賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

全能神の出現と働き——全能神教会の誕生と発展の歴史 第1部

2020-11-28 23:10:37 | 福音を証しするシリーズ

全能神の出現と働き——全能神教会の誕生と発展の歴史 第1部

    2千年前、主イエスは言われた。「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書 4:17)そして約束された。「わたしは、すぐに来る」(ヨハネの黙示録 22:7)クリスチャンは2千年の間、願い続け、待ち続けた。何世代にもわたって、主イエスの再来を切望してきた。救世主の到来と人類の完全なる救いを、あらゆる人間が熱望した。それは、世界が暗黒に包まれていた時代だった。神に抵抗するサタンの邪悪な力が最も激しく猛烈な時代だった。東の国、中国に夜明けが訪れたのだ。1991年、その特別な年に――受肉した人の子、全能神が出現した。真理を表し、働きを行うために家庭教会に姿を現わされたのだ。そしてまず、神の家から裁きの働きを開始された。

このドキュメンタリーはおもに、全能神が家庭教会のあいだに現われ、働きを行ない御言葉を発し始めた真の過程を記録しています。選民は全能神によるこれら現代の御言葉を分かち合う中で、徐々に真理を理解し、実践の道を得るとともに、聖霊が人類にもたらす喜びと自由を享受するようになりました。


クリスチャンが罪から解放される方法は存在します (II)

2020-11-27 22:16:02 | 天の国の福音

    私は張兄弟が又しても世の終わりの神の裁きの働きを言及したのを聞いて、こう尋ねました:「兄弟、世の終わりに神が裁きの働きをしに来臨されると仰りましたが、私はそれがどうもはっきり分かりません。もし主が本当に人間を裁きにやって来られるのなら、それは恐ろしい状況になるのではないですか?そうしたら、神が人間を救いにやって来られると言えるのはどうしてなのでしょう?」私がこう言ったのを聞いた張兄弟は笑顔でこう言いました:「私たちは神が人間を裁きにやって来られるのは恐ろしい状況となり、神が人間を裁かれる時、人間は非難されると思っています。しかし、実際、これらは全て私たちの観念と想像なのです。全能神の御言葉から2つの節を読んでみましょう、そうすれば神がどのように裁きの働きをなさるかが分かるでしょう。」

    そして、張兄弟は神の御言葉からこの2節を読んでくれました:「以前に話した通り、裁きは神の家により始まる。この「裁き」とは、終わりの日に神の玉座の前に来る者に対して今日神が下す裁きのことを指す。終わりの日が来た時、神は天空に大きなテーブルを用意し、その上には白いテーブルクロスが広げられ、神は偉大な玉座につき、全ての人は地に跪く。そこで神は、その者が天国に昇るべきか燃える硫黄の湖に送られるべきかを決めるため、各々が犯した全ての罪を明らかにする―そのような超自然的な様子を想像する人がいるかもしれない。」「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。」

    これを読み終えた後、張兄弟はこう言って交流してくれました:「全能神の言葉から、裁きの働きは、神が天国でテーブルを立て、全ての人間が地面に跪いた状態で、神が彼らの運命を彼らの行いの善し悪しを基に定め、邪悪な者を罰し、善良な者には報いを与えてくださるという私たちの想像とは違うことが分かります。もし神が本当にこのような形で人間を裁かれるのであれば、私たちの行いを基に助かる人はいないでしょう。実際、神は様々な真理を使って裁かれ、私たちの内にあるサタンのような本質、あらゆる種類の誤った動機と観念を明らかにして、世の終わりに私たち堕落した人類を裁き、清める働きをなさります。全能神の御言葉を読めば、神は直接私たちを裁き暴露され、神の御言葉は諸刃の剣のように私たちの本性を暴露され、サタンによる堕落の真理、そして私たちが既に真の人間らしさを失っていることを明確に分かるようにしてくださっていると感じるでしょう。従って、私たちは深く恥じ入り、神の前に倒れ込んで悔い改めずにいられなくなるのです。私たちは自らを嫌い、自らを呪い始め、自分の堕落した性質の中で生きるのが嫌になるのです。これと同時に、私たちは、神の義なる性質は害することができない、そして神の神聖さは汚すことができないことも知ります。そして、私たちは神に対しえ敬虔の心を持たずにはいられなくなり、又神に背き逆らって罪を犯そうとはせず、むしろ肉に背いて真理を実践し始めるのです。すると、私たちのサタンのような堕落した性質が変化し始め、私たちは神の御計画と御采配に従って神の愛に報えるよう自分たちの創造物としての本分を尽くす意思を持つようになります。これが神の裁きの働きが引き起こす効果です。私たちの経験において、世の終わりの神の裁きの働きを受けてのみ、私たちのサタンのような性質は完全に清められ、そして私たちは神に認められ、天国に入れることが分かります。神の裁きの働きを受け入れられない者たちはどうなるかと言うと、彼らは清めを受けられず、変化を遂げることもできず、神の裁きの働きが終わる時に神の罰を受けることになります。」

