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ウィーン町中探訪 その3 ~モーツァルトの眠る聖マルクス墓地を訪ねる~

2012年04月16日 | ウィーン&ベルリン 音楽の旅 2009
モーツァルトの眠る聖マルクス墓地を訪ねる
St. Marxer Friedhof


ザルツブルク生まれのモーツァルトは幼年期からウィーンとの縁は深いが、25歳でザルツブルクと決別し、ウィーンに移り住んだ。そしてウィーンで短い生涯を閉じ、葬られた。

モーツァルトをこよなく愛するpocknは、これまでザルツブルクやウィーンでモーツァルトゆかりの場所をいろいろ訪ねたが、まだ訪ねていない所があった。それは、モーツァルトが葬られたと言われている聖マルクス墓地。モーツァルトの葬式は極めて質素で、共同墓地に埋葬され、その埋葬された位置はどこだかわからない、ということは知っていた。なかでも、麻袋のようなところに入れられたまま共同の墓穴に投げ込まれ、石灰をパラパラかけられておしまい、という映画「アマデウス」の埋葬のシーンはあまりに衝撃的だった。今回は、その埋葬が行なわれた墓地へ絶対に行ってみなければ!と思い、ガイドで調べて出かけた。

ケルントナーリング(Kärntnerring)からシューベルトリング(Schubertring)へ入る手前を右(リングの外側)に出たところにある、シュヴァルツェンベルクプラッツ(Schwarzenbergplatz)という停留所から、71番のトラムに乗り、St.Marx(ザンクト・マルクス)で下車。そこから地図を見ながら歩いたが、標識があまりなくて入口に辿り着くまで結構苦労した。


墓地の入口はレンガ造りの風情のある門。例によって名跡であることを伝えるオーストリアの国旗を模したリボンが飾られていた。聖マルクス墓地は、中央墓地ができたのを機に閉鎖されて放置されていたが、文化財としての価値が見直され、修理・整備されたのち、1937年に史蹟として公開された。

入口を入ったところにお墓の地図が出ている。「モーツァルトの墓(Mozartgrab)」がある場所をチェックして墓地の奥へと真っ直ぐ延びるメインの並木道を歩いて行った。

並木道のほぼ中央、標識に従って左へ行ったところ、低木に囲まれたところにモーツァルトの墓碑がひっそりと建っていた。

墓碑は、上が欠けたように見える円柱に、悲痛な表情を浮かべる「嘆きの天使」が寄り添ったもの。モーツァルトの死後、埋葬場所は不明であったが、1855年になって「高い確率で」埋葬場所が特定されたところに墓碑が建立された。しかしその墓碑は中央墓地に作曲家の墓が集められたときにそちらへ移設され、それから年月を経たあとにこの墓碑が建てられたという。

悲痛な表情を浮かべる天使の姿は、世界中で最も愛されている天才作曲家モーツアルトが、35歳の若さで世を去ってしまったことを嘆き、その埋葬場所もわからないことを嘆いているようにも見えた。花が手向けられたこの記念碑の周りだけ、不思議なオーラが漂っているようで、しばらくの間ここから離れられなくなった。

ようやく訪ねることができたモーツァルト埋葬の地。この記念碑のある場所にモーツァルトが眠っている可能性が高い、ということだが、いまいち根拠が不明瞭だし、もしかして本当は場所が違うかも知れない。そう思って、墓地内をすみずみまでくまなく歩き回ることにした。そうすれば、どこかでモーツァルトがいるところの一番近くを歩いたことになる、と思ったから。

墓地とは言っても、ここは樹木が生い繁り、あちこちにある草地にはヒナゲシやマーガレット、日本では高山植物のキンポウゲなどが咲き競い、自然公園という趣き。実際この墓地は、市民の憩いの場となるような公園としても整備されているという。

4月から5月にかけて、ウィーンでは他に類を見ないほどのライラックの群生が見られるということをあとから知った。5月中旬に訪れたので、ライラックはまだ咲いていたかも…


多くの作曲家が眠る墓地としてはウィーン中央墓地が有名だが、ここにも多くの著名な芸術家、音楽家の墓があった。

ヨハン・シュトラウスⅡ世の弟、ヨーゼフ・シュトラウスと、お姉さん(?)のアンナが眠る墓


ベートーヴェンが変奏曲の主題に採用したディアベルリのお墓はかなり立派


これはモーツァルトの友人の名クラリネット奏者、シュタットラーの墓。モーツァルト晩年の珠玉の名作であるクラリネットの音楽の数々は、このシュタッドラーのために書かれたという意味では功績は大きい。

