行ってみませんか... こんな 素敵な世界へ

好奇心旺盛な長年の体験で、行って、見て、食べて、泊まった素敵な世界を、皆んなにちょっぴりお裾分け...

ブルターニュ紀行 38 < ロクマリアケール > モルビアン湾に沿って 2 巨石文明遺跡

2021-04-30 00:34:00 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : ロクマリアケールの『悪魔の杖』

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう
38


オーレから南下すること15km
ちなみにカルナックから東へ10km
モルビアン湾の様い入口の西側の岬の先端に著名な遺跡群がある
『Locmariaquer ロクマリアケール』村

Map by ⒸGoogleMap

基本的には
フランス最大のメンヒルと一つのテュミュリュス
さらに一つのドルメンが隣り合わせに一箇所
さらに別のドルメンとテュミュリュスが四箇所
ある

まず
フランス最大のメンヒルとテュミュリュスとドルメンとがある『Er-Grah』という場所



 『Tumulus de Er-Grah』

最初は下の写真の小さな円形のケルンだけだと思われていた
紀元前4500年頃のより小さなケルンを
前4300年頃に周囲を覆って長大なこの形のものに作り直されたらしい
それすらもすでに充分荒らされていた


それが
周辺に散らばる石片が
その小さなケルンの南北を延長した巨大なテュミュリュスの残骸
であることがわかった



紀元前4000年ごろと推定されており
少なくとも140mの大きなものであったようだ
全長170mあっただろうという人もいる

そして原型がわかるブルターニュ最大の
ということはフランス最大のメンヒルが
隣り合わせに


左端にテュミュリュスの石の塊があり
右端にそのメンヒルが

ただ残念なことに
ここのメンヒルも四つに折れて地上に寝ている

『Men-er-Hroëc'h (Grand Menhir Brisé)』

先端から三切片
折れている四つの部分全部は一度に画角に入れられなかった


根元から三切片

このメンヒルが折れていなければ
全長20mで
総重量は280トンの一枚岩
地中に3mほどの基礎の部分が埋まっていただろうと言われている


紀元前3900年頃と推定されている
この辺りにあった50mほど並んだ列柱の起点となっていた
最大のメンヒルだった
建設後300年ほど経って不明な理由で
他のメンヒル共々倒されてしまったらしいことがわかっている

通常は「Grand Menhir Brisé(壊れた大メンヒル」と呼ばれるが
地元の呼び名の「Men-er-Hroëc'h」は
ブルトン語で『魔女の杖』を意味する


パノラマで撮ると全部入るが
逆に大きさが伝わらないのでつまらない



一応
巨大テュミュリュス跡と悪魔との2ショット


次に
すぐ近くにもう一つ
『Dolmen de Table de Marchands 商人(あきんど)の商品棚』
と呼ばれるドルメンもある

『Dolmen de Table des Marchands』

これは7mほどの玄道を持つケルン(テュミュリュス)で中にも入れる

テュミュリュスなのに
なぜ「商人の商品棚」ドルメンと呼ばれるかというと
実は100年前まではドルメンだった

19世紀後半の絵葉書

こんな形をしていたから地元では「あきんどのテーブル」ドルメン
と呼ばれていた
しかも上蓋の巨大な石は
上で挙げた魔女の杖の一片であったらしい
写真で人が座っている部分が小さなケルンだったので
このテーブルも近くに散らばっていた石を集めて綺麗に積み直してしまった

玄室は見事な線刻文様が施されている





では
同じ「ロクマリアケール」の域内の
次の場所に移ろう

『Les pierres Plates レ・ピエール・プラット』
直訳して「平らな石(複数形)」


『Les Pierres Plates』

ここは
一つのメンヒルと
一つのドルメンの組み合わせ


確かに
ドルメンの上蓋の部分は平らだ


基本的には
小さなケルンで覆われた「Allée Couverte アレ・クヴェールト(覆われた通路)」の形
26mほどの長さがあり今は上蓋は50枚ほどだが
作ら手た当時は70枚ほどあったらしいと推定できるそうだ

今は玄道はそれほど奥深くはない


玄室には線刻画が見られる






棕櫚の枝のような文様


これは盾だろうか


もう一箇所
『Dolmen de Mané-Lud ドルメン・ド・マネ=リュッド』

民家のすぐ近くにある




玄道は鉾のほとんどのドルメン(アレ・クヴェール、テュミュリュス)と同じように
おおよそ南北を向いている
長さは約5m







玄室の天井を形成する蓋は8m以上の長さがある
舟や鳥や斧などと思しき線刻画があちらこちらに見られる







玄室から玄道を振り返ると
がっちりと安定した構造がよく分かる



ここは
見るからにテュミュルスだが
地元では昔からドルメンと呼ばれてきた


地元の道路標識


次の一箇所
『Tumulus de Mané er Hroëc'h または Dolmen du Ruyk』
「テュミュリュス・ド・マネ・エル・ホロェック 別名 ドルメン・ド・リュイック」


周辺の光景はこう



メンヒルはともかく
ドルメンやそのヴァリエーションのケルンやテュミュリュスは
ナポレオンの命で詩人のメリメが遺跡の全国調査を行って
「文化財」という発想が生まれるまでは
中世がおわた頃から荒らされ放題でむき出しになっていたか
崩れて埋まって
こんな感じになっていたかのどちらかだったことが多かっただろう


玄道はかなり良好な状態で保存されているように見える


この玄道には10数段の階段で降りる


そして湾曲してさらに入り口らしきものがある
ということは
おそらくはるか昔に盗掘されて造られたトンネルを
さらに後世に補強し直したものではなかろうか



この玄室は5m x3m ほどもある
これだけ広い玄室だと
いろんな時代に
人が住んだり
物置に使われたり
ゴミ捨て場になったりしたはずで
崩れなかったことが奇跡的だと思われる

しかも
このチュミュリュスは
地表部は100m x 60m の規模で地上より8mほど高く盛り上げられている

ここも一つ前の「マネ・リュッド」と同じような形だが
ドルメンではなく
完全にテュミュリュスだと理解できるし
現地でもそう呼ばれてきた




最後にもう一箇所
『Dolmen de Mané-Rutual ドルメン・ド・マネ=リュテュアル』


ここは
「Er Grah」から200mほど離れた
村の中心地からすぐ


全長15m
全幅3,4m
全高1,2m


39個の側石で6枚の蓋石を支える
その上蓋の中で一番規模が大きなものは
なんと長さ11m
重量40〜50トン





玄道の長さ10m弱

前室があり
その奥に半円形の玄室をもつ








ここは
19世紀後半に重文指定とともに修復され
1936年に再度発掘調査と修復が行われた
その際
強度を保つために
一部をコンクリートで補強された
発掘調査の際に火打石や斧や土器などが見つかり
「Vannes ヴァンヌ」の街の「Chateau-Gaillard」の展示室に
展示されている

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ブルターニュ紀行 37 < オーレ > 南ブルターニュらしい穏やかな海 モルビアン湾 に沿って 1 

2021-04-28 00:34:13 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : モルビアン湾(写真提供 : モルビアン観光事務所)

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文化と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
36


南ブルターニュといえば『Golfe de Morbihan モルビアン湾』
「モルビアン湾」といえば
穏やかな海と数多くの島々と巨石遺跡
というイメージがすぐに出てくる

Photo by @GoogleMap

地図の左端に『エテル川』
その下に『キブロン半島』
半島の付け根を少し東に入ったところが「カルナック」
半島の東(右)側は『Baie de Quibron キブロン湾』
その東の岸辺から北東に狭い海峡を抜けて『Golfe de Morbihan モルビアン湾』
湾の中にある多くの島々の中で
細長い島が『Ile aux Moines 修道僧の島』
その東のやや小さい島が『Ile d'Arz アーツ島』
湾の北側の白い部分がこの地方の中心都市『Vannes ヴァンヌ』
湾の西の端の北に伸びる細長い部分が『Rivière d'Auray オーレ河』

