賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

聖書の言葉はすべて神の霊感を受けて書かれたものでしょうか?

2019-07-11 23:39:21 | 聖書と神

   クリスチャンのリュウ・スンは、聖書は神の霊感を受けて書かれたもので、それに記述されている言葉はすべて神の御言葉だといつも信じていました。しかし、ある日、彼は聖書を読んでいた時、1つのことに関して2つの異なる意見を発見したのです。これは彼を困惑させました。聖書の言葉が神の霊感を受けて書かれたものなら、ほんの僅かの誤まりすら存在しないはずです。後に、兄弟姉妹たちの交流を通じて、彼の困惑はやっと解消されたのです。

   信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ:

   最近私はあることに困惑していて、皆さんのご教示をお願いしたいのです。私は何十年も主を信仰してきて、聖書は神の霊感を受けて書かれたものだと常に思ってきました。しかし、最近私は聖句を読んでいた時、聖書の記録に矛盾があることを発見してビックリしたのです。例えば、ペテロが主の弟子であることを3回否定することに関して、聖書の記録ではマタイ26:34にこう書かれています、「イエスは言われた、『よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』。」しかし、マルコ14:30には、「イエスは言われた、『あなたによく言っておく。きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう』。」と書かれているのです。これらの節はペテロの否定に関することですが、その1つにはペテロは鶏が鳴く前に三度主を知らないと言うと書かれていますが、もう1つにはそれは鶏が二度鳴く前だと書かれています。なので、明らかにこの回数が一致していないのです。また、旧約聖書にはダビデがイスラエルを数えることについて記録してあります。サムエル記下24:1に、「主は再びイスラエルに向かって怒りを発し、ダビデを感動して彼らに逆らわせ、『行ってイスラエルとユダとを数えよ』と言われた。」という記述がありますが、歴代志上21:1には、「時にサタンが起ってイスラエルに敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。」、と書かれているのです。両節ともにダビデがイスラエルを数えることに触れていますが、その1つはヤ―ウェがダビデを動かしてイスラエルを数えさせたとありますが、もう片方にはサタンがダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした、と記されています。この2つは意味が全く逆になっているのです。私はこれを発見した時、ショックを受けました。どうして同じ出来事において完全に対立してしまうほど矛盾した記録が聖書の中に含まれているのでしょうか?聖書の言葉全てが神の霊感を受けて書かれているのなら、ほんの僅かの誤りも存在しないはずです。この疑問に関する皆さんのお考えをご教示いただけませんでしょうか?霊的Q&Aの兄弟姉妹の皆さんなら私の混乱を解消できると期待しています!

   リュウ・スン

   2018年12月13日



   こんにちわ、リュウ・スン兄弟:

   こんにちわ!あなたがお持ちの疑問は多くの兄弟姉妹たちを混乱させています。どうして聖書の中に矛盾した記録があるのか?この疑問を理解するには、先ず最初に聖書はどのようにして誕生したのか、そして、それはどういった書籍なのかを知っておく必要があります。実際、主を信仰する私たちの兄弟姉妹たちの多くは、聖書が預言者たちによる預言書、歴史的記録、ダビデの詩篇、知恵の書、新約聖書の4つの福音書、使徒たちの手紙、そしてヨハネの黙示録で構成されていることを知っています。この中で、預言者たちによる預言書とヨハネの黙示録だけが直接神の霊感を受けて書かれました。その他の書籍、すなわち、モーセの五書、旧約聖書のヨシュア記からエステル記、そして新約聖書の使徒たちによる4つの福音書と手紙は神の働きを体験した人たちが書いた記録です。例えば、旧約聖書に記された律法の時代における神の働きに関する歴史的記録より、神はどのようにしてイスラエルの民を選ばれたのか、彼らをどのようにしてエジプトから導き出されたのか、彼らはどのようにしてヨルダン川を渡ってカナンに入ったのかということが分かります。さらに、サウル、ダビデ、そしてソロモンによる王としての治世を学ぶこともできます。これらの歴史的記録は全て、当時の証人者たち、または後の編集たちの記憶を基に書かれたもので、それらは実際に起こった歴史的事実の記録を書き記しています。これらは神の霊感を受けて書かれたものではありません。新約聖書において、マタイやマルコといった人間が書いた4つの福音書、ならびにペテロやパウロといった人たちが書いた手紙もこの範疇に入ります。福音書は人々が神の信者となった後に見聞きした事柄を書いたもので、その中には教会の状況を基に彼らの兄弟姉妹たち宛てに書かれたものもあります。従って、4つの福音書と手紙もその全てが神の霊感を受けて書かれたものではありません。預言者による預言書とヨハネの黙示録のみが神の霊感を直接受けて書かれたもので、聖書のその他の書籍は全て人間の知識と経験を基にしたものであるということを考慮してみると、これらの内容に矛盾が生じることは意外なことでしょうか?これらが人間の観念によって汚されてしまうことは無いと言えるでしょうか?これは人々が何年も前に起こったことを書き出すのと同じことなのです。以前起こったことを何の誤りもなく、またうっかり書き足したり、書き落としたりせずに書ける人など存在するでしょうか?そんなことは不可能です。だからこそ、マタイといマルコが新約聖書にペテロの拒否について記録した時、そして旧約聖書のサムエル記と歴代志上に、ダビデがイスラエルを数えたことについて記録された時に矛盾が生じていたのです。これを回避するのは困難です。人間による記録は誤まりが付き物ですから、これは容易に理解できることだと思います。

   しかし、聖書の中で預言者による預言書とヨハネの黙示録のみが神の霊感を直接受けて書かれた書籍だと言うのであれば、どうして、テモテへの第2の手紙3:16には、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」、という記述があるのでしょうか? まず第一に、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」、というのはパウロの個人的な見解であることを理解する必要があります。主イエス・キリストは一度でもこんなことを仰ったでしょうか?聖霊は聖書の中で一度でもこの事実の証言をしているでしょうか?聖書を精査してみれば、主イエス様と聖霊は決してこの事実の証言をされていないことが分かります。パウロがそう言ったことは、単にそれが彼の個人的な意見であることだけを表しており、それは真理に即してはいないのです。

   さらに、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」、というパウロの声明を見ても、彼は一体「聖書」のどの部分を指して言っているのでしょうか?パウロがテモテへの第2の手紙を書いたのは主が来臨されてから60年以上も経った後の話しで、当時、新約聖書はまだ書籍として編集されていなかったことは誰もが知っています。存在していたのは旧約聖書のみでした。第1ニカイア公会議の場で各国の宗教指導者たちが4つの福音書と多く存在した手紙の中からパウロ、ペテロ、そしてヨハネといった人たちが書いた手紙を選別し、これらをヨハネの書いた黙示録と共に編集して新約聖書を制作したのは、主が来臨されてから300年以上も経ってからの話です。その後、彼らは旧約聖書と新約聖書を合体させて、その両書から成る今日の聖書を編集したのです。これはパウロがテモテに手紙を書いたのは新約聖書の制作が決定される200年以上も前の話であることを示しており、パウロがテモテへの手紙の中で「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」、と書いた時、彼の言う「聖書」は新約聖書ではないことを裏付けています。これより、聖書が人間によって書かれた書籍であるにもかかわらず、その全てが神の霊感を受けて書かれたものであるという考えは、人間による事実に即していない不条理な理解であることが分かります。

