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カタルーニア 5 ちょっと寄り道 <最後の対立教皇の隠棲地 ペニスコーラ>

2020-08-24 22:23:05 | 素晴らしき世界/スペイン
ペニスコーラ岬


14世紀の初め、政治的に宗教的に道徳的に荒廃を極めたローマの街から、教皇クレメンス5世は教皇庁を南仏アヴィニヨンに移しました。


13世紀末、ローマ教皇ボニファチウス8世は、とんでもない破戒坊主だった。
ありとあらゆる不道徳の極みで教皇庁はソドムとゴモラの如き様相と成り果て、キリスト教会に対する悪評は増すばかり。

フランス王が枢機卿会議に圧力をかけて、フランス人であるボルドーの大司教を法王に選出させた。

クレメンス5世は、1305年とっとと教皇庁をローマから南仏アヴィニヨンに移してしまう。


そこから「第二のバビロニア幽囚「と呼ばれる時代が始まった。

7代の教皇がアヴィニョンで在位し、その間にローマの街は荒廃を極め、ヒッチャカメッチャカ面白おかしいあれこれの結果、1377年イタリア人の圧力で最後の7代目グレゴリウス11世が教皇庁をローマに戻す。

廃墟然と化したローマに幻滅したグレゴリウス教皇は「アヴィニヨンは良かった、アヴィニヨンは良かった」とつぶやきながらローマで亡くなることになる。

そこで次の教皇を選ぶ枢機卿会議『コンクラーベ』の会場ラテラーノ宮(旧教皇庁)をローマ市民が武装して包囲し「イタリア人を教皇に選ばないと全員生きて返さない(教皇庁をアヴィニヨンに戻すな)!」と恫喝。

枢機卿たちは、慌てふためいてイタリア人でバーリの大司教を次期教皇に選び「アヴィニヨンが良かった」とつぶやきながら大急ぎでローマを逃げ出した。


そういう経過でウルバヌス6世が登場すると、フランス系枢機卿たちがアナーニに集い、「ローマでの決定は民衆の暴動による恫喝の結果で正規な手順を踏んだコンクラーベの結果ではない」と称して選出会議をやり直し、ジュネーヴの枢機卿ロベールを教皇に選出し、クレメンス7世の名でアヴィニヨンで戴冠式を強行する。

そこから始まった教会大分裂。


どちらの系列が正当なキリスト教会であるか、わけのわからない時代となって、アヴィニヨン側を『対立教皇』と歴史で呼ぶこととなる。

ローマ側のウルバヌスの後は、イタリア人のピトロ・ポマチェルリを選んでボニファティウス9世、次がインノケンティウス7世、そしてその次のグレゴリウス12世はアヴィニヨンとの和解を望む。

クレメンスの後の対立教皇はスペイン人のペドロ・デ・ルーナを選出してベネディクトウス13世。

その間にフランス王の武装介入、フランスの大貴族アンジュー伯の武装介入、イタリアのフランス側大貴族コロンナ家のローマ教皇庁攻撃、民衆の蜂起と教皇庁の略奪などなどの大騒ぎを経て、枢機卿たちはピサに公会議を招集。

枢機卿27名、総大司教4、大司教12、司教80、修道院兆87、修道会代表、各地の大学代表、教会法の専門家、総計300名、さらに各国大使が参加した『ピサ公会議』で両教皇を廃位し、新たに「公式な」教皇を選ぶことに。

しかし、両教皇は共に不参加。
公会議はミラノ大司教を選んでアレクサンデル5世として戴冠。

ローマとアヴィニヨンの両教皇を廃位したものの、当然ながら両名は無視。

ということでなんと「教皇」が3人鼎立するという狂奏曲が吹き荒れる。

即位後すぐ急死したアレクサンデルの後、ヨハネス23世を選出する。

三人の教皇は、お互いに他の二人を認めず、互いに互いを破門し合い、フランス、イングランド、アラゴン、シチリア各王家とメディチ家の利害が絡み合い、二転三転どころか九転十転の大騒ぎの末、ヨハネスは数十件の罪状で逮捕されてハイデルベルク城に監禁。
コジモ・デ・メディチの尽力で釈放され、フィレンツで余生を送った。

ヨハネス23世は、問題解決のために「自分が公会議を開催する」ことを主張し、枢機卿会議の権限を犯すと枢機卿側が反発しヨハネス教皇の権威を否定。

彼は教会史では正規の教皇と認められておらず、20世紀に再度ヨハネス23世の名で教皇が登場する。

その後グレゴリウスは、枢機卿会議に「改めて自分を教皇として選出するなら」ば、自ら次の公会議を開催して、その場で自分は退位すると宣言。
枢機卿会議の権威を認める申し出の功績で、彼は退位後アンコーナの総督の地位を送られて、余生を送る。

この結果、教皇の地位にしがみつくのはアヴィニヨンのベネディクトウスだけとなる。

しかし、すでに彼は既に孤立しており、公会議が廃位を宣言しても、分裂は起こらなかった。


ここまでが前提。

孤立無援で年老いたペドロ・デ・ルーナ(前ベネディクトウス13世)が隠棲したのが、故郷バレンシアの伯爵領内ペニスコーラ城であった。


ベネディクトウス13世


この町は、カタルーニアの首都バルセローナから、バレンシアの首都バレンシアまで2/3ほど、200kmほど南下した位置にあります。

大昔の小さな島が陸地と繋がってできたこんもりした岬の両側が湾曲したビーチになっていて、夏季はレジャー客で賑わいます。

岬の中が旧市街。
全体が丘になっています。





こんな階段やら。






こんな路地やら。






こんな教会やらが並んでいます。


初めのうちは、お土産やさんにレストランが並びますが、少し登って行くと静かな佇まい。


そして、丘の頂上に堂々たる規模のお城が残ります。

城壁の足元から、上の写真のような『対立教皇ベネディクトウス13世』のかなり大きなブロンズの胸像が、生えています。


城の入り口の一つ



城の中庭


中は、高い城壁に囲まれた中庭。

それそれ居住空間や様々な用途に使われる部屋や空間が取られています。


大広間


大広間。

中央の壁にはヴァレンシア伯の旗。
右の壁には、ベネディクトウス13世であったペドロ・ルーナの旗。

ちなみに「ルナ」は月なので、彼の旗は「三日月」があしらわれています。


礼拝堂



礼拝堂。


大鍋


兵士にスープを出すための「火鉢」と「鍋」か。





新しそうなので、ペドロの時代の物ではないようですが。。
なんとなく雰囲気を作ってあります。



ベネディクトウス13世


聖ペテロにかわって『天国の門の鍵』を持つ、ローマ教皇『ベネディクトス13世』のレリーフ。


マルタ島騎士団


『マルタ騎士団』のレリーフ。


お城の上部に登って行けます。












最上部の塔の頂上に出ると、周囲が一望。
地中海が眩しい。


岬の北側の海岸線



北側の海岸から見た岬



ペドロ・デ・ルーナは、アヴィニヨンの教皇庁を追われ、傷心のまま故郷に戻って、この城に隠棲生活を送りました。

城内の騎士や召使いたちには、自分のことを常に「教皇猊下」と呼ぶように強制。

しかも、もし他人から「教皇と呼ばれない」時のことを憂慮した彼は、生涯城から外へは出なかったそうです。






『ルナ』の三日月文様の教皇帽をかぶったベネディクトウスの旗が、旧市街のいたるところに変わられています。


次回をお楽しみに。
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