行ってみませんか... こんな 素敵な世界へ

好奇心旺盛な長年の体験で、行って、見て、食べて、泊まった素敵な世界を、皆んなにちょっぴりお裾分け...

ブルターニュ紀行 13 < フランス北西の玄関 ブレスト > 荒海の地の静かな港

2021-02-26 00:18:47 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : Océanopolis (水棲動植物館)の「ホッキョクグマ」

荒海と信仰とケルト文化と巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう
13


ブルターニュ半島の最西端は
大きく分けて
南北に三つに枝分かれしている
その一番北の部分と中央の部分とに挟まれて




それぞれの海岸線は土地が非常に不規則に千切れていて
北と南の大きな枝に守られて
真ん中に嵐から守るように地形に囲い込まれた港がある
『Brest ブレスト』


港まつりに集った帆船の一隻

まずブルターニュの天候の特徴を理解して欲しい
特に冬季に大西洋上に巨大低気圧が発達し
左回りの腕の先端が
フランス北西の先端の角『ヴルターニュ』をかすめてゆくことが多いのです

photo by ⒸNASA Worldview

右端に離れた逆くの字の白い部分がブルターニュ辺り

年に数回の大潮の際に悪天候での満潮時には『サン・マロー』の海岸通りなど
こうなります



そんな条件下で
『ブレスト』の位置は二重三重の防護をまとった港として
フランス北部の軍港としての役割を不動のものにしてきました

1637年ルイ13世の御代宰相リシュリューが軍港を開く
1857年ナポレオン3世の援助で商業港が開設



フランス海軍探査ヘリがいたりします





乾ドック 1

乾ドック 2

乾ドック 3

『Atelier des Capucins 旧海軍工廠』

ここ「カプサン会」の丘に17世紀末にヴォーバン元帥の手で僧院ができ
革命中に革命政府海軍兵舎が入り
1841年に『フランス海軍工廠』となり2004年まで使われた
その後
複合文化施設に転用

車やトラムでもいけるが
ロープウエイで行く事が好ましい
港を鳥瞰できる




鉄を溶かす「溶鉱炉」やあらゆる工作機械が撤去された
建屋の一つ

2011年に土地ごとブレスト市が買い取り
衣替えが行われた結果


上の写真の建屋はこうなり


「美術館」「文書保存館」
「IT図書館」「音楽学校」「劇場」
などが入った複合文化センターとなった

ホールでのダンスのパフォーマンス

IT図書館の閲覧室


カフェ

外のテラス




ところで
湾に面する広大な港湾施設から
ドックや工廠などのある内港に入る左右に
昔からの塔と城塞とが残っている


左に『Tour Tangy タンギィの塔』
右に『Château de Brest  ブレスト城』の石垣
が見える

『Tour Tanguy タンギィの塔』

百年戦争序盤の1380年代終わりにブルゴーニュ公爵ジャン4世が
ブレスト城を占領していたイングランド軍に対抗するために建てた2つの塔の一つ
イングランド軍ランカスター公爵に破壊されたがより強固に再建
90年代にイングランド軍は退却し
その後塔は地元の武将タンギィ家の手に渡り
以来この名で呼ばれる
1980年代に市が購入し大改修を行って現在は市の歴史博物館

城下埠頭

港まつりの日

「タンギィの塔」から「城」を見る

「城」から「タンギィの塔」をを見る

『Tours de Paradies 天国の門』という名の大手門


「天国の門」を内側から見ると平になってる

中庭
城の中は「海洋海事博物館」になっている



イヴ・コレ作『海神ネプチューン』
イヴ・コレは18世紀後半から19世紀前半に活躍した
ブレスト生まれの彫刻家

1930年代の大型駆逐艦『ヴォークラン号』の操舵パネル(本物)



潜水艦 POCHE S 622
この港湾警備用小型潜水艦「ポッシュ型」は4隻建造され
この『S622』は
アメリカ海軍の要請により米国に貸し出され
サンディエゴで60回ほどの作戦行動を行ったのち
戦後フランス海軍に返還され
一般広報用に放出されたもの





ブレストは
対戦中占領していたナチス・ドイツ軍に対抗する米国の空爆などで
かなり被害を受け
街中は再建されて新しい

市役所前を走るトラム



『ブレスト大学文学部・尋問科学部校舎』

文化財級の建物といえば

『Maison de Crosnier クローニエ館』
アールヌーヴォー期の建築で
ブルターニュの二箇所の産地の花崗岩と
一箇所の石灰岩(非常に少ない)と煉瓦とで建てられている


『Maison de la Fontaine 泉の家』

ブレスト周辺でもっとも古い家の一軒
17世紀末から18世紀初頭にかけての建築



かつての海軍兵舎の一部にあったポルシュの名残
移築されて海岸同地にある


海軍工廠になる前の
最初の僧院時代の神学校の門

ところで
新しいものといえばこれも是非あげておかなければならない
『Océanopolis 水棲動植物館』


ここは
古典的な意味での水族館に
水棲動物と熱帯雨林やマングローブなどの水棲植物を集めた部分とを融合させた
大規模「ライブ・ミュージアム」なのです


このような伝統的な水槽から
巨大水槽
大型小型魚類
烏賊・蛸・蟹・海老・雲丹・磯巾着・海月・ウミガメ
などなど
さらに
イルカ・ペンギン・アザラシ・ジュゴン
果ては
ラッコ・ホッキョクグマ
に至るまで何でも取り揃えて皆様のお越しをお待ちいたしております
なのです




















もちろん
このブレストは軍港だけではありません

まず新造民間船の進水前の艤装ではフランスで一番の扱い高ですし
商業港としての機能も大きい
大型客船も来る
プレジャー・ボートの停泊数も大きいんです



最後に興味深いものを一つご紹介しておこう
『ブレスト地下火力発電所』


戦後間もない頃
ブルターニュの発電量が需要に対して下回るようなことがあるときの
緊急給電ようとして火力発電所を計画した
戦争体験から
その発電所を破壊から守れるように
岬の岩盤を掘り抜いて「地下発電所」にした
建設はフランス海軍の協力のもと1947年から1951年にかけて行われ
1961年に
外側にガスタービン発電機を増設(写真で分かるとおり)
主な顧客がブレストの海軍工廠だったことからも
「地下式」などという難工事を選んだ理由が推測できる

1986年で操業停止となった

おまけ

『Joseph William Turner " Port of Brest The Quayside and Château』1826〜28
=   =   =   =   =   =   =   =   =   =
ご感想ご意見ご要望をお待ちしています
旅行の実態にご興味のある方は以下のサイトも御覧ください
https://veritas21.com  『こんな旅がしてみたい 誰も真似のできな』

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルターニュ紀行 12 < ランディヴィジオー と ランデルノー > エローン川に沿って 徐々に西の果てへ

2021-02-25 00:06:43 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『上に人の住む橋 呼ばれる ド・ローアン橋』ランデルノー

荒海と信仰とケルト文化と巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう
12


先回の「ギミィヨー村」のすぐ北西に隣接するほどの近さで
『Landivisiau ランディヴィジオー』

この村は見るべきものはさほどないが唯一
やはり教会だ

『Eglise Saint-Thuriau 聖テュリオー教会』

この教会の尖塔は殊の外細くて高い



ポルシュ

「ポルシュ」とは英語のポーチで
入り口の囲い部分
左右に壁があり前方が扉で入り口には扉がない

ちなみに
入り口にも扉があれば「ナルテックス」と言います


ポルシュ入り口左の柱部分




右の柱部分



ポルシュ屋根部分の装飾



 このポルシュを入る時両側で聖人たちがお出迎え

左壁

右壁


身廊

天井が赤いのが新鮮だ

内陣

内陣突き当たりに
かなり大規模なトリプティック(三折祭壇画)がある

あまりない数少ない壁の装飾


中央の大天使聖ミカエルに護られた幼子イエス
左に聖母マリア
右に当時のレオンの司教


中央の」十字架から降ろされたイエス
左右は不明


『大天使聖ミカエル』


『Chapelle Sainte-Anne 聖アンヌ礼拝堂(旧納骨堂)』

この教会のアンクロはそれほどのものではないが
納骨堂はちゃんと残っていて
いつしか礼拝堂に帰られていた

同 側面


ここのアンクロだった柵の一部に噴水(フォンテーヌ)がある





鉄器時代からの湧き水らしく
5世紀に修道院が作られた際に修道院の取水口となり
その後
村の共同洗濯場などに利用されていった

















※  ※

さらに村域内の『Commana コマンナ』地区に
「アンクロー」のみるべき教会が一つある

『Enclos paroissial de Commana コマンナ教区アンクロ』

『Eglise Saint-derrien de Commana コマンナの聖デリエン教会』後陣からの姿

本当はそうではないのだが二身廊形式の様に外陣が二つある
文字数の制限で書かなかったが
昨日の「ギミィヨー」の教会も二身廊の様に見える造りだった

南のポルシュと尖塔

この角度から見ると
上でご紹介した『ランディヴィジオー』とそっくりだが
ポルシュ上部の造りなどこちらの方が複雑で重厚


内部の様子も
今までのものと似た雰囲気で共通点が多い


身廊



右副身廊と側廊

南副身廊のルターブル


南翼廊の礼拝堂のルターブル





左(北側)副身廊

左副身廊のルターブル

同 ディテール

同 ディテール


『洗礼水盤と天蓋』

天蓋の支え柱


そしてお約束の『カルヴェール』です




「カルヴェール」は今までのところよりはるかにシンプルですが
普通はこの程度です
これでも全国的にブルターニュ以外では見られない十字架なのです


納骨堂を背景にカルヴェール

納骨堂

同 ディテール




アンクローの外から
『勝利の門』『納骨堂』『教区教会』
を振り返る

※  ※

では
ここからさらに西へ『エローン川』に沿って15kmほど
『Landerneau ランデルノー』
まで行ってみよう

この光景が
この町で一番名高い光景


「人の住む橋」
という別名で呼ばれる『Pont De Rohan ド・ローアン』橋

見ての通り
家が橋のように川をまたぎ
水は下を流れる


この橋は1510年にそれまでの木造の橋の代わりとして架けかえられた
すぐに橋の上に商店が二軒建ち上階には人が住み始め
橋の中央は水車小屋ができた
水車の建物の上も住居となり
漁業代官所やふた部屋の牢獄すら置かれたそうだ

以来500年間
未だに人が上に住むヨーロッパで唯一の橋として今日まで続いている
1639年には裕福な貴族が
橋のかなりの部分にルナッサンス様式の館を建て
店舗は舞踏会場となった


19世紀には公衆浴場も作られたとか

反対側から見ると


一部こんな具合の「Ardoise 粘板岩」の瓦を張り巡らせた家が
並んでいて
それはそれで興味深い

そして現在は横に新しい橋が架けられて
両岸を簡単に行き来できるようになった

『Maison Guillard ギヤー邸』

この家は「橋の上」の家の一軒


やや引いて見る

「アルドワーズ」葺きの古民家といえば
町中にこんな家もある

『Maison de la Duchesse Anne アンヌ公妃の家』

名高い最後のブルターニュの女性公爵の名前が付いており
別名『ド・ローアンの家』とも呼ばれる

横から見ると規模がわかる



アルドワーズといえばこんなのも




その他特徴ある文化財級の建物といえば

『Maison Duthoya デュトヤ邸』

裕福な船主出会った「デュトヤ」家の建物
この辺りに来ると
黄色とグレーと赤に近い3種類の花崗岩玄武岩が取れ
混じり合って使われている

その他にも




では
今回はここまでにしましょう
=   =   =   =   =   =   =   =   =
皆様のご感想ご意見その他何でもお待ちしております
PCでご覧の方は右下の「コメント」ボタンから
送信フォームに入るた「コメントを送信する」におすすみください
旅行の動きや手配などの関心がおありの方は以下のサイトも御覧ください
h『こんな旅がしてみたい 誰も真似のできない旅のプランナー』

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルターニュ紀行 11 <サン・テゴネック と ギミィイヨー> で カルヴェールを識ろう

2021-02-24 00:06:25 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : ギミィイヨーのカルヴェール(部分)

荒海と信仰とケルト文化と巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう
11


ここらで海から離れて内陸をご紹介してみよう

キリスト教化がやや遅れた事と
イタリアからの使徒に布教された南部や中央部と違って
ブリテン島からケルト人の教徒が布教に来て
ケルトの価値観が入った宗教観を
ケルト人のブルトン人(ブルターニュの民)が受けた
というニュアンスが
独特のキリスト教を作り出した

