科学というものはただ一粒々々を根気よくあつめるものであり、観察をつみかさね、個々のものから普遍を構成するのである。つまり現象の総量と事実の原野は無限に大きい。(『石さまざま』の序)
— A.Stifter_bot_JP (@AStifter_bot_JP) 2017年3月19日 - 10:46
自然の中の大きなもの、超巨大なものを把握して我がものとするのは容易なことではない。なぜなら我々は、どんなに微小なものでも認められるように拡大レンズは持っていても、純粋な縮小鏡は持っていないからだ。それ故に、精神に優位を与えようとすれば、カールスやネースのような目を持たねばならぬ。
— ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (@J_W_Goethe_jp) 2017年3月18日 - 21:00
「冷笑主義的態度(シニシズム)は、ここでは不要だ。オスカー・ワイルドがかつて述べたように、冷笑家とは、すべてのものの値段は知っていても、どんなものの価値も知らない人間の謂なのだから。」ー『知識人とは何か』 bit.ly/ogOSCY #inbook
— Edward_W_Said (@Edward_W_Said) 2017年3月19日 - 11:41
観察と思考こそは、それが意識化されたものである限り、あらゆる精神行為の二つの出発点である。どんな常識的な判断も、どんな高度の科学研究も、我々の精神のこの二つの柱に支えられている。-自由の哲学-
— ルドルフ・シュタイナー (@R_Steiner_jp) 2017年3月19日 - 11:43
世界心理学。世界理性という存在を前提しないと世界の設計図の説明がつかないように、世界霊を前提しないと有機体の説明をすることはできない。有機体を説明するのに、霊魂や、霊魂と身体の神秘的な結びつきを顧慮しないものは、上手くいかないだろう。 『断章』
— Novalis (@Novalis_bot) 2017年3月19日 - 11:45
詩的な美というように、幾何学な美とか薬学的な美と言ってもいいはずである。"パスカル「パンセ」"
— パスカルbot (@pascal___bot) 2017年3月19日 - 12:04
「私は 自分である事の本質を 感じる。」 そう語る感情は 陽光の明るい世界の中で 光の流れと ひとつになる。 そして 思考の明るさに熱を贈り 人間と世界を かたく ひとつに 結びつけようとする。-魂のこよみ-
— ルドルフ・シュタイナー (@R_Steiner_jp) 2017年3月19日 - 12:03
現代の根本的な幻想、原理的な幻想は、時代の唯物主義的な傾向と密接に関係しています。人々は物質領域について全く間違った考え方をしているのです。この点で、ヨハネ伝18章36節のイエスの言葉「私の王国はこの世のものではない」はますます理解できなくなっています。-悪について-
— ルドルフ・シュタイナー (@R_Steiner_jp) 2017年3月19日 - 12:43
唯物論的思考は霊的な事実に従って語る言葉を、ただ馬鹿げているとしか思いません。古代の見霊能力の認識から生じて、神話、英雄譚、伝承、昔話の中で語られるあの圧倒的なまでに力強いイメージや象徴のどれもこれも、現代ではそれに奇妙な説明が加えられています。私達はそんなところに来てしまった。
— ルドルフ・シュタイナー (@R_Steiner_jp) 2017年3月19日 - 13:13
昨日、僕が改めて気づいたのは、セザンヌの絵に一切のマンネリズムがないことだ。彼は自己のオリジナリティについて何の不安もなく描いている。雑多な自然に接近することによって、自己を喪失する心配は全くなかった。(1902年10月12日妻クララ宛)
— ライナー・マリア・リルケ bot (@rilke_bot) 2017年3月19日 - 13:39