    神の御言葉と張兄弟の交流を聞いた後、私は自分が持っていた裁きに関する理解は本当に自分の観念と想像から生まれていたということに気が付きました。実に、神による裁きとは非難を意味するのではなく、むしろ私たちの堕落した性質を清めることなのです。神は御言葉を使って世の終わりの裁きの働きをされ、その結果私たちは神の御言葉を通じて自分の堕落した本性と内にある様々な堕落した性質を知り、それらを心から忌み嫌い、そうすることで真理を実践し、堕落した性質を捨てられるようになるのです。これこそが、神が裁きの働きをなさる方法であることが分かりました。私は神の働きは本当に現実的であると感じました。長年に渡って主を信仰していながらも、私は罪の中を生きていたのだと思いました。私は他人の対応をする時に主の教えを実践できず、頻繁に腹を立てていました。私はこれが原因で心に痛みを感じていたのです。しかし、今、私は罪を取り除く方法を見つけました。

    その後に行われた集会の最中、張兄弟は真と偽の羊飼いの見分け方、真の道を探す原則、そして神の受肉の奥義等について私と交流してくれました。彼の交流は本当に多くの知識を与えてくれたと同時に、私は30年以上に渡って教会で信仰してきた以上の内容を理解できたと感じました。しばらく調査した後、私は、全能神が主イエス様の再臨であることを確立しました。なぜなら、神のみが奥義の全てを暴露して、私たちに真理の全てを話すことができるからです。これは主イエス様のこの預言を現実化しています:「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12–13). 主イエス様が働きをされた時に沢山の奥義を人間に話されなかったのは、当時人間は霊的背丈が低すぎてそれを修得することができなかったからなのです。これ故に、神は世の終わりに人類を救う真理全てを話しに来られ、私たちは世の終わりの神の裁きの働きを受けた場合に限って神の御国に救い入れていただけるのです。神を讃えます!子羊の足跡を辿れるほど幸運な私は本当に恵まれているのです。

    その後、私は時間があれば神の御言葉を読むようになり、読めば読むほど、増々惹かれていきました。神の御言葉はとても素晴らしく、以前知らなかった数多くの真理を理解させてくださっているように感じました。これに加え、全能神教会のウェブサイトの内容もとても素晴らしいものでした。踊りと讃美歌の動画や福音映画、全てが真理の様々な側面を伝えていました。これらを観賞した後、私は神の働きをより深く理解しました。

    私が全能神の働きを受け入れてから3か月以上が経ちました。過去に、私は自分の家族と話しをするとイライラしがちで、それが私の家族と私の両方に辛い思いをさせていました。しかし、この問題は解決し難いものでした。今現在、私は神の御言葉を読み、そして集会で兄弟姉妹たちと交流し合うことで、自分が腹を立てていたのは自分の傲慢な本質に支配されていたことが原因であったことを徐々に理解しました。私は常に夫と子供に言うことを聞いて欲しかったので、彼らの言葉と行動が不愉快な時は彼らに対して怒りをぶつけていたのです。これはサタンの堕落した性質だったのです。今、神の御言葉は、神は人間が真の人らしさを貫くことを要求され、人間は神に祈りを捧げずに自分を頼りにしていたのでは、堕落した性質から自由になる方法はないということを示してくださりました。これを念頭に置きながら、私はカッと怒りそうになった時、神に静かに祈りを捧げ、私を守り、そして神の御言葉を実践できるように導いてくださるよう請いました。次第に、私は自分の怒りをある程度は抑えられるようになりました。私の娘が私に逆らった時、私は落ち着いて彼女と話をすることができました。私は実体験を通じて、世の終わりの神の裁きの働きを受けた場合に限って私たちの堕落した性質は変わることができ、私たちは清められ、そして神の御救いを受けることができると知りました。今現在の私は経験と知識が浅すぎ、自分の中には堕落した性質が多く残っています。これ故に、私は全能神の御言葉をもっと読んで神の御言葉の裁きと刑罰を受ける必要があり、これにより自分の堕落した性質を捨てられるようになり、そして真の創造物らしさを貫いて神を讃えられるようになるのです。

 


主の再臨をお迎えする大変な経験(I)

2020-11-26 21:16:06 | 信仰生活

オンラインの集会に参加することで潤される


    私は数年前に家族と一緒に主イエスを信じ始めました。しかし2017年になって仕事のせいで頻繁に集会に参加できず、霊が沈んでいくのを徐々に感じました。自分の気に入らない物事に出会うたび、私はしばしば怒りっぽい性質を露わにしていました。心の中では自分を憎んでいたものの、それでも感情を抑えられなかったのです。そこで主に祈り、聖書の学習で私を導き、それによって主との関係修復を助けられる人を用意してくださるようお願いしました。

    ある日、Facebookグループである人のために祈っていたところ、ひとりの姉妹が私を友達に加えてくれました。その後、私たちは信仰に関することをオンラインでチャットするようになりました。その姉妹は聖書について多くのことを知っており、彼女の交わりはとても光に満ちていたので、私は自分の霊が再び潤されたことについて心から主に感謝しました。あるとき、彼女が説教を聞くよう招待してくれたので、私は喜んで従いました。説教の間、ある兄弟が聖書を使って、人類の堕落の起源と、どのような人が天国に入れるかを語りました。彼の説教は牧師のものよりも啓きに満ちていて、耳を傾けていた私の心は光で満たされ、その兄弟の説教を聞くのが楽しみになりました。

オンラインの噂と牧師に影響され、神様による終わりの日の働きの考察を拒絶する

 

