故ヨハネ・パウロ2世「今すぐ聖人に」 信者に高まる声 (朝日新聞) - goo ニュース
聖人や福者に列することを列聖、列福というそうです。これらに列っせられるためには「奇蹟」が必要だとか。まことに一神教とはこういうもので、神がこの世をつくったのだからこの世の法則を変更できるのも神だけであり、したがって奇蹟がおこればそこに神の力が働いたということになるんでしょう。神の奇蹟と聞いてわたしがおもい浮かべるのは、例えばマザー・テレサの「生き方」などのようなもので、間違っても記事にあるような「マザー・テレサへの祈りで腹部の腫瘍が消えた」といった類のものではありません。わたしにとって、そんなことはどうでもいいことです。それはわたしのような八百万の神の文化に育まれて育った者のみではなく、多分一神教徒であっても近代合理主義に冒された多くの人にとってもそうなのではないでしょうか。
ヨハネ=パウロ二世が聖人や福者に列せられるべき方なのかどうか、わたしは知りません。欧州の政治状況が激変する中で、ローマ教皇には西欧諸国からの政治的に多大な期待があり、それに応えた教皇であることは間違いないでしょう。また、カトリック教会内部においても、教会内部の共産主義運動といっていい「解放の神学」を押さえ込む役割を果たしました。もっとも押さえ込まれた「解放の神学」サイドはまだまだ南米を中心に勢力を保っており、サンパウロの大司教(枢機卿?)が教皇が亡くなって直ぐにヨハネ=パウロ二世の保守路線を変更せよと声明を出したことは象徴的です。
わたしが一見日本と縁もゆかりもなさそうな「解放の神学」を注視するのは、日本のカトリック司教団がその影響を強く受けていると推測されるからです。「解放の神学」はカトリック教会内部での共産主義・社会主義運動ですから、根本にはサヨク思想があります。つまり、歴史・伝統・文化を破壊し、自分らの思うように再構築すればいい、それができると考えているということです。そういう連中は自分達の共同体以外の共同体を解体しようとします。歴史・伝統・文化を共有し、根本的な部分でお互い信頼感をもつ共同体は、連中にとって邪魔な存在だからです。連中は一見美しい言葉を掲げ、合理主義に冒された人間の心に侵入しようとします。合理主義に冒された人間は特に正義が大好きです。したがって彼らは正義を隠れ蓑に勢力を拡大しようとします。正義を売り物にするやつにろくなヤツはいないという常識が失われたから、こういう連中が跋扈するのです。日本においてはアサヒをはじめとする大手マス・メディアがその典型です。
もっとも、宗教勢力は往々にして「正義を語る」もので、それ自体は非難できません。しかし、だからこそ我々には「正義を語る」のと「正義を売り物にする」ことの違いを見分ける目が必要です。さらに宗教側が弁えねばならないことは、「正義を語る」のはいいとしても、政治的な発言をするとなれば、相当慎重な配慮が必要だという点です。正義は劇薬です。それが政治と結びつくとその影響力は甚大なものになりかねないからです。正義を語る者は、その責任の重大さに常に思いを致し、その取り扱いに最大限の配慮をなさねばなりません。然るに、日本のカトリック司教団にそのような配慮を全然感じることができません。その象徴的組織が正義と平和協議会(正平協)です。たとえばこんな声明を出す必要があるのかそもそも疑問に感じます。日本は敗戦し東京裁判を【政治的に】受け容れましたが、それとて戦後60年を経て再検証の機運が高まってきています。そういう中で、宗教勢力が正義を語り(わたしに言わせれば騙り)既存の政治的枠組みを擁護するなど大きなお世話です。
≪参考資料≫
※日本カトリック中央評議会などと北朝鮮との関係図
※正義と平和協議会
聖人や福者に列することを列聖、列福というそうです。これらに列っせられるためには「奇蹟」が必要だとか。まことに一神教とはこういうもので、神がこの世をつくったのだからこの世の法則を変更できるのも神だけであり、したがって奇蹟がおこればそこに神の力が働いたということになるんでしょう。神の奇蹟と聞いてわたしがおもい浮かべるのは、例えばマザー・テレサの「生き方」などのようなもので、間違っても記事にあるような「マザー・テレサへの祈りで腹部の腫瘍が消えた」といった類のものではありません。わたしにとって、そんなことはどうでもいいことです。それはわたしのような八百万の神の文化に育まれて育った者のみではなく、多分一神教徒であっても近代合理主義に冒された多くの人にとってもそうなのではないでしょうか。
ヨハネ=パウロ二世が聖人や福者に列せられるべき方なのかどうか、わたしは知りません。欧州の政治状況が激変する中で、ローマ教皇には西欧諸国からの政治的に多大な期待があり、それに応えた教皇であることは間違いないでしょう。また、カトリック教会内部においても、教会内部の共産主義運動といっていい「解放の神学」を押さえ込む役割を果たしました。もっとも押さえ込まれた「解放の神学」サイドはまだまだ南米を中心に勢力を保っており、サンパウロの大司教(枢機卿?)が教皇が亡くなって直ぐにヨハネ=パウロ二世の保守路線を変更せよと声明を出したことは象徴的です。
わたしが一見日本と縁もゆかりもなさそうな「解放の神学」を注視するのは、日本のカトリック司教団がその影響を強く受けていると推測されるからです。「解放の神学」はカトリック教会内部での共産主義・社会主義運動ですから、根本にはサヨク思想があります。つまり、歴史・伝統・文化を破壊し、自分らの思うように再構築すればいい、それができると考えているということです。そういう連中は自分達の共同体以外の共同体を解体しようとします。歴史・伝統・文化を共有し、根本的な部分でお互い信頼感をもつ共同体は、連中にとって邪魔な存在だからです。連中は一見美しい言葉を掲げ、合理主義に冒された人間の心に侵入しようとします。合理主義に冒された人間は特に正義が大好きです。したがって彼らは正義を隠れ蓑に勢力を拡大しようとします。正義を売り物にするやつにろくなヤツはいないという常識が失われたから、こういう連中が跋扈するのです。日本においてはアサヒをはじめとする大手マス・メディアがその典型です。
もっとも、宗教勢力は往々にして「正義を語る」もので、それ自体は非難できません。しかし、だからこそ我々には「正義を語る」のと「正義を売り物にする」ことの違いを見分ける目が必要です。さらに宗教側が弁えねばならないことは、「正義を語る」のはいいとしても、政治的な発言をするとなれば、相当慎重な配慮が必要だという点です。正義は劇薬です。それが政治と結びつくとその影響力は甚大なものになりかねないからです。正義を語る者は、その責任の重大さに常に思いを致し、その取り扱いに最大限の配慮をなさねばなりません。然るに、日本のカトリック司教団にそのような配慮を全然感じることができません。その象徴的組織が正義と平和協議会(正平協)です。たとえばこんな声明を出す必要があるのかそもそも疑問に感じます。日本は敗戦し東京裁判を【政治的に】受け容れましたが、それとて戦後60年を経て再検証の機運が高まってきています。そういう中で、宗教勢力が正義を語り(わたしに言わせれば騙り)既存の政治的枠組みを擁護するなど大きなお世話です。
≪参考資料≫
※日本カトリック中央評議会などと北朝鮮との関係図
※正義と平和協議会