今回から「モルビアン」湾岸をご紹介していこうと思う

まず湾の北西端「オーレ川」を遡って
『Auray オーレ』の街に行ってみよう


『Port d'Auray オーレ港』

例によって
北から来る小さな川「オーレ川」が急に広くなり
川と言ってもほぼ湾の様な
その始まりにあるのが「オーレ」


港は細長く
下流の方は町の新しい部分


奥まで入ると旧市街で
同じ港でも雰囲気が変わる
旧市街の雰囲気はとても落ち着いていて素晴らしい


川岸には旧市街を囲む城壁も見える


古い橋もある


橋を渡ると

登り坂













小高い位置にあるのが『Eglise Saint-Gildas 聖ジルダ(ス)教会』


幅の狭い正面に比較して非常に高い鐘楼を持つ




無骨そのものの重厚な厚みを感じさせる正面はブルトン魂そのもの


内陣主祭壇とルターブル(祭壇衝立)
及び
左右の小祭壇

主祭壇

西側(鐘楼下)扉口の上のオルガン

ジャンヌ・ダルク像

『定礎碑文』

1623年5月22日に定礎
1644年9月22日ヴァンヌの司教「セバスティアン・ド・ロマッド」により献堂

『Mise au Tombay du Jésus イエス埋葬像』

話変わって
ローマン・カトリックの支配に反抗する「プロテスタント(抵抗者)」の
ブルターニュに遅れてやってきた宗教改革運動がまだ続いていた17世紀前半
この地の裕福な農民『Yves Nicolazic イヴ・ニコラジック』の元に
1623年以降何度か聖アンナが出現して
自分のために存在していた聖堂の再建のことを語った
そしてある夜
不思議な松明(ロウソクという説もある)が現れ
彼と仲間数名とを光で彼の種有する一面の畑の一角に導いた
1625年3月7日から8日にかけての夜のこと

その地面を掘ると痛んだ木製の彫刻が出てきた
マリアとその幼子イエスを両膝に抱いた聖アンナに思えた

その地に昔存在していた
その奇跡が
『聖アンナの聖堂』を「バジリカ聖堂」として再建することとなった

これが
ブルターニュ全体の聖守護聖人『聖アンナ』に捧げた最も重要な聖堂となって
今日に至っている
『Basilique Sainte-Anne d'Auray オーレの聖アンナ・バジリカ聖堂』

『Basilique Sainte-Anne d'Auray』遠景

身廊が縦に長く
翼廊に幅が横に長く
鐘楼は内陣のある東側の奥に立っている

西側正面

泉越しに見る聖堂



聖堂内部に入ってみよう


長く高い身廊



十字架の交差部の主祭壇から奥の内陣には
高位聖職者や聖歌隊の席があるのもゴシックの聖堂の方程式通り


一番奥の内陣にも祭壇があり
そこのルターブル(祭壇衝立)に金張りのマリアを伴った聖アンナ像



回廊もある


回廊の周りは聖堂博物館になっていて
ブルターニュ中の各地から願掛けに寄進された歴史上有名無名の船舶の精巧な模型や絵が
飾られている


外に『聖アンナ祈祷室』なんてのもあった

『Oretoire Sainte-Anne』


このバジリカ聖堂は広大な敷地を持ち
周りは緑が豊か

その一角
聖堂を挟んだそれぞれに興味深いものが二つある

『La Scala Sancta 聖階段』

イエスの「十字架の道行き」に登場する階段に想を得て
各地に「聖階段」というものが作られている


これh1622年にカルメル会の修道僧たちの手で建設され
最初は聖堂入り口の「ポルシュ」の横に作られていたが
1870年に現在の場所「荊の園」に移された


以来
野外大ミサなどが行われる際の祭壇に使われ
ここから聖堂への行列が出発する


現在でも
膝で躙り登る苦行をする信者は後を絶たない



もう一つは
聖堂を挟んで反対側にある『Le Mémorial 慰霊堂』

『Le Mémorial Résional de la Grande Guerre de Sainte-Anne d'Auray』

人類初めての世界大戦の後
ブルトン人戦死者を鎮魂のために作られ
その後第二次世界大戦を経て
あらゆる大戦争でのブルターニュ出身の犠牲者のための施設という位置付けとなっている


背後の白い塀の向こう側が戦死者の墓地
塀の手前に
一人の兵士が代表で葬られており


敷地内には多くの十字架墓碑が整然と並んでいる


この写真はキリスト教徒のものだが
別の区画にはイスラム教徒の墓碑もある



基壇部に象徴的な鎮魂のレリーフが刻まれている



そして入り口を入ると


イエスの磔刑像を中心に
周囲にそれぞれの著名な戦いの戦場ごとの記念碑と祭壇がある






外の湾曲した階段を登ると


天井が
ブルターニュの教会の色
ブルーに染められていた


そして
聖アンナ出現の奇跡を体験した『イヴ・ニコラジック』の像が
出現した「マリアを伴った聖アンナ」の像と向かい合って建てられている




この聖アンナ像は高さ5mほどもある大きなもの


実際に出現の奇跡の起こった場所

この町の「パルドン祭」はこの位置からスタートします




聖堂の祭壇ルターブルに安置されている聖マリア像がお出ましになります

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ブルターニュ紀行 36 < カルナック の 巨石列柱遺跡 > 

2021-04-26 00:37:49 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : カルナックの『Alignements 巨石列柱』

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れる
36


今回は全編「石だらけ」の回となります
というか
「石しかない」お話です

おさらいです

①「Menhir メンヒル」
直立させた一本の長い一枚岩

『Menhir de Kelhuit à Groix』
「ロリアン」沖にある「グロワ島」の『ケルユイットのメンヒル』

メンヒルの場合
地中に埋まっている部分が正確に何メートルあるのかはわかっていない
何トンも何10トンもある細長い石を直立させる為には
それなりの基礎部分が必要であるが
数千年経ているのに掘り返して倒れると元も子もないので調査しない


②「Dolmen ドルメン」
両側のメンヒルの上に一枚岩を渡した形のもの

『Dolmen de Kélarn ケラーンのドルメン』
「法悦の聖母礼拝堂」をご紹介した「Penmarc'h ペンマーク」近くの
「Plobannalec-Lesconil」周辺にあるドルメン


③「Tumulus テュミュリュス 又は Cairn ケルン」
ドルメンを長くつなげて
その上を石のブロックを積み上げて覆ってしまったもの

『Tumulus Saint-Michel サン・ミッシェルのテュミュリュス』

カルナック地区にあり
時代とともに土で覆われたままのテュミュリュスとしてフランス最大

『Cairn de Table de Marchante ターブル・ド・マルシャンのケルン』

これは方面を覆ってしまっていた土砂をとりのぞき石積みだけの
当時の状態に戻したもの


④「Allée Couverte アレ・クヴェールト(覆われた列柱)」
チュミュリュスの覆いがほぼ消失し
トンネル状の「通路」だけが現存するもの

『Allée couverte de Locmariquer ロクマリアケーの覆われた列柱』

多少の覆いが残ったタイプ

『Dolmen (Allée couverte) de Landivisiau ランディヴィジオーのドルメン』

完全にむき出しのタイプ
この「ランディヴィジオー」は2月25日にご紹介しているが
「ドルメン」に関しては書いていません

これら
「テュミュリュス」と「ケルン」
及び
「アレ・クヴェールト」と「ドルメン」
昔から地元で呼ばれてきた呼び名が名称になっており
厳密な区分はない


⑤「Alignements 列石柱」
メンヒルを限りなく並べたもの

『Alignement de Carnac カルナックの巨石列柱』

朝霧の中の列石です


⑥「Cromlec'h クロムレック」
メンヒルを円形に並べたもの
イングランドの「ストーン・サークル」など


では
改めて『Alignements de Carnac カルナック巨石列柱』に話題を戻しましょう

この遺跡は構成される建てられている石柱の総数で世界に類を見ない


『Maquettes du Site Ménec メネック地区』 提供 : カルナック観光局

写真に写る右側の円形の建物は案内所で
屋根上のテラスに登って見ることができるが全体像など全く把握できない

「カルナック列柱遺跡」は
数百メートルずつ離れた三箇所のサイトの総称で

『Ménec メネック』
100m x 1160m メンヒル11列1099本
『Kermario ケルマリオ』
100m x 1120m メンヒル10列1029本
『Kerlescan ケッレスカン』
139m x 355m メンヒル13列555本

