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草堂

Web Shop草堂で扱う作家、作品の紹介、イベントや新着商品のご案内、店長の周辺雑記を日々つづります。

とくいふとくい 八代目林家正蔵 六代目三遊亭圓生

2016-04-27 | 落語

林家正蔵(八代目)は、寄席の実況録音と無観客のスタジオ録音であまり(というか、ほとんど)出来が違わない、ということに先日気がついた。もう何年もCD(を録音したMP3プレイヤー)で聞いているのに、なんで今まで気がつかなかったか、というと「そのくらい差がない」というのが理由だ。

正蔵の高座(実況版)は、観客の笑い声がひじょうに少ない静かな場合が多くて、注意して聞いていないとスタジオ録音と区別しにくい。『淀五郎』『中村仲蔵』『文七元結』など大ネタでもテンションが途中で落ちないし、『穴どろ』みたいに主人公が酔っ払いという設定でもラクラクこなす集中力は凄い。ほとんどの噺家が無観客のスタジオ録音で苦戦している中で、正蔵のこのパフォーマンスは特筆に値するのではないか(大袈裟?)。

スタジオ録音が下手な落語家の筆頭は、古今亭志ん生かもしれない。最初の一声から、声がよそよそしいんである。早く終わって帰りたい、その心境が透けて見える演じぶり……。「入り込んでない」時の志ん生の典型を聞くようで、それも興味深いが。

完璧な芸が売り物だった六代目三遊亭圓生だが、ライフワークともいえる『圓生百席』は全編スタジオ録音で、聞いてみるとこれが意外とつまらない。圓生は全般にマクラが短く、その代わり本題に入ってしばらくしてから思い出したようにこぼれ話を、寄り道して織り込むことが多い(『大山詣り』など)。それがスタジオ録音では出ないので(あったらあったでわざとらしいが)、魅力半減だ。

圓生がスタジオ録音にこだわった理由が知りたい。

※この記事は、以前の『草堂』Jugemブログを再編集加筆したものです。Jugemブログはhttp://sodo.jugem.jp/で、ご覧になれます。


浜野矩随

2016-04-24 | 落語

またまた、ズルをして……、4年前の正月の記事です。最近になって、志ん生の『浜野矩随』のCDを聞いたので、こんな記事書いたな、と思い出した。文中の、分からなかった彼、が誰だか分からなくなってしまった。

昨晩、NHK教育で『日本の話芸』の特別版を放映していました。竹下景子(髪の毛のボリュームが物凄く、首が潜ってるみたい)の司会が要領を得なくて、だんだんイライラして途中で風呂に入ってしまいましたが。

先代三遊亭圓楽の『浜野矩随(はまののりゆき)』を久しぶりに見ました。圓楽はこの噺を得意にしていただけに、筋立ても笑いも感情表現も(お母さんが死んだ場面で、演者自身が泣いてしまうのはどうかと思うが)安心して聞いていられる完成度の高さを感じました。

以前、ある落語会で『浜野矩随』を演じた若手落語家が、その終演後、兄弟子に
「どうしてお母さんは自殺しちゃうんでしょうね、それが分からなくて……」
と相談というか質問をして、聞かれた兄弟子が
「えっ!おまえ、そこが分かんなくてあの噺をしていたのか!?」
とビックリする、という本人の名誉のために放映していいものか?とさえ思うドキュメンタリーの一場面を見ました(たしか、今の圓楽の襲名に関する番組)。

彼(お母さんの自殺した理由が分からず『浜野矩随』をやった若手落語家)は、圓楽のおそらく最後の弟子で、体調のすぐれない晩年の師匠が命を削って自分の得意ネタを彼に伝授した、筈なんですが、こうなってしまった不幸。
 
やっている人間が分からなかったら、聞く側はどう受け取ればいいのか?

昨日の放送見ましたか?分からなかった彼。


笑うのが落語 十代目桂文治 火焔太鼓

2016-04-23 | 落語

落語が好きです。もともと好きなのが五代目古今亭志ん生なので、人情噺より滑稽噺のほうが落語を聞いた気がする。「上手いね、名人だね~」と褒めるよりも、噺家を「バカだね~」と笑いたい(本当にバカだと思ってはいません、為念)。いま、いちばん好きなのがダントツで春風亭一之輔。かつての噺家では一之輔の大師匠、五代目柳朝の、野蛮で乱暴なのも好き。柳朝と同世代の十代目桂文治も、子ザルみたいな愛嬌があって適度に乱暴(?)でいい。

その文治で、志ん生のオハコ『火焔太鼓』を聞いた。文楽の『明烏』、正蔵の『火事息子』、三木助の『芝浜』、圓生の『包丁』、金馬の『薮入り』小さんの『粗忽長屋』……、かつての名人のオハコは後進の手本になる一方、ヘタに真似できず、かといって独自の工夫をすれば「話を壊した」と不評を買いかねない、憧れであると同時に、おいそれと手の出せない演目だとも言える。

文治は好きな噺家だが、志ん生は大好きだ。好きと好きとがぶつかると、逆に聞きにくいという事態が起こるもんだ。それに文治は、タイプが志ん生に似ている。スピーディな話法、威勢のいい啖呵、ときどき唄い調子になる感じ。芸風だけではなく人柄も、志ん生の息子の馬生や志ん朝より文治のほうが似ているんじゃないか?と落語を聞いていて思うことがある。タイプが違えば「ああ、こういう演じ方もあるのか」という方向で納得する、ということも考えられるが、このケースは正面衝突?まで起こりうる。

いつも落語を聞いているときより、若干緊張気味で聞いた『火炎太鼓』は……、志ん生とほぼ同じ型だった。それより驚いたのはおもしろかった!志ん朝、権太楼、柳朝などの『火炎太鼓』より、さらに志ん生の型に忠実でしかも(志ん生を除けば)CDで聞いた中でいちばん面白かった。文治の力量にあらためて感心したと同時に、志ん生がほぼ全部作ったといわれる『火焔太鼓』という話の素晴らしさにびっくりした。

桂文治の『火焔太鼓』で、終り間際におカミさんが亭主に言う「どうせ追いかけられてきたんだろ、二階の戸棚に隠れておしまいッ」このセリフなんか志ん生以上に面白い。志ん生が言いそうな(実際は言っていない)セリフを新しく入れた個所もあり、そこに文治の工夫を見るが、それが客に志ん生を思い出させ、尚且つオリジナル(志ん生版)より面白いとなれば、これは『志ん生の芸の型』の、立派な継承ではないでしょうか。

そういう意味で、文治の『火焔太鼓』(朝日名人会の収録)は、他の演者のどれよりも若手落語家の手本となる名盤だと思います。ひさしぶりに柳家権太楼の『火焔太鼓』も聞いてみたら2004年2月21日収録で、文治の死去の三週間後だった。だから権太楼は、マクラで文治について思い出話を語っている。実はこの会のトリも文治師匠の予定だった……とも。

「破天荒で型に嵌らない」とか「即興性が強くて真似できない」と、志ん生を片付けないで、これからの落語家には志ん生をより念入りに咀嚼して爆笑落語の素晴らしいかたち(志ん生NewType)を構築してほしいと思います。

文治はやったよ!

※この記事は、以前の『草堂』Jugemブログを再編集加筆したものです。Jugemブログはhttp://sodo.jugem.jp/で、ご覧になれます。