2006年ももう残りわずかですね。
こんな年末の時期に、音楽について蘊蓄するのもナンセンスと
感じるのですが、しかし、書きかけの記事を
お蔵入りしてしまうのもなんとも、そして
来年からの新たなスタートをふんぎるためにも、ひとつ
音楽日記を更新させていただき、私なりの2006年の締めを
させていただきたく思います。「モーツァルト」でもって!!
◇◆◇◆
先日の記事で、
モーツァルトMozartの音楽に、
彼の「死への意識」が垣間見れた云々を書きましたが、
それについて、もう一歩踏み込んで考えてみました。
きっかけとなった曲はモーツァルト
《ヴァイオリンソナタ e-moll ホ短調 K.304 (300c)》でした。
二楽章構成というモーツァルトにしては珍しい!?ソナタ。
以前、
人が演奏するのを聴いて「ただ事ではない」音楽だと
直感させられたのですが、
先日ようやく楽譜を手にすることが出来、
それをアルバイテン(作業・勉強)してみたところ・・・
この曲は、
モーツァルトの母親がパリにて死去した際に作曲された曲
だそうです。すなわち、
《ピアノソナタ a-moll イ短調 K.310》と
作曲の動機は重なるわけです。
こちらの《ヴァイオリンソナタ》も「短調」の曲。
モーツァルトの短調は、数が決して多くはないそうですが、
それにしても、存在感の強い作品が多いようです。
I楽章の再現部、
戻ってきた第一テーマは、
冒頭とは異なる和声進行によって
ピアノの荒々しい不響和音に伴奏され、
このようなソナタにおける「異例の事態」に驚愕させられます。
「ただ事ではない」というわけです・・・。
II楽章は終楽章、
思うに、モーツァルトの《ソナタ》において、
この「二楽章構成」という曲は決して多くはないのでは
ないでしょうか。完全に調べられたわけではないのですが、
少なくとも《ピアノソナタ》においては、
「二楽章構成」の曲はないはずです。
ベートーヴェンなら、ピアノ初級者からおなじみの
《ソナタ(ソナチネ?) G-Dur ト長調 op.49-2》を初め、
「二楽章構成」のいくつかの例を挙げることができましょう。
(最後のソナタ《op.111》も二楽章構成)
モーツァルトにおいては・・・どうなのでしょうか。
II楽章コーダCoda、
曲が終わりへと向かい始め、
沢山の「イ音(アポジャトゥーラ)」がほどこされたメロディーが
まるで「すすり鳴き」ように聴こえてきます。
すすり鳴きは高揚して、ついには
怒涛のようなアルページオに流されて
曲は幕を閉じます。
母親の死を嘆く、悲しむ、
それをこの音楽に見出すことは難しくはないでしょう。
命あるものは必ずやいつの日か散る
悲痛なまでの音楽となってモーツァルトからあふれ出た
《ヴァイオリンソナタ》からふと浮かんできたのは、
この作曲者の見る「もののあはれ」が楽曲という形になって、
音楽を通して、今日を生きる我々の心にも共鳴している
のではないかというインスピレーションでした。
「もののあはれ」
我々日本人にとっての古くから親しみのあるとされる
この感覚は、確か、多くの文学作品に見ることができるはずです。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を表す
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
久しくとどまりたる例なし
「もののあはれ」という言葉によって、移りゆく世の無常は
深く静かに我々の中に居場所を見つけるのかもしれません。
そうした感覚は、我々日本人の古くからの文化から
見出すことができるようです。しかしどうやら、
それは日本人だけのものではなく、
時と国境を越えて、
それはあらゆる人間にとっての普遍的な感覚であることを、
モーツァルトの西洋クラシック音楽が我々日本人にも共鳴する
力があるというこの事実が、「もののあはれ」というこの感覚の
普遍性を物語っているように思えてなりません。
2006年モーツァルト・イヤーが過ぎ去っても、
モーツァルトの音楽は我々にそばにいてくれることを願って!