で成り立っている








各メンヒルは
高さ 5m〜50cm
周囲 1抱えから5抱えくらい


こんな「密」な部分もあったりする


言うまでもないことだが
これらの各メンヒルは全部一枚岩


 そして
「誰が」「いつ」「何のために」
造ったのかわかっていない
推定で紀元前3000年頃というのが研究者たちの共通認識となっている


なぜなら
放射性同位元素アイソトープで年代測定をしても
石の場合は「生成時代」は推定できても「加工された時代」の推定はできない
周辺地域にある文様が彩色されたテュミュリュスの内壁などを参考に
それらの顔料の分析から
「それと同じ時代に作られたに違いない」と思い込むしかないのだから


「何のために」
には昔から喧々諤々様々な推測が飛び交ってきた
-祭祀に使われた神殿だ
-権力者の力の誇示だ
-暦だ
-権力者の墳墓の一部に違いない
-宇宙人の仕業だ
云々

「古代の部族間の戦争で片方の王の力で敵兵を全員石に変えてしまった」
などという伝説すらある


「メネック」地区の一番起点の位置から遠くなるごとに
石の高さが概ね低くなっているが
これも
5000年の時の流れで
自然崩壊したり
壊されたり
倒れたり倒されたり
城を作るための石材として持ち去られたり
道路を作る際に撤去されたり

それ以前に
およそ規則的な形に切った石を並べたのか
手に入る石をそのままの形で大きさの順に並べたのか
詳しいことは全くわからないし
調査の仕様もない


人が写っているので石の大きさをお分かりになれると思う


左のメンヒルは
相当巨大で会ったらしいが斜めに割れて上半分は地上にある
人の手で割られなければ自然に割れることはないのだろう






この家の住民のご先祖は
家作の周囲の石は取り払って敷地を整備士畑も作ったのだろう
今では国の重要文化財でユネスコの世界遺産の一部になってしまっている





この列柱遺跡の三カ所のサイトからやや離れて
同じ「カルナック遺跡群」の一つで
『Tumulus Saint-Michel サンミッシェル(聖ミカエル)のテュミュリュス』
がある



この丘全体がテュミュリュスで
長径120m 短径60m
高度差は15mほどにも及ぶ結構な規模

頂上に「聖ミカエルの礼拝堂」を立ててあって
いつからか「サンミッシェルの丘」と呼ばれていたらしい
おそらく
誰も知らないくらい古い時代の墳墓だということは住民達は知っていて
丘全体を聖ミカエルに捧げて
悪しき現象が起こらないように鎮めたのではなかろうか


高さと方向の違う二箇所に入り口が見つかっており


それぞれ別の玄道を通って
中に一つある玄室につながっている
一枚目の写真の入り口からの玄道は上り坂になる

 『内部見取り図』 現地案内板を撮影

いずれにせよ
内部は公開されていないが
玄室からは20個ほどの石櫃が見つかり副葬品があった
それらの分析により
これは新石器時代紀元前4500年頃の墳墓である事が分かっている
ギザのピラミッドより2000年古いことになる





礼拝堂とカルヴェールは16世紀のもの



この階段は
特に下の方が痛んで崩れやすいので普段は坂道を登ることになっている




例の「泉」は下にあった


※  ※

やや離れてもう一箇所別のテュミュリュス
『Cairn de Kercado ケルカドーのケルン』

入り口は1m位しかない


しかし玄道はすでに立って歩ける高さがあり


玄室は天井高2m



そして判読しづらいが
側面には線刻文様が見て取れる


出口を振り返ると誕生が低くなる



ほぼ正円のこのケルンは紀元前4670年頃
実に古い

※  ※

また『Dolmens de Kerioned ケリオネッドのドルメン群』
ここには4基のドルメンがあり
そのうち最初のドルメンは8枚の左右のメンヒルで支えられ
内側に
非常に単純化された「斧」や「盾」や「渦巻き模様」等の線刻画が鮮明に見える







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ブルターニュ紀行 35 < ベル=イル の 注目ホテル >

2021-04-23 00:27:19 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ/ホテル
巻頭写真 : ホテル『カステル・クララ』

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう
35


『美しヶ島 ベル=イル』で一推しホテルを二軒ご紹介しよう

一軒目は歴史の空間を体感するホテル
二軒目は快適な至れり尽くせりのホテル

まず「ル・パレ」の要塞そのものに泊まる
『Hôtel-Musée Citadelle-Vauban ホテル・ミュゼ・シタデル・ヴォーバン』


そう
あの『Citadelle 要塞』自体に泊まれるのです


右奥のアーチ型の玄関を入る


まるで門衛の詰所みたいなベルボーイの詰所があって
このトンネルは結構長いのです



レセプション


ミュージアム部分の入り口






ロビーというか共用空間は


トンネルの中みたいだ





要するに
星型の要塞の構造体自体の内部をホテルにしてあるのです






一応スィート・ルームもあります





ジュニア・スイートも










バーカウンターは中世感たっぷり



レストランは夏と冬とで椅子のバージョンが変わるらしい




お料理はあ俺ほど繊細でも先端的でもなく
極めてオーソドックス





朝食はパティオで



トレーニング・ジムもあります





プールも城壁の上に




※  ※

では二軒目に移りましょう

「ル・パレ」の反対側「Bangor バンゴー」まで引き返して
野生の海岸の辺り
『Hôtel Castel Clara オテル・カステル・クララ』

Photo by @Relaisetchateaux.com




























ある日の日替わりディナーのコース

さしずめ「貝と白身の酢味噌和え」...みたいな突き出し

グリーン・アスパラガスとイカの前菜

メインのオマール海老の鬼殻焼き

フルーツのギモーヴのミルフォイユ仕立て 木苺添え


別の日の日替わりディナーのコース



ほぐしカニ身とピスタッチオのムースと白身

蛸のカルパッチオ



ア・ラ・カルトの中からいくつか

アカザエビの前菜


「グリーンアスパラの芽・小蕪・姫人参・蛸」のフリッター と うずらの卵

オマール海老のカルパッチオ

仔羊の胸肉のロースト


Photo by @Relaisetchateaux.com

Photo by @Relaisetchateuax.com

Photo by @Relaisetchateaux.com
Photo by @Relaisetchareaux.com
Photo by @Relaisetchateaux.com
Photo by @Relaisetchateaux.com


朝食は同じレベルの離れた一角で


バー兼共用空間のソファーで


目立たない隅っこに
こんな良い場所も


もちろん
外のプールサイドの並びのテラスのでも可能ですし


もちろん自分のお部屋のテラスに運んでもらうのも良し




プールは内と外と


そして
このホテルは
「Tarassothérapie 海洋セラピー」と「Spa スパ」が
とってもいいのです
海水と海藻のエキスを使ったセラピーは日頃の蓄積した疲労を取り去るのに
抜群の効果があります

終わって外を眺めながらまどろむのがまた最高




今回ご紹介したホテルは
歴史の実物に泊まる体験で「ヴォーバン要塞」
コンフォートと美味しいお食事で「カステル・クララ」
皆さまそれぞれのお好みでお選びくだされば結構かと思います
それとも

両方に2泊ずつとか。。。
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
【お願い】
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ブルターニュ紀行 34 < ベル=イル・アン・メール > 海の美しヶ島 に渡ろう

2021-04-21 00:58:57 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れる
34


キブロンをフェリーで出港し南下すること45分
『Belle=Île-en-Mer ベル=イル・アン・メール』に到着する
港の名前は『Port du Palais ポー・デュ・パレ』
直訳すると「宮殿港」だが
港のある集落の名前が『Le Palais ル・パレ』だから

港は要塞のすぐ下








上陸したら
とりあえず要塞を訪れてみよう
『Citadelle Vauban du Palais ル・パレ・ヴォーバン要塞』

その前に

Photo by @GoogleEarth

港を挟んで北に要塞南に市街地
その市街地も東西と南と三箇所は城壁が残っている
港は西側にプレジャーボートと漁船用の係留池が伸びて
西の先端は閘門で閉ざされるようになって水位を維持している