ローカルの聖人たちへの信仰
独特のキリスト教の祭り
独特の教会建築

などなど

祭りとしては『パルドン祭』があるが後日に回して
今回
徐々に触れてきた『アンクロ』と『カルヴェール』の
最高峰に触れてみよう

「モッレー」から西南西の20km
『サン・テゴネック』『ギミィイヨー』
という
名高い二つの「アンクロ」がお互いに近い位置に存在している

※  ※

『St-Thégonnec サン・テゴネック』


勝利の門から『アンクロ』を望む


『Eglise Notre-Dame de St-Thégonnec サンテゴネックの聖母教会』

「アンクロ」内にある教区教会『ノートル・ダム』


『Porte triomphale de l'Enclos アンクロの勝利の門』
外から中を覗く


内側から

最後の審判で勝利する第一歩の
死者が潜る勝利の門





「カルヴェール」全景と納骨堂



『カルヴェール』の基壇部


別の面


基壇部 一部




カルヴェール十字架先端部



上の写真の反対側


十字架部の基部

教会内部は
本体の彩色は多くはないが備え付けの祭具はカラフル

内陣奥





左端は説教壇



その登壇階段の手すり


壁の最上部の位置を左右に支える梁も上に
木張りの天井の彩色も非常に穏やか
イエスと左右に聖母マリアとマグダラのマリアが飾られていた


洗礼水盤は花崗岩の一枚岩を磨きだして作られている


『Triptique 三折祭壇画』

ところがこの「トリプティック」は板絵ではなく
彫刻を使った箱仕立てで非常に珍しい
仏教でいる「厨子」みたいだ


『L'Ossuaire 納骨堂』



納骨堂から勝利の門を見る


勝利の門を出てもう一度ふり返ろう

全景


 ※  ※

次に
『Guimiliau ギミィイヨー』



勝利の門からアンクロを望む




『Eglise de Saint-Guimiliau 聖ギミィイヨー教会』


『Portail  ポルタイユ 教会正面扉口』
入ると奥にもう一つ扉口がある「ナルテックス」の形



ナルテックス両側の聖人達






上を仰ぎ見ると圧倒的な印象を受ける


身廊
天井の梁にイエスと聖母とマグダラのマリアがいるが
「サン・テゴネック」のとはポーズが違います


パイプオルガンが不思議な置き方をされている
大きなパイプオルガンを設置したかったのだろうが
天井高が足りない
床に置くと音響効果を妨げる


ということで
こんな風にとても低い位置に細い柱で持ち上げられているのです
ヨーロッパ中で初めて見た


洗礼水盤の天蓋は木彫
上部は金箔貼り



水盤自体は花崗岩製


いくつかある「Retable 祭壇衝立」が
大変に手が込んでいる
ほんの一部(下部中央)だけ拡大してみると




壁や柱のそこここにも






そして
肝心の「カルヴェール」です


基壇が大掛かりで彫刻群も『サンテゴネック』の物より複雑















イエスの十字架磔刑

最後の審判で地獄行きが決まり怪物共に喰われる悪人たち

ロバでエルサレムに入るイエス
















基壇部の彫刻群が複雑な替わりに
十字架上部はとてもシンプル


そして納骨堂



※  ※

おまけでもう一箇所
ギミィヨーの「あざ」『Lampaul-Guimiliau ランポール=ギミィヨー』


教会(左)と納骨堂(中)と勝利の門(右)が繋がっている


勝利の門の上にもカルヴェールがあり
門を通して奥にあるカルヴェールが見えるが
どちらもシンプル

納骨堂


カルヴェールから振り返る



ここは教会の中が素晴らしいのです














こういうカラフルな「ルターブル」がいくつもあります

では今回はここまでにしょましょう
=  =  =  =  =  =  =  =  =
ご感想やご意見をお待ちします
実際の旅行に関しては以下のサイトにどうぞ
https://veritas21.com  『こんな旅がしてみたい 誰も真似のできない旅のプランナー』



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルターニュ紀行 10 <サン・ポル・ド・レオン から ロスコフ へ> 

2021-02-23 00:21:51 | 素晴らしき世界/フランス/ホテル
巻頭写真 : 『クロアツ=バッツの聖母教会の納骨堂』

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう
10


モッレを発ち
「モッレ川」と「モッレ湾」の西岸を北上すること15kmほどで
『Saint-pol de Léon レオンの聖ポール』
という町に着く

この町の名はある一人の聖人に由来する
一人のウエールズ人「パウルス・アウレルヌス」は
4世紀から侵攻してきたサクソン族からブリテン島を守るために戦った
有力者の家系の出で


6世紀頃大陸側に渡って来て「レオンの国」の女王の夫となり
地元のケルト民族をキリスト教化し
初代のレオンの司教に任ぜられ
同じような働きをした他の6人と並んで列聖された
『ブルターニュの7聖人』の一人として崇められてきた地元の聖者の一人
『聖ポール・オーレリアン』
9世紀頃から
『聖ポール・ド・レオン』と呼ばれるようになる

彼に献堂された大聖堂が町のシンボル

『Ancienne Cathédrale St-Pol-Aurelie 聖ポール・オーレリー旧大聖堂』

この町は既に司教座ではなくなり
司教も大司教もいないので大聖堂ではなく教区教会だ
とにかくでかい
鐘楼尖塔の高さは50m
幸い前が大きな広い広場になっているため
前掲の写真が撮れる

12世紀の創建
13世紀
14世紀
15世紀
と部分部分が造り足されていった時代背景も
平面図から構造のすべて
正面扉口のレリーフによる聖書語り
内部構造とあらゆる装飾
完全にゴシックの大聖堂そのもの


天井高が16mしかないものの
ゴシックを産み出したパリ周辺地方の
「パリ」「アミアン」「ランス」の大聖堂にどこも引けを取らない
見事な作り
ただブルターニュの硬い花崗岩なので
レリーフや彫刻などの製作作業は大変だったと思われる




しかし
この町にはもう一つ立派な教会がある

『Chapelle  Notre-Dame du Kreisker クレスケールの聖母礼拝堂』

教会の本体自体は旧大聖堂の方が大きいが鐘楼の尖塔は
こちらの方が高い
実に68m





内部の側廊にならぶ礼拝堂の一つ一つが
外側に向き合って切妻を並べるブルターニュ式に忠実に作られている

実は
鐘楼 は正面ではなく十字架形の交差部に立っている


基本的に四角い塔で頂上付近で八角形になる
明かり取りの「Tour Lanterune」であることもわかる



そして
後ろ側の横にも入り口

 堂内に『ブルターニュ七聖人』が飾られている




旧大聖堂とこの礼拝堂とは数百mほど離れているが
旧大聖堂の2基の鐘楼とこの礼拝堂の鐘楼が一直線上にならぶ角度があって


なかなか素敵な光景

もっと別の角度からアップにしてみると


「二つの教会 二つの塔」
と言われてきた

ところで
この辺り一帯古のレオン王国の中心地だけに
立派な屋敷や城がいくつもある

『Manoir de Kersaliou ケルサリウ屋敷』

『Hôtel François du Parc フランソワ・デュ・パック館』


『Hôtel de Kermenguy ケルメンギィ館』


『Château de Kernevez ケルネヴズ城』

『Maison des Ursulines 聖ウルスラ会の館』

 
※  ※

さて
ここから北に5kmで岬の先端
『Roscoff ロスコフ』

イングランド何西端『コーンウオール地方』への渡り口
かつ
『マルゥイーン(私掠船団)』の根拠地でもあった

プリマスやコークへのフェリーが出ており
潮位の差が激しく遠浅なので
そこそこの大型船に乗るために遠くまで続く長い桟橋がある


この右端の桟橋が


伸びるんです


これのために


ブルターニュの南岸「ポン・タヴェン」と結ぶフェリー


町中には
埋め立てて市街地を広げる前に海岸の堤防防備の一部
「見張りの塔」が残っていたりもする



この町の教会が

『Eglise Notre-Dame de Croaz Batz クロアズ・バッツの聖母教会』


敷地全体が「低い壁(仕切り)」で囲まれた『Enclos アンクロ』
であることがわかる


鐘楼はあくまで高く薄い



塔頂部の繊細で精巧な作りは透かして見るとよく分かる

内部は
ブルターニュらしいスパンの広いアーチで組まれている



木製天井のいたるところに「ひとがた」の装飾が突き出す







「アンクロ」の周囲を囲みむ低い塀の二カ所の角に
長方形の建物がある




共同納骨堂 1


共同納骨堂 2

教会も含めて全体的に装飾が少なく素朴なのもブルターニュ風だが
時折見かける数少ないレリーフ等に
逆にブルターニュらしさを感じさせる




いずれも高いマストを持った船

街中の建物も
石の重みと石の厚みとを十二分に感じさせてくれる

『Maison des Jonnies et de l'Ognions』

『Maison de 1598』




または非常な繊細さも

『Chapelle Sainte-Barbe 聖バルブ礼拝堂』

ところでこの「ロスコフ」に
感じの良いホテルがあります


※  ※

『Hôtel Britany オテル・ブリタニー』

南から町に入ってきて
海岸線に出てきたらすぐあります


実は満潮の時間にはこうなります


潮位が特に高い時期には岸壁まで全部海になり
小さな浜辺はなくなります

かつては
この「ブルターニュ!」という感じの石の重厚な建物だけがホテルで
部屋数も限られていたのですが



左側の近代的な建物の新館を増築した
今では新館が「本館」になっているらしい


旧館のお部屋はこんな感じで


新館だとこうなった
まあ旧館は窓が小さくテラスもなく
第一海の見える部屋自体も少なかったので仕方がないことなのだろう
今や玄関も新しい建物の方になっている



レセプション

幸いレストランとバーは旧館の入ってすぐ右のまま変わっていない





お料理の例


冷静前菜 「鯖のモザイク仕立て」

温製前菜 「手長海老の一品」

メイン 「オマール海老の一品」

主菜 「白身魚の一品」

デザート 「木いちごのタルト 木いちごのシャーベット」

ここのレストランは
25年以上「一つ星」を維持し続けています
ホテルは超高級というわけではないので泊まり易いです
=   =   =   =   =   =   =   =   =
皆様のご感想ご意見ご要望をお寄せください
ごくごく些細な感想で結構です
旅行の具体的なことに関心がある方は以下のサイトもどうぞ
https://veritas21.com 『こんな旅がしてみたい 誰も真似のできない旅のプランナー』

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルターニュ紀行 9 <サン・ジャン・デュ・ドワ から シャトー・ロザンボ そして モッレ> 教会と城と街を巡る

2021-02-22 00:43:35 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『Château Rsanbo ロザンボー城』

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう


バルルネーズから北東にほんの少し行くと
『サン・ジャン・デュ・ドワ』という村があって
そこの教会がちとばかり面白い

『Eglise Saint-Jean Baptiste 洗礼者聖ヨハネ教会』

人口700人居るかどうかという村にしては
規模が大きい

なぜなら
村の名前が『Saint-Jean du Doight 指の聖ヨハネ』という
不思議な名前で
なんと
ここに聖遺物『聖ヨハネの指』があるのだという

結論から先に

『Reliquaire du Doight de Saint-Jean-Baptiste 洗礼者聖ヨハネの聖遺物 』

金と銀を使った聖遺物が入った容器
中にはイエスに洗礼をした羊飼いヨハネの指の骨の破片が
入れてあると
信じられている


上の「聖遺物櫃」を収めるための容器

要するに「イワシの頭」な訳ですが
そう言ってしまうと身も蓋もないですからね




本体は正面も裏側もほぼ同じ形で
正面側には
鐘楼が脇に立っている


南側側面には
翼廊の入り口と並んで礼拝堂が一つ張り出している

献堂された『聖ヨハネ』の像は
羊飼いヨハネの姿のお約束通り毛皮を身にまとう


これまたお約束で
横に『Enclos アンクロ』が付随している

これはブルターニュの信仰と文化との伝統の一つ

文字通り「囲まれた」という意味で
低い仕切り壁で囲まれて
中にブルターニュの十字架を発展させた『Calvaire 道行きの十字架』
墓地と共同納骨堂などがある敷地の事

『Arc triomphal de l'Enclos アンクロの勝利の門』

囲いの一角には
「最後の審判」で天上の楽園に行く勝利を目指して死者が潜る門『勝利の門』がある


門をくぐった内側の上で「至上の神」が見下ろしている

敷地内には

『Oratoire du sacre 聖別祝祭の祈祷所』

これはキリスト教の祭礼の際の有力者の休憩所であり
葬式の際の野辺送りの場であった

さらに納骨堂がある

『Ossuaire de paroisse 教区納骨堂』

墓地のスペースには限りがあるので
25年とか50年とかの契約が終わる時に契約更新をしてくれる子孫がいなければ
掘り起こして納骨堂に収めるのです

この『Enclo アンクロ』は
ブルターニュでは特に伝統的に守られてきた構造で
『Calvaire 道行きの十字架』
という
イエスの処刑までのプロセスを彫刻群で飾った十字架彫刻群を競って
今でも素晴らしいものが何箇所も残っています


※  ※

では「サン・ジャン・デュ・ドワ」を立って
海岸に近い橋からまた内陸の方に15kmほど下って
お城を一つ訪れよう

『Château de Rosanbo ロザンボー城』

14世紀の古城の基礎の上に16世紀に屋敷を建て
17世紀に拡大されて現在の規模となった
『Bô ボー』川の峡谷を見晴らす高台にあり

ブルトン語で「ボー川の上にある岩塊」と言う意味の名前がついたそうです











鳩小屋

もちろん食用鳩ですよ

同 内部

『Charmilles クマシデの並木』



このトンネル状の並木は2500mも続いている

内部は一部屋だけご紹介



フローリングが古色蒼然とした輝きを持っている






※  ※

前日の横切ってきた
『Morlaix モッレ』の街まで引き返そう

海のそば迄ほんの5〜6kmで最大4km幅はありそうな『モッレ河』
が街のあたりではまだ狭いとはいえ
両岸は高くその下に街がある
ブルターニュ北岸の町々と同じように
だから国道や鉄道が高架で横切る



