11月18日(水)新国立劇場オペラ公演
新国立劇場
【演目】
ベルク/「ヴォツェック」

【配役】
ヴォツェック:トーマス・ヨハネス・マイヤー/鼓手長:エンドリック・ヴォトリッヒ/アンドレス:高野二郎/大尉:フォルカー・フォーゲル/医者:妻屋秀和/第一の徒弟職人:大澤 建/第二の徒弟職人:星野 淳/マリー:ウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネン/マルグレート:山下牧子
【演出】アンドレアス・クリーゲンブルク【美術】ハラルド・トアー 【衣装】アンドレア・シュラート 【照明】シュテファン・ボリガー 【振付】ツェンタ・ヘルテル
【演奏】
ハルトムート・ヘンヒェン指揮 東京フィルハーモニー交響楽団/新国立劇場合唱団
ヴォツェックの上演に接するのは1985年10月以来24年振り。二期会の公演で指揮は若杉弘、「あいまいさや妥協のない立派な演奏に感銘し、照明を巧みに使用し、最後の場面で出たリアルな真っ赤な月にゾッとした…(演出:佐藤信)」と感想を綴っていた。
24年振りに観る「ヴォツェック」では再び若杉弘が指揮ということで楽しみにしていたが、病気のために交替が発表されただけでなく、公演を待たずに故人となってしまった。誠に残念。
若杉に替わってこのオペラの演奏を担ったヘンヒェン指揮の東フィルは、しかし大変レベルの高い素晴らしい音楽を聴かせてくれた。全体にベルクらしい湿感と熱が行き渡り、登場人物の心や場面の状況を人間的な情感(情念的なものも含め)を伴って豊饒な響きで体現し、大切な場面で強烈な印象を与えてくれた。
歌手陣の充実振りも目覚しい。最も心を打ったのはマリー役フォン・デン・シュタイネンの巧みな熱唱と妖艶な美貌。鼓手長を拒む振りをしながら心の底では求めているようなところや、神様へ懺悔しながらも自分を正当化しようとするしたたかさがありありを伝わってきた。ヴォツェック役のマイヤーも立派。振舞いや力のある歌唱から、貧しさやみすぼらしい身上を嘆きつつも情けないキャラクターではなく「いやらしい面」も含め一貫した信条を持つ人間ヴォツェックの姿を伝えていた。他の役どころも皆秀逸。
このオペラでは貧しさゆえに真っ当な人生を送れないことが人の心を歪め、不幸な結末へと追い詰められていく構図や、権力の卑劣さ理不尽さ、或いは肉欲が招く災いなどにスポットが当てられていると思うが、この公演を観て、そんな社会の底辺にいる人々でも強くしたたかに、それぞれの信念を持って生きているのだ、という訴えを感じた。ヴォツェックやマリーからは抑圧された者の哀れな姿とか、狂気ゆえの錯乱した姿よりも、はっきりと自分の境遇を見据えた上で自らの人生を進んでいる姿が心に焼きつくのはお門違いだろうか。
この上演では息子が殆ど常に舞台にいて、全ての状況を見据えているかのように描かれていた。未来を失った可哀想で無垢な子であるはずが、部屋の壁に文字を描くことで発言権を与えられ、母親を「売女」と罵ったり、「お金!」と訴えたり… 溺死した父親を探し当て、無表情にその死骸の上にしばらく腰かけて去って行くシーンは、この子が父親に最後のお別れをしているようにも映り、救いのなさではなく、しっかりと自分の人生を歩んで行くであろうことを予感させた。
演出で最も目立ったのは「水」の扱い。ステージ一面に池のように水が張られ、そこで室内以外のシーンが展開する。これは視覚的な効果だけでなく、水の上を行き交うバシャバシャという音が音楽の一部として扱われているかのようで、ヴォツェックが溺れるところだけでなく「水」が全幕に渡ってキーワードのように扱われていた。日本では「水に流す」とか「水で清める」といった表現がある。ドイツ語では「おじゃんになる」という意味で“ins Wasser fallen”(英語に直訳すれば”fall in water”)という表現ぐらいしか思い当たらない。