実はこの要塞は二重の空堀に囲まれている

最初の空堀を渡る



その後
堀と堀の間を歩いて内側に入る橋のところまで行く




二番目の橋を渡って内側に入る



火薬庫

分厚い壁の丸い塔である火薬庫は
周りを同じような厚い石の壁で囲んだ中に建てられている
大きなバケツの中に小さなバケツを据え付けた様な構造とでも言えば良いか


井戸も必然









城壁の上から港の方向を見る



川の様に内側に伸びている内港の方向


城塞から出て下の港の位置


そのままプレジャー・ボートと漁船用の内港につながる




 オマール漁の籠が積んであった



閘門管理事務所

途中に水量調整と歩行者橋を兼ねた閘門がある








市街地を囲む城壁の城門

『Porte de Vauban ヴォーバン門』

『Poete Bangor バンゴー門』





外側が海の部分の城壁の上に


昔の給水場があります


この「小屋」の中(むしろ下)は貯水プール


今でも澄んだ水が讃えられている










位置関係を再確認しよう
下の地図上で上からぶら下がる「キブロン半島」から
「ベル=イル」の北東部中央「ル・パレ」に着いた



「ル・パレ」から東にまっすぐ



緑のポインターのあたりに来ると
島の西の果てにポツンと白い小さな家が建っている


船上の航海者を誘惑する「サイレン」にちなんで
『Syrène de Belle=Ile ベル・イルのサイレン』と呼ばれている

ここまでくると
この辺りも侵食と風化だけで作られた造形の美しい海岸線が
絵の様な複雑な美しさを持っている



この辺り一帯は崖脳えギリギリを観光客が歩き回る
踏み分け道みたいな通路が確保されている
写真で見るより
はるかに高度があり恐怖心覚えるほどだがみんな平気で歩いている

























そしてこの場所は
「クロード・モネ」が浮世絵に触発されて描いた絵のポイントの一つ




『アール・ヌーヴォーをたどろう 3 <起源となったジャポニスム 2>』


さて
この辺りから「ル・パレ」に引き返す道に戻って
途中で北に向きを変えると



いきなりメンヒルが道路際に立っていたり


野生の雉が戯れていたりを見ながら
北西の先端『Sauzon ソーゾン』まで行くと海岸に
『Fortin Sarah Bernardt フォルタン・サラ・ベルナール』という建物がある
「Fortin」とは「Fort 要塞」からきた言葉で「ちびっこ要塞」
というようなニュアンスなので
辞書には「トーチカ」と訳してあることがあるが
「守備軍分遣隊詰所」みたいな小さな兵舎


あの「サラ・ベルナール」が50歳の時に
廃止されていたこの軍の建物を買い取って別荘に改装
その後
1922年に亡くなる前年まで
30年間にわたって毎年夏にヴァカンスを過ごしたお気に入りの場所だった

Photo by @EspaceMuséographiqueSarahBernardt







軍の分隊の駐屯ようの建物だけあって
海岸のやや内側の窪地を利用して建てられているので海側から敵船が探索しても見えない



時期になるとエリカが咲き誇る

最後に「クロード・モネ」の連作を挙げておこう
『le Pyramide de Côte Coton コトン海岸のピラミッド岩』



実景






=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 33 < キブロン半島 > 南ブルターニュの大地から 大西洋にぶら下がった盲腸みたいな半島

2021-04-19 00:27:57 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : キブロン半島の『原始の海岸線』

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう
33


巨大な「ブルターニュ半島」の南岸の中央部から
だらりとブラ下がる長細い半島
『Prèsqu'Île de Quiberon キブロン半島』

Photo by @GoogleMap

まず大陸側から細く海側に突き出してきて
ギリギリ狭くなってから
砂浜はあるものの
単線の鉄道線と道路一本で半島と繋がる


Photo by @GoogleEarth

この衛星写真では
上が大陸側で下が半島側
半島に入ってすぐ右側に要塞がある


この写真の向きも同じで要塞側から大陸側を見た角度

ということで
こ半島に入るとすぐ西側に要塞と
そこを根拠に駐屯する軍の施設や射撃場があります

『Fort Penthièvre パンティエーヴル要塞』

通常軍関係の施設や敷地は立ち入り禁止なのですが
ここは一部自由見学ができるのです
要塞が重文だからなのかどうなのか






現役兵士いた

Photo by @fortpenthievre

その半島の西側は
要塞のある『Porthivy ポルティヴィ村』を過ぎてからは
人間の手の入っていない
時間と風化と侵食の力だけで形成された
『Côte sauvage 野生の(原始の)海岸』
と呼ばれる海岸線が続く


まず出てくるのが
思わず「象が鼻岬」とでも呼びたくなってしまうような奇岩

『Arche de Port-Bara ポー・バラのアーチ』




その「野生の海岸」も
季節や天候によって見え方は全く異なる







































要塞のある村「ポルティヴィ」にある礼拝堂

『Chapelle de Lotivy ロティヴィ礼拝堂』

ポルティヴィを過ぎて
次に東側にもう少し大きな集落がある
『Saint-Pierre de Quibron サン・ピエール・ド・キブロン村』

そこの礼拝堂

『Chapelle de Penthièvre パンティエーヴル礼拝堂』

『Fontaine de St-Pierre de Quibron サン・ピエール・ド・キブロンの泉』

この泉は現役で水は清く澄んでいる

村はずれには巨大な「元」風車小屋の塔もある


もう一つ別にも



そして集落の外には巨石文明の遺跡も

『Alignement de Kerbourgnec ケルブゥルニェックの列柱遺跡』




『Dolmen de Roc'h ロックのドルメン』





『Prèsqu'Île de Quiberon キブロン半島』を南下してきて
最南端にある町『Quiberon キブロン』
の町に入る直前の海岸に城が見える

『Château Turpault テュルポー城』


実はこの城には全く歴史はない
20世紀に入ってから
中世の形式で英国風の趣味も加えて建てられた100年しか経っていない
城まがい


このブログを始めて以来
スペインやポルトガルやプロヴァンスやブルターニュやで
あれこれ「固有名詞」を出してご紹介してきた数多くの
教会や修道院や礼拝堂や城や宮殿
その他の建造物と遺跡などの中でおそらく「唯一」重要文化財ではないもの


ただ姿形と環境とがあまりにも人目をひくので
一応ご紹介しておくことにした

『Quibron キブロン』の町はビーチのある港町




ビーチの前にはレストランが並んでいる












この港から出るフェリーで
南ブルターニュで最も名高く最も人気のある島
『Belle-Île ベル=イル(美しい島)』
に渡れる



次回は
その「ベル=イル」に行ってみましょう
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
【お願い】
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【特別企画】 < パリ ノートル・ダム大聖堂の 火災 > あれから2年が過ぎた

2021-04-16 00:01:55 | 特別企画
巻頭写真 : パリのノートル・ダム大聖堂を背に飾られた
ヴェルサイユ市のノートル・ダム中学校の生徒『Annonciade アノンシアード』さんの描いた
「Cathédrale Notre-dame de Paris」


今回は
続けている「ブルターニュ紀行」を一回だけ中断して
パリのノートル・ダム大聖堂の火災を振り返る回にしたいと思います
2019年4月15日から16日にかけての夜のことでした

Photo by ⒸMarinde

2年前の4月の15日月曜日
復活祭前の一週間『聖週間』の始まりの日
午後18時20分頃の出火だったそうです
15時間燃え続け
翌16日午前9時50鎮火

Plate by ⒸSpeltdecca

身廊部と翼廊の交差する位置の屋根の上に尖塔が立っており
その修復のために根元の周りに鉄パイプの足場が組まれていた
(グレーの箱型の部分)
その辺りから出火
赤い部分が炎が回ったところ

天井は石のアーチだがその上に気の張りで屋根を組んである
十字架形の交差部の上の尖塔は
250トンの歌詞の木を組んで
表面に500トンの鉛板が貼ってあった


Photo ⒸLEVRIER Guillaume
それが焼け落ち
交差部のアーチの天井と
身廊部の一部と北側翼廊の天井の一部が崩壊した
(赤く塗ってあるところ)