しかし、ここへ来る前に読み終わったばかりだったブリギッテ・ハーマンの「モーツァルト 生涯とその時代」(Mozart sein Leben und seine Zeit)に、シュタッドラーは友情を傘に二束三文でかの名曲をモーツァルトに書かせた、という話が載っていたのが記憶に新しく、ちょっと複雑な気持ちになった。

その著作中でモーツァルトの臨終の場面と埋葬の様子が綴られているところを以下に訳出しておく。


ブリギッテ・ハーマン著
「モーツァルト 生涯とその時代」
(2006)より

最終章「レクィエム 1791」より(232~234ページ)

夜は容態が悪化し、コンスタンツェが付き添ったが、翌12月4日の朝は、持ち直した様子だった。コンスタンツェの末の妹のゾフィーがモーツァルトの見舞いに来ると、モーツァルトは「ゾフィーちゃん、よく来てくれたね。今夜はずっとここにいておくれよ。僕の最期をみとっておくれ。」と心から訴えた。

ゾフィーはモーツァルトを落ち着かせようとしたが、モーツァルトは「いや、もう死の味を舌先まで感じているんだ。君がいてくれなくちゃあ、誰が僕の大事なコンスタンツェの力になってあげられると言うんだい?」と応じたのだった。

ジュスマイアーは毎日やって来て、レクイエムの仕事をした。曲はラクリモーサ(涙の日)まで進んだ。他の楽章も主声部のスケッチはできた。モーツァルトはジュスマイアーに、まだ書けていない他の声部をどう補ってゆくかを伝えて行った。


ハンガリーの画家ムンカーチの筆による、死の床でレクィエムを歌うモーツァルトと仲間たち

夕刻になって彼らは医者に遣いを送った。モーツァルトの幼馴染みで、長年の主治医だったジークムント・バリザーニは亡くなっていたので、シカネーダーの一座のお抱えの医者が呼ばれたが、実際に往診に来れたのは一座の公演が終わった後だった。医者は燃えるように熱くなった額とこめかみに冷湿布を当て、瀉血(しゃけつ 訳注:血を抜くこと。当時は治療目的でよく行われた)を施した。すると突然の悪寒が患者を襲った。この瀉血が急激な死の引き金になってしまったようだ。ソフィーは「ウォルフガングは最後の最後までレクイエムのティンパニパートを口ずさもうとしていました。今でもその声が聞こえる気がします」と語っている。


モーツァルトが筆を折ったレクィエムの「ラクリモーサ」(涙の日)

それからモーツァルトは意識を失い、間もなくこと切れた。1791年12月5日、午前1時のことだった。死因は「発熱性発疹熱」とされた。

女中のエリーゼが手伝いで呼び出され、エリーゼは近くの居酒屋「銀の蛇」の店員を連れてきた。彼らは遺体に服を着せ、ピアノの傍らの書斎の棺台に乗せた。友人達が、嘆き悲しみながら遺体の周りに次々と集まってきた。ろう人形陳列館の主人がモーツァルトのデスマスクを採った。

28歳で未亡人となったコンスタンツェは苦痛に耐えられず、医者の介助が必要なほどで、人にあれこれ指図することなどできる状態ではなかった。葬儀の手配はゴットフリート・ヴァン・スヴィーテンが取り持った。モーツァルト家には持ち金が60グルデンしかなかったので、3級クラスの最も簡素な葬儀しか行うことはできなかった。この葬儀には、教会での式に8グルデン56クロイツァー、馬車に3グルデンかかった。柩は簡素なトウヒ製だった。

翌12月6日、午後3時には遺体はシュテファン大聖堂の外部、つまりは屋外で、大聖堂の墓所への入口に近い十字架礼拝堂の前で最後の祝福が与えられた。音楽も演奏されないこの短い式には、友人、弟子、親戚らが加わった。コンスタンツェは気分が勝れず家にとどまった。

柩は遺体安置所より運び出され、夕刻6時過ぎになってようやく略式の形で(つまり正装した同行者なしで)聖マルクス墓地に運ばれることになった。ここは市街からは5キロ離れていて、人里離れたなかの悪路を行かねばならなかった。

それでも、モーツァルトの2人の弟子は馬車について行こうとしたのだが、間もなく諦めるしかないとわかった。遺体を運ぶ御者が、後からついてくる弟子達に気を留めることなく馬を全速力で駆って行ったので最早ついて行きようもなくなった。

翌朝の埋葬に際しては埋葬人を除いて他には証人となる者はいなかった。柩は他の5体の遺体と共に立坑に埋葬された。このような埋葬場所には墓石を置くことも禁じられており、花飾りや喪章のリボンさえ禁じられていた。