水の扱いの意味、或いは何度も登場した黒子達の役割(抑圧された社会の底辺の象徴?)など、謎解きできそうなところがいろいろあったが、実演はおろか「ヴォツェック」に触れること自体24年振りの僕にはそれらは謎のまま終わった(このあたりの解釈は他のブログで語られることを期待しよう)。ではあるが、クリーゲンブルクの演出は感銘深く、オペラの核心が心に突き刺さってきたようで、終幕となったときは熱いものが体を駆け巡った。
劇場を出て隣接する池を見たとき、「ヴォツェックが溺れてやしないか…?」と覗きこんだり、帰り道すれ違う女性がマリーに見えて何やらヘンな思いが胸をかすめたのはもちろんこの公演の仕業だろう…
新国立劇場
【演目】
ベルク/「ヴォツェック」


【配役】
ヴォツェック:トーマス・ヨハネス・マイヤー/鼓手長:エンドリック・ヴォトリッヒ/アンドレス:高野二郎/大尉:フォルカー・フォーゲル/医者:妻屋秀和/第一の徒弟職人:大澤 建/第二の徒弟職人:星野 淳/マリー:ウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネン/マルグレート:山下牧子
【演出】アンドレアス・クリーゲンブルク【美術】ハラルド・トアー 【衣装】アンドレア・シュラート 【照明】シュテファン・ボリガー 【振付】ツェンタ・ヘルテル
【演奏】
ハルトムート・ヘンヒェン指揮 東京フィルハーモニー交響楽団/新国立劇場合唱団
ヴォツェックの上演に接するのは1985年10月以来24年振り。二期会の公演で指揮は若杉弘、「あいまいさや妥協のない立派な演奏に感銘し、照明を巧みに使用し、最後の場面で出たリアルな真っ赤な月にゾッとした…(演出:佐藤信)」と感想を綴っていた。
24年振りに観る「ヴォツェック」では再び若杉弘が指揮ということで楽しみにしていたが、病気のために交替が発表されただけでなく、公演を待たずに故人となってしまった。誠に残念。
若杉に替わってこのオペラの演奏を担ったヘンヒェン指揮の東フィルは、しかし大変レベルの高い素晴らしい音楽を聴かせてくれた。全体にベルクらしい湿感と熱が行き渡り、登場人物の心や場面の状況を人間的な情感(情念的なものも含め)を伴って豊饒な響きで体現し、大切な場面で強烈な印象を与えてくれた。
歌手陣の充実振りも目覚しい。最も心を打ったのはマリー役フォン・デン・シュタイネンの巧みな熱唱と妖艶な美貌。鼓手長を拒む振りをしながら心の底では求めているようなところや、神様へ懺悔しながらも自分を正当化しようとするしたたかさがありありを伝わってきた。ヴォツェック役のマイヤーも立派。振舞いや力のある歌唱から、貧しさやみすぼらしい身上を嘆きつつも情けないキャラクターではなく「いやらしい面」も含め一貫した信条を持つ人間ヴォツェックの姿を伝えていた。他の役どころも皆秀逸。
このオペラでは貧しさゆえに真っ当な人生を送れないことが人の心を歪め、不幸な結末へと追い詰められていく構図や、権力の卑劣さ理不尽さ、或いは肉欲が招く災いなどにスポットが当てられていると思うが、この公演を観て、そんな社会の底辺にいる人々でも強くしたたかに、それぞれの信念を持って生きているのだ、という訴えを感じた。ヴォツェックやマリーからは抑圧された者の哀れな姿とか、狂気ゆえの錯乱した姿よりも、はっきりと自分の境遇を見据えた上で自らの人生を進んでいる姿が心に焼きつくのはお門違いだろうか。
