集会が始まり、ユー牧師は兄弟姉妹を率先して「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(テサロニケ人への第一の手紙 4:17) と聖書を読んでいました。そして、ユー牧師はこう言いました。「今は終わりの日の末期、主が再臨される重大な時期です。主は今すぐにでも私たちを迎え入れるために来てくださります。そして、私たちは雲の中へと携挙されて主に出会うのです。私たちは地上で起こる災害を免れ、死を経験することなく天国に入れます。兄弟姉妹の皆さん、私たちは終わりの日に生まれて本当に恵まれているのです!」牧師のこの言葉を聞いて、そこにいた全員が興奮し、この世の心配事から抜け出して、主と永遠に一緒にいられるようになるために、主が早く来臨されることを切望しました。
ユー牧師の話を聞いたチェン・リーは、自分が頻繁に罪の中を生き、主の言葉を実践できていなかったことを考えて、自分は携挙されるにふさわしくないのではないかと心配になりました。従って、集会の後、チェン・リーは慌ててユー牧師の所に行ってこう尋ねました。「ユー牧師、私たちは主が私たちを天国にお連れ下さると期待していますが、主はお戻りになる時、一体どのような人々を携挙されるのでしょうか」。
ユー牧師は笑顔でこう応えました。「教会はキリストのお体です。主は教会を携挙しに来られますので、教会で結び合うということはキリストの内で結び合うということです。私たちは全員が教会の一員で、それは教会が携挙される時、私たち全員が携挙されることを意味しています。誰も地上に取り残されることはありません。お分かりでしょうか?もしかすると、集会で私たちの神に対する賛美が絶頂に達する時、主は来られて、私たち全員が直接携挙されるのかもしれません……」 チェン・リーは牧師のこの話を聞いて興奮しました。彼女はやっとこの懸念を振り払い、いつの日か集会の場で携挙していただけるようこれからは必ずすべての集会に参加する、という決心をしました。
ある日、チェン・リーは聖書の学習をしていた時、主イエスのこの言葉を目にしました。「あなたがたに言っておく。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう」(ルカによる福音書 17:34-35)。 チェン・リーは主のこの言葉にショックを受けて困惑しました。「主は教会の兄弟姉妹全員を携挙しに来られるとユー牧師は言っていたのに、主のこの言葉とは話しが違うわ。ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろうと主は明確に仰っているわ。これでどうやって教会全体が携挙されるというのかしら。携挙とは一体何のことなの?一体どんな人たちが携挙されるというの?」 チェン・リーは懸命に考えましたが、答えを見い出すことはできませんでした。
ある日、チェン・リーは何年かぶりに友人のハン・メイフアにばったり会いました。ハン・メイフアは一年中あちこちを旅して回る宣教師だったので、チェン・リーは一緒に彼女の家まで行って、自分の困惑を話しました。ハン・メイフアはこう言いました。「携挙の話しになると、宗教界ではほとんどの人がパウロの言葉を信じているから、主イエスが再臨なさる時に私たちは雲に引き上げられて、そこで主に出会うことができると信じています。しかし、主は『天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない』(ヨハネによる福音書 3:13) と仰っています。主イエスは、受肉された神の他には誰も昇天していないと明確に仰っておられます。なので、私たちが天に引き上げられるわけがないのです。誰もが知ってのとおり、天は神のみ座であり、地は神の足台です。私たちは天に携挙されて主に出会うことをよく期待していますが、それは極めて非現実的であると思いませんか?これは単に、人間の観念と想像なんです。」
「それに、誰もが知ってのとおり、神は地面の土で人間を創造され、人間が地上で生きるようにされました。神が洪水でこの世を破壊しようとされた時、ヤーウェ神はノアを洪水から救って天に引き上げる代わりに、地上で箱舟を作ることを彼に命じられました。恵みの時代になると、主イエスはこの世に来られ、人間のために十字架に釘付けにされました。今までずっと、神は地上で働きをされ、私たち人間は地上で暮らしてきました。天に携挙された人間は1人もいません。主が祈りの中で何を仰ったか覚えていますか?主はこう仰いました。『だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように』(マタイによる福音書 6:9-10)。 神の御心は地上で成就される、と主イエスは明確に仰っています。すなわち、私たちは地上で神の国を受け継ぎ、地上で神の道と御心に従うということです。そして、これは『また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、その神となり」』(ヨハネの黙示録 21:3) というヨハネの黙示録に書かれた言葉を成就しています」。
チェン・リーはこの言葉に驚いて言いました。「主に感謝します!まさにあなたの言う通りです。神の御心が地上で成就されるよう祈ることを主イエスが私たちに求められたのは、神が地上で私たちを導いてくださることを意味しているにもかかわらず、私たちは天国に行くことを望んでいるのです。私たちは神の言葉と反対のことをしてしまっているんですね?大天使は、神と地位を巡って争ったため、神によって空中に追放されました。ならば、空中はサタンのための場所なのではありませんか?私たちは常に空中に携挙されることを望みますが、それは大天使となってサタンと一緒にいようとしているということではありませんか?そうすると、雲に引き上げられて空中で主に出会うというパウロの言葉は主の御心に全く沿っていないということになります。ハン姉妹、携挙とは一体何のことなんでしょう。天に携挙されないとなると、私たちは一体何処に携挙されるのでしょうか。これについてもっと話してください」。
