わたしたちすべてのクリスチャンは神に良しとされ、祝福されようとします。では、わたしたちがどうすれば、神に良しとされることができますか。実は、これは少しも難しくありません。わたしたちが神を信じる上での四つの実行を持ちさえすれば、神に祝福され、良しとされることができます。
第一に、神を信じるのに、神の言葉を経験しなければなりません。
では、神の言葉を経験するとは、どういうことですか。神の言葉を経験するには、どのように実行すべきですか。実は、神を信じるのは、神の言葉を信じるのです。神の言葉は真理であり、神から来たものです。だから、わたしたちはまず神の言葉をよく読み、神の言葉に精を出し、真剣に神の言葉を読み、噛み締めるべきです。そうすれば、聖霊の啓き、照らしを得られるし、また神の言葉を通して神のみこころを理解し、神の性質と働きを認識し、神がわたしたちにどんな要求を出したか、わたしたちがどんな人になるべきか、神がわたしたちのどんな欠点や腐敗をさらけ出したかを知ることができます。こうして、わたしたちは神の言葉を自分に結びつけて、自分の腐敗を認識することができます。例えば、「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」(マタ5:37)と、主はわたしたちに要求を出されました。主のこの言葉によって、わたしたちはわたしたちが誠実な人になることを追い求め、うそを言わず、尾ひれをつけて話さず、ありのままを言うことが神のみこころだと分かりました。神は誠実な人が好きで、狡猾な人を嫌います。誠実な人こそが神に良しとされます。だから、神の言葉を読む過程も神の言葉を経験する過程です。神の言葉を読むことは、神を信じ、神の言葉を経験する上での第一歩です。こういうわけで、わたしたちは毎日神の言葉を読み、経験しなければなりません。
第二に、神を信じるのに、神の働きを経験しなければなりません。
では、神の働きを経験するとは、どういうことですか。神の働きを経験することの内容は何ですか。神を信じる上では、わたしたちは神の言葉を読むだけでなく、神から来た試練、精錬、対処、手入れ、懲らしめを経験することも必要です。それゆえ、神はさまざまな人や事、物、環境がわたしたちに臨むようにされます。それは、わたしたちがさまざまな環境の中で真理を求めて、真理の実際に入るためであり、わたしたちの命が次第に成長することができるためです。例えば、わたしたちが真理にかなわないことをすれば、神はわたしたちの身の回りの人、事、物を利用してわたしたちを対処し、懲らしめられます。恵みの時代、神は同じようにペテロを扱うのでした。主イエスが十字架につけられる前に、ペテロは親切心から主イエスを阻みました。すると、彼はすぐ主イエスに厳しく対処されました。主は彼がサタンだと言い、彼に引き下がれと命令されました。神を信じる上では、わたしたちはまたあざ笑われ、誹謗されるはずです。しかも、邪悪な霊や偽キリストはデマを飛ばしたり、人を惑わします。これらのことを、わたしたちは経験しなければなりません。だから、わたしたちに臨むさまざまな試練、精錬は、神のわたしたちに対するテストであり、わたしたちには、神に対する本当の信仰、忠誠心があるかどうか、わたしたちが神の言葉によって生きることができるかどうかを明らかにします。だから、これらの環境、人、事、物がわたしたちに臨むのは、神の働きがわたしたちに臨むのです。わたしたちが神の言葉によって生き、これらの環境の中で学課を学び、暗やみの権威の束縛に打ち勝つとしたら、わたしたちは神の働きを経験したことになります。
第三に、神を信じるのに、自分の腐敗した性質を変えなければなりません。
