賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

主を迎えているあなたは主を見たのか

2019-06-25 22:26:29 | 礼拝説教

   最近、一部の信徒はFacebookで書き込みをして、「今はもう世の終わりです。主が戻ることに関する預言がほとんど実現しましたが、なぜ主を迎えているわたしたちは主を見ていないのですか。わたしたちの主を待つ方法に問題がありますか」と聞きました。実は、多数の兄弟姉妹はこの問題が分かりません。この問題については、わたしは少しの浅薄な認識があります。ここで、皆さんとわたしの認識を分かち合いたいです。

   主イエスはわたしたちにこう言われました。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。……」(ヨハ14:3)。「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」(マタ24:30)。二千年来、多くの信徒はこれらの預言を根拠にしていて、主が天の雲に乗って戻って来られると思っています。それゆえ、主にある多数の兄弟姉妹はこの観点を固持し、目を覚まして主の再来を待っています。

 

   預言と言うと、わたしは当時のパリサイ人がメシアの到来を迎えることで犯した間違いを思い出します。あの時、ユダヤ教のパリサイ人はメシアに対する想像に満ちていました。彼らは聖書の中で次のような預言を見ました。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(イザ9:5-6)。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」(ミカ5:1)。聖書のこれらの預言、および長年来の、メシアの到来に対するさまざまな想像と推理のゆえに、パリサイ人は主が来られた時、きっとメシアと呼ばれ、きっと富貴の家に生まれ、しかもダビデ王のように彼らを導いてローマ政府の支配を覆すと断定しました。でも、主は彼らの観念と想像にしたがって行われませんでした。そのため、パリサイ人は主イエスを訴える口実をいつも探して、主イエスを罪定めし、冒涜しました。当時、主イエスが多くの真理を発表し、多くのしるしや奇跡を行い、神の権威と力を完全に明らかにしたにもかかわらず。パリサイ人は主イエスの説いた道がどんなに優れているか、主イエスの権威がどんなに大きいかを無視し、主イエスの仕事が彼らの観念、想像にかなわず、主イエスが富貴の家に生まれず、りっぱな容貌を持たず、メシアと呼ばれないという理由で、主イエスを罪定めし、主イエスに逆らいました。最終的に、彼らは真理を恨むという本性のゆえに、真理を発表し、贖いの仕事をする主イエスを無残にも十字架につけました。パリサイ人の痛ましい失敗の教訓によって、わたしたちは預言は絶対に自分の考えによって解説してはならないと分かりました。預言が実現してはじめて、わたしたちはその真意を理解できます。だから、わたしたちは預言に対して正しい態度を取るべきです。

   わたしたちが知っているように、聖書の中で、主が戻ることに関する預言が他にまだ多くあり、「雲に乗って来る」という種類の預言だけがあるのではありません。わたしたちは主の次のような言葉を見ましょう。「見よ、わたしは盗人のように来る。……」(黙16:15)。「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」(マタ25:6)。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(マタ24:36)。多くの人はいつもこれらの言葉を読みますが、次の点を見落としました。「盗人のように来る」という言葉の言外の意味は、ひそかに来るということです。だから、聖書に記されている預言は、主の戻り方が二つあり、一つはひそかに来ることで、もう一つは公に来ることだということを示しています。主が戻ることに関しては、二種の異なった預言があるが、もしわたしたちがただ雲に乗って来る主イエスを待つだけで、「ひそかに来る」主イエスを無視するなら、わたしたちは主の救いを失うかもしれません。

   主イエスが来て働かれた時、次のようなことが起こりました。それは聖書にこう記されています。「そこで、イエスが二人の目に触り、『あなたがたの信じているとおりになるように』と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは、『このことは、だれにも知らせてはいけない』と彼らに厳しくお命じになった」(マタ9:29-30)。また、ペテロが聖霊の啓示を得て、主イエスがキリスト、生ける神の子だと言い出した時、主は、ご自分のことをだれにも話さないようにと、弟子たちに命じられました(マコ8:29-30、マタ17:9を参照)。これらの事実から分かるように、主の最初の仕事はひそかに行われるのでした。主イエスは十字架につけられて、全人類を贖う仕事を成し遂げ、三日目に死人の中から復活して弟子たちに現れました。この時、主は公に現れ始めました。それ以後、恵みの時代の福音は正式に異邦へ拡大しました。これで分かるように、主イエスの仕事はまずひそかに行われ、それから公に行われるのです。だから、世の終わりに主が戻ることに関する預言の中には、「『盗人』のようにひそかに来る」方式と「雲に乗って来る」方式という二つの方式があることは事実と完全に一致し、この二つの方式は全然矛盾しません。

   あの時のパリサイ人はメシアを待っていたが、主イエスに逆らいました。彼らの失敗の教訓は痛ましいのです。今はもう世の終わりです。わたしたちはどのように主の到来を迎えるべきですか。主イエスはこう言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタ7:7)。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(ヨハ10:27)。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(ルカ21:33)。今、わたしたちはこのことを知りました。主が戻ることに関するすべての預言は必ず実現します。そのため、わたしたちは自分の観念を捨てて、主がひそかに働く時、すなわち主が盗人のようにに来る時、彼を認識するべきです。そうすれば、主を迎えているわたしたちは主を見ることができます。わたしたちが主の出現を切望し、求めさえすれば、神はきっとわたしたちに啓き、わたしたちを導いて、わたしたちが彼の足跡を見つけられ、神の働きの歩みについて行けるようにされます。

 

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