そして皆様にとって、来年2007年が素晴らしい年
となりますよう、お祈り申し上げます。
こんな年末の時期に、音楽について蘊蓄するのもナンセンスと
感じるのですが、しかし、書きかけの記事を
お蔵入りしてしまうのもなんとも、そして
来年からの新たなスタートをふんぎるためにも、ひとつ
音楽日記を更新させていただき、私なりの2006年の締めを
させていただきたく思います。「モーツァルト」でもって!!
◇◆◇◆
先日の記事で、
モーツァルトMozartの音楽に、
彼の「死への意識」が垣間見れた云々を書きましたが、
それについて、もう一歩踏み込んで考えてみました。
きっかけとなった曲はモーツァルト
《ヴァイオリンソナタ e-moll ホ短調 K.304 (300c)》でした。
二楽章構成というモーツァルトにしては珍しい!?ソナタ。
以前、
人が演奏するのを聴いて「ただ事ではない」音楽だと
直感させられたのですが、
先日ようやく楽譜を手にすることが出来、
それをアルバイテン(作業・勉強)してみたところ・・・
この曲は、
モーツァルトの母親がパリにて死去した際に作曲された曲
だそうです。すなわち、
《ピアノソナタ a-moll イ短調 K.310》と
作曲の動機は重なるわけです。
こちらの《ヴァイオリンソナタ》も「短調」の曲。
モーツァルトの短調は、数が決して多くはないそうですが、
それにしても、存在感の強い作品が多いようです。
I楽章の再現部、
戻ってきた第一テーマは、
冒頭とは異なる和声進行によって
ピアノの荒々しい不響和音に伴奏され、
このようなソナタにおける「異例の事態」に驚愕させられます。
「ただ事ではない」というわけです・・・。
II楽章は終楽章、
思うに、モーツァルトの《ソナタ》において、
この「二楽章構成」という曲は決して多くはないのでは
ないでしょうか。完全に調べられたわけではないのですが、
少なくとも《ピアノソナタ》においては、
「二楽章構成」の曲はないはずです。
ベートーヴェンなら、ピアノ初級者からおなじみの
《ソナタ(ソナチネ?) G-Dur ト長調 op.49-2》を初め、
「二楽章構成」のいくつかの例を挙げることができましょう。
(最後のソナタ《op.111》も二楽章構成)
モーツァルトにおいては・・・どうなのでしょうか。
II楽章コーダCoda、
曲が終わりへと向かい始め、
沢山の「イ音(アポジャトゥーラ)」がほどこされたメロディーが
まるで「すすり鳴き」ように聴こえてきます。
すすり鳴きは高揚して、ついには
怒涛のようなアルページオに流されて
曲は幕を閉じます。
母親の死を嘆く、悲しむ、
それをこの音楽に見出すことは難しくはないでしょう。
命あるものは必ずやいつの日か散る
悲痛なまでの音楽となってモーツァルトからあふれ出た
《ヴァイオリンソナタ》からふと浮かんできたのは、
この作曲者の見る「もののあはれ」が楽曲という形になって、
音楽を通して、今日を生きる我々の心にも共鳴している
のではないかというインスピレーションでした。
「もののあはれ」
我々日本人にとっての古くから親しみのあるとされる
この感覚は、確か、多くの文学作品に見ることができるはずです。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を表す
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
久しくとどまりたる例なし
「もののあはれ」という言葉によって、移りゆく世の無常は
深く静かに我々の中に居場所を見つけるのかもしれません。
そうした感覚は、我々日本人の古くからの文化から
見出すことができるようです。しかしどうやら、
それは日本人だけのものではなく、
時と国境を越えて、
それはあらゆる人間にとっての普遍的な感覚であることを、
モーツァルトの西洋クラシック音楽が我々日本人にも共鳴する
力があるというこの事実が、「もののあはれ」というこの感覚の
普遍性を物語っているように思えてなりません。
2006年モーツァルト・イヤーが過ぎ去っても、
モーツァルトの音楽は我々にそばにいてくれることを願って!
そして皆様にとって、来年2007年が素晴らしい年
となりますよう、お祈り申し上げます。