ハン・メイフアはチェン・リーを見ながら笑顔で言いました。「携挙は、普通の人間が看破したり、説明したりできるものではありません。私はある書籍の言葉を読んで携挙の本当の意味を理解しました」。
そして、ハン・メイフアは引き出しを開けて、ある書籍を取り出すと、それを読み始めました。「『引き上げられる』とは、人間が想像するように低い場所から高い場所へと連れて行かれることでは無い。それは大きな間違いである。引き上げられるとは、わたしが予定し、選択することを指す。それは、わたしが予め定め、選んだ者たち全てを対象とする。⋯⋯将来わたしの家に入ることのできる者は皆、わたしの前で引き上げられた者である。これは絶対に真実であり、決して変わることが無く、誰も反論できない。これはサタンに対する反撃である。わたしが予定した者は誰でも、わたしの前で引き上げられるのだ」。
そして、ハン・メイフアはこう言いました。「この節によると、引き上げられるというのは私たちが想像していたのとは違うことが分かります。それは、私たちが空中や天国に引き上げられるのとは違い、神のみ座の前に立ち返って神の足跡を辿り、そして神の新たな働きを受け入れることを私たちが神から予め運命付けられているほか、そうする人たちとして選ばれているということです。これは、主イエスが働きをしに来られた時に、主イエスの新たな働きを受け入れて律法の時代から恵みの時代へと移行した者たちが神の前に導かれていったのと同じで、それは彼らが携挙されたことを意味していたのです。」
「主は終わりの日に再臨される時、新たな段階の働きをされます。それは聖書にこう預言されています。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。……』(ヨハネによる福音書 16:12-13)。『あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである』(ペテロの第一の手紙1:5)。『キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである』(ヘブル人への手紙9:28)。これらの節から、主は終わりの日に再臨される時、人々を救うために言葉を表し、働きをされることが分かります。私たちは主イエスの贖いを受け、罪を許していただいたにも関わらず、自分たちの罪深い本性を払拭できないため、依然として罪に束縛されたままで、罪を犯してそれを告白するという状態の中を為す術もなく生き続けています。神は『……聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者である』(レビ記 11:44)と仰っておられます。なので、清くなって天国に入ることを望むのであれば、私たちは終わりの日の神の働きに救っていただく必要があります。それまでに神の足跡を辿って、神の新たな働きを受け入れてさえいれば、私たちは神の前に携挙されるでしょう」。
ハン姉妹の話を聞いたチェン・リーは、突然あることに気が付いてこう言いました。「その通りだわ!ヨハネの黙示録には『そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である』(ヨハネの黙示録 14:4)、と預言されています。これで、子羊の足跡を辿る人々は終わりの日の神の新たな働きを受け入れる人々であることが分かりました。彼らこそ、神の前に携挙される人々なんです。神の働きは本当に現実的です。私たちは愚か者のように空中に携挙されることを期待しているんです。真理を理解していない信者たちは、まるで妄想しながらおかしな憶測をしているかのように思えます。はっきり言ってしまえば、私たちは愚かな形で神を信仰していたのです。ハン姉妹、あなたは主が新たな段階の働きをしに来られると言われましたが、それは聖書の内容と完全に合致していますし、まさに私たちが必要としていることです。ならば、私たちはどのようにして主をお迎えして、神のみ座の前に携挙されるべきだと思いますか?」
ハン・メイフアは続けてこう話しました。「聖書にはこの真理に関するこういった預言も記されています。『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』(ヨハネの黙示録3:6)。『夜中に、‘さあ、花婿だ、迎えに出なさい’ と呼ぶ声がした』(マタイによる福音書 25:6)。『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう』(ヨハネの黙示録3:20)。 主は再臨される時に自らが言葉を話すと預言されました。神の羊は神の声を聞くことができます。花婿が来たと誰かが叫ぶ時、すなわち、誰かが主の再臨を説く時、私たちは賢い乙女となり、謙遜して神の声を求め、それを調べ、それを聞くことに注意を払わなければなりません。そうすることで、私たちは主をお迎えし、神の新たな働きを受け入れて、神のみ座の前に携挙される機会を得ることができるのです。対照的に、愚かな乙女たちは神の声を聞くことに注意を払いません。彼女たちは真理を求めることも、調べることもしなければ、それを渇望することもありません。代わりに、彼女たちはそれぞれの観念と想像に固執します。最終的に、彼女たちは携挙される機会を逃してしまいます。これは『あなたがたに言っておく。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう』(ルカによる福音書 17:34-35)という主イエスの預言の1つを成就しているのです」。
この話を聞いた後、チェン・リーは思わず感極まって、溜息まじりに言いました。「主に感謝します!私はこれで、神の声が聞こえる賢い乙女は、神のみ座の前に携挙され、神の声を聞くことに注意を払わない愚かな乙女は、神から見捨てられ、排除されてしまうということが理解できました。神は本当に義なるお方であります」。