Plate by ⒸWikipan


Photo by ⒸFranceinfo



Plan by ⒸSpeltdecca


Photo by ⒸINRAP

ⒸINRAP

結果として
十字架形の全部の屋根が焼失
ステンドグラスも相当数が溶解して消失してしまった
それでも
南北と東正面の3面のバラ窓は生き延びた

南翼廊側のバラ窓 火災以前

Photo ⒸEurope1

三面の中で
ステンドグラスが最も美しかった13世紀半ば以前の「北のバラ窓」も
枠から外すのが非常な困難を極めたらしいが生き延びて
修復を待っている

北のバラ窓 火災以前

北面を先に作りその後南に取り掛かったために
青色を出す原料の減少により
南は北に比べると多少赤みが強く繊細さに欠ける
(こんな写真ではお分かりいただけない)

東正面のバラ窓

東のバラ窓は三面の中では一眼最後に作られて13世紀のかなり終わり
ガラス作りの技術が進歩して
均一な厚みと歪みの減った平面と透明度が高くなった事とで
逆に神秘的な色合いが減って行き始めた頃


しかも大パイプ・オルガンが設置してあるために
円形の全形は見る事ができない

天井は
4本の柱のてっぺんからタスキ状に交差させたアーチを組んで支え
それ以外の面を埋めてゆく


その更に上部に
太い木の梁で組んだ天井を組む



800年近く経って乾ききった梁は
あっという間に燃え盛った


Photo by ⒸLe JSL

結果として屋根は消滅した
フランス北部ベルギー国境の『Nord-Pas-de-Calais ノー・パ・ド・カレ』県が
直径80cmはある樹齢160年の樫の木を
館内の11000ヘクタールの森の中から選び出し
切り倒すまで外観では使えるかどうかわからないので
長さ18mほどの梁325本分を賄えるよう
1300本を伐採して提供した

Photo by ⒸLe Point

2年経って
今日では内部に散乱した崩落した屋根の残骸や
壊れた内部の様々な装飾品などの片付けもあらかた終わり
丹念に分類して
それぞれの分野の専門家たちが修復や復元の作業を始めていると聞いた




当日から数ヶ月間は
多くの人々が集まっていた


4月16日夕刻撮影


鎮火当日
各国のテレビ・クルーが中継をやっていた
あれだけの炎にさらされて(天井の中は800度以上だったと推定)
尖塔の根元に組んであった鉄パイプの足場が解けずに
そのままの色合いで残っていたことに驚いた


詰めかけていた多くの人々は
半分ほどは呆然とし
四分の一ほどの人々は涙ぐんでいた


正面の屋根の先端があった位置で
赤い消防服の隊員がロープを垂らして何かの作業を行っていた


賛美歌『Ave Maria』が誰の口からともなく漏れ始めると
瞬く間にさざ波のように人々の間に広がって
皆が歌い始めた
私も少し胸が熱くなった

それというのも
パリの「ノートル・ダム大聖堂」は西欧文化の原点なのですから

12世紀になったころ
パリの近郊の町でそれまでに無かった形の教会の建て方が起こり
1163年パリの大聖堂の建築が始まって
その技術が確立し
その技術はパリ首都圏へ広がり
フランス各地へ広がって同じ建築理論の教会が建てられ始め
ついには国境を越えて西ヨーロッパほぼ全域に広がったことで
新しい社会規範が生まれ
その後500年間西洋の社会を形づくった

500年間続いた高度な文明社会ローマ帝国が崩壊し
ほぼ文化的にゼロに近い状態から再出発することになった西欧は
誕生から500年にして
自分たち西ヨーロッパ自身が生み出した社会構造である
『Gothique ゴシック』という文化の誕生する
雛形が
このパリの大聖堂『Cathéddrale Notre-Dame』なのです

半年ほどあとに
沖縄の首里城が焼失して
沖縄の方々は皆さん大変なショックだったと思うのですが
パリのノートル・ダム大聖堂の火災は
全世界13億人のカトリック信者の全員に
多かれ少なかれショックを与えた
大変な出来事でした

在りし日の大聖堂の姿を振り返りながら「傷跡」を辿ってみよう

教会堂は通常は十字架を地面に置いた形で建てる
頭が東(聖地エルサレム)をを向き
頭部に当たる「内陣」が完成した時点で臨時に壁を作って締め切り
神様に捧げる「献堂式」を行って
教会として使い始めながら
横軸である「翼廊」を作り足し
縦棒「身廊」を伸ばしていって
最後に「ファサード 西側」正面の入り口を開けて完成となる
鐘楼はファサードの上か
交差部に建てることが多い


十字架頭部は
内部は「内陣」と呼び
外側からは「外陣」と呼ぶ


外陣から見ると美しい
特にゴシックの聖堂は
高い柱のテッペンに斜めにかかる天井の重力を
構造全体を歪ませないように
外側に流して支える「飛び梁」が殊の外魅力的に映る



しかし
今は工事現場の管理事務所になっているコンテナーや
資材置き場などが占領していて
その光景は当分の間見ることが出来ない

その「飛び梁」は
巨大な木製の車輪の一部のような枠を作って支えてある
これから構造重量を支え続けていけるか
細かな計測を行い
修理が必要な部分を特定してゆく




現地には
作業現場を取り囲む壁に
進捗状況や内容を説明する写真パネルがたくさんあって
理解しやすいような配慮がなされている









外観で一押しの角度は以下

Pont de l'Archevéché 大司教館橋から見た大聖堂

この後方斜めから見る角度が最も美しいと言われてきました
(ちなみに後ろ姿は沢田研二さんです)


今は残念ながらこんな具合

川を挟んで南側の側面の姿も



今はこんな具合だ


2年目ということもあり
どこかのテレビが撮影をしていた

正面は

2010年12月22日 クリスマス・ツリーのある正面

現在は正面広場の途中までしか近づけないが



仕切りの壁に
パリとパリ首都圏の聖母(ノートル・ダム)会系列の小中高の生徒たちの手になる
「パリ・ノートル・ダム大聖堂」
のために描いた絵が展示してある







字数制限でこれ以上載せられないのが残念です
2024年には一般見学が出来るようにしたいと言われています
その頃には
海外旅行も復活していることでしょう
1日も早く
「パリのノートル・ダム大聖堂」の復活を期待してやみません
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ブルターニュ紀行 32 < エテル河 という名の潟 >

2021-04-14 00:55:12 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : エテル川に浮かぶ『サン・カド島』

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスでない異世界を訪れる
32



「ロリアン」から東へ15km
短いが広くて岸辺はギザギザで島だらけの川『Rivière d'Etel エテル川』の
絶景を楽しんでいただこう

Photo by @GoogleMap

地図の左端に「ポー・ルイ」と「ロリアン」がある
「エテル川」は地図の右端
普通川の名前は冠詞の「La 稀に Le」がついて「名前」だけ
ところがこの川は
ブルトン語で『Ria Etel』とわざわざ「川」をつけるので
標準フランス語でも「Rivière d'Etel」と表記し
冠詞もつかない