    次の集会が終わりに向かう中、その兄弟は「神様につき従う決心を揺るぎない」という賛美歌を歌いました。私はその賛美歌を聴いたことがなかったので、好奇心からオンラインでそれを探しました。あるリンクをクリックしたところ馴染みのある画像が現われ、それが全能神教会のウェブサイトであることと、その賛美歌が東方閃電によって作曲されたことを思い出しました。以前、牧師が全能神教会のウェブサイトをプロジェクターで映し、それについて悪く言っていたことがあるので、私はとても驚きました。しかし兄弟による説教はとても光に満ちていました。いったいどうなっているのでしょう。それから東方閃電に関する多くの否定的なコメントをオンラインで読んで、その兄弟を心の中で警戒するようになりました。その後、私はあの姉妹に、兄弟が歌った賛美歌は東方閃電のもので、彼の信仰は私たちのものと違うと言いました。すると姉妹は、次のオンライン集会でその問題の答えを一緒に見つけましょうと言ってくれました。

    集会のあいだ、私たちは心の中の疑惑を兄弟に伝えました。すると兄弟は、真の道を考察するときは神様のお声に耳を澄ますべきで、オンラインの噂を基に考察すべきではないと語りました。そして、今は終わりの日で、主イエスは肉となってお戻りになり、全能神の御名で神様の家から始まる裁きの働きをなさっていると言いました。また神様による終わりの日の裁きの働きや、神様が御名を変えられたことに関する聖書の聖句も数多く示してくれました。終わりの日の裁きの働きと全能神の御名に関する聖書の預言に反論することはできませんでしたが、全能神はお戻りになった主イエスであるという兄弟の言葉は私にとって信じがたいものでした。私はこう考えました。全能神は本当にお戻りになった主イエスなのか。牧師がそれについて語るのを以前に聞いたことはないし、主イエスも「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14:6)とおっしゃった。主イエス以外に私たちを救える方はいらっしゃらない。全能神を信じるなら、主イエスを裏切っていることにはならないか。私はまだ天国に入れるだろうか。そうしたことを考えると、兄弟の言うことに耳を傾ける気がしなくなりました。

    その後、異端に気をつけるようにとのメッセージが教会のFacebookグループから送信されました。私はそれを見て、あの兄弟と接触するのがさらに嫌になりました。また姉妹が何度も招待してくれたにもかかわらず、オンライン集会に参加するのも断わりました。しかし後になって、兄弟の説教は主の御言葉と一致しており、ゆえに異端であるはずがないと感じました。そう考えていると心の中で葛藤が起こり、惨めな気分のまま、どうすべきかわからないでいました。その後、兄弟がグループチャットで数編の動画を送ってくれました。それらの動画を再生したところ、西洋の宗教学者による研究報告やコメントがいくつかありました。彼らは中国共産党による全能神教会への非難を調査し、インターネットで流れている全能神教会についての否定的な報道の大半は中国共産党が捏造したフェイクニュースであり、根拠となる事実がないことを証明していました。それらはまた、全能神教会を誹謗し断罪している中国共産党のフェイクニュースが、宗教的信仰の抑圧を目的としていることも暴いていました。これらの動画を見終えて初めて、インターネット上の噂がすべて嘘であることに気づきました。その後、兄弟がグループチャット経由で送ってくれた全能神教会による福音動画も見ました。その動画に登場する兄弟姉妹は中国共産党による逮捕を避けるため、しばしば集会の場所を変える必要がありました。集会の最中に中国共産党によって逮捕され、残酷な拷問を受けた人もいれば、自宅を捨てて逃げることを強いられた人もいました。私はそれらのシーンを見てとても悲しくなり、かつてある長老が中国に行って教えを宣べ、中国共産党はクリスチャンを迫害するのに力を惜しまず、中には投獄された長老さえいると言っていたことを思い出しました。また日曜礼拝の教師は、中国共産党は無神論者でマルクス主義を信じているから、神様を信じる人は誰もが弾圧されると言っていました。当時、私はそれらを誇張だと思っていました。盗みも強盗も働いていない主の信者を、どうして中国共産党が逮捕するでしょうか。しかしこれらの動画を見て初めて、中国共産党は犯罪と闘うよりも宗教的信仰を抑圧するほうに関心があり、彼らによる全能神教会の断罪を信用してはならないと理解しました。

神様による終わりの日の働きを受け入れるのは主イエスを裏切ることなのか

 

    私は中国共産党による噂を見抜きましたが、主イエスと全能神の関係についてはまだはっきり理解しておらず、兄弟の説教を聞き続けるべきかどうかわからないままでした。全能神を信じ始めたら主イエスを裏切ることになるのではと不安だったのです。すると姉妹が、そんな簡単にあきらめず、最後の判断を下す前に詳しく調べてはどうかとアドバイスしてくれました。彼女の言うことは正しいと思いました。いったい何なのかを突き止めることなくあきらめたら、実際に主がお戻りになっていた場合、主をお迎えする機会を失うことにならないだろうか。そこで、次の集会で兄弟が説教することに耳を傾けることにしました。

