通常監督になる場合は、師匠となる監督について助監督で経験を積む。
私の場合、まだ緒についたばかりのビデオ界に入ったので
我流、見様見真、学びはカメラマンであり照明マンだった。
彼らの受け答えで、自分の判断が正しかったのかを探りながら
監督業を学んでいった。しかし、あくまでもカメラマンや照明マンなので
監督としてどうすべきかには答えてくれない。
答えられるようなら彼らは監督になっていたはずである。
またもし私が関西PR界で大監督の一人に称されるなら、
すべて彼らのお陰である(合掌)。
私の30年強の監督生活の中で、
最も仕事をしたのは河西 秀樹カメラマンである。
私よりは10歳ばかり年上で、出はテレビカメラマンである。
ガタイは熊のようで全身筋肉の塊。約10㎏のビデオカメラを手首だけで
振りまわせる腕力を持つ。全盛期、手持ちカメラで船釣り番組を撮った時、
船の向こうに見える水平線が全くブレなかったことから番組ディレクターが
「ちょっとカメラを揺らしながら撮ってください。水平線が全く揺れないので
船の上で撮ったような感じがしない」と言われたとか言われなかったとか…
それほど足腰が屈強だったという伝説である。
(富良野で朝どりのヒグマと記念撮影。
まだ生温かくて突然生き返らないかとビビりながら手を持つ。怖かった…
左が河西カメラマン、後ろで笑うVEと近づかない照明マン)
僭越ながら、私が彼をカメラマンと認めたのは以下のような理由からだった。
撮影技法のひとつに「ズームイン」と「トラックイン 」という手法がある。
「ズームイン」はズームレンズにより被写体をアップする技法。
一方「トラックイン」はカメラが移動して被写体に近づく技法である。
「ズームイン」「トラックイン」とも一見似たように見えるが、
効果的にみれば、「ズームイン」は凝視の効果があるのに対し、
「トラックイン」は人間の視覚に準じた効果が得られる。
別の見方をすれば「ズームイン」は危険な所には近づかず、
遠くからズームレンズを使ってアップするのに対し、
「トラックイン」は危険を顧みずカメラ自らが近付いていきアップにする。
私的にいえば、「ズームイン」は根性ナシで
「トラックイン」はドスケベということになる。
今から30年前の16mmフィルムカメラにもズームレンズはあったものの
基本的には単玉レンズを使っていた。
単玉レンズとは、焦点距離が固定されたレンズでズームレンズと比べ、
レンズの構成枚数が少ないので小型軽量である。
また画像のゆがみ、ひずみを補正しやすい。 などの特長を持つ。
一方ズームレンズは焦点距離を連続的に変化させられるが
重くて大きくなる。
ビデオカメラ登場時は単玉ではなくズームレンズが付いていた。
河西カメラマンは、ズームレンズが付いているにもかかわらず
ズームを使わず、自ら被写体に近づいてアップを撮る。
つまり、手持ちでトラックインをするのである。
まさに河西カメラマンは好奇心の塊!ドスケベなのである!
(「子育ての極意」を私のインタビュー構成で出販ビデオに。
河西カメラマンと私のみ被写体に食い付き、他のスタッフは
モニターを見ながら、まるで観客だ(怒!))
商品PRがデビュー3年余りで、あきてた私は、
以降30年近くにわたって、取材形式のPRに境地を求めるようになった。
インタビューをしまくり、現場で発見しながら作品にしていく。
この手法が面白くなっていくと、従来のPR系カメラマンでは
私のスピードと感覚にはついてこれない。
フィルムの時代、カメラのそばに監督がいて、照明マンがいて、
助手やメイクさんも集まっていた。
なぜならカメラはカメラマンしか覗く事ができなかったため、
レンズ横にいる事でカメラを覗いたのと同じ感覚になれるからである。
そもそもカメラを覗いた所で、レンズ前にはフィルターが付いており
オレンジか青の世界が広がっているだけで、肉眼で見たのとは全く違う。
さらにカメラが回り出すとシャッターが連続で切られるため
素人は何が写っているのかさえわからないのだ。
それがビデオカメラになりカラーモニターを見ると
目で見たのと同じように確認できる。
今では映画もハイビジョンというビデオの進化形になったので
モニターで確認できる。だからモニターの前に監督以下スタッフは集まり、
カメラの横にいるのはカメラマンだけという寂しい状況になっている。
私はこの20年近く、取材物の極意を習得して以来、
ほとんどカメラを覗いた事がない。
「もう少しよって(UP)もらえますか?」
などとカメラマンに指示した所で意味はない。邪魔なだけである。
それよりも大切なのはカメラマンが見ていない所を監督が見る!
この事の方が取材物は大切なのである。
例えば、一生懸命身振り手振りでしゃべる被写体がいるとする。
町場のカメラマンはすぐにズームレンズに手をかけて、身振り手振りを撮る。
その時、監督は身振り手振りの被写体だけでなく、
その被写体が話す相手の表情や、周りの様子に注力しなければならない。
「この人の仕草に、周りの人は感動しているのか?呆れているのか?
相手にされているのか?されていないのか?」などなど
写っていないところにこそ真実が隠されているのだ。
こうなると信頼に足るカメラマンがどうしても必要になる。
器用にズームレンズを使うカメラマンではなく、
自分が被写体に近づいて真相を探るカメラマンでなくてはならない。
新聞記者は鉛筆で記事を書くが、ニュースカメラマンはカメラで記事を書く。
これが、私が河西カメラマンを珍重する理由である。
私の場合、まだ緒についたばかりのビデオ界に入ったので
我流、見様見真、学びはカメラマンであり照明マンだった。
彼らの受け答えで、自分の判断が正しかったのかを探りながら
監督業を学んでいった。しかし、あくまでもカメラマンや照明マンなので
監督としてどうすべきかには答えてくれない。
答えられるようなら彼らは監督になっていたはずである。
またもし私が関西PR界で大監督の一人に称されるなら、
すべて彼らのお陰である(合掌)。
私の30年強の監督生活の中で、
最も仕事をしたのは河西 秀樹カメラマンである。
私よりは10歳ばかり年上で、出はテレビカメラマンである。
ガタイは熊のようで全身筋肉の塊。約10㎏のビデオカメラを手首だけで
振りまわせる腕力を持つ。全盛期、手持ちカメラで船釣り番組を撮った時、
船の向こうに見える水平線が全くブレなかったことから番組ディレクターが
「ちょっとカメラを揺らしながら撮ってください。水平線が全く揺れないので
船の上で撮ったような感じがしない」と言われたとか言われなかったとか…
それほど足腰が屈強だったという伝説である。
(富良野で朝どりのヒグマと記念撮影。
まだ生温かくて突然生き返らないかとビビりながら手を持つ。怖かった…
左が河西カメラマン、後ろで笑うVEと近づかない照明マン)
僭越ながら、私が彼をカメラマンと認めたのは以下のような理由からだった。
撮影技法のひとつに「ズームイン」と「トラックイン 」という手法がある。
「ズームイン」はズームレンズにより被写体をアップする技法。
一方「トラックイン」はカメラが移動して被写体に近づく技法である。
「ズームイン」「トラックイン」とも一見似たように見えるが、
効果的にみれば、「ズームイン」は凝視の効果があるのに対し、
「トラックイン」は人間の視覚に準じた効果が得られる。
別の見方をすれば「ズームイン」は危険な所には近づかず、
遠くからズームレンズを使ってアップするのに対し、
「トラックイン」は危険を顧みずカメラ自らが近付いていきアップにする。
私的にいえば、「ズームイン」は根性ナシで
「トラックイン」はドスケベということになる。
今から30年前の16mmフィルムカメラにもズームレンズはあったものの
基本的には単玉レンズを使っていた。
単玉レンズとは、焦点距離が固定されたレンズでズームレンズと比べ、
レンズの構成枚数が少ないので小型軽量である。
また画像のゆがみ、ひずみを補正しやすい。 などの特長を持つ。
一方ズームレンズは焦点距離を連続的に変化させられるが
重くて大きくなる。
ビデオカメラ登場時は単玉ではなくズームレンズが付いていた。
河西カメラマンは、ズームレンズが付いているにもかかわらず
ズームを使わず、自ら被写体に近づいてアップを撮る。
つまり、手持ちでトラックインをするのである。
まさに河西カメラマンは好奇心の塊!ドスケベなのである!
(「子育ての極意」を私のインタビュー構成で出販ビデオに。
河西カメラマンと私のみ被写体に食い付き、他のスタッフは
モニターを見ながら、まるで観客だ(怒!))
商品PRがデビュー3年余りで、あきてた私は、
以降30年近くにわたって、取材形式のPRに境地を求めるようになった。
インタビューをしまくり、現場で発見しながら作品にしていく。
この手法が面白くなっていくと、従来のPR系カメラマンでは
私のスピードと感覚にはついてこれない。
フィルムの時代、カメラのそばに監督がいて、照明マンがいて、
助手やメイクさんも集まっていた。
なぜならカメラはカメラマンしか覗く事ができなかったため、
レンズ横にいる事でカメラを覗いたのと同じ感覚になれるからである。
そもそもカメラを覗いた所で、レンズ前にはフィルターが付いており
オレンジか青の世界が広がっているだけで、肉眼で見たのとは全く違う。
さらにカメラが回り出すとシャッターが連続で切られるため
素人は何が写っているのかさえわからないのだ。
それがビデオカメラになりカラーモニターを見ると
目で見たのと同じように確認できる。
今では映画もハイビジョンというビデオの進化形になったので
モニターで確認できる。だからモニターの前に監督以下スタッフは集まり、
カメラの横にいるのはカメラマンだけという寂しい状況になっている。
私はこの20年近く、取材物の極意を習得して以来、
ほとんどカメラを覗いた事がない。
「もう少しよって(UP)もらえますか?」
などとカメラマンに指示した所で意味はない。邪魔なだけである。
それよりも大切なのはカメラマンが見ていない所を監督が見る!
この事の方が取材物は大切なのである。
例えば、一生懸命身振り手振りでしゃべる被写体がいるとする。
町場のカメラマンはすぐにズームレンズに手をかけて、身振り手振りを撮る。
その時、監督は身振り手振りの被写体だけでなく、
その被写体が話す相手の表情や、周りの様子に注力しなければならない。
「この人の仕草に、周りの人は感動しているのか?呆れているのか?
相手にされているのか?されていないのか?」などなど
写っていないところにこそ真実が隠されているのだ。
こうなると信頼に足るカメラマンがどうしても必要になる。
器用にズームレンズを使うカメラマンではなく、
自分が被写体に近づいて真相を探るカメラマンでなくてはならない。
新聞記者は鉛筆で記事を書くが、ニュースカメラマンはカメラで記事を書く。
これが、私が河西カメラマンを珍重する理由である。
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