これは19世紀半ばの鉄道橋
道路はもっと大回りして町の中心部上は通らない

この町でいちばんの名物は
『アンヌ公爵の家』
と呼ばれる16世紀の家なのです


写真が傾いているわけではなく家が傾いているんです
500年の時の流れで片方に傾いでしまった
中の部屋はしっかり水平な床に作り直してあるのですよ
古い木造家屋ではごく普通の光景なんです
それより
外観は以外と他にもありそうな木組みの家ですが
この「モッレ」だけの独特の家
『Maison Pondalez (Lanterne) 明かり取りの家』

教会の祭壇上の天井だけ他より高くしてあって
テッペンの周囲に開口部があって光が入ってくる
そんな造りがあります
「Tour Lanterne 越し屋根の塔」と言いますが
これは
家の中に広い空間が最上階まで吹き抜けているのです




「モッレ川」が街を出ると急に広くなり始め
5〜6kmで幅が4kmほどまで広がり
海に注ぐに当たって東の岸の一部が堤防のように張り出して
出口自体は1kmほどにせばまる
つまり港として最適なわけです
「Morlaix」は特に「麻」の貿易で財をなした大商人が
好んでこのような家を建てた

外観は普通の家に見えて
中は広々
明かり取りの中央吹き抜けの一方の角に螺旋階段を持ち


樫の木で
真ん中の「通し柱」は上まで継ぎ目なしの一本柱
この家は4階建てで
16mの通し柱はびっしりと彫刻が
元材からそのまま掘り出して飾られている


4面の壁の内側に部屋があり
大家族と奉公人とが一緒に暮らせて
貿易会社としての執務室や商品の倉庫も兼ねられる規模がある

周りの壁の柱や梁にも彫刻が





これは階段から途中の部屋に入るところの壁の柱



通し柱の最上部

そして階段の各階のの位置に
階段から直接入れる部屋を通り抜けなくてもそれ以外の部屋に行けるよう
渡り廊下がある


そして
暖炉自体がまだ贅沢で城の王公の居住部分などにしかなかった15世紀に
まるでお城の大広間のような大暖炉をつくる





裏側の地上階は厨房であった



階段の内側はこんな感じ


正面の玄関口は
頑丈な花崗岩の柱で支えられている



この町の名物のもう一つは
意外なことに「鉄道高架橋」なのです
19世紀半ばの石造だから美しくないと言えば嘘になる



『Port et Viaduc de Morlaix モッレの港と高架橋』
Félix Benoist 1865

その高架橋のすぐ下に教会が一つある
『Eglise Saint-Mélaine 聖メレーヌ教会』


15世紀後半に立てるときに
将来のこんな光景は想像もしていなかったはずだろうが
決して低くない鐘楼の尖塔と高架橋を見比べてみると興味ふかい
何しろこの橋は58mの高さを単線の線路幅だけで300m近くの長さで
壊れることなく建っているのですからね







やはり高架橋は絵になる




高架橋と港は表裏一体





『旧 タバコ工場』正面

旧タバコ工場 中庭

なんだかカルメンが出てきそうなノスタルジーですね

では今回はこのくらいにしょましょう
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
皆様のご感想ご意見ご要望などをお待ちしています
「コメント」ボタンからどうぞ
旅行の実際にご興味の方は以下のサイトも御覧ください
https://veritas21.com  『こんな旅がしてみたい 誰も真似のできない旅のプランナー』

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルターニュ紀行 8 <バルヌネーズ で 古代巨石文化に触れよう> 

2021-02-19 00:58:15 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : バルヌネーの『テュミュリュス(ケルン)』全景

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう


まず『ブルターニュ』の成り立ちを三行でまとめると

>5〜8世紀にノルウエーやデンマークあたりから南下してきた
ノルマン人やその他サクソン人などヴァイキングと呼ばれる北方異民族が
全欧を侵略しまわってブリテン島にも進出した時
異民族支配を嫌って大陸側に逃げてきた民族が住み着いた土地

>従って南西イングランドのコーンウォール地方やウェールズと同じ民族で
その後のローマ化の影響を受けにくかった北方辺境系のケルト族で
独特の宗教観と言語と文化を受け継いでいる

>従って16世紀後半までフランス王の支配下になく
ブルターニュ公爵の支配する独立国『ブルターニュ公国』だった

と言う事で
フランスにあってゲルマンともラテンとも違う民族文化が色濃く残り
世界中に分布しているとはいえ
南イングランドやウエールズにあるような古代巨石文化遺跡が
ブルターニュには特に多い


遺跡は大別すると三種類ある

まず『Menhir メンヒル』
縦長の一枚岩を地面に垂直に立てたもの

『Menhir de Cailouan カイルアンのメンヒル』


次に『Dolmen ドルメン』
両側に立てたメンヒルの上を平らな岩を並べて塞いだもの

『Dolmen de Crucuno クリュキューノのドルメン』

三番目が「Tumulus テュミュリュス」
これは「ドルメン」を砕いた石で覆い被せたもの
かぶせた石がそのままむき出しで残ったものは「Cairn  ケルン」と呼ばれることもある
氷河が運んで積み上がった石
それを模倣して登山家が山頂に積む石の名前から


『Tumulus de Kercado ケルカドーのテュムリュス』

おそらく墳墓に近いものだという解釈もあって
ピラミッドや前方後円墳もテュミュリュスの一種だと言う事になる


今日の目的地は
トレブルデンのすぐ南の町「Lanion ラニオン」から西に35kmにある
「Morlaix モッレ」から海の方(北)へ
湾としか呼びようのないだだっ広い「モッレ河」右岸を下り
右側に「Anse de Terenez テレネー入江」という入江に挟まれた
細長い岬の先端まで10kmほど行くと突然見えてくる
『Tumulus de Barnenez バルヌネーのテュミュリュス』

南側側面の全景

これは
いつの時代かか被さっていた土を全部取り除き石積みがむき出しなので
「Cairn de Barnenez バルヌネーのケルン」
と呼ばれることもあり
11のテュミュリュスをつないだ集合型のタイプ


丸いところがいわゆる玄室だろう


上の全景とは逆の北側の一部で
左から「C・B・A」の玄室の順だがむき出しになっている
これは
いつの時代かこの場所が「石材採取場」として利用された事により
表面を覆っていた石が持ち去られた事によるそうです

玄室 A

平面図を見ていただくとわかるが
この辺りの構造はなくなっているのでむき出し状態

玄室 B

こちらは「A」と違って「ドルメン」部分が残っている(復元された?)


『玄室 C』

元来向こう側から玄室に至る「玄道」が空いているのが見える

『玄道 C』

南側の側面から玄室Cに至る玄道
向こう側が壊されていなければ光は見えないはず

ところでこの「テュミュリュス」は3段階に拡大されてきたらしい

東側初期部分


玄道玄室の濃い赤の点線は縦石(メンヒル)が残っている部分

写真はこの図面の右側から撮ったもの
右側薄黄色の「Massif est」とは覆いの盛り石の負荷を止める基礎で
写真の手前一番下の段

『玄道 J 入り口』塞いである

『玄道 I  入り口のドルメン部』

左下の「圧力止め」がドルメン左のメンヒル部を隠しているが
昔は全部右につながって隠れていたはず

第二段階が西側半分



ほとんどの玄道の入り口は塞がれてしまっているが

『玄道 E の入り口のドルメン』

上の図で分かるとおり「玄道 E」は縦石はほとんど残っていないが
この天石は相当のボリュームがありそうだ


『玄室 D』

むき出しになっている玄室D
その玄室Dに至る玄道の入り口が

『玄道 D へのエントランスと玄道』

このテュミュリュスは
おそらく新石器時代のもので
前段階部分は紀元前5010年から4400何の間
後期段階部分は紀元前4550年から3895年の間
だろうと推定されている
エジプトのギザにある三大ピラミッドより2500年ほど遡ることになる

素粒玄武岩と花崗岩が使われている



改めて北側側面の全景を見ると
左半分の初期部分が整然と残り
右半分の後期部分が壊されて変形してしまっていることがよくわかる

改めて南側面を見てみると

南側側面 玄道B入り口あたり

南側は破壊されていないので
玄道B入り口を挟んで「圧力止め」の基礎が二段に組まれていることがわかる

このような小さな写真と限られた字数ではわかっていただけないが
11ある玄道と玄室は
全て構造が違い
メンヒルとドルメン構造
縦は切石乾積み構造
縦横共石積み構造
と別れて
権力者の家族の墓などではないだろうとの意見が確立している

死者の世界と生者の世界の橋渡しを意味する
シンボリックな存在として造られたのだろうと思われている


それから
この写真を見て分かるとおり
実は平地にあるのではなく結構な斜面に存在しているのです

今はほとんどの玄道が塞がれてしまっている





昔は自由に出入りできた




これと次とは
「危険につきこれより立ち入り禁止」
という赤い看板が置いてある玄道もあった


中から海が見える光景は
今日ではもう望めない


世の中
どんどん息苦しくなっていきますねえ

最後に
なくなってしまった部分を無一度見てみよう

Photo by @FinistereTouring


上の俯瞰写真とほぼ同じ角度で
左から「玄室 C」
むき出しのドルメンが「玄室 B」
右端の黒いところが「玄室 A」
手前に石が一列に並んでいる線が壊される前の輪郭の位置

玄室Bのドルメン




先端部の基壇(負荷圧止め)



場所によって基壇の組み方や高さ角度も違うのは
一度で全部の形に作り上げたからではない証拠とも言える

そして
岬も先端はもうすぐそこ



おまけ

そのすぐ近くの海の
陸地からすぐ近くに
こんな面白い城があります
『Château de Taureau 雄牛城』


一応「Château」という名前なので「城」と書きますが
要塞ですね
この辺りは手を伸ばせば届きそうな範囲に島だらけなので


岬は向こう側です


角度を変えると


こんな感じで

塩がひくとこうなる




では今回はここまでにしておきます
次回をお楽しみに
ブルターニュはまだまだ続きます
=   =   =   =   =   =   =   =   =   =
ご意見ご感想をお待ちします
旅行の具体的なことに興味をお持ちでしたら以下のサイトにもどうぞ
https://veritas21.com  『こんな旅がしてみたい 誰も真似のできない旅のプランナー』
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルターニュ紀行 7 <ラニオン から ル・レゲー川にそって ケルフォンの礼拝堂まで>

2021-02-18 00:25:07 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『Chapelle Notre-Dame de Kerfons ケルフォンの聖母礼拝堂』

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう


昨日の「トレブルデン」からすぐ南に隣接する町が
『Lannion ラニオン』
と言います

起起伏あり都会の街並みあり旧市街あり
でも
なんとなくだだっ広い空間という感じの町


展望ポイントから見るとこんな感じで
テッペンに教会があるいつもの村みたいに見えますが


町でイチオシの光景はこれ
いずれも「中世風の」しかしそれぞれ違うデザインの家が連なって
本当に素敵です

右の角から三軒目が

『Maison de Chapelier 帽子屋の家』

16世紀の愛称「帽子屋の家」と呼ばれる建物
城や館の屋根に使う高価な粘板岩の瓦「アルドワーズ」を
壁全面に貼るのは「ノルマンディー」にもあるやり方で
海からの潮風を受ける場所に多い建て方のようだ

斜面の一番上に教会


アクセスは複数あるが
階段が教会堂に向かうには一番相応しいような気がするのです






南側翼廊の扉口の上に
細い塔が三本立ち上がっているのが珍しい


石造りの重量感を圧力として感じるのが
ブルターニュの建築物ならではの特質





天井は木製


外壁の一角に日時計がある
1778年と言う数字が誇らしげに見える

もう一つ別の教会もご紹介しよう
『Eglise Saint-Jean-de-Baly バリィの聖ヨハネ教会』

正面

この教会も高いところにあることがわかる

ラニオンには修道院も複数あります

『Monastère Sainte-Anne 聖アンナ修道院』

『礼拝堂』

もう一つ

『Monastère Sainte-Ursuline 聖ウルシュラ会修道院』

「サン・ギレック(プルマナック)」の岬の目と花の位置にある
『Grande-Ile 大島』
の白い花崗岩で作られた

中庭

町は『Place Centrale 中央広場』を文字通り中心として機能している




街中を『ル・レゲー川』が流れ
一部にカヌーのコースを作ってあった



『Le Léguer ル・レゲー川』

郊外に出ると例によって結構な川幅で
数十キロ海に近づくと入江さながらとなる


そのル・レゲー川を本の7〜8km遡る(南下)と
『Kerfons ケルフォン』
と言う小さな集落に特筆すべき礼拝度yがあるのです
『Chapelle Notre-Dame de Kerfons ケルフォンの聖母礼拝堂』


『Chapelle Notre-Dame de Kerfons ケルフォンの聖母礼拝堂』

外観からして見事な造形美

通常の十字架型ではなく「T の字」型でこの地方独特のもの
中央身廊の先端から南北に礼拝室が二つある
この写真手前は南側


側面に小さな「コーナー」を作ってあって
一枚岩を掘った十字架が立っている
角度のせいで分かりにくいが
上に十字架上のイエスの像やマリアとヨセフ等が表裏で立っていたりする




