数年前から昭和10年~20年代の日本映画を見るようになって、その中でも小津安二郎に夢中になった。いや現在も継続しているので、夢中中なのだが、その中でも戦前の初期映画、『出来ごころ』、『浮草物語』、『東京の合唱(コーラス)』、『生れてはみたけれど』などの無声映画、いわゆるサイレントが特に好きだ。
原節子や笠智衆が主演で、いまでは小津の代表作になっている『東京物語』が発表されたのは昭和28年で、第二次世界大戦を跨いでいる、という時間の経過は大きい。小津もシンガポールで抑留され、現場に戻って来るのがかなり遅かった。復帰作の『長屋紳士録』(昭22)は戦前のサイレントと似た雰囲気があるものの、2年後の『晩春』では、小野寺の、間宮に向かって言う台詞「もう、すっかりいいのかい?紀ちゃん」に見られるように、戦争の辛い体験が薄れつつあることが分かる。
この『晩春』から始まって『麦秋』、『東京物語』の、原節子が演じた『紀子三部作』で、いわゆる『小津調』の様式が認識され、「小津の映画はこういうものだ」という観念が、見る側に固定したのだと思う。東京(または鎌倉)の中流家庭で、婚期を逃した娘に縁談話がきて……、みたいな。それに比べると、戦前のサイレントは、よく言えばバラエティーに富み、悪く言えばバラバラで、小津が若いこともあるが、役者も台詞(字幕)も音楽も元気で、イキイキしている。
小津は子役を使うのが好きで、それが「上品な小津調を壊す」と嫌う向きもあるが、菅原秀雄や突貫小僧が大好きな僕からしたら信じられない話だ。ついでに言うと、小津は上品を装っている作品(例:麦秋)の中に、およそご家庭向きとは言えない下ネタを投入する。家族で観覧後、「パパ、あのお寿司の話はどういう意味?」と娘に聞かれて、困惑するお父さん……。佐野周二が言う「変態か?」の台詞など、意味が分からない小学生も「なんか、このおじさん、へんなこと言ってる」と、ニュアンスは伝わる。演じている淡島千景は仕事といいながらセクハラを受けている、と今なら問題になるかもしれない、そういうイジワルを、小津はする人です。
『麦秋』の話が、どんどんしたくなってきた。戦後作られた中でもっとも好きな作品で、その年の芸術祭受賞作品で。冒頭の朝ごはんのシーンのリズムが素晴らしく、勇の蹴飛ばしたパンが二つに見事に割れて、菅井一郎が踏切で青空を見る場面がしみじみしていて、お茶の水の喫茶店の場面は何度も見たし、東山千恵子の「どんなとこに片付くんでしょうね」の声が良くて、僕も『チボー家の人々』読んだよ。
サイレントの話をしようと思って書き始めたけれど、思いがけず『麦秋』にスライドしてしまいました。志ん生の落語みたいですが。1200字を超えてしまったので、また出直してまいります(文楽のマネ)。