    インターネットに接続すると、私の疑問について兄弟がこう説教してくれました。「主イエスを信じる私たちはみな、主が真の神様であることを知っています。また主から多くのお恵みと祝福を受け取り、大いに感謝して愛情を抱いています。ゆえに、主はすでにお戻りになっているが、もはやイエスではなく全能神と呼ばれていると聞くとき、私たちの多くは心の中でためらいを感じだし、自分は別の神様を信じて主を裏切っているのではないかと不安になります。そのせいで神様の働きをあえて考察しようとしないのです。しかしこのような考え方は正しいでしょうか。私たち全員が知っているとおり、主イエスがおいでになって働きをなさったとき、ファリサイ人は主の働きを異端だと断罪し、ローマ帝国と手を結んでイエスを十字架にかけました。主の御名がメシアではなく、安息日をお守りにならず、神殿の外に行って働きをなさり、教えを宣べ伝えられたからです。次のことを考えましょう。何世代もヤーウェ神に仕え、熱心にメシアを待ち望んでいたファリサイ人は、主イエスが預言されていたメシアであるとどうして気づかなかったのでしょう。それは、彼らが神様を知らず、とても傲慢でうぬぼれていて、自分の観念と想像を基に主イエスを断罪して拒んだからです。彼らは最終的に神様を信じながら神様に抵抗した人たちとして人生を終えました。ならば、主がお戻りになったという知らせを聞きながら、主の御名がイエスから全能神に変わったからといって考察するのを拒むなら、それは単に当時のファリサイ人の過ちを繰り返していることになりませんか」

    兄弟の説教は深く考えるべき多くのことを私にもたらしました。彼は正しいと私は思いました。神様にはお知恵があり、神様がどう働かれるかは私たちに想像できることではない。しかし自分の観念と想像を基に神様の働きを判断すれば、まさにファリサイ人と同じではないだろうか。そう考えると心がとても落ち着き、引き続き兄弟の説教に耳を傾けました。

    兄弟は続けました。「事実、ヤーウェ神と主イエスと全能神は一つの神様です。その働きと、働かれた場所は違っていますが、いずれも堕落した人類の必要に応じて神様がなさらなければならない働きなのです。律法の時代、神様はヤーウェ神の御名を使って働きをなさいました。ヤーウェ神は律法を布告なさって生まれたての人類を導かれ、地上でどう暮らすべきかをお教えになり、威厳と怒りと憐れみの性質を表現なさいました。律法に従う人たちは神様の祝福とお恵みを得ました。律法に背いた者は罪の捧げ物をしなければならず、さもないと石打ちの刑に処されるか、天の火によって焼かれました。律法の時代の後期、人類の罪はますます深刻になり、罪を贖われるためにする罪の捧げ物ももはやないほどでした。ゆえに、神様は人類が必要とするものを基に受肉され、イエスの御名で恵みの時代の働きをなさり、愛とあわれみの性質を表現なさるとともに、豊富なお恵みを人類に授けられ、悔い改めの道を宣べ伝えられ、自分を愛するように他人を愛するようお教えになり、人類のために罪の捧げ物として十字架にかけられました。恵みの時代の働きは二千年にわたって続き、主の贖いのおかげで私たちの罪は赦されてきたものの、傲慢さ、偽り、利己心、邪悪さといった私たちの堕落したサタン的性質はいまだ残っており、いまなお罪を犯しては告白するという循環の中で生き、罪の束縛からまったく逃れられないでいます。これは真実ではないですか」

    私は言いました。「ええ、真実です。主は私たちに、寛大で忍耐強くなり、自分を愛するように他人を愛するようお教えになりました。私たちは自分の怒りを抑えられるときもありますが、自分の意にそぐわない物事に遭遇すると怒りっぽい性質をどうしても露わにすることがあります。私たちは主の御前で罪を告白して悔い改めますが、それでも再び同じ罪を犯してしまいます」

    兄弟は再び説教を始めました。「そうです。主イエスによる贖いの働きのおかげで私たちの罪は赦されてきましたが、私たちに罪を犯させるサタン的な本性はいまなお深く根ざしており、いつでもどこでも罪を犯して神様に反抗することができます。聖書にはこう記されています「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙12:14)また主イエスはこうおっしゃいました。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる」(ヨハネによる福音書8:34-35)罪を犯しては告白するというこの状態の中で生き続けるなら、たとえ主イエスの罪の捧げ物が永遠に有効だとしても、私たちはなお主によって天国へ引き上げられることができません。ゆえに終わりの日、神様は私たちが必要とするものを基に、主イエスによる贖いの働きを土台としてより高い働きをなさり、私たちの罪を裁いて不正を清めるべく真理を表現なさって、私たちが真の救いを得て天国に入れるようにしてくださいます。そのことから、ヤーウェ神の働きと主イエスの働きと全能神の働きはそれぞれ不可分に結びついており、働きの各段階は直前の段階に比べてより高く、それらが一つの神様の働きであることがわかります。ここで神様の御言葉の二節を読みましょう。そうすればもっとはっきり理解できます。


クリスチャンはどのようにして思慮深い乙女となれるか

2020-11-25 22:33:55 | 天の国の福音

    1つの投稿記事をここで転送します:

    こんにちは!兄弟姉妹の皆さん、私は1つ質問があり、皆さんのそれに関する理解を求めて、今日、ここに投稿します。どうぞ、積極的に参加してください。

    今日、私が強い信仰心でお勤めをしていると、マタイによる福音書第25章に10名の乙女に関する寓話があるのを読みました。5名の思慮深い乙女は誰かが「花婿がやって来た」と叫ぶのを聞いて、躊躇せずに彼を迎えに出ました。そのため、彼女達は主と共に夕食を取り、ごちそうを楽しみました。なんと栄光あることでしょう。一方、残りの思慮が浅い乙女5名は主を迎え出なかったため、神の国の門の外に閉め出されてしまいました。なんと愚かなことでしょう!そこで、私は、「誰かが『花婿がやって来た。外へ出て、彼を迎えよう』」と叫ぶのを聞いたら、私が生きている間は思慮深い乙女となり、躊躇せずに主を迎え出なければならない」と考えました。そこで、また、「主の再来は私が考えるほど単純なものではないはずだ。そうでなければ、どうして思慮が浅い乙女が主により閉め出されるなんてことがあろうか?」と考えました。そこで、思慮深い乙女となるにはどうすればよいかを知りたいと思います。

    投稿者:松本愛

    回答:

    姉妹岡田:

    松本愛、私にはこれが分かります。数日前に行われた聖書の勉強会で、リュー牧師は「現在は、終わりの日で、主イエス様が間もなく再来されます。私達は主をお迎えできるよう思慮深い乙女となり、主に見放され、神の国の門の外で泣いて、歯ぎしりをすることになる思慮が浅い乙女とならないようにしなければなりません。思慮深い乙女となるには、私達はもっと聖書を読み、注意深く祈り、主のためにもっと働く必要があります。これらのことを常日頃から行う者だけが思慮深い乙女であり、神の国に入り、主と共に夕食を取ることができるのです」と言いました。牧師のこの説教を聞いて、私はとても興奮しました。それから私は、毎日、注意深く御祈りをし、聖書を読むようになりました。思慮深い乙女となり、神の国の晩餐会に主と共に参加できるよう、時間がある限り、親戚や友人、仲間に福音を説き、主の証を立てています。

    ムイ:

    こんにちは!少しお話させていただきたく思います。姉妹岡田の言葉をたった今聞きました。過去10年間、私の牧師もそう言っており、私はそのようにいつも実践してきました。しかし、その後、何かがおかしいと感じるようになりました。私達はこれらのことをするだけで思慮深い乙女となれるのでしょうか?思慮深い乙女とは、主が再来されたときに、積極的に外へ出て、主を迎えることができることを意味するのではないでしょうか?10年はまたたく間に過ぎていきました。主の再来に関する預言が基本的に現実化し、大災害が次から次へと起きており、それは主がいつ何時でも再来し、私達を神の国に連れて行ってくださることを示しており、とても心配しています。そこで、イエス様が再来した際にお迎えできるよう、思慮深い乙女の基準を満たせるよう、どのようにそれを追求できるかについてぜひとも知りたいと思います。

    松本愛:

    さて、回答がありますか?

    ムイ:

    主よ、ありがとうございます!その後、兄弟姉妹との交流を求める中で、私はそのことを理解しました。主イエス様は次のように預言されました。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。 」(マタイによる福音書 25:6)。このことから、主イエス様が再来されたとき、主の御声を聞くことができ、外へ出て主をお迎えできる者だけが思慮深い乙女だということが分かります。従って、思慮深い乙女の主な現れは、その者たちが主の御声を認識できるということです。主イエス様がユダヤで働くために受肉されたとき、主は数多くの真理を明らかにされました。真理を本当に求め、神様の出現を切望する者は、救世主の到来を歓迎しました。これらの者は主イエス様の御言葉から神様の御声を認識し、主こそ到来が預言されていた救世主であると悟ったのです。

    佐藤恵和:

    ちょうどサイトに入ったばかりです。上のメッセージを読み、私も皆さんにお話したいことがあります。

    松本愛:

    ようこそ。

    ムイ:

    まるで、かつて収税人であった当時のマタイのように、主イエス様が「わたしに従ってきなさい」(マタイによる福音書 9:9),と彼に言われるのを聞いて、彼は立ち上がり、そのまま主についていきました。また、聖書には次も記録されています。主イエス様との短い会話を交わした後、ナタナエルは「ナタナエルは答えた、『先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です』」(ヨハネによる福音書 1:49)と言い、主についていきました。また、ペテロは、イエス様が船の中で人々に説いていた説教を聞いて、網と船を捨て、主についていきました。

    佐藤恵和:

    少しお話させていただきたく思います。ペテロ、ナタナエル、マタイなどの人々はすべて、主の御言葉と御発言から主イエス様が救世主であると認識し、主についていきました。同様に、サマリア人の女性は主イエス様と話しているとき、主が 「イエスは女に答えて言われた、『この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。』」(ヨハネによる福音書 4:13-14)と話されるのを聞き、彼女の心の中に隠していた秘密が主によって明らかにされました。そして、真理の謎について話し、彼女の秘密を明らかにすることができるこのような人は、明らかに、普通の人や預言者ではないと悟りました。彼女は、主の御言葉から、主イエス様が救世主、キリスト様であると確信を持ちました。

    ムイ:

    そう、佐藤さんの言う通りです。これにより、私達は、彼らが神様の御声を聞くことに意識を集中しており、そのため、主の出現を歓迎できたことが彼らの知恵であり、それが思慮深い乙女の表れであることが分かります。

