点を認識できただけでなく、速やかにこれを変えようとする決意と、真理を実践する気力を得ることができました。私の外面も変わりました。意気消沈し、落ち込み、生気のない状態でいることはなくなり、心の中に生気と活力があるのです。また、より明るくなって、教会で暮らすことをとても幸せに感じるようになりました。

   もちろん、この方面での私の堕落はあまりに根深く、それらのことを数回実践するだけでサタンの影響を完全に断ち切ることは不可能です。しかし、神様は「闇の影響を断ち切り、光の中で生きる」ことの甘みを味わえるようにして下さり、このことが私の追求において気力と希望を与えてくれました。じっと神様と協調し、神様がお示しになった道を歩み続け、万事において真理を求め、神様の御言葉に即して生きる限り、私は霊の束縛を振り払い、闇の影響を断ち切り、神様のものとしていただくことでしょう。

 

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福音とは何か。なぜ福音を宣べ伝えるべきか

2019-10-08 19:02:37 | 聖書の言葉

   「福音」とは、「よい知らせ」のことです。イザヤ書第61章1節にこう書かれています。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人によい知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」。




   福音というと、コリントの信徒への手紙二第1章10節に「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」と書いてあるのを思い出します。この節から、わたしたちは神が三度人類を死の危険から救ってくださることが分かりました。旧約聖書にはこのことが記されています。アダム、エバが善悪の知識の木の果実を食べて、サタンに腐敗させられた後、人類は死亡に直面するようになりました。そこで、神は人類を救う仕事を始められました。一回目の救いは、ヤーウェ神によってもたらされたのです。当時のイスラエル人は衣食住、交通手段について分かっているだけで、生活常識をわきまえず、またヤーウェがどういう神か、どのように神を礼拝すべきかを知りませんでした。神が人類を導かないなら、全人類は神を礼拝せず、偶像を礼拝し、どのように正常な人性における生活を送るべきか知らないため、淫乱、腐敗の中に生きるようになり、しかも世界はサタンに踏みにじられる地になります。そうなったら、全人類は神に懲罰されて、烏有に帰します。だから、神はモーセを使って、イスラエル人をエジプトから導き出された後、モーセを通して律法、戒めを発布し、生まれたばかりの人類の地上での生活を正式に導き、人に厳格に律法を守ったり、神を礼拝し、神をあがめることを学んだりするように要求されました。神が律法、戒めを発布しなかったなら、当時の人類はどのように生活すべきか、全然分かりませんでした。人がヤーウェの律法を守ったら、神の祝福が彼に伴います。だれかが律法を犯したら、石で打ち殺され、或いは天の火によって焼き殺されます。だから、律法の下のイスラエル人はみな律法を厳守し、ヤーウェ神の御名を聖としました。そのため、彼らはヤーウェ神の祝福を得ました。イスラエル人はまたヤーウェ神の福音を、イスラエル人以外のあらゆる国と部族に宣べ伝えました。福音を受け入れた人たちはヤーウェ神の祝福を得ましたが、福音を受け入れなかった人たちはヤーウェ神の祝福を得られませんでした。

   律法の時代の末期、人がますます腐敗したので、人の罪悪がますます多くなり、人がもはや律法を守れなくなり、あらゆる人はいつでも律法を犯して死刑にされるという危険に直面していました。神は人類を愛し、自らの手で造られた人類がこのようにサタンの権威の下に死ぬのを見るに忍びなかったので、自ら受肉して地上に来て働き、人を救われました。最終的に、彼は十字架につけられて、全人類の罪祭になり、人をサタンの手の中から贖い出されました。それ以後、人類は主イエス・キリストを救い主として受け入れたことによって、罪の赦しを得ました。これは天の国の福音です。マタイによる福音書第9章35節に書いてあるように、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」。主イエスによってもたらされた天の国の福音を受け入れたすべての人は罪の赦しを得ました。しかも、彼らが「主イエス」という御名を呼び求めさえすれば、豊かな恵みを得られます。例えば、盲人が見えるようになったり、足の不自由な人が歩けるようになるなどです。しかし、主イエスの福音を拒絶した人たちは永遠に罪の赦しを得ることができず、また主イエスから与えられる豊かな恵みを得ることができません。今、主イエスの福音はもう地の果てにまで宣べ伝えられました。多くの人はすでに天の国の福音を得ました。

   わたしたちが主イエスに贖い戻されて、罪の赦しを得ましたが、わたしたちの内側の罪の性質は依然として存在しています。そのため、わたしたちは常に罪を犯し、完全には神に得られていません。腐敗した人類はただ罪の赦しという救いを得、まだきよくならず、まだ神の国に入ることができません。ヘブライ人への手紙第9章28節に「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」と書いてあります。ヨハネの黙示録第14章6節に「わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て」と書いてあります。この中から分かりますが、イエスに贖い戻された人は神から来た永遠の福音、神の二回目の救いを得てこそ、罪を犯すという本性から徹底的に解放し、神によって天の国に導き入れられ、永遠の命を得ることができます。これで分かるように、世の終わりの永遠の福音を得ることは、真心をもって主を信じ、主の再来を待ち望むすべての兄弟姉妹にとって極めて重要です。他人がわたしたちに福音を伝える時、わたしたちは慎重に扱い、多く探究し、調べなければならず、盲目的に結論を下してはなりません。それは、最後の永遠の福音を失うことがなく、ふとした心得違いをして悔いを千載に残すことがないためです。わたしたちすべてが多く目を覚まして祈るよう願っています!

 

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