モーツァルトの柩を乗せた馬車が聖マルクス墓地方面へと市門を抜ける(のちに描かれた想像画)

そのため、私達はモーツァルトの墓がどこにあるのかよくわからず、ただ死者達が、時間も不確かななかで運ばれた大体の場所の見当をつけるしかない。

この埋葬については、ひどい埋葬のされ方だったとよく語られているが、これは取り立てて奇異なことではなく、皇帝ヨーゼフが定めた通りに行われたに過ぎない。つまり、ウィーンで行われていた大袈裟で豪華な葬式を、より簡素で安上がりに行い、市民の負担を軽減するために、皇帝は「埋葬令」を公布したのだ。すなわち、式を行ったあと、柩は窮屈な市街から、夜のうちに郊外に新設された広い墓地へ運ばれ、そこの立坑に、大人4人と子供2人の立ち会いで埋葬されることになっていた。

ヨーゼフ2世は、それどころか、節約のために遺体を柩ではなく袋に入れて埋葬するよう命じた。けれど、ウィーン市民はこれに従わなかったため、この命はお蔵入りとなった。市内の墓地では全て、モーツァルトの居住していた地区を管轄するシュテファン大聖堂に隣接するシュテファン墓地も、衛生上の理由から、ヨーゼフの命が同等に適用された。専用の墓を買うことができる家族だけが、豪華な葬式を執り行うことができた。

もっとも、誰かパトロンでもいれば、モーツァルトのために墓を買うということもあっただろうが、結局私達にわかることは、35歳という若さで死んでしまったことでたいそううろたえてしまっている友人達にとって、死後数時間のあいだに葬式の段取りを行わなければならないというのは、間違いなく負担の大きなことだったということである。

こうしたウィーンの状況とは比べものにならないほど、プラハでは盛大な追悼式が行われた。1791年12月14日、ボヘミア国立劇場のオーケストラ主宰で、豪華なバロック様式の聖ニクラス教会で追悼式が挙行された。鐘楼では30分間に渡って鐘が鳴らされ、聖堂は4000人を越える市民で溢れ返り、追悼用の櫓が組み上げられた。歌手のヨゼファー・ドゥシェックを頂点に、120名からなる選りすぐりのボヘミアの楽士達が死者の栄誉を音楽で讃えた。

ブリギッテ・ハーマン/「モーツァルト 生涯とその時代」
「ザルツブルクの少年時代 1756-1762」その1
「ザルツブルクの少年時代 1756-1762」その2

夭折の作曲家は少なくないが、モーツァルトほどその早い死が惜しまれる作曲家はいないだろう。せめてレクイエムだけでも完成させてほしかった、という気持ちは人類共通の叶わぬ願いかも知れない。ただ、ジュスマイヤーによって完成されたレクイエムには、対旋律の扱いなどで疑問を感じるところもあるものの、この補完部分は単にモーツァルトの弟子の手によるものというより、モーツァルトの魂がジュスマイヤーに乗り移って書かしめた、紛れもないモーツァルトの作品と言うべきであろう。

死に瀕したモーツァルトの、レクイエムへの思いがいかに強いものであったかは、ハーマンの著作からも読み取れる。この思いを面と向かって受け止めたジュスマイヤーが、並々ならぬ使命感を持って成し得た業には、想像できないような見えない力が働いたに違いない。まだ青二才の若い演奏家が、名手の直接の手ほどきを受けた直後だけは見違えるような演奏をすることがあるように… そうした意味において、その後に出たいくつかの補完版とモーツァルトが直接指示したジュスマイヤー版は、はっきりと区別すべきだろう。

モーツァルトがこのような埋葬のされ方をして、どこに眠っているのかも正確には分からなくなってしまったことも、大いに嘆かわしいことではある。しかし、ハーマンの著作にある当時の状況を考えれば、これもまた致し方ないことなのだろう。この世に生を得た作曲家のなかで、モーツァルトほど天上界で音楽を奏でた作曲家は他にはいまい。地上で命を与えられたモーツァルトの体はあくまでも仮の姿、天上から魂が降りてきてしばしの間仮の体に宿り、世界遺産とも言うべき幾多の名曲を書かしめ、また天上に帰って行ったと思えば、借り物にすぎない亡骸の存在などはどうでもいいことのようにも思える。

とは言え、その魂が36年近く宿っていた肉体の名残をこの聖マルクス墓地で感じることは、たくさんいる好きな作曲家の中で唯一別格としてモーツァルトを崇め、愛している僕にとっては、モーツァルトの魂に触れる大切な訪問であった。

聖マルクス墓地の案内サイト(ドイツ語)

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