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草堂

Web Shop草堂で扱う作家、作品の紹介、イベントや新着商品のご案内、店長の周辺雑記を日々つづります。

深川の風 吉川潮 芸人小説 人情噺

2017-05-31 | 読書

いまや芸人小説といえば、『火花』で芥川賞を受賞したピースの又吉直樹くんがその筆頭だが、彼の場合は『芸人が書く小説』としてまず注目されたわけで、正岡容や色川武大などのプロが書いた『芸人を描いた小説』とはいささか異なる。吉川潮は芸能評論家でルポライターでもあり、11年間立川流の顧問も務めた。立場としては後者である。

その吉川潮が書いた芸人小説『深川の風』は、鶴賀家鶴之助こと高橋麟太郎の半生記である。四六判で本文253ページ、長編といっていいボリュームだが、なんだろう?じっくり読んだという読後感が湧いてこない。映画やドラマのシナリオ(の粗筋)を追っているようなせわしない印象が残った。少し変わった生い立ちの青年が落語家になる過程を、下町特有の人情を絡めながら落語社会の人間関係も織り交ぜて、と読む前から想像がつく内容、ともいえる。

吉川潮は、五代目春風亭柳朝の一代記『江戸前の男』の著者である。これはよかった。村松友視の『黒い花びら』(水原弘評伝)と並ぶ、芸能人の生涯を描いた名著だ。話は逸れるが、柳朝と水原弘は似ている。育ちも気質も似ているが、人生そのものが何より似ている。こんなふうに生まれ落ちた男は、こんなふうに人生を終わる。それがよくわかる。

『深川の風』の文中でいちばんクサいのは、鶴之助の芸の上での(というより出世の)ライバル、竹の家雀平の設定だ(芸名の設定からして反則ぎみ)。実在の噺家をモデルにしていることは仕方ない?にしても、著者がその噺家を強烈に嫌っていることが、小説の色々なところに現れる。芸が拙いだけならともかく(?)性格の陰険さを強調してしまうのはやり過ぎで、幼稚な感じがする。何を読者に伝えたいのか、疑問だ。

表紙が滝田ゆう、と思ったら違いました。


ファイアボール・ブルース 桐野夏生 女子プロレス 神取忍

2017-01-29 | 読書

ほぼ15年ぶりに再読して、桐野夏生の作風もこの頃とずいぶん変わったなあ、とあらためて思った。特殊な環境設定・人物設定がどんどん過激になって、最近の作品は読むのが少々辛いと思う時がある。

この小説の舞台になった女子プロ団体(本の中ではPWP)LLPWと、その前身のジャパン女子プロの後楽園ホール興行を何回か見に行った。30年近く前のことだ。そしてこの小説とほぼ同じく、神取忍の存在感が他を圧倒していた。

実際に会場に行って試合を見ると、当たり前のことが新鮮に感じられる。試合の終わった若手選手が休む間もなくTシャツに着替え、リング下に待機してセコンドや場内整理を務めている姿に、「青春だなあ……」とこちらまで純真な感慨にふけってしまう。

その、セコンドをしていた若手が、きらきらした目で神取のファイトを見ていたのを思い出した。


坂東眞砂子 眠る魚 未完の絶筆長編

2016-12-02 | 読書

つい先日、桐野夏生の『バラカ』を読み、同じモチーフの『眠る魚』を続けて読んだ。同じモチーフとは、福島原発事故が発生して数年後の日本が舞台になっているということだ。実際に起きた事故を扱いながら、フィクションの体裁をとっているところも共通している。

坂東眞砂子は執筆中の2014年1月に亡くなったので、物語は突然終わる。しかし、物語の『わたし』と坂東眞砂子の境遇(おもに海外で暮らしていたこと、ガンに罹ったこと)が似ているので、その後のストーリーを著者の行く末と重ねて考えてしまう。

死ぬ間際まで書き続けるのが作家の業だろうし、それが名作だろうと凡作だろうと関係ない、書かないほうが不名誉なんだと思った。『眠る魚』は上出来な作品とはいいがたいが、読み終わったときに「坂東眞砂子の読者でよかった」という思いが湧いてくる一冊です。