    佐藤恵和:

    少し付け加えたいと思います。思慮深い乙女には、自分自身の意見と根拠がありました。主の御言葉を聞いたとき、彼女達は外に主を迎え出ました。彼女達が主についていっている間、彼女達の周りでどれだけ中傷、冒涜、非難の声を聞こうとも、彼女達は変わらず、主イエス様が救世主であることを受け入れていました。弟子達が主についていったときと同様、彼女達は、多くの祭司、律法学者、パリサイ人から、主に抵抗し、主を中傷する多くの声を耳にしましたが、主への信仰に影響することはありませんでした。

    松本愛:

    はい。その通りです。

    ムイ:

    これらの祭司、律法学者、パリサイ人、そして彼らに従うユダヤ人はすべて、律法と規則に従う限り、確実に救世主の到来をお迎えすることになるだろうと信じていました。主の御言葉と御働きにどれほどの力と権威があろうと、彼らは自分の観念と想像に固執し、主イエス様の御言葉と御働きを調査することを拒みました。彼らは主イエス様を普通の人、神様の御発言を人の言葉とみなし、主を裁き、冒涜さえしました。最終的に、彼らは待ち望んでいた救世主を十字架に磔にし、神様を信じながら神様に抵抗する者となったのでした。彼らには神様の御声を認識することができず、真理を求める心を持っていませんでした。その代りに、神様の御出現と御働きを盲目的に拒否し、非難しました。そのため、彼らは神様からの御救いを失い、最終的に、神様の御怒りと御懲罰が下りました。これは、思慮が浅い乙女の表れで、彼らの結末でした。

    松本愛:

    皆さんの言葉を読み、私はとても恥ずかしくなりました。私はこれまで何度も聖書でこれらの寓話について読んでいながら、この光を得ていませんでした。

    主よ、ありがとうございます。たった今行われた皆さんによる思慮深い乙女と思慮が浅い乙女の表れについての交流はとても明確で、思慮深い乙女とは主イエス様の御働きについていく者のことで、主の御声を聞くことができる者で、主の御声を認識したら躊躇せずに最後まで主の後についていく者のことを言うのだと理解することができました。

    佐藤恵和:

    そうです!思慮が浅い乙女が門の外に放っておかれた理由は、彼女達には謙虚な気持ちで求める心がなかったからです。主イエス様の福音に直面して、彼女達は思慮深い乙女達と共に表に出ていって、これを受け入れることを嫌がり、自分の意見を持たずに、彼女達が尊敬し、崇拝するパリサイ人に助言を求めました。そのため、彼女達は主の救済を失いました。

    ムイ:

    その通りです!そのことは、現在にも同様に当てはまります。主イエス様の再来に関する預言は、基本的に現実化しています。今こそ主が再来される重大な瞬間です。イエス様の再来をお迎えするために、私達はどのような環境を整えておくべきでしょうか?

    松本愛:

    もっと教えてください。

    ムイ:

    分かりました。主イエス様は次のように仰っています。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。」(ヨハネの黙示録 2:7)。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)。これらの預言によると、主が再来されたときは、確かに御言葉を発することが分かります。主イエス様が次のように仰っているため、これは疑う余地がありません。 「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(マタイによる福音書 24:35)。従って、主の再来のお迎えに関して、主の御発言と御言葉に注意する必要があります。神様の羊は神様の御声を聞くものです。「そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。」(ヨハネの黙示録 14:4)。主が再来される終わりの日に、私達が主をお迎えできるか否かは、私達が主の御声を認識でき、主の後についていけるか否かにかかっています。この点で、思慮深い乙女は思慮が浅い乙女とは異なっています。今日、誰かが主の再来の福音を説いているのを聞いたら、私達は思慮深い乙女の例に倣い、自分の観念と神様が御働きになった過去から出て、新時代の神様の御発言と御言葉に耳を傾けなければなりません。このような人のみが神様によりお認めいただき、聖霊の働き、啓示、光を得ることができます。同時に、私達は終わりの日の主の御言葉と御働きを求める際に、思慮深い乙女達のように自信と勇気を持つべきです。他人が何を言おうと、私達は見定める力と自分自身の意見を持つ必要があります。私達が神様の御声を認識する限り、私達は躊躇せずに調査すべきです。それが神様の御働きであることが確認できたら、神様の後にぴったりとついていき、迷ったり、後退りしてはなりません。真理を渇望し、真理を求める心がある限り、私達はイエス様の再来を確実にお迎えできるでしょう。

    ムイ:

    その通りです。主よ、感謝します。最後に、皆さんと御言葉の次の聖句を共有したいと思います。「私たちがたどっているのは神の足跡である。神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。」栄光は全能の神様のものです。アーメン!