青の部分は水深がそこそこ深いところで
それ以外は干潮時にはかなり水が少なくなるところ



この「エテル川」で一番有名な写真がこれです
漁師の家
水深が浅そうなのがよくわかります

そして
この家の背後に見えるのが
巻頭写真にした『Ile de Saint-Cado サン・カド島』


Photo by @communes.com

ベルツ村からサン・カド島へ渡る橋がかかってる
左に「漁師の家」が写ってます



橋のたもとの右側のほぼ同じような位置から撮った次の二枚の写真で
水位の変化がお分かり頂けるはず

満潮

干潮

上の写真でも
あるいは巻頭写真でもわかるが右端に礼拝堂がある



その礼拝堂がこれで
島の名前になった聖人「サン・カド」の」献堂されている

『Chapelle Saint-Cado 聖カド礼拝堂』








この礼拝堂の「カルヴェール「は独特の作り方をされていて


「アンクロー」は無く
カルヴェールだけが三方向から登る階段の上に立ててある


礼拝堂の方から見ると
背後に民家が並んでいるのが見える



カルヴェールの十字架部

内部は非常に明るくてカラフル


玄関口の上には「Tribune 二階席」もある







川から見るとこんな風に見えて


右側の木立の間から川岸に降りられる


 岸辺にある泉に階段で降りられる様になっている





『Fontaine de Saint-cado 聖カドの泉』











しかし特筆すべきは
この礼拝堂は堂内にも泉があるのです

左下が堂内の泉




島の周囲はこんな眺めにもなる








橋で繋がる反対側は『Beiz ベルツ村』

『Mairie 村役場』

『Eglise Saint-Saturnin 聖サトゥルナン教会』



そして
結構両岸は変化もある





さらには
浅い川で海から近く干潮の際の日照りを繰り返し受けていると


自然に塩が結晶化する


岸辺だけでは無く
浅い川の真ん中ですら浮いてくる


天然塩の結晶が見られるのです





「絵のような光景」にも巡り会える


まるで若い頃の「モンドリアン」の絵の様だ


そしてお約束の「廃船の墓場」も


陸に打ち上げられたクジラの様に


いつしか骨格だけになってしまう


日本ならば
産業廃棄物の不法投棄だの何だのと大騒ぎになるに違いない



極め付けには


こうなると
サハラで見かける白骨化したラクダと変わらない






しかし
うっとりする優しい美しさもふんだんにあるのです








両岸は自然も多く
小さな村々も点在する


小川の様な支流が流れ込む

小さな村にはこんな家々も





こんな泉と


共同洗濯場が残る村もある


こんな井戸がある家もあったり


ポンプ式の共同井戸が有る村もある



プルゥエネック村の『聖ギヨーム礼拝堂』は美しい


『Chapelle Saint-Guillaume de Plouhenec』


もちろん巨石文明の遺物も

『Dolmen de Kerlutu ケルリュテュのドルメン』


『Dolmen de Kerhuen ケルユーエンのドルメン』



これは牡蠣の養殖場に行く作業船だろうか
河口には確かに養殖場はある


川岸に


「牡蠣(売ります)」という手書きの看板のついた家もあった

そして
河口は川が運ぶ砂が微妙にあちこちに堆積し
打ち寄せる大西洋の波が水面下に複雑な変化をもたらす

河口

半世紀に一度くらいの割合で
深刻な海難事故が起こってきた歴史がある

では今回はここまでにしましょう
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ブルターニュ紀行 31 < ロリアン 3 汎ケルト民族フェスティヴァル > 

2021-04-12 00:15:12 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『ロリアン  汎ケルト民族フェスティヴァル』のパレード


荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れる
31

実は
『Organisation Céltique ケルト民族機構』
という組織があります
正式メンバー「ケルト民族国家」6カ国で構成
北から
「南部を除くスコットランド」「アイルランド」「マン島」「ウエールズ」「コーンウォール」
「ブルターニュ」
そして準加盟国として
北スペインの「アストゥリア」と「ガリシア」
オブザーバーとして「ケベック」
で構成されているようです

シンボルの旗もあります


上段の左から右へ
「ブルターニュ」「マン島」「スコットランド」
下段左から右へ
「アイルランド」「コーンウォール」「ウエールズ」
中央はケルトのシンボル『三つ又巴』

そもそも『ケルト民族』というのは
イタリアのエトルスク人が青銅器を使っていた2500年前に
現オーストリアの『ハルシュタット』で岩塩が取れることで人が集まり
さらに鉄器の使用が起こって「鉄器文明」が始まり
そこから西欧へ進出していったハルシュタット人たちの子孫のことです


黄色がハルシュタット文明の中心
薄緑から緑そして濃い緑との順に辺境になってゆきます

当時の西欧は森しかないところで
散り散りになって広がっていったハルシュタット人たちは
ケルト人と呼ばれるようになり
お互いの繋がりも関係性もなくなって文明としての求心力を失っていった結果
ローマに征服されてしまうことになる

ケルト族の典型的な兜

巨石遺跡によく見られる文様

この文様が「三つ又巴」に収斂されて行く


こういうヴァリエーションも生まれ


これがさらに複雑に四つ又となって
「ケルト十字架」へと繋がってゆく



この『ケルト十字架』は
キリスト教文化の十字架の変形ではなく
起源はもっと古い

ちなみに
フランスあたりの彼らは「ガリア人(仏語でゴール人)とよばれましたが
地域によってバラバラな勢力に過ぎず
ローマの勃興とともに滅ぼされたり同化させられたりして
ローマ人による広大な新しい文化圏の形成とともに
独自性が消えて行きました
辺境を除いて

と言う事で緑と濃い緑の地域だけ
言語や風習などの「ケルト文化」が残ったのです

もともと20世紀になってブルターニュでは
自分たちの起源に重きを置いた文化人たちが「Cercle Céltique ケルト・サークル」
という運動を起こして
各地で祭りをを開いて自分たちの言語や音楽を再認識して残して行く文化運動を
行っていて
そこから「Organisation des Nations Céltiques ケルト6カ国の組織」が
作られていきました


青 『スコットランド』
緑 『アイルランド』
(小さな)橙色 『マン島』
赤 『ウエールズ』
黄色 『コーンウォール』
黒 『ブルターニュ』

そして
ここ「ロリアン」では戦前からほぼ毎年『Féstivale Céltique ケルト祭』という
他の5カ国も参加するイヴェントを大々的に行ってきたのです

公式パレードの出発からどうぞ


6カ国の国旗が先頭です

フランス海軍ブルターニュ師団

ウエールズの団体






カンペルレの団体




















やがて大観衆と一体になって



メイン会場である野外ステージの広場に集結




ライヴ・コンサートに突入






ステージでも






別の場所の小ステージでも





体育館ではダンスパーティーも



プレジャーボート・ハーバーの前では海軍軍楽隊が




スタジアムでも



ゴルフ場でも



コンサート会場の周囲には
お食事処や



模擬店もたくさん出ます



ソーセージを焼いてたり




そば粉のギャレットはブルターニュですから必須アイテム

夜の帳が下りる頃から
大ステージでも







小ステージでも




参加国の有名ミュージシャンやバンドが続々登場




各テーマごとのグランプリが競われます

誇らしき受賞者

老いも若きも老若男女の笑顔があふれます







準オブザーバー地域中南米の
キューバからも



『ロリアン 汎ケルト・フェスティヴァル』
毎年8月に開催され
80万人が集います
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 30 < ロリアン と その周辺 2 > 海とケルト文化に生きる民

2021-04-09 00:07:27 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : ポー・ルイの岬の先端に突き出す城塞『Citadelle de Port-Louis』

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れる
30


「ロリアン」の対岸に突き出す小さな岬の町
『Port-Louis ポー・ルイ』
をご紹介します

Photo by @GoogleMap

「ポー・ルイ」の一番先端に
「ヴォーバン型の城塞」がある
ちなみにそこから真北の小さな島に向き合う緑色に塗られている場所が「ロリアン」
何か書いてあるところが「潜水・潜水艦博物館」



Photo by @Bretagne.com

町は海水浴客で賑わう


町の雰囲気も開放的でとても良い






『Eglise Notre-Dame de l'Assomption 被昇天の聖母教会』


しかし
この町は何と言っても「海と城塞」で成り立っているのです





二番目の跨堀橋

大手門

大火薬庫

小火薬庫

実は
現在この城塞の中は『インド会社博物館』になっている

16世紀は大航海と発見の時代
17世紀になるとアフリカ航路で東廻りで東洋貿易を拡大し
 ポルトガルとイングランドと
新たに海外貿易経営に参画してきたオランダなどと競って
利益を確保するために
各国は挙ってインドに出先機関としての代表部を開設していった
いわゆる『インド会社』




フランスは1653年ルイ14世の宰相コルベールによって創設され
東北インドの「シャンデルナゴール」に進出
18世紀に入ると『東インド会社』と組織改編する

そのフランス本部が
ここ「ポー・ルイ」に置かれたのです


従って
この場所が『(東)インド会社博物館』となった






博物館としての展示内容は
設立者や運営責任者などと船団を率いた提督や出先の管理責任者など
人物紹介と来歴の資料と説明
輸送手段であった艦船の種類や特徴と建造方法及び経歴と模型の展示
アフリカ・アラビア半島・インド・中国ごとの
交易内容と取り扱った製品などの資料と説明と展示
などが中心
