雪之丞変化(三上於菟吉)の続き

2016-08-29 | 読書

朝日新聞夕刊に連載が始まった直後に映画化の話があったらしく、雪太郎(雪之丞)の父親に『衣笠貞之進』、女掏りお初の情夫に『長二郎』と名付けるなど、三上於菟吉の喜びよう(というか、はしゃぎよう)が文章のあちこちに見られる。

その程度はお遊び、もしくは著者からの挨拶と解釈すべきかもしれない。それも文芸誌に載ったわけでなく、夕刊に連載された娯楽小説だ。いちいち目くじらを立てるほうがオカド違いなのかも。

しかし、著者の三上於菟吉が「林長二郎の雪之丞に、こんなセリフを言わせたい」「衣笠監督に、こんなシャシンを撮ってほしい」感ありありで執筆していたのは、ほぼ間違いないだろう。脚本のト書きを読んでいるような文章が散見される。

三上よりやや前の世代に、岡本綺堂がいる。『半七捕物帳』『三浦老人昔話』などの小説のほかに、歌舞伎の台本も書くなど演劇にも造詣が深い。江戸情緒という点では、彼の書物がかなり濃い。(ついでに言うと、杉浦日向子の本を併せ読むとさらに味わい深い)その岡本綺堂の本を読んでいて、『雪之丞変化』に感じた古さに引っ掛かったことがなかった。

東海林太郎が歌った『むらさき小唄』は、昭和11年封切の映画『雪之丞変化』の主題歌だ。歌詞の三番に出てくる『にせむらさき』『うすぼたん』の意味は、原作を読むと分かった。しかし『忍び会うのも、恋じゃない』(二番)が、雪之丞と浪路の仲を言っているとしたら、小説の内容と異なっている。師匠菊之丞や盗賊闇太郎との交流から見るに、「雪之丞は同性愛者」と取るのが順当な解釈だろう。浪路が親の仇の娘だから、というのでは理屈が勝ちすぎている。

『むらさき小唄』の世界の方が、美しいし濃かった。というのが読後の感想です。


三上於菟吉 雪之丞変化 衣笠貞之助 林長二郎

2016-08-23 | 読書

いま、『雪之丞変化』を読んでいる途中です。図書館で、1971年出版の本を借りました。借り出された跡があまりない感じです。某大手通販サイトで調べてみたら、現在、市販されている本はない模様です。

一年間、朝日新聞夕刊に連載されただけあって、二段組み400超ページのボリュームがある。この当時の作家は加筆修正しなかったのか、内容で重複する部分がけっこうあって(新聞連載のため、やむを得ないが)、たしょう読みにくい。

ストーリーはひじょうに面白い。連載が始まって、すぐに映画化の話が出たのも当然の筋立てだ。映画は衣笠貞之助監督、林長二郎(のちの長谷川一夫)主演で、連載の翌年6月に封切りされた。

しかし、原作の『雪之丞変化』は文章がどうにも古い。古いからダメ、新しければヨシ、とは言わないが、三上於菟吉の文体は時代を超越するほどの名文ではない。その欠点は、やはり『古さ(古くなってしまった)』に由来する。

ほぼ同世代(一歳下)の子母澤寛を読んでも、この手の古さを感じない。それが三上於菟吉の個性といえば、そういうことかもしれぬが、単純に言ってそれが両者の文章力の差で、それが時代を超越するか否かに関わってくる。

1935年と81年後の現代では『読みやすさ』の基準が違っているのかもしれない。しかし、読点の過大であること(読点が読みにくいほど多い、とはどういうことか?)、漢字とひらがな、カタカナの書き分けが上手くない(読みやすくなく、きれいでもない)こと、それと2コマ分の縦棒(なんというのか知らない)が多用されていること(いうまでもなく、読みにくい)。ここらあたりを整理するだけで、ずっと読みやすくなるし、その程度の改作は原文の味、テンポを損なわないと思うが。

これでは、市販されていないのも分かる気がする。でも中身は面白い。誰かなんとかしてくれ。