3つの原則を理解すれば、多忙にしながらも主の前で静まることができるようになります

2020-11-24 22:46:53 | 信仰生活

    ケム姉妹へ:

    こんにちは!私は毎日自分の仕事をし、教会で仕え、そして自分の家族と子供たちの面倒を見ながら忙しくしています。こうして、私は毎日、気が付いたらこういったことで頭がいっぱいになっています。私は沢山のことに対応してきましたが、心の中ではいつも空しい思いをしています。私は祈りを捧げている最中、主に伝えたいことが無いだけでなく、私の霊的に乾いている感じ、不毛な状態になってしまいます。それに、私は聖書を読むときでも、心を鎮めることもできなかった。なぜなら、私は常にこういった回りの出来事に気をそらされているからです。私はとても動揺した気分になり、この問題をどのように解決すればよいのか全く分かりません。

ヂュウチウ

    こんにちは、ヂュウチウ姉妹:

    あなたがされた質問は多くの兄弟姉妹たちが抱えているものです。私たちは回りのことで忙しくしていると、どうして主と普通の関係を持つことができないのか?主な理由は、私たちは物事の対応でいつも忙しくしていると、神の前で心を静めることができないからです。全てにおいて神の前で自らを静めるということを実践するための原則を理解できれば、私たちはどのような環境に直面しても、心の中で平安と喜びを感じながら神の御前で暮らすことができるようになります。そうすれば、私たちはそれほど悩んだり、落胆することはないでしょう。

    今日は、「神の前で静まるとはどういうことか?そして、それを実践する道とは」について一緒に調査しましょう。
    では、「神の前で静まる」とはどういう意味か?

    神はこう仰ります:「神の前で静まることは、料理しないことや働かないこと、生活を無視することを意味するのでは無く、日常の全ての状況において、神の前で自分の心を静めることができること、自分の心の中に神の居場所を確保出来ることを意味する。祈る時は、神の前できちんと跪いて祈りなさい。働く時や食事を用意する時は、自分の心を神の前で静め、神の言葉を熟考するか、賛美歌を歌いなさい。あなたには、自分が置かれた環境に関わらず、実践する方法がある。あらゆる手を尽くして神に近付き、できるかぎり神の前で心を静めなさい。状況が許すならば、一心に祈りなさい。状況が許さなければ、自分の手で仕事しながら、心の中で神に近付きなさい。神の言葉を食し飲むことができる時は、そうしなさい。祈ることが出来る時は、祈りなさい。神について瞑想することが出来る時は、神について瞑想しなさい。自分が置かれた環境に基づいて、あらゆる手を尽くして真摯な取り組みのために自らを訓練しなさい。」御言葉から、神の前で静まるということは、私たちの心を常に神の前に置き、心から神に祈りを捧げ、神と会話をし、通常は神に近づき、そして神から離れないでいることを意味していることが分かります。言い換えると、私たちが何をして忙しくしていようとも、私たちの心はそれら回りの出来事で埋め尽くされるべきではないのです。むしろ、私たちは心の中で主に近づき、御言葉と神の愛を熟考することを実践するべきなのです。そうすれば、私たちは神の前で暮らすことができるようになります。どちらにしろ、これは心の中で神のことを考える以外は何もしないという意味ではありません。大切なことは、私生活において、私たちが神の前で自分の心を静められるということです。この訓練および実践をすることができれば、私たちは常に聖霊に動かされ、私生活における出来事や困難に対応するために実践すべき道を持つことができるでしょう。そうすれば、私たちがどれだけ多忙であろうとも、心の中には平安と喜びがあり、私たちが空しくなることもなくなるでしょう。

    そうしたら、どのようにして神の前で心を静めたらいいですか?

1.その場ですぐ、可能な限り、主に祈りを捧げて心を開きましょう


    賛美してに感動したら、神に感謝の意と称賛を捧げましょう:「神様!今日、私は賛美して心の中で非常に感動しました。私はこれが聖霊の働きの結果であると分かっています、そしてこれはあなたの私たち人類に対する愛情を感じさせてくれます。神様!私はあなたにもっと近づいて、あなたの前で暮らしていきたいと思います。」このように祈りを捧げれば、神の前で心を静めるのがもっと簡単になります。時と場所に関係なく、可能な状況であれば、その時にすぐ、神の前で心を静めることを実践できるようになるのです。例えば、台所で手を使って何かをしている最中、私たちは賛美して、神に祈りを捧げ、または御言葉を熟考することで自分たちの心を静めることを実践できます。さらに、公共の場でバスを待っている時、バスの中にいる時、または自分たちが本分を尽くす場にいる時なども、私たちは神の前で心を静めることを実践することができます。私たちは、規則や規定、状況から抑制を受けることなく、祈りを捧げ、神に近づき、神の御言葉を理解するのです。何時でも何処でもできるのです。例えば:朝にデボーションを行う最中、静かな環境であれば、私たちは跪き、神に祈りを捧げ、そして御言葉を読むべきです。公共の場で、路上で、または職場で、私たちは神に心を開き、神の御言葉をじっくりと考えることができます。実際には、神に近づき祈りを捧げることは環境のような要因の影響を受けずにできるのです。神に近づく意思を持ってさえいれば、私たちは何処にいても神と普通の関係を持つことができます。このようにして、私たちは常に神の前で暮らすことができるのです。これもまた、神の前で心を静めることを実践する道における側面の1つであります。