甲板と船倉の構造と荷積の様子












船舶建設の様子

以下は中国の工芸品と物産



中国製のシルクで作られたドレス




オランダ東インド会社のロゴ入りで発注された磁器の壺


















アラビアの工芸品も







そして日本も少し


アフリカも

アフリカの金細工『奴隷を斬首する権力者』

そして
時代を超えて貴重な商品は香辛料だった

香料

大西洋横断以前は
シルクロード経由で運ばれる「胡椒の1ポンドは金1ポンド」と言われた
大西洋横断に成功したスペインが中南米の胡椒を独占
それに対抗するために各国は
アフリカ回りインド洋経由の新ルートを開発
一気に香辛料が手に入りやすくなったとはいえ
依然として高価で利ざやの大きい商品だった


17世紀後半からアラビア経由で西欧も
「コーヒー」「茶」「ココア」
を飲むようになり
お茶の輸入合戦も激しくなってゆく

そのような背景で
船団を組織できる大船主は
戦時にあっては王室海軍に組み込まれて提督として働き
平時では
航路で出会った他国の輸送船を襲って富を稼ぐことを
国王から「特許状」」を得て常態化していた
イングランドの『ジョン・ドレイク』や
フランスの『ロベール・シュークゥ』などは有名
イングランドもポルトガルもスペインもオランダも同じことを行って
それらの武装輸送船を『私掠船』とよぶ
北ブルターニュの「サン・マロー」や「ロスコフ」を拠点に
私掠船が活躍したことはすでにご紹介した通り


『Boulongne Fuite ブゥロンニュ・フュイット号』

『Beaumon ボーモン号』

『Le Soleil d'Orient 東洋の太陽号』

上の三隻は名高い私掠船(高速フリーゲート艦)の模型



これらの戦斧は
他国船に乗り移って襲撃する際に用いられたもの



西アフリカでは
他部族を征服したがっていた『ダホメー族』に銃などを与えて
その代わりに
捉えた捕虜を銃の代金として受け取っていた


西アフリカの黒人を奴隷として新大陸に売るために運ぶ油槽船
一番下の船底と一つ上の甲板に
奴隷たちを「積む」やり方の図解

フランスには奴隷制度はなかったし奴隷もいなかったが
奴隷貿易で財をなした商人たちは存在した



南インド『ポンディシェリィ』の岸壁のフランス東インド会社の建物


嵐と戦う輸送船


伝聞と想像で描かれた「インドの風景」の壁紙

これも同じインド文様の壁紙

非常に興味深く
フランス人の異民族文化の工芸品への目利きの水準の高さがよくわかり
かつ資本主義の醜さと残酷さを教えてくれる博物館だと言える

建物を出ると城塞の城壁の周りを歩こう
ほぼ300度くらいは回れる
眺めが変わってゆくのを楽しむのも良い


城壁の「通用門」からビーチに出られる


よくぞ作ったり
と思えるほど広大な構築物なのです

そして


対岸から見るのも美しい
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ブルターニュ紀行 29 < ロリアン と その周辺 1 > 海とケルト文化に生きる民

2021-04-07 00:13:41 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : ロリアン『汎ケルト諸国フェスティヴァル』のコンサート会場

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスで無い異世界を訪れよう
29


『La Blavet ブラヴェ川』と
『La Scorff スコルフ川』と
『La Ter テル川』とが
海に流れ込み複雑な入江を形作る大西洋沿いに
『Lorient ロリアン』
7〜8の自治体が形作る港湾都市圏がある




Photo by @BretagneCinema

右手前の先端に要塞のある部分は『Port-Lous ポー・ルイ』
と言う自治体で
その岬が向き合う左側が『Larmor-Plage ラッモル・プラージュ』
その上の密集地が『Lorient ロリアン』
その北側を右の湾から西に「スコルフ川」
写真右端の小さな岬も上に東に入って浮いく「ブラヴェ川」

「ロリアン」だけの人口は6万人ほどで典型的な地方の中都市だが
周辺を含む広域都市圏は15万人ほどに膨らむ

軍港でもあったこの町はドイツ軍に占領されており
1940年9月の英国空軍による空襲から
43年まで何度も繰り返し空爆を受け多くの
家屋と教会とが破壊され消失した

Photo by @Partimoine.Lorient.bzh

従って「旧市街」てきな雰囲気はほとんど残っていない
中心街も建物は皆新しい

『Rue du Port 港通り』

そして
町の主だった施設も皆新しい

『Gare de Lorient ロリアン駅』




『Grand Théatre de Lorient 市立大劇場』

『Médiathéque François Mitterand ミッテラン記念図書館』

『Hôtel de Ville 市庁舎』

『Cité de la Voile Eric Tabarly エリック・タバッリー帆船センター』

ここはブルターニュ出身の海軍士官で著名な外洋レーサーだった
「タバッリー」の名を冠した
ヨットの建設方式を古代から辿り
現代の国際的外洋ヨット・レースの沿革と競技方法の解説
などを行っているライヴ・ミュージアム

さらに一つユニークな施設がある
戦前戦後の潜水艦工廠とドックを利用した
『Musée Sous-marin 潜水博物館』

『Bunker des Sous-marins 潜水艦格納庫』

この博物館は
潜水と潜水作業や海底の実態
及び
潜水艦の歴史を資料と映像を使って解説し
実際の潜水艦の展示で構造なども見るkとができる博物館



格納ドック



実際の潜水艦を保有する『K2ドック』









内部も見学できる

魚雷発射管室

持ち場の就寝用ハンモック

探査室

操舵ポスト

注排水コントロールバルブ

中央通路

天井の各種配管

ところでこの「ロリアン」では
ブルターニュ最大の「汎ケルト・フェスティヴァル」がおこなわれます

ケルト諸国の国旗パレード

このフェスティヴァルは後日一項を挙げてご紹介します


※  ※

都市交通や道路管理などの広域都市行政を行う
「ロリアン広域都市圏」では最北端の
『Hennebont エンヌボン』
に行ってみよう


1kmほどの幅で10kmばかり遡った「ブラヴィエール川」が
狭くなるあたりにこの町はある


ここは未だに城壁の残る城郭都市


城壁が旧市街に素敵な情緒を添える






城壁の要所を締める防御の塔と
その上に乗る物見(ものみ)の台

同 拡大


別の物見台





大手門
旧市街は今でも城壁で囲まれている

大手門 内側



武装城門
脇門だがかつては跳ね橋が備わっていた

通用門


民家





城壁の外に広がる新市街に教会がある


『Basilique Notre-Dame de Paradie 天上世界の聖母バジリカ聖堂』

身廊から内陣を望む

内陣と主祭壇

『Notre-Dame de Pitié ピエタ』





外壁上部に取り付けられている『Gargouille 魔除け兼雨樋』が
実になんとも素晴らしい
特にこれは
本来雨水が垂れる口元から雑草が生えて
あたかも怪物が火を吐いているごときに見える偶然の結果がいおもしろい









この「エンヌボン」の町の二大イヴェントは
ブルターニュの主要な町では必ず行われる年に一度の「ケルト音楽パレード」
中世都市を唄うこの街独特の「時代祭」



ケルト民族音楽パレードは
多くのブルターニュの町で繰り広げられる



「時代祭」には大勢の観光客が集まる


 ※  ※

ついでに
「エンヌボン」から北西に数キロ
「スコルフ川」沿いの『Pont-Scorff ポン・スコルフ』
まで足を伸ばしてみよう


町に名の通り
「スコルフ川」と「橋」の組み合わせ



橋のたもとには
礼拝堂の正面の壁面のような廃墟がある


柳瀬でも作れそうな堰がある



家並みはそこそこ古い民家が並ぶ
そして
それほど古いものではないが礼拝堂もある

『Chapelle Notre-Dame de Bonne Nouvelle 吉報の聖母礼拝堂』


正面ファサード

内部



古い館もある


続きます
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
皆様の「ご感想」「ご意見」「ご要望」「共感・反菅」などをお待ちしています
旅行の具体的な計画や手配などにご興味のある方は以下のサイトにもどうぞ
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ブルターニュ紀行 28 < ランゴネット と ケルナックレーデン > 

2021-04-05 00:00:02 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 :  ケルナックレーデンの聖母教会の鐘楼(部分)

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界をめぐる
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「ル・ファゥエット」からもう少し北へ10kmほどに
『Langonnet ランゴネット』
その町に
教会が二つ と 修道院が一つ が
注目される