   私は他の書籍でもこれに関する記述を目にしました、「聖書にあることがみな、神が直接語った言葉の記録だというわけではない。聖書はただ、神の働きのうちの前の二段階を文書で記録しているに過ぎない。そこには預言者たちの預言と、各時代で神に用いられた人々の経験と認識を記したものが含まれる。人間の経験には人間の意見や認識が紛れ込んでいるが、これは避けられないことである。聖書の多くの書には、人間の観念、人間の偏見、人間の愚かしい解釈が含まれている。もちろん、ほとんどの言葉は聖霊による啓示と教えの結果で、それらは正しい解釈である。しかし、すべてが真理を正確に表現しているとは言えない。」「実際、預言の書以外、旧約のほとんどは歴史的記録である。新約の書簡のいくつかは人々の経験に基づいたもので、またいくつかは聖霊の啓きによるものである。たとえば、パウロの書簡はひとりの人間の働きから生まれたもので、それはみな、聖霊の啓きを受けた結果であった。また、その書簡は教会のために書かれたもので、教会の兄弟姉妹への勧告と激励の言葉だった。聖霊の語った言葉ではなかったのである。パウロは聖霊の代わりに語ることはできなかった。また、彼は預言者でもなかったし、まして幻を見てもいない。パウロの書簡はエペソ、フィラデルフィア、ガラテヤ、その他の教会に向けて書かれた。だから、新約のパウロの書簡はパウロが諸教会に向けて書いた手紙で、聖霊の霊感によるものではないし、また、聖霊が直接語ったものでもない。」「実際、預言の書以外、旧約のほとんどは歴史的記録である。新約の書簡のいくつかは人々の経験に基づいたもので、またいくつかは聖霊の啓きによるものである。たとえば、パウロの書簡はひとりの人間の働きから生まれたもので、それはみな、聖霊の啓きを受けた結果であった。また、その書簡は教会のために書かれたもので、教会の兄弟姉妹への勧告と激励の言葉だった。聖霊の語った言葉ではなかったのである。パウロは聖霊の代わりに語ることはできなかった。また、彼は預言者でもなかったし、まして幻を見てもいない。パウロの書簡はエペソ、フィラデルフィア、ガラテヤ、その他の教会に向けて書かれた。だから、新約のパウロの書簡はパウロが諸教会に向けて書いた手紙で、聖霊の霊感によるものではないし、また、聖霊が直接語ったものでもない。…もし人々がパウロの書いたような手紙や言葉を見て、聖霊の言葉として神のように崇めるなら、それはあまりにも分別がないと言うことになるだろう。もっと厳しい言い方をすれば、これは冒瀆以外の何物でもないのではないか。どうして人間が神に代わって話せるのか。また、どうして人々は人間の手紙や語った言葉の記録をまるで聖なる書か天の書であるかのように、その前に額づくことができるのであろうか。神の言葉は人間が何気なく口にできるものなのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。」(「聖書について(3)より)。

   聖書には神の御言葉が含まれていますが、教会にいる兄弟姉妹たちが生活の中で抱える苦しみに対処できるようにと、使徒たちが彼ら宛てに書いた手紙も含まれていということをこの書籍は明確に記述しています。これは事実であるため、私たちは見識力をもって聖書を正しくとらえるべきです。聖書の中で、神の御言葉を宣べ伝える預言書とヨハネの黙示録を除くと、神はその御言葉を宣べ伝えることを一度も誰にも指示されたことはなく、使徒たちの手紙も聖書に含まれてはいますが、彼らはそれらが神の霊感を受けて書かれたものであるという主張は一切していません。聖書の中で神の御言葉が記される場合、その直前には「ヤ―ウェがあれこれの預言者の前に現われた、」、「あれこれの預言者はヤ―ウェの霊感を受けた、」「ヤ―ウェは言われた」、「ヤ―ウェは語られた、」、「主イエス様は仰った」、といった記述が分かるようになされています。これ以外の言葉は人間の言葉で、神の御言葉ではありません。もし、私たちが聖書に対して迷信的であることを理由に、または聖書を崇拝しているにも関わらず、聖書の言葉は全て直接神から霊感を受けて書かれたものである、または神の御言葉であるなどと言ってしまったら、それは神を冒涜する不条理な理解をしていることになってしまいます。人間の言葉は聖書に含まれていても人間の言葉に過ぎません。これは厳然たる事実です。

   私たちの交流で、あなたがこの問題をより明確に理解できることを願っています。他にもご質問がございましたら、またお気軽に投稿ください。

   信仰ステーション

   2018年12月18日

 

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