これは「アンクロ」と言ってブルターニュの非常に重要な特有の構造物で
今後ブルターニュを旅して行くときに必ずご紹介しなければならない
テーマになります


入り口能ある側の上の
鐘楼ならぬ鐘塔へ登るための階段もユニーク


扉口

そして入り口はもう一つあって


その扉の


扉上部には「受胎告知」のレリーフ

中に入ると
そこは驚嘆の世界が広がる

『Jubé 内陣仕切り壁』

スペインの教会には多いが
初期中世の頃までの教会は
西側正面入り口を入って身廊の奥にある祭壇が仕切り壁で隠されていた
つまり
一般信者席に座ると祭壇は見えない
その壁を「ジュベ」と言います
フランスでは17世紀には取り払ってしまった

この礼拝堂は
そのジュベの細工が素晴らしいのです


この「ジュベ 内陣仕切り壁」の奥が祭壇
その壁の一番上の梁の上に二体の彫刻






向かって左
ブルーの衣なので聖母マリア


となると右は聖ヨハネ


左端は大天使聖ガブリエル

左から二人目
天国の鍵を持つ聖ペテロ

その右
逆さ十字架に架かった聖アンドレ

右端は聖ヤコブ






右端がイエス・キリスト

ジュベをくぐって祭壇まで行って振り返ると




内と外と
左右につながる装飾帯の下に天使がぶら下がっている





















持ち物が違っていたり
同じ持ち物でも衣の色が違っていたり

その他
壁の前や角々
あるいは天井のアーチの立ち上がりの位置などにも
様々な彫像があるのです

『受胎告知』


『幼子イエスを抱くマリア』


『イエスの洗礼』


『イエスの復活』


礼拝堂の神父


司教様


『聖母子像』


どの彫像も
ロマネスクの戯画性もなく
ゴシックのオドロオドロしさや威圧感もなく
ルネッサンスの芸術性もなく
でも
極めて素朴で稚拙にも見える表現から
其々表されている対象の人間臭さみたいなものが感じられ
なんとも言えず魅入られてしまう


この礼拝堂は15世紀から16世紀にかけて建立され
「Jubé」は1480年頃の作らしい
美術様式的にはゴシック終期
木製で彩色

ということは決して古い教会建築というわけではないが
重要文化財です
=   =   =   =   =   =   =   =   =
皆様のご感想をお待ちしています
「どこが気に入った」「あれが好きだ」「これはそんな意味だったのか」「ここは好みではない」
年でも結構です「コメント」ボタンからどうぞ
旅行の具体的なことに興味がある方は以下のサイトもどうぞ
https://veritas21.com  『こんな旅がしてみたい 誰も真似のできない旅のプランナー』




























コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルターニュ紀行 6 <トレギエ 経由 ペロス=ギレック と トレブゥルデン へ> グラニット・ローズ海岸を行く

2021-02-17 00:58:15 | 素晴らしき世界/フランス/ホテル
巻頭写真 : 満潮時の夕陽を浴びる『サン・ギレック祠』プルマナック海岸

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう


この辺り『Côte Armor アルモール海岸』
別名「Côte de granite rose バラ色花崗岩海岸」は特に海岸線の変化が激しく
中小の岬
小さな湾
小さな入江
鋭く切れ込んだ長いカランク
が沢山あり
それらをまたいで街道が続く

そんな細い長い入江をまたぐ位置に『Trégier トレギエ』という町がある

対岸から見た『トレギエ」全景

『La Jaudy ジョーディ川』

旧市街の入り口
かつての城壁の位置に17世紀初頭の建物があたかも城門の塔のように建って
人々を迎え入れる


旧市街のシンボルは旧大聖堂

『Ancienne Cathédrale Saint-Tugdual de Tréguier 聖チュグドュアル旧大聖堂』重文

1770年九代続いた大司教の座を廃止されて
今は教区の教会となっている






入り口は定石の西側正面ではなく
南側翼廊にある

ところでこの町は近代宗教史学の権威が誕生した
キリスト教を近代合理主義的に解釈したキリストの伝記
「イエス伝」で不動の思想家となった
『Ernest Renan エルネスト・ルナン』


『Maison natale d'Ernest Renan エルネスト・ルナンの生家』通り側




この「トレギエ」を出て20kmほど
『Perros-Guirec ペロス=ギレック』という港町に至る

海側に三角形に突出しているので東側とと西側と海岸は大きく言えば二箇所
かなり大きな規模の港があって
お昼前に来れれば
漁師が朝猟ってきた大きなオマール海老を岸壁の屋台で売ってたりする

さらに何箇所か地区の海岸があり
そのうち「Ploumana'k プルマナック」という地区の海岸は
「ローズ色の花崗岩の海岸」の見本の様なところ


浸食が進んで角がなくなり丸っこい赤い岩がゴロゴロ存在し
波が打ち寄せてしぶきを上げている


この様なお神輿を担いだ亀みたいな岩だったり
モアイ像みたいな人面岩だったりが
あちこちに

目と鼻の先に
大小多くの島々があり船で渡るとまた面白い

『Ile Rouzic ルージック島』

この島には「カツオドリ」の第集落がある


白いブツブツは全部カツオドリです


ただその「プルマナック」地区のさらに小さな(あざ)
『Saint-Guirec サン・ギレック』地区の何の変哲もない小径を下りて行く


するといきなり丸っこい大岩だらけの小さな入江にたどり着き
素晴らしい光景に巡り会える
満潮時と干潮時で見え方は全く異なるのですが


この小さな入江の陸にすぐ近いところに
有名な祠あり


干潮時に後ろから見た『Oratoire Saint-Guilec 聖ギレックの祠』

若い女性が満潮の直前にこの祠に行って
中の「聖ギレック」の像に擦れると恋人ができる
という言い伝えがあって


民族衣装の女性たちが集まるお祭りすらあった

『Saint-Guirec サン・ギレック』像


その祠を向かい合う茂みの上にお城が一つ

『Château de Costaériès コスタエリエス城』

入江自体も小さいがその出口が非常に狭くて
正面に見える城の位置はもともと入江の右側の陸地の先端あたり
それが
満潮になると


こうなります
もちろん右側はつながっているんですが

入江の出口はこうです


夕暮れ時に夕陽で空が赤く染まらない曇りがちの日の
満潮時に見るときが


もっとも幻想的な瞬間



真横からだと「サン・ギレック」の像があることがわかる


海側から陸の方を見る


写っている人の大きさから
岩の大きさを想像してほしい

ところでこのペロス・ギレックのプルマナック地区には
素朴で美しい教会があります

『Eglise Notre-Dame de Clarté 光明の聖母教会』


さて
ここからさらに西へ10kmほどで
『Trébourden トレブゥルデン』という集落に至る


この浜辺の手前が左に細く伸びて
岩礁が陸地と繋がってしまった様に地形になっている

『Pointe de Bihit ビイ岬』

教会は今までよりさらに素朴


しかし
ブルターニュならではの一枚岩を掘ったゴツい十字架はしゃんと立っている

この村の内外に
これまたブルターニュならではの「古代巨石文明」の
遺物が幾つかあります

『Dolmen de l'Ile Milliau ミイィオ島のドルメン』


右はビイ岬
左がミイィオ島

『Dolmen de Prajou プラジュウ地区のドルメン』


『Menhir de Bonne Nouvelle ボンヌ・ヌーヴェル地区のメンヒル』



『Dolmen de kerellec ケレレック地区のドルメン』


この「トレブルデン」の「ケレレック地区」に
とても素敵なホテルがあります
その名も『Manoire de Lan kerellec ラン・ケレレック屋敷』


このホテルは通りからは見えない
刈り込んだ植え込みと
紫陽花やその他季節のお花の花壇で隠れた向こう側に少し下って
地上階がある


地上階は
小さなロビーとバー



その地上階はある意味で最上階の一つ下
つまり2階建てのような感じで
さらに下に下がったフロアーにレストランと客室がある


このお庭の下に通りがあるが車は通れず
見上げても斜面の角度と木々んせいで何も見えない

お庭側からは


こんな眺めです

レストランが落ち着けます


天井から「海の民族ブルトン人」を思い出させるかのように
船の模型がぶら下がってる


夕食時に夕陽が眩しく日除けが下されるが
眩しさがなくなるとまた日除けは挙げられる
そうすると


この光景になる

客室ですが




最上階は屋根の中なのでこんな感じになって
テラスの開放感が抜群



これはひつ下の会のテラスで木の高さがちょっと邪魔

こんなお部屋もあります


テラスは横についてる


バス・ルーム

たまたま大人数のテーブルを用意してあるが
朝食はここで


朝食時


例によってお食事もご紹介

ポロ葱にほぐした蟹を詰めた前菜

まとうだいとアサリ あわあわソース

オマール海老にソースをテーブルでかかてくれました

お重したてのデザート

ではまた次回に
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
皆様のご感想やご意見ご要望をお待ちしています
右下の「コメント」ボタンから指示に従ってどうぞ
旅行の実態にご興味のある方は以下のサイトも御覧ください
https://veritas21.com  『こんな旅がしてみたい 誰も真似のできない旅のプランナー』
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルターニュ紀行 5 サン・ブリウック湾にそって西進する <サン・ブリウック/サン・ケ・ポーリゥーを経て ケルマリア と パンポル へ>

2021-02-16 00:35:46 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 『ボーフォー大修道院』(パンポル)

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう



 前回に続いて西へ進む
逆三角形大きく切れ込んだ『サン・ブルウック湾』に沿って西へ

逆三角形の下の角に『Saint-Brieuc サン・ブリウック』という町がある
ここは都会

バスターミナルの工事現場もあれば


ブルターニュらしい
黒々として重そうな大聖堂もある

『Cathédrale Saint-Etienne 聖エティエンヌ大聖堂』

しかし
やはり海の前なので
湾の先端が両岸からかなり低く町の中心近くまで切れ込んでいて
そこを港に使い
わざわざ低い位置まで降りてこない国道が高架橋で上を横切っている

『Port de Légué レゲ地区ボート・ハーバー』

そして当然ビーチもあるし



「サン・ブリウック」を出て北西に進むと
『Saint-Quay-Portrieux サン・ケ・ポーリユー』という町

例によって
港と海岸とと別荘と



『Ile de la Comtesse 伯爵夫人島』

この優雅な名前の瀟洒な島が


干潮では陸続きとなるお約束


ハーバーはというと
見て下さい並んでいるポールを
上の方まで色が黒いでしょう
満潮の時間には水位がそこまで上がるのです
だから桟橋は固定できないので「浮き桟橋」で
岸壁にはタラップで上がる


港の出入口もこの通り
干潮時には航行できません

そんなこんなでこの町も通り過ぎて
もう少し北へ登って国道を「Plouha プルゥア」西に降りると
町の外れに
『Kermaria ケルマリア』という重文の礼拝堂が建っております

『Chapelle de Kermaris an Iskuit ケルマリア・アン・イスキット礼拝堂』

1200年代の初めに
十字軍帰りに地元の有力貴族の手で建立されたらしいこの礼拝堂は
教会として機能しているわけではないので閉まっています

でも
こういう時のお約束は
一番近くのお家に行って尋ねると「鍵」を貸してくれるのです

入り口は横にある「ポルシュ(ポーチ)」から


そのポルシュの左右に
往時の色彩を感じさせる彫刻が並んで出迎えてくれる




ポルシュの天井も彩色が残る


内部に入ると
身廊の天井は木製


左右の壁の上部にもフレスコが残る


このフラスコは
リドゥレー・スコット監督の英米独合作映画
『死者の王国』
のテーマとなったことで知られている

『死者の舞踏』

何気なく置かれている彫像も良い感じ

『Saint-Eloy 聖エロワ』

この聖人は「鍛冶屋」の守護聖人

『Archange Saint-Michel 大天使 聖ミカエル』

いずれも
年代的にも中央から遠い地方文化という観点からも
素朴極まりない表現が実に素晴らしい


平面図十字架の頭部「外陣」と南側横木「翼廊」の部分を後ろから見る
北側横木に当たる翼廊は造られていない
と言うより
翼廊はもともとは造られなかったようだ


この「ポルシュ」も最初の建立時より後だと思うが
翼廊よりは前だろう
手前に十字架だが
一枚岩で切り出したゴツい十字架はブルターニュの特徴で
感動の分岐点などにもよく見られる
お地蔵様みたいな物


ポルシュ外側のの上部の角に「テラス」状のものがあって
ユニークだ

ポルシュの奥
堂内に入る扉の上の壁には『聖母子像』



そして本来なら入り口がある西側はただ壁だけ



南側側面の全景


では
ここを発ってすぐ北側5〜6kmの『パンポル』という港町へ向かおう

『Pampol パンポル』
は「マルゥイーン」海賊の拠点の港の一つだった

町に入る直前に修道院の廃墟がある
『Abbaye de Beauport ボーポール大修道院』
ここもフランスの重要文化財

Nef 修道院聖堂の身廊部
正面扉口(ポータイユ)の方向を振り返って

逆方向
奥の祭壇方向に向いて

Grande Réfectoire 大食堂跡

反対側の壁


Salle de Duc 公爵の間

この大修道院を立てたのは
前の「ケルマリア礼拝堂」を立てたのと同じ地元の公爵家だが
その公爵の主君に当たる『ブルゴーニュ公爵』のための広間が
用意されていた
普通修道院には暖房用に暖炉はないが
ここは特別に二つもある