2.私たちは常に御言葉を読み、それを熟考し、私たちの生きる基盤とすべきです


    私たちは聖書を読む際、頻繁にその表面的な形だけの行為をとるだけで満足し、御言葉を熟考するということには全く注意を払っていないことがあります。実生活において御言葉を心の中に抱いていなければ、私たちは主の前で自らを静めることが困難になります。実際のところ、私たちは毎日聖書を読む時には純粋な心で御言葉を熟考し、祈りを捧げ、そして可能な限り御言葉の中を探求するべきなのです。私たちがこのように振る舞っていれば、神は私たちが真理を切望する心を持っていることを知ってくださり、神の御心を理解できるよう私たちをお啓きくださり、指導くださります。これ故に、私たちは毎日のように新しい何かを得て、知らぬうちに神の前で自分の心を静められるようになるのです。

    例えば、「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。」(マルコによる福音書10:15), という主イエス様の御言葉を読むとき、私たちは、「主イエス様はどうして子供のようにならない者は誰も天国に入ることはない」と仰ったのかを理解するべきです。主は何を意図されているのでしょう?幼い子供の具体的な明示とはどういったものなのでしょう?そして、私たちはどのようにして幼い子供らしさを貫くべきなのでしょう?私たちが神に祈りを捧げる責任を背負い、幾度に渡って御言葉を理解しようと試みる時、神はこの御言葉の意味を理解できるよう私たちを御啓きくださります。幼い子供とはどういうことかと言うと、彼らは純粋で、誠実で、正直で、何かを偽ったり、隠したりせずに、言いたいことを何でも口にします。彼らは喋るとき、嘘をつかなければ、騙したりもしません。彼れらの言葉から、彼らの心の奥には何の陰険さや狡猾さも無いことが分かります。これ故に、私たちは彼らと仲良くしていると、何の心配もすることなく、安心することができるのです。幼い子供のようになることができず、代わりに狡猾さで満ちた心の中をもって、神に対する奉仕において祝福を得て、自分たちの野心と欲望を全うし、それらを満たす目的で神と取引を行い、自分たちの心がこういった不純さで満ちているとしたら、私たちは創造物としての本分を尽くしてはおらず、むしろ神を利用していることになるのです。このような働きと奉仕をしていて神の称賛を得られるはずがないのです。これについて熟考すれば、神はどうして私たちが幼い子供のようになることを御求めになるのかが分かります。神は正直な人々がお好きです。なぜなら、彼らは神と心を1つにし、反抗や抵抗もせず、神と一致しているからです。そのような人々のみが神の御国に入ることができます。なぜなら、神の本質は聖なるものであり、神は不正直な、かつ狡猾な性質をお持ちではないからです。サタンの堕落した性質を持つ者が神の御国に入ることは許されておらず、それは神の本質によって定められています。従って、神は私たち全員が真理を追い求めること、こういったサタンの堕落した性質を捨てること、そして神の前で誠実で生き生きとした幼い子供のように生きることを望んでおられます。こうしてのみ、私たちは神の祝福を授かることができます。私たちはこのように熟考すればするほど、増々御言葉を理解できるようになり、実生活において御言葉を実践する方法を増々知るようになるのです。そして、神と私たちとの関係は増々親密になります。これもまた、神の前で心を静めることから得られる結果なのです。

3.常に神の愛について黙考し、神が私たちのためになさった救いの働き、ならびに神の私たちに対する善良な御旨について熟考しましょう


    通常、私たちは常に主の愛情について考え、主が私たちのためになさった働きを思い起こし、主の私たちに対する救いと善良な御旨について熟考するべきです。こうすることで、私たちは常に聖霊によって動かされ、心の中で主に近づいて主を満足させたくなるでしょう。例えば、私たちは夜にベッドで横になる間、心の中でその日、または過去に体験した神の御加護や愛情について理解するべきです。例えば、私たちが主に仕える中で遭遇した困難と苦難を切り抜けるために、主はどのようにして私たちを導きくださったかを理解するべきです。これを理解しようとすればするほど、増々神の御旨を理解することができます。さらに、私たちは、神はこの困難を通じて私たちを完全にして、私たちが真理を得られるようにすることを望んでおられると気が付くのです。このような体験をすればするほど、私たちの神への信仰は増々断固たるものになるでしょう。さらには、神が私たちのためになさる救いの働きに関する知識も増えていくでしょう。また、私たちは神が私たちを救おうとされる善良な御旨をさらに体験することになるでしょう。時に、私たちは、神が私たち堕落した人々を救うために謙虚に隠れながら私たち人間の中にお越しになり、私たちの罪を贖ってくださり、そして十字架に釘付けにされた事実について考えることがあるかもしれません。神が私たちのためにしてくださったことを振り返れば、私たちは常に神の愛に感動するでしょう。この時、私たちは心の中で尽きることのない力を手にし、肉に背き、困難の中を生きるのを拒み、そして神を満足させるために出来ること全てをする意思を持つようになるでしょう。私たちはまた、主の愛について熟考する間、神は私たちのすぐ側におられ、私たちに付き添ってくださっていることを実感するでしょう。私たちはこのように熟考し、実践すればするほど、増々神の前で心を静められるようになるでしょう。また、私たちは神についてもっと知り、神を恐れる心を抱くようにもなるでしょう。

    私はこの交流があなたのお役に立ち、そしてあなたが神と普通の関係を維持できることを願っています。私は、上述した内容に従って神の前で心を静めることを実践している限り、私たちは心の中で平安と喜びを感じながら、神の指導と祝福を受けることができると信じています。あなたに神の加護がありますように!

ケムより