私達は日常生活の中でこれらのことに常にイライラさせられます。たとえば、あなたがいくつかの何気ない言葉を誰かに言い、その人が予想に反して、冷たい返事をしてきます。その人はあなたの言葉を誤解したようです。そこで、あなたが急いであれこれ説明しますが、全く役に立ちません。別の例では、ある友人が突然あなたに素気ない態度を取るようになりました。何が起きたのかあなたが分からないでいると、別の友人が、あなたが先日言った言葉により、あなたがバカにしているとその人が思うようになったと教えてくれました。これを聞いてあなたは「それは不公平だ!そんなつもりでは全くなかった。どうやったらそんな誤解ができるのか?彼女は何と心が狭い人なんだ!」と叫ぶでしょう。この時、あなたは憂鬱な気持ちと、申し訳ない気持ちと、無力感に苛まれているはずです。
話し手と聞き手が怒りを感じ、動揺する一方で、傍観者は冷静に、「話し手はそんなつもりではなかったかも知れないが、聞き手は重く受け止めた」と結論付けます。話し手が気軽に言った言葉に聞き手が腹を立てる。なぜそのようなことが起きるのでしょうか?なぜ、私達は誰かが言った言葉について、心の中で反芻し、その意味について想像し、話し手の立場を難しくするのでしょうか?実は、私もかつては敏感な聞き手の1人でした。誰かの何気ない言葉を分析し、次のように考えたものでした:彼女はどういうつもりでこれを言っているのだろう?私を見下しているのだろうか?私をバカにしているのだろうか?たとえば、ある同僚が「服装のせいで、今日はいつもと違って見えるよ!」と言ったとすれば、私は次のように考えたものです:どういう意味だろう?このドレスが似合ってないという意味だろうか?褒めているのか、バカにしているのか?別の例では、ある時、旅行について同僚とおしゃべりをしていて、私は「箱根は温泉が多い以外面白いことはないわ」と言いました。すると、同僚の1人が驚いて「あなたは箱根にも行ったことがあるのね。旅行?それとも住んでいたの?」と言いました。これを聞いて私はとてもイライラしました。彼女は私が旅行に行くためのお金がないと思って見下しているのだろうか?そこで、不機嫌に「旅行よ。どうしてこれにそんな大騒ぎするの?」と答えました。一瞬で、雰囲気が張り詰めたものになりました。こんな風に、私は常に誰かの言葉に影響されて不機嫌になったり、時にはかっとなったりしていました。また、私は常に損得が気になり、それを解放することができませんでした。それは私の親密な人間関係にも影響を及ぼしました。こんな風になりたくはありませんでした。しかし、何かに遭遇するとすぐに自分の考えをコントロールできずにいました。このことに私は困っていました。
ある日、私はこれらの言葉を読みました。「わたしは他人に対して疑いを持っていない人を高く評価し、真理を容易に受け入れる人を好んでいる。わたしはこれらの2つの種類の人間を大切にする。わたしの目には正直な者たちだからだ。あなたが非常に狡猾であるならば、あなたはすべての事柄およびすべての人に関して疑いを持つ、器の小さい心と思考を持っているであろう。」
私は、自省し始めました。私は何気ない言葉を聞くと、それを別の意味に解釈していました。誰かが正直に思ったことを口にすると、この言葉を分析し、その人の言葉には別の意味があったり、私を見下したりバカにしたりしているのではないかと考えていました。私は常に狭い心から生まれた考えを使って人々の親切心を評価し、かっとしたり、悲しくなったりしていました。さらに、他人に対し、偏見や妬み、憎しみの気持ちも抱えていました。これらの態度を思い返し、私は「木は樹皮と共に生き、人はその体面と共に生きる」というサタンの毒に支配されて生きていたことに気が付きました。私は常に他人が私のことをどう思っているかを気にしていました。私の面目を失わせるようなことを聞くと、その話し手に対して疑いの念を抱き、嫌な態度を示すことさえありました。その結果、私は周りにいる人々を傷付けていました。その一方で、私自身もひどく苦しみ、誰も信用できないでいました。私があまりにも面目にフォーカスしすぎ、不正直の本性があることこそが、これを引き起こしているのではなかったでしょうか?その時、次のことに気が付きました。他者と仲良くしている時、私達は他者に対して先入観を持ち、何気ない言葉を聞くと、それには隠された意味があり、彼らは私達を辱めようとしているのだと考え、疎遠になります。友人同士が二度と連絡を取り合わないようになることさえあります。これはすべて、私達が面目にあまりにも気を取られすぎており、他者を疑う傾向にあるためです。私は、「注意深い聞き手には、何気ない言葉が多くのことを示すことがある」という言い回しにおける問題の根本を突き止めました。
私は次の言葉を反芻しました。「わたしは他人に対して疑いを持っていない人を高く評価し、真理を容易に受け入れる人を好んでいる。わたしはこれらの2つの種類の人間を大切にする。わたしの目には正直な者たちだからだ。」そして、主イエスが私達にお教えになった御言葉についても考えました。「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである」マタ 5:37。これらの言葉から、私は正直な人間になることの重要性が分かりました。神様は誠実であられるため、正直な人間を愛されます。正直な人間だけが真の人間らしさを持っています。正直な人間は子供のように無邪気で、スペードをスペードと呼び、偽りがなく、誠実です。さらに、正直な人間は面目や見栄のために生きることも、他者を疑うことも、自分勝手に他者を憶測することもありません。正直な人間は周りの人と簡単に仲良くし、人気者となります。日々の生活の中でさまざまなことに遭遇する時、神様は私達が神様の御言葉に従うことができるのかを確認するため、私達をお試しになっています。その時、私は心の中で密かに「私は神様の御言葉の要件に従い、正直な人間になることを実践していこう」に決意しました。
ある日、昼食を取っていると、同僚が私のお弁当の中のおかず(人参ともやしの炒め物)を見て、「今、人参は安売りしているの?」と言いました。これを聞いて、たくさんの思いが頭を巡りました。彼女はどういうつもりでこれを言っているのだろう?彼女は私が貧しく、間に合わせで作る食事のために高価な野菜を買うことができないと思っているのだろうか?彼女は私のことをせせら笑っているのだろうか?私は少し腹を立てました。しかし、思い直し、神様の御言葉を思い浮かべると、私は面目を守ろうとして不正直の性情が現れていたことに気が付きました。彼女は人参が安く売っているのかどうかを普通に尋ねただけでした。「はい」であれば「はい」なのです。私が正直に答えることは全く正しいことです。なぜ、私は彼女を推察するのでしょうか?私はこの考えを手放し、穏やかに「はい!」と答えました。すると、この同僚は嬉しそうに、「今年の冬は寒くて、ほとんどの野菜が高値で売られています。でも、人参は寒さに耐えることができるのね・・・」と言いました。
その後、数分前に私の考えが変化したことを思い返してみました。私の心は神様への感謝で一杯になりました。あぁ神様。あなた様の御導きがなければ、私は不正直な性情に従い生き、私の面目を守るために同僚の言葉を誤解していたでしょう。そうなっていれば、私は自分自身が悲しくなり、頑なな状態になっていただけではなく、同僚も傷付けていたでしょう。そう考えると、心の中に少し、甘くくすぐったいような気持ちがしました。神様の御導きにより、私は解放され、自由になりました。もう他者の言葉の裏にある意図や動機を疑うことはありません。
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