Salle capituraire (Salles des Capitres)入口

Salle capituraire 参事会運営会議の間


Gisant de l'Abbé Hubert ユベール院長の寝姿

名高い大修道院長だったアベ・ユベールの石棺


まるでお地蔵様のような優しげなお顔の石像もあった
その部屋の中にあったある時代の修道院長
おそらく石棺の蓋のビビんだと思われる



この辺りにたくさんあるローズ色の玄武岩を使い
黒い石や黄色い石を巧みに使って
色彩のコントラストが計算された建物だった



Cloître 回廊の一部跡

回廊部の手水
手足を清める水場があったようだ

回廊は聖堂(協会)と大食堂との間にあったが
内側のアーチの部分はほんの僅かしか残っておらず
その外側の壁の部分が残るのみ


僅かに残る回廊内側のアーチ列


こんなレリーフがあった
誰もがそこだけ触るのだろう色が黒くなってしまっている





回廊の跡は緑豊かなお庭になっていて
外からは想像ができない秘密の庭園といった趣

別棟には大小二つの酒庫もある

Grand Cellier 大酒庫

ブルターニュは
隣のノルマンディーと並んで葡萄の生育北限を超えている
今の時代なら栽培できるが
昔は葡萄は育たなかったので多分シードル(リンゴ酒)だろう

どこの修道院でも
ワインや蜂蜜その他銘菓などの「名物」を作っていて
現金収入源にしていた

今回の巻頭の写真は
この修道院の教会に隣接する貴顕賓客を泊める迎賓館のような建物で
その裏側が


正面側にも小規模ながら庭園のように設えられている



聖堂の位置からでも海はすぐそこ


当時は
敷地が海までそのままつながっていたという




さて
ここの町『Paimpol パンポル』にも行ってみよう


港の周りにレストランが多く集まっていて
とても賑やか


18世紀に「マルーアン海賊」商売で財をなした船主の家々が並び
楽しい港町です

前回から今回にかけて
三角形に切れ込んだ「サン・ブリウック湾」に沿う様に6〜70km
その間に中小の岬が50位あってご紹介し出したらきりがないのでやめました
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =
ご意見ご感想をお寄せください「コメント」ボタンからどう
旅行の具体論に関しては以下のサイトもどうそ
https://veritas21.com  『こんな旅がしてみたい 誰も真似のできない旅のプランナー』
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルターニュ紀行 4 <フレエル岬 から サブロン・ドール と ヴァル・アンドレ に向かう> エメラルド海岸を西へ

2021-02-15 00:56:58 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 『フレエル岬』の先端の一つにある『ラット要塞』

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう



「ディナール」から海岸線を西進しよう

かなり大きな岬
『Cap Fréhel フレエル岬』を訪れる

この辺りは
例によって海岸まで真っ平らな陸地が続き
海岸で急激に引き裂かれたように入り組んだ岬が現れたりする
中でも
規模が大きくよく識られているこの岬は
北部イングランドやウエールズの原野「ヒース」とよく似た
地形と土壌と植生とが見られる


時期になると
自生している「エリカ」が紫の花をつける


野生の動植物の宝庫だ

岬の先端には灯台が三つある


小さな写真で分かり難いが
最先端に小さな灯台があるのです


中世の終わりの頃から残る
ごくごく初期の灯台

そして
もう少し内側に二つ


手前に1701年建設の灯台
奥に現代の灯台と

1959年建設の灯台

灯台の写真は4月にしては好天だった
元来ブルターニュは夏でも南とは違って底抜けのブルーにはならない
夏場でも朝のうちは霧が出ることもある


同じような角度から違う天候の日に


どちらも
岬の先端に近い方から陸に向かっての光景です


陸が完全に平らなのでわかりづらいが
海面とは70m以上の高度差がある
こうやって崖を間近で見るとそれがよく分かる




この岬は
赤い玄武岩と黒い粘板岩でできていて
岩肌に縞を感じる

岬の最先端に近いあたりの数少ない砂浜に
波に削られた「赤い玄武岩」と「苦労粘板岩」の実物が見られた


玄武岩は花崗岩の一種で普通の花崗岩より色が濃い
粘板岩は古生代に泥が沈殿して石化したもので「硯」や「屋根瓦」に使われる

この「フレエル岬」の先端部は二股に分かれており
短い方の先に城塞がある

フレエル岬の先端近くから見た『ラット要塞』

ということで
『Fort de la Latte ラット要塞』
に行ってみよう


駐車場からしっかりした道で200m


入り口に「跳ね橋」があるのがお分かりになるだろうか


右端の城門にまず跳ね橋が一つあり
それを渡って「一の丸」(出丸)を突っ切ると次の橋と跳ね橋とで本丸に入る

本丸のさらに先の
一段下がった「二の丸」のテラスには大砲が沖を睨んでいる



「本丸」に入るには
上の左右に突き出した二本の腕木から鎖でぶら下がる橋を
城門の扉の位置の巨大で頑丈な思い木の扉が振り子というか重しの役を持って
上に引き上げる
その重しを止めるストッパーがあった


ここをくぐるとすぐ
メインの建物が残っている


この写真の左半分の建物の端の狭い部分をくぐって中庭に入る形になる



その中にある
守備隊長の居住区画




敷地全体の基礎の中に大きな地下室のような水槽があり
そこに雨水を貯めて沈殿させ浄化する


水の汲みあげ口が丸い井戸のように見えている


『le Donjon 天守の塔』


天守の入り口


天守の最上階の天井のアーチ


内側のアーチで支えられている円蓋の屋根の外側は
こんな風
左に四角い柱みたいなものは暖炉の煙突

この天守の最上階から下を振り返ると
この城塞の構造がよく理解できる


居住用の建物の斜め前
写真で手前の建物は礼拝堂
さらにアップにして「出丸(一の丸)」を見ると


そこそこのスペースがあることがわかる
そこに


パンを焼く石窯もあった

ところで
この城塞の名称が「Fort」となっているので
一応「要塞」と訳す

この「ラ・ラット要塞」から見た『フレエル岬』も見てみよう


あくまで大地は平ら
70mの断崖

※  ※

「ラ・ラット要塞」を後に岬の海岸線をさらに西に進もう

そのうち
『Sables-d'OR-les-Pins サーブル・ドー・レ・パン』
その名も『松林の黄金の砂』
という名の村に至る

その村に着く前に手前の高みから見下ろす


緩やかに弧を描く優美な長い海岸線
ちなみに
前方の岬の向こう側は『エルキィ』という名の小さな漁港

この「松の金紗村」は村というより
海岸にその名の由来と存在意義があるのです


上の写真とは逆向きに見ているが
この明るく輝く砂浜


見てくださいこの砂浜
お天気の良い日差しの強い日には正しく黄金の砂浜でしょう



ご安心ください


松林もちゃんとあります
エメラルド色の海も一緒に


この「松林の黄金の砂海岸」は美しい砂が柔らかく
広くて人があまり来ない
穴場中の穴場なのです

※  ※

そしてこの海岸線の西の岬を回り込むと
『Port d'Erquy エルキィ港』


この灯台のすぐ左が港


そして
岸壁に魚市場がある
一定の時間に競りが行われています


底引き網漁船からの荷下ろし

※  ※

さらに西に数キロ行くと
『Val André ヴァル・アンドレ』

この町は結構大きく
リゾート・タウンとしてしっかり機能している


こんな浜辺もあり


こんなのどかな光景もあり


プレジャー・ボートのハーバーもある

だがしかし

Photo by  marina.com

お分かりだろうか
これは駐車場ではない
たくさんの係留中のボートが引き潮で「陸に上がったマグロ」状態なのです

そこで
2kmほど先『Dahouët ダウエ』地区にもう一つ港がある


ここが入り口で


一番奥にプレジャーボートが係留し
漁船は手前の壁に横付け



こんな感じになってるんですけど
船の位置が低すぎますよね
これは目下引き潮だからなのです
満潮になれば舟べりが岸壁の高さを超えることもある
それでもっと低くなると


ブルターニュの干満の差恐るべし
続く
=  =  =  =  =  ==  =  =  =  =  =
旅行に関しては以下のサイトもどうぞ
https://veritas21.com  『こんな旅がしてみたい 誰も真似のできない旅にプランナー』

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルターニュ紀行 3 <サンマロー から ディナール さらに ディナン まで> ランス川に沿って 訪れる

2021-02-12 00:52:13 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 『Dinan ディナン』の街角

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
ランスにあってフランスではない異世界をを訪れよう



「サン・マロー」を離れる
西へ
サンマローの西側の湾は「ランス川」の河口
その反対側へ回ることにする
サンマローを海越しに見ることができるポイントが各所にある








やはり
サンマローは海から見るのが一番美しい

「ランス川」を渡るときに
非常に珍しいものに出会うことになります

『Barrage de la Rance ランス川堰』

この橋には二つの役割がある
一番目は船の通行用の堰
干満の潮位差の激しいブルターニュなので
この橋でランス川の水位を保ちながら
船の通行の際に「閘門」の役を果たして船体を上下して通行させる
2番目の役割は「潮力発電所」
干満の差が最大13,5mという激しさということは潮の流れる速度も速い
その両方を利用して最大出力24万kw
年間500Gwの発電量を維持している



向こう岸に渡ると
『Dinard ディナール』という町


町の中心部には高級な大きなホテルもカジノもあり
かつ
美しい小さなビーチがたくさんあって
人気の高い理リゾートとなっている

『Plage du Port-Rou /  Plage de Saint-Enogat』

半分引き潮になりかかって
「ポー・リゥ・ビーチ」と「サン・テノガ・ビーチ」とが
一つに繋がりかかっている

『Plage de l'Ecluse』

もう一つ別のビーチ『エクリューズ・ビーチ』の引き潮
向こう側の岬に
立派な館のような戸建てが並んでいるのがお分かりだろうか
ここ「ディナール」は
サン・マローも遠望でき19世紀にナポレオン3世時代に人気が高まった

元来フランスの王侯貴族は
宮殿内の舞踏会や各種も容姿ものと
宮廷男女の秘め事が娯楽であったのに対して
英国は元来「領地」で狩猟や馬の飼育など戸外の活動が好まれ
「カントリー・ジェントルマン(上流階級)」
と呼ばれていた
彼らはブリテン島の悪天候を嫌って地中海岸の漁村を
自分たち専用の避暑避寒用の別荘地に開発したりしているうちに
フランスの上流階級にもそれが影響して
リゾートで休暇をす過ごす発想が生まれて行ったのです


というわけで宮廷の主人が休暇に来るようになると
その他ヨーロッパ中から王侯貴族が入れ替わり立ち替わり訪れ
産業革命で財をなした裕福な市民たちのも別荘を構えるようになっていった

『Villa Eugénie ゥージェニーのヴィラ』

ナポレオン3世の后ゥージェニー皇后のための別荘

『Villa Reine Hortance オルタンス王妃のヴィラ』

皇帝ナポレオンの妻ジョゼフィーヌ・ド・ボーアルネの前夫との娘
でナポレオンの末弟オーラント国王「ルイ・ナポレオン」の妃
ナポレオン3世の母『オルタンス』
の別荘
ここはホテルになっていてまるで貴族のお屋敷の民宿みたいな雰囲気
大好きなのですが
血待ったのはずいぶん昔で写真も見つからないので今回なご紹介はしません

その他にも






などなど目の保養になる光景が続きます


これらのヴィラは
19世紀後半に一部のお金持ちの間に起こった懐古趣味の
『Neo-Gothique 新ゴシック様式』
の例で
この最後の写真のものなど耐波基礎工事も中世のアーチ風にしている

海の前から離れて町中に行っても
歴史を感じさせる建築物も結構残っている

『Manpoir du vicomté ディナール子爵領主館』




『Ancienne Priuré 旧小修道院』

『Maison du Prince-Noir エドワード黒太子の館』


ここ
「ディナール」を発って南に「ランス川」の左岸を15kmも下ると

※  ※

『Dinan ディナン』という町に至る

その町こそ
百年戦争の際
攻勢をかけるイングランド王家の大群を何度も撃退し
後半の「ジャンヌ・ダルク」と並んで
前半の英雄と称えられる
『ベルトラン・デュ・ゲクラン』の父親の領地なのです



彼はフランス全土でイングランド国王軍と戦い勝利を続け
フランス各地方の王室軍元帥に任命され
エドワード黒太子を破ったのち
黒太子を応援した異母弟ペドロ1世の悪政に反抗したエンリケを助けるべく
カスティーリア継承戦争にも参戦して勝利し
エンリケから「カスティーリア」の王位を送られた
最終的にはフランス王国軍総司令官になり
戦場で病没した際
国王シャルル5世は歴代フランス国王の霊廟に葬る命令を出し
その時
彼の心臓が「ディナン」の大聖堂に収められた


『Basilique Saint-Sauveur de Dinan 救世主バジリカ聖堂』

具体的には説明しませんが
典型的なブルターニュの教会の様式で作られています


正面3つの扉口は一番古くて11世紀ロマネスクの部分



そもそも教会は
土地の事情が許す限り十字架を地面に置いた平面図にする
まず聖地エルサレムを向くように東向きに十字架の頭部を建て
そこだけを神様に捧げる儀式「献堂式」を行って
そこを教会として使いながら工事を続行し
十字架の横軸を作ってから縦軸を伸ばして
最後に西側の先端に正面扉口を開けて完成となる

そこまで行くと数十年とは100年以上経っているので
より大きな教会に建て直すことがあり
十字架の頭から再度工事をを始め
頭部だけで後の工事は行われなかった
という好例
内陣という十字架の頭部だけ屋根が高く大規模
横軸と縦の身廊(本堂)部分は規模が小さいのが一目でわかる


