毛唐もすなるブログといふものを

日本男児もしてみむとてするなり

コンクラーベ

2005-04-08 11:45:18 | 国際
18日から「コンクラーベ」後継法王は… 焦点は出身国とバチカンの姿勢 (産経新聞) - goo ニュース

今日はローマ教皇ヨハネ=パウロ二世の葬儀が行われます。我が国からは川口首相補佐官が参列するわけですが、皇太子殿下も東京教区の司教座教会=東京カテドラル聖マリア大聖堂(ちなみに故・丹下健三設計)で執り行われる追悼ミサに参列されることとなり、これはカトリックの教義的にはバチカンのミサに参列するのと同じことですから一安心です。礼節の国・日本の面目は保たれました。

教皇の葬儀が終われば次の教皇の選挙=コンクラーベです。どこの国から選ばれるかなどということにわたしは全然興味がありませんが、どういう考え方の人物が教皇に選ばれるかには興味があります。ヨハネ=パウロ二世は極めて保守的との専らの評価ですが、それは世俗の流れから見てそうなのであって、カトリック教会がそういう流れに安易に追従することはあってはならないことと考えるからです。世俗の流れが正しい方向を指しているとは必ずしもいえません。ましてや人間が全てを司れるかの如き近代の錯角がまだまだ幅を利かせている現状において、世俗の流れの多くは人間の欲望を可能な限り肯定するという方向に向かいます。さらに歴史的に成立した各種共同体の倫理を欲望追求にとっての障碍とみなしてその解体を試みます。こういうことが果たして正しいことなのか。

世の中の推移に応じて倫理観も変わるというのは事実でしょう。しかしそれを平然と命題化するのはその人に既に倫理観が失われているからではないのでしょうか。わたしはそういう人たちに社会の変革を任せることは到底できません。過去に対する原則的な信頼なしにわたしたちは未来の扉を開くことは出来ないと考えるからです(福田恆存『人間・この劇的なるもの』より)。そういう立場からは、日本人のほとんどにとって馴染みが薄いとはいえ、世界の趨勢に少なからぬ影響力をもつカトリック教会が保守的でなくなるのは、世界にとって決して幸福な結果をもたらさないと考えることになります。それゆえ、カトリック教会がヨハネ=パウロ二世の保守路線を堅持することを願うのです。

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