賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

ペテロは主に従った後、何を得たのでしょうか

2019-10-26 23:08:51 | 聖書の言葉

   主の信仰者の中に、ペテロを知らない人はいません。聖書の記録によると、ペテロは主イエス様と出会う前は漁師だったそうです。ある朝、主イエス様はゲネサレト湖にやって来られ、人々は主イエス様の説教を聞こうと主に押し迫りました。その時、ペテロとその仲間たちはガリラヤ湖で夜通し漁を行ったばかりで、舟の隣で網を洗っていました。主イエス様はペテロの舟に乗り込んで説教されました。説教をなされた後、主はシモンにこう言われました、「話がすむと、シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』と言われた 」(ルカによる福音書 5:4)。「シモンは答えて言った、『先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう』」 (ルカによる福音書 5:5)。ペテロは主イエス様の御言葉を信じて網を降ろしました。以外にも、彼らは大漁だったため、網が破れてしまいました。ペテロはヤコブとヨハネに手伝うよう合図しました。両方の舟は魚でいっぱいになっていたため、舟は沈み始めました。


   

   主イエス様と出会う前の日、ペテロは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、主イエス様と出会った後、彼は主の御言葉通りに網を降ろすと、舟が沈みそうになるほど魚が獲れました。ペテロは魚が獲れただけでなく、主の御恵みと祝福を授かることができてとても幸せでした。更に、主イエス様が彼にこう仰った時、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」 (マタイによる福音書 4:19)。ペテロはすぐに網と舟を後にして、兄弟のヤコブとヨハネと共に主イエス様について行ったのです。

   ペテロは躊躇せずに網と舟を後にして主イエス様について行ったことが分かります。彼は目に見える網に限らず、更には両親に対する愛、名誉と利益、主に俗界の結び付きと喜びを含む無形の網も後に残して行ったのです。

   ペテロは主イエス様に従うようになって以降、主の御業を沢山目にしたと聖書に記録されています。例えば、シモンの義理の母が高熱を出し、誰かが主イエス様に彼女のことを伺いました。主イエス様はシモンの家に行かれました。主が熱に対して叱り飛ばされると、熱は引き、彼女は回復しました。その夜、主イエス様は沢山の患者たちを治され、悪霊に取り付かれていた人たちから悪霊を追い払われました。他の例として、ペテロを除く弟子たちが海で渡航中、嵐が発生し舟が激しく横揺れたことがありました。主イエス様は風と海を叱り飛ばされ、これらはとても静かになりました。更に、主イエス様は盲人が見えるようにされたり、足が不自由な人を歩けるようにしてハンセン病患者を治されたり、死者を蘇らせる等多くの奇跡を起こされました。主イエス様はまた、からし種の寓話やパン種の寓話等、神の国にまつわる寓話も語られました。ペテロは主イエス様の御言葉より神の権威と御力を知り、主イエス様は神の御子、キリスト様であられると認知したのです。経験と知識が彼の信仰の土台となり、神を愛する原動力ともなりました。

   主イエス様が復活、そして昇天された後、ペンテコステの日に聖霊が弟子たちに舞い降りてきました。ペテロと11人の使徒たちは立上り、主イエス様はキリスト様であられ、復活されておられると説教しました。この結果、およそ3千人が洗礼を受けたのです。そして、ペテロは神殿に行く途中に「美し」と呼ばれる門を通り、母の胎を出た時から足の不自由な人に主イエス様の名のもとに立ち上がって歩くように言いました。これを見ようと人々が集まった時、ペテロは主イエス様はキリスト様であられ、主は既に復活されておられ、人は悔い改めて改心する必要があるともう一度説教しました。その瞬間、その言葉を聞いた人々は悔い改めて主イエス様の方を見ました。そして集まった人々の数はおよそ5千人となり、主イエス様のこの御言葉が現実となりました:「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイによる福音書 4:19)。 この体験をした彼はついに処刑に服し、最高の度合いで神を愛し、良い証言をするために十字架に逆さに張り付けられ、これは神に関する真の知識に基づいていたのです。主イエス様はこう仰りました:「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」 (マタイによる福音書 16:19)。 ペテロは主に従い、仕えることで神に認められ、価値のある有意義な人生を生きました。

   現代世界において、私たちキリスト教徒は何を追い求めているのでしょうか?多くのキリスト教徒は世間のトレンドを追いかけ、これまで以上に堕落して、下劣になっています。中には無信仰者のようにお金、名誉、利益、淫楽を追い求め、罪を犯す喜びを楽しみ、懸命に努力してそれぞれの個人的な野心と願望を満たしています。私たちは努力することで一時的には満たされますが、結局それは虚しさと苦しみに変わってしまうのです。有名人や金権政治家の多くについて考えてみてください。彼らはお金と影響力があり、どこに行っても人々から尊敬され、取り巻かれてはいますが、その全員が良い結末に至るわけではありません。。。人々の内にある欲求はお金や物では満たせないのです。人は値踏みのできない家族の財産や立派な評判を持ってこの世界で暮らしていても、それは有意義かつ価値のあるものではなく、結局は虚しいものなのです。正にソロモンがこう言った通りなのです:「そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。」(伝道の書 2:11)

   ペテロのように神の前に行き、神について行き、神に従い、神のために生きた場合に限って私たちの魂は真の平安と喜びを得ることができ、私たちは神の御気遣い、御加護そして祝福を受けることができ、永遠のいのちを授かるために神の国に入れるようになるのです。


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