内部の身廊部の天井は木で葺いてある
奥の内陣は後から作り直した背の高いゴシックなので天井は見えない



デュ・ゲクラン大元帥の心臓墓碑のレプリカ



十字架の頭部の外側「外陣」部




中心部は木組みの家がかなり残っている
ノルマンディーとアルザスは
建築に適した石材が多くなかったので近代まで気の梁と柱の家を建て続けたが
それ以外の地方は16世紀までで国政の家はやめて石造りに変わっていく
特にブルターニュは硬い玄武岩の産地なので
木組みの家を建てるのは15世紀まで








この左の淡い灰緑色の柱と梁の建物はレストランになっていて
外観と同じような古色蒼然としたエキゾティックな内装の中で
質の高い郷土料理を出してくれる
オススメの店です

ところでこの町は高台にあって町の中心から四方に下り坂になっているが
特に教会の裏側は断崖絶壁


教会からやや遠ざかった位置の写真です
真裏から見ると


 これが
あの「潮汐発電所」のあった『ランス川』なのです
川口から10kmほどはまるで狭い入り江みたいなのですが
それより上流に来ると急に狭くなる

その川の両岸の部分を『下の町』と呼びます
河川港として使われているのです



左に見える高架橋は県道
その手前に500年ほど前の石橋が架かっている




県道の高架橋をくぐって振り返ると
それをくぐって振り返ると



川はすでにここまで狭くなっている
もう少し上流には1000年くらい前のロマネスクの橋も残っている





上の町から車の通れる通りで降りてゆくことも出来るが
直接降る道もあります



町の東側は急な崖
川のない西側は緩やかに下れて
両方とも城壁が残っている

『Repmart ouest et Tour de Lesquen 西側の城壁とレクアンの塔』

町の北側がサン・マローだから
『Porte St-Malo サン・マロー門』

町の南には城址







空堀を渡る橋と
天守と思われる頑丈な塔が残るのみ

では
次回は次の目的地に向かいましょう
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
皆様方のご感想やご意見ご要望など何でもお待ちしています
右下の「コメント」ボタン
次に「コメントを送信する」ボタンで記入頁に移ります
旅行の動きや手配二ご興味のある方は以下のサイトもご覧ください
https://veritas21.com  『こんな旅がしてみたい 誰も真似の出来ない旅のプランナー』
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルターニュ紀行 2 <カンカル から 歴史の舞台となった港町 サン・マロー へ>

2021-02-11 00:06:04 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『Ile Du Guesclin デュ・ゲクラン島』

荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界をを訪れよう


カンカルを発って海岸に沿って走る
夏場は野生の草花が群生して咲き誇っている


ブルターニュ北側のここらあたりは
『Côte emeraude エメラルド海岸』と呼ばれる
地中海の『Côte d'Azur 紺碧海岸』と比較して
海面が緑色に見えるところからそういう名前がついたようだ

ハイカーたちが歩いているところは断崖の先端

そして北側のブルターニュ独特の複雑に切れ込んだ海岸線で
陸地は真っ平ら

この黄色い花は不明だが
時期と場所によっては「エリカ」も自生しているのです

やがて小さな岬がある
『Pointe de Grouin グルーアン岬』


一番先まで行ってみると


遠目にはわからないが地形は非常に複雑
そして
お約束の党に岬に先端の先には岩礁があり
灯台が立っている

この細長い岬の右隣
すぐ手の届きそうな位置に細長い岩だらけの島がある


それもかつては別の岬だったに違いない
何千年かの波の侵食で陸から切り離されてしまったに違いない
先端にあるいくつもの岩礁も同じだ

さらに西に進む
海岸線が入り組んでいるので曲がりくねって進む時に
時間によって
こんな光景に出っくわす


小さな湾が
引き潮で陸地になってしまっているのです

往々にして
数多くのボートがゴロンと転がっている光景もごく普通のこと

そして
巻頭写真のこの島が見えてくる

『Ile Du Guesclin デュ・ゲクラン島』

百年戦争の際
繰り返し行われたイングランド軍の総攻撃からモンサンミッシェルをを護り抜いた
フランス王家が圧倒的に不利で会った百年戦争前半の
フランス王国のヒーロー『ベルトラン・デュゲクラン』の先祖が所有し
城塞を建てていた
この小さな島も
干潮時には一部で陸と繋がってしまうのです

そうこうしているうちに
大型量販店の看板などが身につきはじめて町に近づいていくのを感じてくる

ブルターニュの歴史的港町サン・マローです

まず隣接する手前の町
『Paramé パラメ』

ここは
今日の目的地『サン・マロー』の「字(あざ)区画」です


サン・マローの城の城壁の角からみた
「パラメ」の海岸線
右中央部の黒い影あたりから向こうがパラメ
こちら側がサン・マロー

実はパラメは海岸に道路がない
道路に沿って小さなホテルや民家や集合住宅が並んでいて
その奥が海岸に面しているのです
家並みの途切れるところから海岸が見えるのです


こんなだったり


こんなだったり


夕刻で波が荒れ始めていたり

でも通りを走っていると
狭い隙間の奥を覗く余裕なだないのでほとんど気がつかない

海の方から見ると


山見が並ぶあたりは
激しい波に対抗する石垣の海岸線

「サン・マロー」は歴史的にも有名で城壁に囲まれた存在感が
多くの観光客を惹きつけるが
海岸はあまりない
重錘に海岸で遊ぶのは
長い海岸線を持つこの「パラメ」ということになる
従って

カジノ(左) グラン・ホテル(右)

カジノと大きなホテルはここ「パラメ」の海岸にある

サンマロー市役所パラメ支庁舎

役場は典型的なブルターニュの建築で非常に美しい


では
いよいよ『Saint-Malo サン・マロー』を訪れるとしよう
一言で言えば一周完全に城壁で囲まれた城郭都市である旧市街と
外側に広がった新しい街並みに
町の規模にしては大規模な港湾施設
ということになる


右下のグレイの部分がかつての城で
現在は市庁舎と歴史博物館が使っている


城壁越しに城の天守が見える
正面の巨大な丸い塔は城の城壁の防御の塔の一つ
その横を曲がると町に入る城門の一つがある

『Porte St-Vincent サン・ヴァンサンの門』



城の大手門

城門をくぐって旧市街に入ったらさらに城の門がある

つまり城壁に囲まれた城を起点に
そこから町を城壁が囲んでいるという中世のままの構造


この門を入り
すぐ右に曲がると目の前の広場
右は上の市庁舎の門になっている城の大手門で


正面突き当たりの左に二軒目の建物は
18世紀後半
宮廷人で政治家で文学者だった
『François=René de la Châtraubriand フランソワ=ルネ・ド・ラ・シャトーブリアン』
の生家
現在はホテルになっている
牛フィレをベーコンで巻いて焼くステーキの名前の由来と言われるが
それは俗説にすぎない


旧市街は
狭い城壁の中とはいえ"都市"なので五階建てくらいの

高い建物が
狭い通りの両側に並ぶ



城門をくぐってすぐは
おみやげ屋さんやレストランのいわゆる観光的な通りだが
すぐ普通の各種の商店が並ぶ普通の綺麗な町並みと変わり
常にカモメの鳴き声が聞こえる



上に掲載した地図の下側は
イヴェントの際は巨大な帆船が何隻も入れる港の船泊まり
平素は
夏はヨットやプレジャーボート
冬は貨物船が係留している



そこに面した城壁の上に
城壁内に立ち並ぶ建物の屋根の上に
ひときわ高く大聖堂の尖塔が遠くからでも見える



その真ん中にあるのが『グランド・ポルト 大門』

大門

入ってまっすぐ行くと
程なく


『Cathédrale Saint-Vincent 聖ヴァンサン大聖堂』

これは斜め側面
正面など道幅が狭くたかさは高すぎて
全く写せません



ギリギリでこんな感じです



この「サン・マロー」は
フランスの航海史上非常に重要な役割を果たした

16世紀初頭
この町出身の海軍提督『ジャック・カルティエ』が
この港からフランソワ1世王室海軍を率いて大西洋横断に成功し
北米大陸カナダを発見した


城壁のテラスから東の海域を睨んで立つ「ジャック・カルティエ」の銅像


1534年第1回航海の航路


1535〜36年の第二回航海航路

フランスが植民地にしたカナダがその後英国に大半を奪われ
それでも『ケベック州』だけはフランス語圏として残る

『サン・マロー/ケベック協会』
という組織があって
1984年にケベック誕生450年祭が大々的の行われ
多くの双胴ヨットが参加した大西洋横断レースなどが行われた

18世紀末
サンマローを拠点とした私掠船が大西洋全域で大活躍をして
この港町の名声を一気に高めた

『Capitaine Robert Surcouf ロベール・シュークゥ船長』

軽量高速の戦闘艦を私有し
平素は要人を警護つきで海外輸送を請け負ったり
商品を運んだりして生計を立てており
国王の要請に従って「フランス王室海軍」を形成して外国と戦っう

洋上で敵国艦船と遭遇すると
襲って積荷を奪うことを国王から許された「特許状」を行使して財を成す
海賊と訳されることも多いが
覇権争いの時代の海上交通と海軍戦略と対的国経済破壊作戦を担っていたのです
英国にもスペインにもオランダにもいた


1800年
大西洋上で大型砲でハリネズミのように武装して400名の戦闘員が乗り組む
1800トンの英国大型輸送船を
一瞬で制圧してその名を不動のものとした「シュークー船長」の勝利の絵

ジャポンの形容詞で人種や言葉を表す名詞はジャポネというように
サンマローはマルゥーアン(女性形マルゥイーン)といい
スペイン語で読むと「マルヴィナス」
彼らが発見してフランスの植民地となり
その後スペインに奪われ
さらにイギリスが不法に奪ったのが
スペインの植民地から独立して領有権を主張するアルゼンチンと
英国との戦争にまで発展した『マルヴィナス諸島』

この高速戦闘艦を「Corsaire コルセア」と言います
プロペラ機時代の旅客機にコルセア機というのがあった


『コルセア戦闘艦船長の子孫の会』というのがあり
9世紀のコルセアの実艦を修復して観光客の航海を実施してもいます


2時間コースから1日コースまであれこれあります
乗組員は18世紀の服装です



そして
サンマローで欠かせないのが城壁の散歩

Grande Porte (大門)の内側の階段

城壁内にはいると各所に階段があって上に登れます
ほぼ一周でき
各方向で眺めが異なるのが興味深い



激しい荒波を防ぐために
コンクリートの消波ブロックではなく生木をを打ち込むのがこのあたりの伝統

=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
皆様方のご感想ご意見をお待ちします
旅行の実態に関しては以下のサイトにもどうぞ
https://veritas21.com  『こんな旅がしてみたい 誰も真似のできない旅のプランナー』
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルターニュ紀行 1 <荒海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と フランスにあってフランスではない異世界> を訪れよう

2021-02-10 00:58:56 | 素晴らしき世界/フランス/グルメ
ブルターニュ最西端の灯台『Phare de la Vieille』


長らく
南の地中海世界をご案内してきたので
ここいら辺で趣を変え
北のフランス『Bretagne ブルターニュ』を巡ってみることにしよう

極めて大雑把にいえばフランスの輪郭は六角形
それぞれの一辺が直線ではなく
やや内側に弧を描く弓形
右斜め下は単に一本の弓形ではなく
途中で一度飛び出して二度弧を描き
東半分は外側に膨らむ逆向きの弧を描く

左上の角と右上の角とを
それぞれ左右に引っ張って少し伸ばす
それで完璧なフランスになる

左上の線は英仏海峡でイングランド南岸と向き合う
その真ん中あたりが「ノルマンディー」
そのノルマンディーの海岸の西半分は大きな三角形の半島で
「コタンタン半島」
その半島左側(西)の付け根が「モン・サン・ミッシェル湾」


そこから西の先端までが『ブルターニュ』半島と言います
上の地図の青く塗られた部分

特に下の「薄青」の部分は歴史的民族的にはブルターニュ公国の版図
しかし現代の行政区分では「ロワール・アトランティック 大西洋ロワール県」
でブルターニュの4県には含まれない
下の地図では右下の緑の部分




上の地図の右上
三角形の湾「モン・サン・ミッシェル湾」の一番奥のあたりに流れ出る
南から北に「クエノン川」という小さな川があり
そのクエノン川の延長線上の海の位置に『モン・サン・ミッシェル島』がある
その川が
「ノルマンディ公国」と「ブルターニュ公国」との国境だった


これは既に「モン・サン・ミッシェル湾」の中なのですが
クエノン川からの流れに沿って島を見ていて
ここの左側がブルターニュ

モン・サン・ミッシェルから少し引き返して
「ポントルソン」
という小さな町で『クエノン川』を渡ると
いよいよ『ブルターニュ』の土地だ

しばらくは内陸を走るが
やがてモン・サン・ミッシェル湾の湾岸に出る


このような純粋なブルターニュ形式のしっかりした屋敷を
『Chaumiere ショーミエール』
といい
各地に残っていて見つけると楽しいんですよ

湾岸に出ると
海風を受けてこなを軸昔の風車の丸い石の塔が
住居に利用されて残っていたり
こんな家が建っていたりして
エキゾチックさがいやが上にも増してくる

ノルマンディーは硬い石材がないので
木の柱と梁を組み
その間に瓦礫を詰めて漆喰で塗り固める家が基本的だが
ブルターニュは硬い玄武岩の産地なので
石造りの家を建ててきた