わたしたちはサタンに腐敗させられた後、腐敗した性質によって生きるようになりました。だから、わたしたちが神に救われたいなら、わたしたちの腐敗した性質、例えば、傲慢さ、エゴイズム、狡猾さなどを捨て去らなければなりません。わたしたちが自分の腐敗した性質を解決するために神を信じるのでなければ、わたしたちは神の真の信者ではなく、たとえわたしたちが神の多くの言葉を読んだとしても、わたしたちが文字の中の教理を理解しているとしか言えません。なぜなら、わたしたちが真理を実行しておらず、しかも真理がわたしたち自身の問題を解決しなかったからです。こういうわけで、わたしたちが他人に教理を説くことができても、わたしたちは真理の実際を持つ人だと言えません。あの時の律法学者、パリサイ人もそうです。彼らは聖書の知識をたくさん身につけ、また神の多くの言葉を読みましたが、神の言葉の中の真理を理解せず、また自分の腐敗を認識せず、解決しませんでした。だから、主イエスが来て働かれた時、彼らは自分たちの腐敗したサタン的性質のゆえに、傲慢にも神の働きに対して断定的判断を下し、神の働きを批判し、ただ主イエスが旧約聖書の範囲内で働くことを許すだけで、主が旧約聖書の範囲外で働き、神殿の外で働くことを許しませんでした。自分たちの地位、生活の道を守るためには、彼は主を冒涜し、誹謗する言葉をたくさん言い、最終的に主を十字架につけました。主イエスが三日目に復活した後、彼らは偽りの証しをし、うそを言い、人を欺き、人心を買収しました。彼らは神を信じるが、真理を実行しませんでした。だから、主イエスは七重の災いをもってパリサイ人を呪った時、彼らの堕落した行為と、彼らのあくどいサタン的本性をすべて暴露されました。このことから分かるように、何年神を信じても、真理を得なければ、自分がひどく堕落しているという真相を悟ることができず、自分が神を十字架につける可能性が依然としてあります。今、わたしたちの言動を見てみましょう。わたしたちが文字の中の教理を少し理解したら、それを他人に説きます。そのため、わたしたちは働く時、いつも自分をひけらかして、他人が自分を重要視し、崇拝するようにさせます。それは神を高く揚げ、神を証しすることでは決してなく、名誉、地位のために働くこと、自分の経営を行うことです。わたしたちのこのような働きが神の心にかなうことは可能だろうか。だから、もしわたしたちが神を信じる上で正しい道を歩まず、何を追い求めるべきかを知らず、神の言葉を通して自分の腐敗と欠点を認識することを重んじず、全然自分自身の腐敗を解決せず、自分の本当の経験によって他人を助け、支えることはせず、文字の中の教理によって他人を教えるとすれば、わたしたちは現代のパリサイ人になったのではありませんか。そのように神を信じるなら、最終的に成功を収めることができません。だから、神を信じるのに、正確な追求目標を持つべきです。わたしたちが真理に基づいて実行してこそ、神を信じることで成功を収めることができます。
第四に、神を信じるのに神を認識しなければなりません。
神を信じるが神を認識しないなら、わたしたちが神を信じる人だと言えるでしょうか。だから、神を認識したいなら、神の言葉を経験し、神の働きを経験し、自分の腐敗した性質を本当に認識しなければなりません。そうしてこそ、わたしたちの古い性質を変え、わたしたちの天然の個性を捨て去ることができます。そうなれば、わたしたちは傲慢さやエゴイズムなどの腐敗したサタン的性質の中に生きなくなり、どんなことがあっても真理に基づいて物事を判断し、自分の想像、観念の中に生きません。神の言葉がわたしたちの生活の指針となり、わたしたちの人生観、価値観が変わるとしたら、わたしたちは神に味方することができ、神を愛し、満足させるために生きることもでき、もはや自分を満足させるために生きなくなります。人が神に対する認識を持ったら、神に味方することができます。そうなったら、人は神に救われました。例えば、ヨブ、ペテロ、アブラハムたちは神に対していくらかの認識を持つから、試練の中で神の側に立って物事を判断することができ、全然神に不平を言わず、また自分の利益や得失を考えず、終始一貫神に忠誠を尽くし、神を愛し、満足させました。彼らは神を信じる上で正しい道を歩むから、最終的に神に良しとされました。それゆえ、彼らこそが神の真の信者です。
だから、わたしたちが本当に神を礼拝する、神の心にかなう人になりたいなら、神を信じる上でのこの四つの実行を行うべきです。そうすれば、わたしたちは神を信じることで成功を収めることができ、最終的にきっと神の真の信者、適格なクリスチャンになって神に良しとされ、祝福されます!
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