この上演では息子が殆ど常に舞台にいて、全ての状況を見据えているかのように描かれていた。未来を失った可哀想で無垢な子であるはずが、部屋の壁に文字を描くことで発言権を与えられ、母親を「売女」と罵ったり、「お金!」と訴えたり… 溺死した父親を探し当て、無表情にその死骸の上にしばらく腰かけて去って行くシーンは、この子が父親に最後のお別れをしているようにも映り、救いのなさではなく、しっかりと自分の人生を歩んで行くであろうことを予感させた。
演出で最も目立ったのは「水」の扱い。ステージ一面に池のように水が張られ、そこで室内以外のシーンが展開する。これは視覚的な効果だけでなく、水の上を行き交うバシャバシャという音が音楽の一部として扱われているかのようで、ヴォツェックが溺れるところだけでなく「水」が全幕に渡ってキーワードのように扱われていた。日本では「水に流す」とか「水で清める」といった表現がある。ドイツ語では「おじゃんになる」という意味で“ins Wasser fallen”(英語に直訳すれば”fall in water”)という表現ぐらいしか思い当たらない。
水の扱いの意味、或いは何度も登場した黒子達の役割(抑圧された社会の底辺の象徴?)など、謎解きできそうなところがいろいろあったが、実演はおろか「ヴォツェック」に触れること自体24年振りの僕にはそれらは謎のまま終わった(このあたりの解釈は他のブログで語られることを期待しよう)。ではあるが、クリーゲンブルクの演出は感銘深く、オペラの核心が心に突き刺さってきたようで、終幕となったときは熱いものが体を駆け巡った。
劇場を出て隣接する池を見たとき、「ヴォツェックが溺れてやしないか…?」と覗きこんだり、帰り道すれ違う女性がマリーに見えて何やらヘンな思いが胸をかすめたのはもちろんこの公演の仕業だろう…
IANISさん、JUNじさんならここらの謎をクリアしてくれると期待しています。演出の良し悪しのみならず、演出家が何を意図したかったかを解説してくださることを楽しみにしていますね。あ、それから部屋の壁に貼ってあったキリストの磔刑図が3階席からは見ると、キリストが後ろを向いているように見えたのですが確認できませんでした。もしわかったら教えてください!
遅ればせながら最終日に観劇し、一番遅れてショックを受けてます。
いろんな解ききれない謎が残り、それがどう考えても暗い内容なものですから、あんまり考えたくないのですよ。
2時間足らずのオペラに、これだけ内容を詰め込むなんて、音楽の素晴らしさもさることながら、演出における表現意欲に驚愕しております。
あの磔刑のキリストは、私も表か裏かはわからなかったですね。というか、1階席にいながら、視力がますます弱くなっているようで・・・・。遠くも近くも見えなくなってきたわたくしです。
ヘンヒェンの指揮は見事でしたね。
でも、若杉さんの指揮で観たかったところです。
私も、85年の上演は忘れえぬ思い出となっております。ことにあの赤い月は・・・。
今、ようやくヨソ様のブログを読み始めましたが、
本当に評判悪いですねぇ…。でも僕はもう、
ただただ美しい舞台に見惚れておりました。
pocknさんの「自分の境遇を見据えた上で自らの人生を進んでいる」
と云う意見にも同感です。
コメントとTBありがとうございます。早速貴ブログを拝見しました。
何度もヴォツェックの実演に接していらっしゃるPilgramさんが、演出での「水」の扱いに叙情的なものを感じたという点、黒子達はヴォツェックの目に映った外界の世界だった、という説など、なるほどと頷けました。
演奏の方は若杉さんが指揮していたらまた違ったものが出来ていたようにも思いますが、ヘンヒェンの叙情性を醸しだす演奏は、指揮者の演出に対する共感の表れなのかも知れませんね。