そして
道路脇にムール貝や牡蠣を売る売店が数件並んで
その先の右側に
倉庫のような体育館のような建物が数件並んでいるのが見えてきたら
『カンカル』の町の牡蠣とムール貝の養殖場です

敷地に入って行くと


こんな不思議なものが
これ「牡蠣養殖場」の運搬道具なんです

建物の中のプールで卵から孵化させた稚貝を育て
一定の期間が経つと
沖の筏に運んで海中にぶら下げる
干潮時は車輪で走り
満潮時になるとスクリューで走るのです




海岸は北側へと向かい
モンサンミッシェル湾の西端に向かい始めると
道路から海は見えなくなるが右側は崖で
その下あたりが「牡蠣」の養殖海域






逆に左側の小高いあたりには19世紀のお金持ちの別荘などが
見え隠れする

そんな一軒
『Castel Barbe Brulée カステル・バルブ・ブリュレ』

「焦げた頬ヒゲ邸」
思わず名前の由来を想像したくなるような名前の邸宅


そして
そんな何軒かの大邸宅の一つが非常に有名なホテルなんです

『Maison Bricourt Château Richeux』

これにはいわく因縁があるので
後でご紹介します


モンサンミッシェル湾の西の先端に当たる辺り
『Cancal カンカル』という町


この写真の海岸よりもっと先(右)に行くと
こうなってる


実は
ブルターニュは潮汐運動が激しく
遠浅の上に満ち引きの差が非常に大きいので
桟橋がとても長くなる


一番先端の防波堤


海岸沿いの通りはレストランが立ち並び
夏場は観光客で大にぎわいとなる

もちろん牡蠣は一番の人気です


古代ローマ人以来好まれてきた平たくて丸い牡蠣『Belon ブロン』種は
是非試してみるべきブルターニュの名物です

もちろん
牡蠣を売る屋台も何軒も立ち並んでいる




そして街中に面白い銅像がある


牡蠣養殖漁場で
海から上がった牡蠣を出荷のために洗う作業をする女性たちの像
右の女性の
カゴから振るい落とされる水は
ちゃんと本当に水を出す一種の噴水なのです

岬を回った反対側も養殖場で


引き潮になると
こんな光景が面白い



さて
先ほど思わせぶりな書き方をしたホテルのことです
『Maison Bricour Château le Richeux メゾン・ブリクール/シャトー・ル・リシュー』

朝日を浴びる『シャトー・ル・リシュー』

このオテルは
以前「ル・フィガロ紙」の調査で
『フランス人が泊まりたいホテル No.1』に選出された
みんなの憧れの的だったのです

巨匠『オリヴィエ・ローランジェ』が何年もの間3ッ星を誇ったレストラン
『La Maison Bricourt ラ・メゾン・ブリクール』
の宿泊部門でした

メゾン・ブリクールのゲート

レストランはカンカルの町中の住宅地にあり
ホテルは町にに向かう養殖場あたりの丘の上
車で20分ほど離れているという不便さだったにもかかわらず
ブリクールで是非ディナーを食べてみたい
リシュー城に是非泊まりたい
と予約が取れないホテル/レストランだったのですが

ところがローランジェさん
「これ以上3ッ星を維持するために働くのは嫌になった」
とあっさり星を返上してしまったのです
2008年12月15日突如閉店

ミシュランの星が欲しくて料理人は心血を注ぎ
切磋琢磨して星を獲得し
獲得した星を減らされないように心血を注いで努力しているのに
なんと最高の栄誉「3ッ星」を自ら返上など前代未聞のことで
大ニュースとなりました

ローランジェさんはホテルの営業は続け
ホテルのレストランでリラックスした料理を出してくれています
星はありませんが
巨匠の料理というだけあって
お値段の割にはなかなかの内容です













では
やや古くなりますが
閉店直前2008年4月の巨匠の3ッ星のメニューをご紹介しておきます
お皿の数は多いですが
それぞれ二口か三口くらいの量なので食べられるんです
すごく繊細ですし

お口汚しの三種盛り
鴨肉の生ハム メロン人参きゅうりなどの和え物ふう 炙ったイカのサイコロと赤ピーマン


微妙に全部味と香りが違う 磯の貝三種



解明不可能のえも言えぬ芳香のブイヨンで茹でたカニ肉

オマール海老の爪の身



磯の白身小魚とグリーン・アスパラガス

アンコウの唐揚げ風
こんな感じで出てきてテーブルでソースをかけてくれました



小鳩(食用鳩)の胸肉のローストともも肉のグリル


チーズ 五種


デザート その1 柑橘の上にココナツのアイスクリーム


なんだか全く覚えていないお菓子とシャーベット




クリームに乗せたヴァニラ・アイスクリームに 熱いチョコレートソースをかける

このオリヴィエ・ローランジェさんは
「香りの魔術師」と呼ばれていて
シルクロードに沿った様々な異民族のハーヴや香辛料を巧みに使い
素材を邪魔せずに不思議な芳香と美味とを加えてくれる名手
当然素材にも味と香りとがついてをり
ソースには別の味と香りがつけられて
それぞれが相乗効果をもたらして一皿が完成する

3ッ星になって以後のこのシェフの努力を考えると
10年目で「や〜めた」と言って閉店した行動も理解出来るきがするのですが
食べる側から言うと
実にもったいないというか残念というか

でも
現在ホテルで出すパンを焼くことには非常なこだわりと情熱を注いでいらっしゃるとか

そしてディナーの最中に日が沈み始めると
遥か沖合に目を凝らせば

遥か水平線に見える『モン・サン・ミッシェル』の島影

この光景を目にすることもできます
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
皆様方のご意見ご感想やご要望をお待ちしています
右下のコメントボタンからお進みください
具体的な旅行のあれこれに関心がおありでしたら以下のサイトもどうぞ
https://veritas21.com  『こんな旅がしてみたい 誰も真似のできない旅のプランナー』

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パリで美術三昧 キュービストを超えたリアリスト <モンドリアン> を 2019年マルモッタン美術館特別展でたどってみよう

2021-02-09 00:06:27 | 素晴らしき世界/パリ/美術
ピート・モンドリアン『赤と黄と青と黒のコンポジション』1921



20世紀前半の美術史を語るときに不可欠の鬼才
モンドリアン
2019年秋「マルモッタン美術館」の特別展でたどってみよう

名前でピンとこない方々も
この巻頭写真には反応されるのではなかろうか

縦横の太い黒線に囲まれた空間をカラフルに埋めてゆく
格子のサイズの違いはあるが
戦後の世界各地の絵画やポスター
建築装飾や家具調度や食器からモードまで
あらゆる分野で取り入れられたこのパターンこそ
モンドリアンの求めていた結論の作品なのです

特別展では

『二人の人物像』 1908〜09

会場の冒頭にこの作品が飾られていた
世界中に知られたモンドリアンの早初期を知ってもらうために

1872年
『Piet Mondrian ピート・モンドリアン』は
オランダはアメルスフォールトで生を受けた
『Pieter Cornelis Mondoriaan ピェテール・コルネリス・モンドリアアン』
が出生時の姓名

幼少期より親と共に郊外でスケッチをする環境で育ち
1891年20歳から3年間アムステルダムの国立美術アカデミー(美大)に学び
伝統的理論(アカデミスム)を学ぶが
その頃から
パリで一世を風靡していた表現主義や後期印象派などに強く影響され
輪郭線より色彩に重きを置いていたことが現れており
卒業後はアカデミスムのリアリスムから徐々に離れて行く事となる

『幼な子』1900〜01

なんだかルノワールを彷彿とさせる画風
そもそも輪郭がない


『色彩の印象』1905


そして1906年
名前をオランダの綴りからフランス風に
『Piet Mondrian ピート・モンドリアン』
と改める

『ゲイン川 水辺の樹木』1906


『ゲイン川畔の風景』1907


『水辺の森の樹々』1907

そして
1908年からの数年間は
「Luminisme 光線主義」と呼ばれる
ベルギーとオランダ及びスペインの
フランス印象主義に影響を受けた若手画家の同時多発的傾向で
光の追求を
色彩と筆使いでいかに現わせるかを追求した

『赤い木(りんご)』1908〜10


『春の陽光 城の廃墟』1909〜10


『若い女性像』1908

あたかもモディリアーニかドゥランを彷彿とさせる色使いです


『瀕死の向日葵 1』1908

『瀕死の向日葵 2』1908


『アルムユリ 赤い花』1908〜09


『砂丘 1』1909


『砂丘 2』1909

後期印象派の最後の光芒『点描主義』の技法も
取り入れている

『砂丘 3』1909


『砂丘 4』1909


『ウエストカッペルの灯台』1909
部屋のいたるところにある証明ライトの反射を画面に入れないように
無理に斜めの角度で撮らざるをえなかった事ご容赦ください


『ドンブルグの教会』1909


『オオストカッペルの教会』1909


『ウエストカッペレの灯台』1909

1910年になると
ピカソとブラックの「キュービスム」に非常な刺激を受ける
「キュービスム それは 象形か抽象か」
リアリスムを「具象」と訳すと
キュービスムは具象の一表現形態かそれとも抽象表現か
模索しながら彼の表現が変わる

そして1911年
アムステルダムの美術展でキュービスムに触れてショックを受けた

『ゼーラントの鐘楼』1911

この鐘楼は
上に掲げた数年前の
「印象派」風の
「後期印象派点描派」風の
「フォービズム」風の
いずれとも異なっている
「実態の具象を平面に分割再構築する」発想の
萌芽と見て良いんではないだろうか


『女性の肖像』1912


そして人物の肖像画が完全にキュービスムと化している

当然風景描写も変わらざるをえない

『グレーの樹』1911

この「樹木」は背景の色彩的処理が
まだ印象派的なタッチを残しているようだが
次になると

『花の咲くリンゴの木』1912


『風景』1912

もはやポスト印象派としか言いようがなくなっている

『コンポジション 樹木2』1912〜13

そして遂に1912年から2年間パリに滞在

さらに1913年になると
彼はその葛藤に回答を見出した
「抽象と表象の間には間違いなく共存する余地がある」


『コンポジション 13』1913

実はこれも樹木(リンゴの木)
この作品と上述した「グレーの樹」「コンポジション(構成) 樹木2」
そして
次に挙げる作品とは
必然的に同じ感性の流れの中にある

『色彩の平面における楕円形のコンポジション』1914

キュービスム理論に従って
対象の表現を平面的幾何学的な形態への変換する方法に注力する

『大洋 5』1915

その上で
キュービスムが
本来の自分の求める「リアリティー」の表現に到達できない事を感じ
さらにその先を求め始める

父親の訃報にパリからオランダに一時帰郷するが
第一次大戦の勃発で再びパリに戻る事が出来なくなってしまった

『ドゥイヴェンドレシュト付近の農家』1916

具象絵画について
「美しいと思ってくれるなら嬉しい」
「なぜなら自分もまだそれが好きだからだし
好きでいるこことを続けていくだろうから」
「自分の構想はそれ以上に発展しているとはいえ
構想と言う物は人間とともに発展してゆく外面的なものであり
精神という内面的なものは変わらないのだから」

1919年にはパリに戻るが
オランダで多くの芸術家たちと出会い構想を同じくする芸術家集団を作り
雑誌を創刊し
『ネオ・プラスティシスム 新造形主義』を確立する

『格子のコンポジション8 濃色の市松コンポジション』1919

ここで彼は初めて現実の何物にも根ざさない
彼の創作活動の出発点であった

『コンポジション 14』1919

進め方は
風景でも樹木でも構造履のファサード(正面)でもない
単純に画家としての彼の「精神的」なところからの
すべての物事の本質を尊ぶこと
「完璧なる美しさ」を尊ぶために

わずか1年前の

『二本のアラムユリ』1918

と比較すると
彼の突然の開眼が見て取れる
しかも
「花」はモンドリアンにとって
生涯絶えることなく毎日描き続けたモチーフだった
「縦横の線の交差と色彩」に過ぎない『ネオ・プラスティシスム』では
食べていけなかったこともある

しかし本質的には
モンドリアンは新造形主義者『ネオ・プラスティシスト』で
生涯を送る

『色彩範囲のコンポジション』1917


『タブロー』1921

この年1921年
上下左右に直行する縦と横の黒い線と
赤黄青の3色の色彩を使う
『コンポジション』
の作風が完成する

ただ
ナチスの攻勢が強まり
1939年に彼は戦火を避けてロンドンに移る

さらに
ロンドンも空爆が酷くなり始め
1940年にはニューヨークへ再度移住した

『コンポジション 10』1939〜42


『Broadway Boogie Woogie』1942〜43

結局『ピート・モンドリアン』は
ヨーロッパに帰ることなく
1944年2月
滞在地ニューヨークで客死した
ブルックリンの墓地に眠っている

上の『ブロードウエイ・ブギ・ウギ』が遺作となり
書きかけであった大戦の勝利を祝う

『Victry Boogie Woogie』1942〜44

未完で残された

彼の影響は
その後の現代美術に大きな影響を残し
現代でも『ミニマル・アート』『抽象表現主義』などの芸術家たちに
受け継がれている

下の写真は
サンローランの
1966年プレタポルテ春夏コレクション


抽象画も結構面白いんですよ
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
皆様のご感想やご意見ご要望などをお待ちしています
右下の「コメント」ボタンからどうぞ
旅行の実際に興味がある方は以下のサイトもご覧下さい
https://veritas21.com  『こんな旅がしてみたい 誰も真似のできない旅のプランナー』
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パリで美術三昧 <レオナルド・ダ・ヴィンチ> を "没500年記念特別展 ルーヴル美術館2019年秋" で偲ぶ 2