まず
『Eglise de la Trinité 聖トリニテ(三位一体)教会』
16世紀の建立

『Eglise de la Trinité de Langonnet ランゴネットの聖三位一体教会』
南側

後部礼拝室

北側





祭壇




壁の扉上のアーチの斜め上にあった装飾
例によって表情など極めて素朴だ

天井は珍しく無彩色


修復中かと思った

カペー王朝の王権の全国浸透とともに全土に広がっていった
ゴシック様式の教会堂ならば
この骨組みが全部切石を組んで作られた
アーチの骨組みの間も石で埋めて天井を組んだ


このように木材で作ら手た骨組みを見ると
ゴシックのアーチ構造がよく理解できる


この部分の天井はアーチの骨組みを交差させていない
単純な形で
骨組みの間も全部塞いで天井が完成している
これから彩色する予定なのかもしれない


かつての彩色の後がわかる
木の壁の木製の聖人像

これまでにご紹介してこなかったかもしれませんが
エンクローの敷地内に泉があることが多いのです


ここの泉は
噴水口が一見椅子のような形をしている
これもユニーク







二つ目の教会は
『Eglise Saint-Pierre et Saint-paul 聖ペテロと聖パウロ教会』
12世紀建立 16世紀改修



正面全景



アンクローの「勝利の門」


「納骨堂礼拝堂」の扉口


身廊全景




創建が12世紀と古いので
壁やアーケード表面の傷んでいる所を漆喰で固めた補修が行なわれている
そのために
極めて「白い教会」のイメージになっている






12世紀ロマネスク時代の線刻装飾



時代的な特徴もあって
極めてユーモラスな表現の人物(聖人)像
線刻文字も保存されている

そして
「Langonnet ランゴネット」の町自体のはずれに
『Abbaye de Notre-dame de Clarté 光明の大聖母修道院』

中央玄関

回廊



修道院には必ず回廊があり
回廊の四辺のうちの一辺には『Salle Capituraire ( Salle des Chapitre) 運営会議の間』がある
その入り口



運営会議の間

回廊のアーケードの作りは17世紀風に改築したのだfろう
運営会議の間はゴシックの時代のまま

同 ディテール


同 逆向き

この修道院は全き沈黙の緑の只中にある
渓流が敷地の縁を洗う

『L'Ellé エレ川』

敷地自体も広大で


修道院の建物自体まで美しい並木が誘う


建物自体が緑の中に埋もれているかのようだ


広大な敷地を囲む塀というには大げさな囲いの縁に
泉もある





※  ※

この辺りで
また海の方角に南下しよう
「ランゴネット」から南東に15kmで『Kernascléden ケルナックレーデン』

その町の教会
『Eglise Notre-Dame de Kernascléden ェルナックレーデンの聖母教会』
が特筆に値するのです


正面は見慣れた感じがする
ただ側面は西半分と東半分とで印象が異なる


南側側面

鐘楼とポルシュと翼廊とを持つ西側半分は
玄武岩でいかつい

南側側面の西半分

祭壇を持つ東側半分は
白い石灰岩

実は
翼廊部を挟んで左右にポルシュがある

南側側面の東半分

北側の西半分


北側の東半分

入り口例によって南側の鐘楼近くにメインのポルシュという定番



ポルシュ

ポルシュ上部 破風のディテール





ポルシュ内左の壁の壁龕の聖人像

ポルシュ内右側壁面の壁龕の聖人像

内陣側の小さい方のポルシュは






内陣の天井のフレスコが素晴らしい

















壁には「地獄絵図」のフレスコの痕跡も







主祭壇

フランスの守護聖人 『Sainte-Jeanne d'Arc  聖ジャンヌ・ダルク』




外装もじっくり見たいところですが高すぎて見えない部分ばかり






gargouille 雨どい兼魔よけ


=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
ご意見ご感想をお寄せください
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ブルターニュ紀行 27 < ル・ファウエット > 

2021-04-02 00:48:01 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : ファウエットの『サン・フィアックル礼拝堂』

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
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海から少し遠ざかり
「ポン・タヴェン」から北東へ30kmほど行くと
『Le Faouët ル・ファウエット』という村に至る

この町には面白い施設があるんです
『Musée de l'Abeille Vivante et la Cité des Foumis』
「生きた蜜蜂と蟻の博物館」


ここは
「蜜蜂」と「蟻」と「カミキリムシ」などの昆虫類の
種類や生態などの説明と観察
養蜂の技術や歴史の展示と実演
などを
見て聞いて部分的には触って理解出来るライブ・ミュージアムなのです















ロゼール地方の養蜂巣箱
樫の木の躯体に鉄平石の蓋


ランド地方の巣箱
ドロ塗りの植物の茎の編み込み


ソローニュ地方


コレーズ地方の巣箱
木製の箱に編み物の蓋






それから
15世紀末から16世紀初頭の完全な形で残る「市場」の建物が素晴らしい


構造は樫と一部樅の木



おおよそ
50m x 20m


ブルターニュで一番最初に国の重要文化財に指定された市場建築

この町の教会はこれ

『Eglise Notre-Dame de l'Assomption 被昇天の聖母教会』










さて
ここまでは前置きと言う事にして
この町には二つの名物礼拝堂があるのです

一つ目
『Chapelle Saint-Fiacre 聖フィアクル礼拝堂』


正面の鐘楼を含む三基の尖塔がとってもユニーク






ポルシュの左右の壁龕には諸聖人の像はもはやない
あるいは最初から作られなかったのか
それより
この礼拝堂の最大のポイントは「Jubé ジュベ」なのです
プロワンスめぐりの際に
どっかでジュベのご紹介はしました


身廊から内陣に入る位置にある装飾した仕切り壁




身廊側から見たジュベ



逆から見た裏側





左端の天から舞い降りてくる天使の姿が美しい








地獄で怪物を食らう罪人の顔がなんだか嬉しそうにも見える




上部には必死でしがみつく人
下には転落する人







イエスと同じ場所で十字架刑に処せられた聖アンドレ


重圧を支えるのは決まって愚者


教えに背いて悪しき行きまたをしていると
こうなる


仕切り自体


外の陰に
ブルターニュ公国の紋章の「ミンクイタチ」


サン・フィアクルの泉もちゃんとあります




そして
もう一つの名物礼拝堂は
『Chapelle Sainte-Barbe 聖バルブ礼拝堂』



非常に微妙で不思議な立地で
低い山の斜面のギリギリ麓近くに立っているのですが
車を降りて
階段を登っていくと右に小さな祈祷所があり
そのまま進行方向に今度は階段を下って聖バルブ礼拝堂に至る
ちなみに
右に小さな祈祷所の見えるところまで登って
左に階段を曲がって登ると山の茂みの中に入って
展望台のように開けたところに出る


小さな祈祷所は『Oratoire Saint-Michel 聖ミカエル祈祷所』
と名付けられている

聖ミカエル祈祷所


この角度で見ると
結構高いところにいるように見えるが高山では決してない

ちなみに交差する階段の下は



上に登って行く道の階段が下を潜り抜ける
上の階段の交差部から「サン・ミッシェルの祈祷室」を右に見ながら


真横に降りるのですが
礼拝堂の方向に降りたすぐの斜面に「聖祠」がある

その真上が展望所


そこに小さな鐘楼があります
4本の四角い石の柱で支えられた屋根の真ん中に鐘が下がっているのです






実は階段を上り下りしなくても
下の坂道の階段からも行けることは行けるのですが


 なぜにこんな狭苦しい空間の使い方をしたのだろう
こうやって
人を画面に入れて撮ると礼拝堂がそんなに小さいわけではないことが
理解できます

この礼拝堂は
内部には見るべきものは殆ど無いが



丹塗りの剥げかかった医師の天井がある
それに
木の扉のレリーフの天使たちが


衣の襞の表現など
鄙にも稀なルッネサンスの見事さは特筆に値する

そして
お約束の泉は上の高台に


『Fontaine de Sainte-Barbe 聖バルブの泉』

龕の中央は当然『聖女バルブ』の像だが首がなくなってしまっているのが残念だ

その高台には
寺守り(管理者)事務所兼住居があり
売店にもなっている



では今回はこのくらいで
次回をお楽しみに
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
皆様からのご感想やご意見をお待ちして居ります
お名前の所はニックネームややハンドルネームで結構です
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