株式会社プランシードのブログ

株式会社プランシードの社長と社員によるブログです。
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その81.牧さんを偲ぶ会~2012年12月16日~

2012-12-19 11:19:45 | 制作会社社長の憂い漫遊記
年に一度、牧 逸郎キャメラマンを偲んで酒盛りをする。
今回は尼崎の居酒屋に日曜日の夜、大渡 繁夫監督、桜田 純弘カメラマン、
岩崎 和夫プロデューサー、松山 秀行監督と私の5名が集まった。

すでにこのブログでも紹介しているが、牧さんと私は、
20年ほど前に当時としては異色のフリーランス集団
「オフィス・キネティック」で同じ釜の飯を喰うメンバーであった。
私は25歳で映像館というこれもまた異色のプロダクションを
飛び出しフリーになった。
映像館を勧めたのは、ソニーPCL大阪営業所の安達 弘太郎副所長で、
私が最初に入社したソニー系プロダクションで
何度となく安達氏と仕事をしたご縁で、
設立間もない映像館に転職するように勧めた。
まだ大学を卒業して現場について2年しか経っていなかったが、
私は自分のことを「マジで仕事ができるヤツ」と信じてやまなかったので
ステップアップになるならと転職を決めた。
この映像館の企画部長が山田 哲夫氏で、私は2年も映像館に勤めたのに
山田部長とは結局一緒に仕事らしい仕事をしていない。
氏は日本映画新社出身の監督で、フリーを経て映像館の企画部長に就任した。

私は映像館に勤めて2年経ち「フリーになってもやっていける」と信じて
(勘違い?して)、25歳でフリーになった。
それを聞きつけた安達氏が
「ならば日本映画新社(略称:日映)で仕事せい!」と
わずか4年の経験しかない私を、フリーとして日映に紹介してくれた。
日映はPR映画会社のチョー老舗であったが、
ビデオの登場で業界再編が進む中、
フィルム制作から脱却できなかいまま
衰退の道を歩みつつあった。
そんな日映を紹介してくれた安達さんも、
実は日映出身のプロデューサーである。
その安達さんが「日映で仕事をするなら、この男とは仕事しといた方がよい」
と紹介してくれたのが、大渡監督だ。
大渡監督は日映出身であったが、この時はすでにフリーとなっており
日映から依頼を受けて仕事をしていた。
私が日映で最初に頂いた仕事が大渡監督の「大阪市広報映画」の助監督だった。
休む間もなく続いて私が頂いたのが、
久保 義明監督の「阪神水道企業団PR映画」の助監督で、
桜田カメラマンが撮影を担当した。
桜田カメラマンも日映からフリーになり、
しばらく日映を基盤にしていたが、
日映だけではやっていけず他のプロダクションでも仕事をするようになり
私が監督するビデオ作品に2~3本ついていただいている。

岩崎プロデューサーは日映で制作担当をしていたので、
私がもしそのまま日映に居座っていたら商売仇となる関係だったが、
同じ日映の米虫 進副支社長が退社後、
アドボックという制作会社を立ち上げたのを期に、
アドボックの番頭さんに納まった。
実は私が久保監督の助監督として制作した
「阪神水道企業団PR映画」のプロデューサーが米虫氏で、
それがご縁で、アドボックでも米虫氏から仕事を頂くようになった。
アドボックでは私は監督として仕事を頂き、
アドボックでも名作と誉れの高い?
「あの人に届けたいふるさと特急便」(高浜町ケーブルテレビ番組)と、
アドボックが大金をかけて自費出販した「警備員教育ビデオ全5巻」の
監督をさせて頂いた。ちなみにいずれもカメラマンは牧さんが担当している。
しかしながらアドボック番頭の岩崎プロデューサーとは、
ついぞ1本も仕事をしていない。

松山監督は私がアドボックでブイブイいわせていた後に入社した男で、
私とは無縁だが、大渡監督お気に入りの若手監督だ。
彼はアドボックを退社し、
自分でタグプロダクションという会社を立ち上げている。
ホームページを見ると文化映画の香りを残す作品を次々に作っている。
彼を育てた米虫社長をはじめ様々なスタッフと出会ったからか、
安かろう悪かろうの時代に、
文化映画の時代にタイムスリップしたような
不思議な仕事をする会社を立ち上げ、自ら監督をしている粋人だ。


(上段左端が牧さん、右端が私
 下段左端が大渡監督)

偲んでいる当人である牧さんと私は
「足の裏から冥王まで」(井筒 和幸監督)という
日本維新派の演劇記録映画で出会い、
その2年後、私がプロデュースをした
「オムロン(立石電機)研究所紹介ビデオ」で
山崎 佑次監督が牧さんを指名したので、この時初めてタッグを組んだ。
実は牧さんも日映出身のカメラマンで、「足の裏から冥王まで」では、
牧さんの先輩で日映出身の福島カメラマンがA班を担当し、
B班のカメラマンとして牧さんは参加したが、
実質的には井筒 和幸監督と牧さんが仕上げた。
意気投合した井筒 和幸監督は、
その後「真珠玉の男」「ガキ帝国」「ガキ帝国2」と、
牧さんと立て続けに劇場用映画を撮ることになる。
牧さんはPR映画から劇映画まで貪欲に撮りまくる
ハチャメチャなカメラマンとして名を馳せたが、
亡くなるまで軸足は大阪に置き仕事を続けた。

その牧さんが「ガキ帝国2」を撮り終えた頃、
私と映像館を脱藩した中川 幸俊君(VEのちにカメラマン)、
大渡さんと結託した牧さんの4人が日映を縁に出会い、
オフィス・キネティックを立ち上げた。

こうして見ると牧さんを偲ぶ会のメンバーは日映がらみの縁となる。
牧さんや大渡監督のように直接的ではないが、
かくゆう私もフリー初仕事が日映だし、
松山監督が育ったアドボックは、日映の米虫プロデューサーが
立ち上げた会社という不思議な縁である。
だからではないが、牧さん偲ぶ会は毎年たいていこのメンバーでやっている。
PR映画だけでなく劇場映画も撮った牧さんなので
「偲ぶ会やるど~」と声掛けすると、終始がつかなくなるはずだ。
しかしこの会は、大渡さんを核にして日映門下生と
キネティックが中心になり行っている。
従って牧さんは故人ではあるが、
敬意を評してオッサン呼ばわりして呑みまくる。
まるで今でもまだ生きているがごとく…
年齢を聞くと大渡さん63歳、桜田さん60歳とか…しかし話はクソ熱い。
私もかなり熱い方だが、最近冷水を浴びせかけられているせいか、
メンバーの熱さに蒸気が上がるのがわかるほどだ。
久しく感じる心地よい熱さだった。
ついいらぬ近況まで吐露し、
挙げ句の果てに「15日にアップした作品を見てください」と
映画青年のようなことをホザイてしまった。
そして帰りの電車内でさらに不思議な縁を思い出した。

22歳の時に、私では役不足だと私が勤務していた同じソニー系の
ソニーPCL大阪副所長の安達氏と共同プロデュースしたのが
ロイヤルホテル結婚式場案内レーザーディスクだ。
大阪初のレーザーディスクによる製作だったが、
この作品に安達氏が起用したのは、やはり日映出身の岡村 重昭監督だ。
これが縁で、後に私がフリーになったことを知った岡村監督は、
自身で立ち上げたインターコムという会社で私を監督として起用し、
私は数本演出した。
そのインターコムの相談役が、岡村監督の先輩にあたる播磨 晃監督で、
播磨監督もまた日映出身の奇才であった。
私は岡村プロデューサーのサブ兼助監督として播磨 晃監督につき、
名作「京セラヒィロソフィビデオ」を製作している。
播磨監督はその後倒れられ、播磨監督最後の助監督が私になってしました。

閑話休題それはさておき、
「ロイヤルホテル結婚式場案内レーザーディスク」の編集は
東京のソニーPCLで行ったが、その折、安達氏が連れて行ってくれたのが、
映画青年やPR映像の若き制作スタッフが集う渋谷のとある飲み屋だった。
ある監督(すみません名前が思い出せない)を慕って、夜な夜な集まり、
監督に愚痴ったり誉めて貰ったりと、
毎夜仕事終わりに三々五々集まって呑んでいる。
大阪では見たことのない映像作りに立ち向かう若者達の熱さに、
私は驚きと羨望を隠せなかったが、
それがキネティック参加の遠からずの動機にもなった。
いつからだろうか、大阪のスタッフが作品論を戦わせなくなったのは…

あれから20年。
牧さんを偲ぶ会で、
大渡監督は「日映に入ってよかったよ」と
衰退期のドタバタも含め感慨深げに語り、会は終わりとなった。
私も振り返ると、実に多くの日映マンに出会って育ててもらってきた。
「プランシードに出会ってよかった」と思える映像人生を私も歩みたい。
そう願いつつ私は、二日酔いと寝不足の頭をこつきながら、
日をまたいだ月曜の朝に自宅に帰った。

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