2021-02-05 00:22:06 | 素晴らしき世界/パリ/美術
『世界の救世主』 ダ・ヴィンチ または アトリエ制作 1505〜15


<続き>


数々のダ・ヴィンチならではの特徴の
もう一つ
聖母を含む女性たちの存在

ダ・ヴィンチにとって
生涯追い求めた母のイメージとも言われる
玄妙なる女性の表現



『ジネヴラ・ドゥ・ベンチの肖像』 未完 1475〜76
赤外線写真 ロンドン ナショナル・ギャラリー提供


『聖母子像 果実を持つ聖母 のための習作』ペン画 1478〜80
完成作は個人所蔵 所有者がこのペン画をルーブルで委託展示

鉛の小片で線をつけペンでなぞってインクをかぶせたもの



『聖母子像 組紐を持つマドンナ』 1476〜78
赤外線写真 バイエルン ドゥエルナー・インスティテュート提供


よく見えないが
マリアがイエスに渡そうとしている「組紐」は
(イエスの手足を十字架に固定する)『釘』を暗示しているそうだ

ダヴィンチ以前の聖母子像を理解するために
一点展示があった

『聖母子像』アレッソ・ヴァルドヴィネッティ 1464 ルーヴル所蔵

聖母はそれなりに美しいが
神の母としての気高さや清らかさは感じるが
それとて至高のものではなく
それなのに母の無限の愛は感じ取れない気がする



『聖母子像 ベネディクトのマドンナ』1480〜82
サンクト・ペテルブルク エルミタージュ美術館所蔵

そしてこの聖母子像ときたら
ダ・ヴィンチ特有の性別すら超越したような幽玄なる表情ではなく
なんとも「コケティッシュ」なお母ちゃん
その母親が持つスミレの花に興味を惹かれて触れようとする幼子
二人の間の愛の日常性を感じさせる
ダヴィンチの唯一毛色の違った「聖母子像」だと思う

それ以外の作品での女性の表情は
気高く 高貴で
優しく 美しい
それでいて
触れたくとも永遠に手のとどかない様な
非現実的な
深い悲しみとも取れる「何か」が溢れ出てくるようになる



『女性の頭部』1480〜85 
グレーの台紙に銀の小片で線刻し白の顔料を上塗り ルーヴル所蔵




『セシリア・ガレラーニの肖像 貂を抱く女』1485〜90
赤外線写真のデジタル展示 クラコフ国立美術研究所



『岩窟の聖母の天使のデッサン 習作』1490〜94
トリノ 旧王室図書館所蔵




『ミラノ宮廷の貴婦人肖像 (美しき鉄細工師)』1490〜97 ルーヴル所蔵

上に示した『貂を抱く女』の連作とも言われる女性像
長らく「Belle Ferronière 美しき鉄細工師」と誤って呼ばれてきたが
実はそれは別の作品で
これは高貴な女性の肖像画であったことが最近の研究で判明している




『聖母子像 糸巻きの聖母』1501〜1510? Vers.1 アトリエ制作 個人所蔵



『聖母子像 糸巻きの聖母』1501〜1510? Vers.2
アトリエ制作 エディンバラ ドラムランリング城所蔵

当時の売れっ子絵師は
琳派や狩野派あるいは売れっ子浮世絵師のように
弟子たち多くと分業で仕上げるのが当時のやり方だが
本人が重要な部分を手がけ
周囲を弟子が埋めてゆく

アトリエ制作とは本人が主となって制作にあたるわけではなく
中心部(主人公)を本人が担当しないことも多い

上の二作は
どれもマリアの表情が完璧なダ・ヴィンチとは言い難い
ともに弟子の手で完成されているが
特に後の作品は前のものに比べて聖母自体の深みに欠け
背景の「スフマトー 空気遠近法」の山々も
後者はかなり稚拙だ



『レダ(白鳥の化身)』 1505〜1510 アトリエ制作
フィレンツェ オフィチーナ美術館所蔵



人体研究のみならず
森羅万象にあらゆる事象の研究に励み
植物学を確立し
天体研究は現代の高性能望遠鏡がなければ把握できない
地球の惑星の大きさや
太陽との距離や惑星間の距離をほぼ正確にメモに残している


極め付けが

比例配分上理想的人体構造の数値化をなし図式化した


ペン画 『ウィトリウィウス的比例配分の人体』 1489〜90 
ヴェネティア アカデミア美術館所蔵


実は
このあまりにも名高いペン画は
この特別展のための長い下交渉で貸与が決まっていたものの
開催前になって「脆く長旅に適さない」という貸し出し反対運動が起こり
パリに届かなくなった

特別展の開始3日前に届いたという曰く付きの宝物

ダ・ヴィンチは
古代ローマの作品の分析から「黄金係数」の再発見をなした

自然界に存在するもので
皆が皆
見て美しいと感じるものには自然界の方程式があった
それを会得した上で
古代ギリシア人の天才たちは建築や彫刻を生み出していた
1∶ √2
そこから導き出される比例配分


そして
1480年代になると彼は円熟の域に達していく




『岩窟の聖母』1483〜86 ルーヴル所蔵

この作品は
『ラ・ジョコンド(モナリザ)』(ルーヴル蔵)
『聖アンナと聖母子』(ルーヴル蔵)
『受胎告知』(ウィフィッチ蔵)
と並んでダ・ヴィンチの最高傑作の一枚であり
もう一枚ロンドンにあるのだが
ダヴィンチの指示で弟子が最終的に色付けをやっているので
このヴァージョンとは比べ物にならない

それぞれの登場人物の表現は他の幾つかの作品に流用されている


『女性の頭部 ほつれ髪の女』1500〜1510 パルマ イタリア国立美術館所蔵




『聖アンナと聖母子 または 聖アンナ』 1502〜03 ルーヴル所蔵



『(聖アンナと聖母子の)聖アンナの顔の習作』
英国女王エリザベス二世陛下特別貸与




『聖アンナ 聖母子と洗礼者聖ヨハネ』1500頃
ロンドン ナショナル・ギャラリー所蔵


彼は「遠近感」の再現にも研究に没頭した

一箇所の視点から広がる線上に奥行きを作る
あるいは
奥行きのどこかに消滅点を置くという
旧来の遠近法だけでは飽き足らず
画家の目の位置と描かれる対象物の
中間点のどこかに焦点を結ぶ描き方とか

あるいは光源が示されない環境での「光と闇」の対立的使用


『Saint-Jean Baptoste 洗礼者聖ヨハネ』1508〜19 ルーヴル所蔵

画面には対象人物のみ
背景に前後を感じさせるものは一切なく
ただ闇があるだけ
それで「ヨハネ(あるいはバッカス)」が浮き上がってくる

あるいは
緑豊かな山並みを見るとき
一番手前の山の緑が一番濃く
その後
薄緑 青 薄青 白
と変化する色の見え方を
単なる濃淡だけではなく
それを空気感で表現できれば
消滅点が無くとも奥行きを感じさせてくれる
『スフマトー 空気遠近法』
などなど

上の『聖アンナ』などでそれを確認できる

『解剖学的人間描写』『黄金分割』『空気遠近法』
ダ・ヴィンチの功績は語り尽くせない

しかし残念なことに彼は研究熱心すぎて
水彩絵の具を油で溶いたり
油絵の具を水で溶かしたり
植物性と鉱物性と動物性の絵の具の混在を避け
同一の種類の絵の具だけで書こうとしてみたり
そのため彼の絵は汚れて変色しやすかった
加えて
彼の絵の具の使い方は独特で
非常に塗膜が薄い
他の画家の半分以下の厚みしか無いので
これまでの技術では洗えず
変色しくすんでしまったものばかりだった

従って
レオナルド・ダ・ヴィンチの絵は原色がわからない
書かれた当時の色合いがわからなかった
最近になって
やっと最新技術で汚れを落とし
書かれた当時の色合いが見て取れるようになって来ている


最後に
「真贋論争」について

巻頭の『世界の救世主』だが
これは幾つかのヴァージョンがあるが
いずれもアトリエ細作
あるいは贋作扱いをされてきた

それで
このヴァージョン

『Salvatore Mundi 救世主』1505〜15

2017年のサザビーズのオークションで
なんと1億4千5百万ドルで落札された
美術史上最高額の売買となった
おおよそ180億円ですね

このオークションに先んじる事2年
どこかの権威ある団体が「本物のダ・ヴィンチ」という鑑定結果を出した事で
この値段がついたのだと思われます

購入者は身元を公表していないが
サウジの皇太子か
クエートの太守(エミラ)
またはスイス人ではないかと噂されており
現在スイス地方都市の小さな美術館が保管している

しかし
ルーヴル美術館による赤外線写真分析では
線が継続せず短い線を連続させるやり方は「ダ・ヴィンチのアトリエ制作」
でよく見られる現象としており
解剖学を極めた彼にしては右手の指の交差が不自然
晩年の彼の描く主人公は性別を超える感覚があるがこの救世主はあまりに男性すぎる
等々
ダ・ヴィンチ本人の真筆と断定するには懐疑的な意見が多い

真筆との鑑定は
オークションの売買成立のためではないか
との噂も

 ※

もう一つ
これは今回の特別展ではなく
それに先立つこと半年ほど前に
パリ近郊シャンティイ城の特別展『もう一つのモナリザ展』の主題
『裸のモナリザ』
と呼ばれてきた作品

『裸婦像 裸のジョコンド』インクとクレヨン シャンティイ城所蔵

パリ北方25kmのシャンティイに
ルイ14世の筆頭親族ブルボン=コンデ家の建てた
『シャンティイ城』
の最後の城主「オーマル公爵」が購入した
この裸婦像のための下書きはダ・ヴィンチのアトリエで制作されたもの
だろうと思われてきたようだ

しかしこの作品の完成画を
サンクト・ペテルブルクのエルミタージュが所有しており

エリミタージ所蔵の「裸婦像」の転写銅版画

銅版画の複製権を取得した出版者がフランスで銅版画を販売し
それを手に入れたオーマル公爵が真贋を確かめたいと努力したらしい
その後多くのコピーが製作され
またこの絵から構想を得た作品も多い

『ヴィーナス 裸のジョコンド』1515〜25頃 エルミタージュ所蔵

ダヴィンチの弟子の「サライ」の作であろうと言われている。
この弟子の作品はほとんど知られていない。

『ヴィーナス 美しきガブリエル』16世紀 制作年代不詳

『美しきガブリエル』という愛称で呼ばれてきた作品
ガブリエルとは
国王アンリ4世の側室の『ガブリエル・デストレ』のことと思われる


『ヴィーナス 裸のジョコンド』1515〜25頃 個人所蔵

ダヴィンチのアトリエ制作か
近い弟子の一人の作品と言われている
最新の研究でこの複製はシャンティイ城にある下絵から
作成されたことがわかった


『裸婦 フローラ?』カルロ・アントニオ・プロランチーニ 1620〜30
イタリア ベルガモ カラーラ・アカデミア・フォンダティオーネ所蔵


『浴室の婦人』フランソワ・クルゥエ 1571
ワシントン ナショナル・がラリー・オブ・アート所蔵


『ガブリエル・デストレと妹セザール・デストレ』作者不詳 16世紀フランス ルーヴル所蔵


『サビーナ・ポッパエア像』作者不詳 16世紀フランス
ジュネーヴ レゴ・ジャン・ジャッケ美術・歴史ミュージアム所蔵


キリがないので
この辺りで締めることにしよう

当然最後は真打にご登場願うことになる
そう
『ラ・ジョコンド または モナ・リザ』

『La Joconde   Mona Lisa』

長らく中断したままだったらしい「エリザベート・デッラ・ジョコンダ」夫人の肖像画
とおぼしきこの絵を
彼がなくなる3年前の1516年に
フランス国王フランソワ1世に招かれてフランスに来る際
『聖アンナと聖母子』『洗礼者聖ヨハネ』とともにフランスに持参し
ロワーロ河畔のアンボワーズに落ち着いて3年暮らしたのち
1519年に当地で没した
そのアンボワーズ滞在中に最終的に仕上げたと思われる

その他
『ミラノ宮廷の貴婦人像』『岩窟の聖母』の二点は
先にフランス国王が購入していたので
完成画は20数点しかないと言われるダヴィンチの真筆の
5点をフランスが所有している
その他
滞在中に弟子との共作をもう1点残した

『bacchus バッカス』

これは
かつては「洗礼者ヨハネ またはバッカス」と呼ばれていたが
最近になって(酒神)バッカスに統一
ほぼ焦げ茶色に汚れていたが500年祭を期に修復され
綺麗になりすぎて賛否かしましい状態になってしまった

これと『ラ・ジョコンド』とは特別展ではなく
常設の展示だった

とにかく
ダヴィンチにつては作品数は非常に少なく
語るべき事柄は多すぎる。
この特別展のためにフランス政府はイタリア政府と長年にわたって
交渉を続け
「理想の人体図」を含む7点を借り出し
イタリアで行われるラファエロ特別展のために7点を貸し出している
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする