音楽家ピアニスト瀬川玄「ひたすら音楽」

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◆ベートーヴェンとフリーメーソンの関係、宗教観そして「神」~青木やよひ著『ベートーヴェンの生涯』よ

2011年01月23日 | ベートーヴェン Beethoven
青木やよひ著 『ベートーヴェンの生涯』 平凡社新書より抜粋


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それでは、私たちのように非キリスト教文化の中で育った多くの日本人は、ベートーヴェンが祈りの対象としていた〈神〉を、どのような存在として思い描けばよいのだろうか? そのことを一度考えてみる必要がある。

いまこの立場で考えをめぐらせると、そもそもベートーヴェンが生後すぐ洗礼を受けたボンの聖レミギウス教会が、ミノリーテン(フランチェスコ派)系の教会であったことが象徴的意味を持つように思えてくる。それは彼自身が選んだことではないが、アシジの聖フランチェスコを始祖とするこの宗派は、自然への愛好と人間同士の友愛的連帯と、そして異教への寛容を特色としていたからである。しかも彼は、少年の頃から教会のオルガン奏者に憧れ、自ら志願してそこで研鑽を積んでいる。

こうしてベートーヴェンにとって、神は幼い頃から身近な存在であったはずだ。特に彼のように倫理観が強く社会正義に敏感な人間にとって、神は人間の良心のよりどころであり、その唯一の姿なき審判者であり、そしてまた苦難の癒し手として、常に人生の同伴者であったに違いない。ネーフェ(ボン時代の師匠)やリース(愛弟子の家族)などからのフリーメーソン的な強い影響力も、当時の彼にはこうした神の概念を強めることこそあれ、違和感を与えることはなかったと考えられる。この素直な神概念の受容は、彼がウィーンに出たのち、1807年に《ハ長調ミサ》を書いた時にもまだ続いていたと思われる。

しかし、それから12年後に書き始められた《ニ長調ミサ》(《ミサ・ソレムニス》)においてベートーヴェンが向き合ったのは、果たして同じ神だったのだろうか? もちろん私たちは、あの絶望的な『日記』の中で、神によびかけ、また神に訴え、また〈聖なる霊〉の存在について思いをめぐらせているベートーヴェンに度々接してきた。彼を無神論者などと言える者は誰もいない。

しかし同時に私たちは、ベートーヴェンが、古代ギリシャの詩人たちの作品やカントの自然史研究の理論書などの他に、インドの聖典や宗教書などに深く共感し、それらからの引用を数多く『日記』に書き残していたことを知っている。またそこには、フリーメーソン的な暦の数え方が二回しるされているが、『聖書』からの引用は一度もない。その上彼が晩年に書き写して、人生のモットーとして机上に置いていたのも、エジプトのピラミッドに刻まれた碑文の一部だった。こうした彼の精神世界のありようは、正真のキリスト者にとっては〈異教的〉と見えることだろう。

1988年に、『日記』の出版に際してその解説を行ったメイナード・ソロモンは、ベートーヴェンの祈りの対象は、時にはキリスト教的人格神であり、時には多様な非キリスト教的神だったと指摘し、そうしたさまざまな宗教概念に対する彼の自由で偏見のない受容は、ロマン主義と啓蒙主義に典型的なものだと説明している。ここには、ユダヤ人としてのソロモンの好ましい宗教的寛容が見られるが、彼はなぜかロマン・ロランその他の研究者と同様に、ベートーヴェンのフリーメーソン的な側面にはまったく触れていない。

フリーメーソンは弾圧を避けるために、秘密結社として組織を守ってきたため、その全容を述べた歴史書が少なく、時代によってさまざまなイメージが持たれている。だが、発祥はピラミッドを築いたエジプトの石工(建築家)組合と言われ、〈自由・平等・友愛〉の精神をもとに、人間の生きるよりどころとして連綿と続いてきたものと考えられている。

17世紀後半から18世紀にかけて、教会の権威に対する批判としてのフリーメーソンがヨーロッパの知識人の間に広く浸透し、啓蒙主義の普及と共に一つの時代潮流となってゆく。アメリカの独立戦争やフランス革命を支えたのもその精神だった。君主ではオーストリアのヨーゼフ二世やプロイセンのフリードリヒ大王、文学者ではゲーテやシラー、音楽家ではハイドンやモーツァルトなどがフリーメーソンの会員であったことはよく知られているが、ベートーヴェンについては、その入信記録は見つかっていない。

だたベートーヴェンの場合、ボン時代はもとよりウィーンに出てからも、リヒノフスキーやブルンスヴィック、あるいはエルデーディ夫人やズメスカルなど、そのパトロンや友人のほとんどがメーソンであり、彼自身のアイデンティティーにメーソン的な思想基盤があったことは疑いない。それにもかかわらず入信しなかったとすれば、彼は思想信条は共有するが、いかなる集団の掟にも縛られたくないとする独特の自由精神の持主だったと見ることもできよう。そして1812年までは、唯一絶対の〈神〉とその他の多様な〈神々〉とは、彼の信仰心の中で混交しつつ共存していたのではなかったろうか。

しかしあの苦難の6年間(1812~1818)に、ベートーヴェンの思想の地平は中近東を越えてインドにまで拡がっていった。神の概念そのものは「人間の力を超えた宇宙の創造主としての目に見えない存在」であることに変わりはないにしても、祈りの対象を厳格なカトリック信仰の枠内に収めておくことが不可能になりつつあったのではないか。彼が《ミサ》の作曲にあれほどの力業でのぞみながら、悪戦苦闘の4年後にもなお充足感を得られずに終わっているのは、その証であったと思われる。

それゆえ私は、ベートーヴェンが《ミサ》を終えるやいなや《第九》をとり上げたことに、深い意味があったと考えている。そこではじめて彼は、自分の〈内なる神〉の変貌に気づいたのかもしれない。少なくとも、もし《ミサ》で彼の祈りが充足されていたら、《第九》は現在私たちが知るような作品とはならなかったに違いない。

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