『宇宙の再構成プログラム』

次元変容の旅を通して … 見えてくる世界とは!

印画紙に宇宙創造のシーンを念写!

2009-10-24 20:37:54 | Weblog
 『2001年宇宙の旅』に宇宙創造のシーンが出てくる!
このシーンに、ことのほか私は深い思い入れがある。というのも、1983年に、日立市在住の超能力画家であるK氏に会いにいった。

そこで、氏が突然、私に面白いものを見せるからといって、ポラロイドの印画紙に強く念じたかと思うと、写真は時間と共に、何かの模様を浮き出させた。そして、その模様は次第にはっきりとした宇宙空間らしき風景に変化していった。

そして、次々に念写をしていく内に、なんと一連の 『宇宙創造の連続写真』 になっていったのだ! 氏いわく、”今回の念写は意識的に、「宇宙創造の姿」を念じてみた!”と私に伝えた。

それら、60枚にも及ぶ、念写による連続写真は、正にため息が出るほどの美しさと、崇高な印象さえ与えた。 その連続写真は徐々に模様が変化していくプロセスを映し出し、最後に混沌とした模様から 「宇宙の胎児」(スター・チャイルド)が誕生し、遂にその姿はフェニックス(火の鳥)となって広大な宇宙空間を羽ばたいた。

当時からK氏は、風変わりな印象を与える人物であるが、一般人とは明らかに異なった人生観を持ち、いうなれば、宇宙創造の神々と深い関係を持っていたようである。そのため彼の役割は、宇宙からこの地球へ流れ込む宇宙エネルギーの潮流を調整・管理し、その流れの監視人として送り込まれた存在と私は理解した。

この当時の彼の「宇宙創造の念写」の連続写真を見ると、映画『2001年宇宙の旅』に登場する宇宙創造のプロセスに非常に酷似しているのが分かる。そこで、それらの連続写真と、この映画のシーンを見比べてみるという試みから、今回紹介しようと思う。

映像の途中に、七つの正八面体の物体が宇宙空間を飛行しているシーンが出てくるが、この方たちこそが、古代エジプトの聖典 『エメラルド・タブレット』 の中に出てくる宇宙に君臨する「七人の主」であり、「七つ宇宙のサイクルを管理する主」でもある。それを、私は「プログラムの神々」といっている。


■2001 Space Odyssey - Orbital Halcyon


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■印画紙に宇宙創造のシーンを念写!

「2001年宇宙の旅」ラストシーンの謎!

2009-10-24 17:06:52 | Weblog
 映画「2001年宇宙の旅」のラスト・シーンは、多くの人にとってあまりにも哲学的かつ抽象的であり、未だ多くの謎が含まれ、今日まではっきりと解読できていないのが実情である。そこで今回、「カゴメの原理」からこの謎であるラスト・シーンの解釈を私なりに試みたいと思う。

『2001年宇宙の旅』・・・ラストのシーンでは、宇宙空間を彷徨い、豪邸で食事している老人・・・ボーマン船長本人に出会い、それが彼の目線となり、ベッドに横たわる更に更けた老人を発見、そして目線がまた彼に乗り移り、やがてスターチャイルドとなる。そして目の前にはあのモノリスが不気味に立っている。

超空間を旅した後、双方向の時間が出会う瞬間があると、いったがそれは超未来の自己像である「進化した自分」、あるいは「死に行く自分」と、超過去に遡り「誕生以前の自分」、あるいは「誕生した瞬間の自分」に出会う合一地点がある。

(※)〔カゴメの原理:イラスト1〕 で示したように、鶴と亀が交叉する地点とは、「鏡」の中であり、「鏡」を通してこの二つが出会う。

映画『2001年宇宙の旅』では、この時空の狭間=亜空間が、「白き幻想的な室内」 として、見事に表現されている。私は、そこを 「鏡の間」 として定義付けた。面白いのは、映像の中でも室内の壁に 「鏡」 据え付けられており、一瞬ボーマン船長本人が 「鏡」 としばし向き合うシーンが出てくる。

「カゴメ唄」の中では、”夜明けの晩に、鶴と亀がすべった(出会った)!後ろの正面だあれ!?”というフレーズに対応するシーンである。

ここには、「鶴」である時間的な未来と、「亀」である時間的な過去が出会う(統べる=滑る=交叉する)合一地点があり、まさしく時間のパラドックスが起きる瞬間である。そこは同時に、「生」と「死」の合一地点であり、その結果、永遠性である自己を発見する地点ということでもある。

次に登場する長方形の黒い板である「モノリス」とは、宇宙の創造を司る神々のプログラムを表し、その実行の意思を人類に示している。もともと、宇宙の創造を司る神々の叡智として、宇宙の原理である「イデア」があり、この「イデア」が元で物質の組成である元素~物体の形まで、様々な世界をこれら宇宙の原理に基いて創造してきた。

それがあって、大昔に類人猿から進化して、最終的に人間となり英知を宿してこれたのだ。その英知を人類に与えてきた本家本元の意思こそが、宇宙の神々であり、それをプログラムの神々といって、今回の2012年もこの意思が人類に関与している。

因みに、「モノリス」の幾何学的な解釈として、その比率が1:4:9(1×1、2×2、3×3)という整数の二乗からなる直方体であるが、それらの比率は物質生成の「鍵」を握り、この原理によって物質を生成増殖させ、神々は宇宙をそして世界を創ってきた。進化の過渡期には、この「モノリス」が人類に関与し、様々な「触媒的変化=物質の変成」を起こしてくる。まさしく超科学による「神々の錬金術」である。


[You Tube]  → 『2001: A space odyssey - Ending』
http://www.youtube.com/watch?v=c1IPrx-zC1Y

子宮内宇宙から外宇宙へと出る旅!

2009-10-24 08:28:10 | Weblog
 「マヤの暦」では、「2012年以降が時間の終わり」ということが、よくいわれているが、ただ単純に時間が無くなるというのではなく、2012年以降は時間的な質が、今までの時間感覚からいって、まるで違う質に切り換ると見た方のがよい。

今回の宇宙のプログラムは、「マヤ暦」だけで単純にを捉えても、真の理解は得られない。そこで更なる角度から2012年に起こるプログラムを宇宙的なレベルで捉えてみたいと思う。

2012年以我々は、この宇宙(星々からなる宇宙=第三等級宇宙)を超え、別の外宇宙(第二等級宇宙)へと出る旅をそろそろ準備しなくてはならない。

その旅とは、この宇宙の時空の障壁としての箱(子宮)を超えるための「超空間航行」に入る旅である。

なぜなら、2012年以降にこの宇宙の「時空間の箱」の時間的な満期が訪れ、丁度、母体の中で胎児が十分育つ、十月十日の日を迎えるのと同じ状況に、我々の宇宙も訪れたということ。

これは、まさしく「最大級のイニシエーション」であり、もうじき「生死の軸」にそれぞれの人間が立たされる。

出産とは、胎児にとって生死を賭けたドラマであり、生への歓喜でもある。

この宇宙の時空の壁を超える旅とは、胎児にとってそこは、産まれ出るための「産道」をくぐり抜ける「狭き門」でもあり、そこを通過できる人はごく僅かである。

外宇宙への旅では、内宇宙の障壁を打ち破るための、光速度の限界を超える速度が要求される。

この超光速のスピードで、我々は光り輝く七つのスペクトラムからなる、「七つの宇宙サイクル」を横切ることになるが、最終的に白く煌めく原初宇宙の地点に辿り着く。

このように、「後ろの正面へと向かう旅」は、我々が未だ宇宙に生命として誕生する以前の無限過去の彼方にある。そこは、とても「神聖な領域」でもあるのだ!


そこに・・・何があるのか?!

一者である神、宇宙創造の光。そして、創造の原理である。

今回も、宇宙創造の神々は別の領域に、新たな宇宙を産み出そうとしている。

そこで、我々は再び「神」と出会うことになる!

そして・・・神としての神聖なる自己に目覚める!


『2001年宇宙の旅』にこのシーンがうまく表現されている。

2001: A Space Odyssey (Original Composition)



(※)現在の宇宙は、「第七サイクルの終わり」 に近づいているが、存在のポテンシャルを高めることにより、宇宙を横切る距離の大小が決まってくる。これらの存在(胎児)にとって、産道としての 「七つの宇宙サイクル」 全てを遡り、目出度く、「第一サイクル」 以前の宇宙に出ることが可能となる。

この存在のポテンシャルを高めるシステムとして設定したのが、『次元空間(変容)船』 であり現在、地球の場に働きかけている。その主な目的は、地球生態系と人類を出産可能な安全な領域まで、生成させ次元移行を促進させている。この船に同調することで、日々変容効果が高まり、生成力が高まる仕組みになっている。

この 『次元空間(変容)船』 の同調については、地球という場にしっかりと足を付けてグラウンディングしていないと思うような変容効果が得られない仕組みになっている。つまり、移動する宇宙空間や次元に意識を合わせるのではなく、地球という場に意識を合わせ、その上で 『次元空間(変容)船』 に同調するようにすれば良い。うまく同調する方法は又の機会に紹介しようと思う。

「カゴメの原理」イラスト2

2009-10-24 06:18:01 | Weblog
「一厘の仕組」とは、新たな太陽(日の出の大神)の誕生を意味する!

それは、地球の大地という母体から胎児である「新たな時代の太陽=地球の夜明け」が幕を開ける!
これは、象徴的に見て(火の鳥が飛び立つ)姿として捉えることができる。

『2001年宇宙の旅』
2001 A Space Odyssey Opening

宇宙神から伝えられた「カゴメ唄」の謎!

2009-10-09 08:11:31 | Weblog
 悠久の過去へと遡る旅路は、遠い過去の記憶を修正する旅路でもあるが、その働きは根の世界への下降を意味し、地層の記憶を次々と地球中心部へと突き進んでいる。その働きは、現在も尚続けれれている。
人の持っている記憶は現世の記憶に以上に、過去からの記憶に大きく影響を受けている事実があるが、ほとんどの人たちは、気づいていないのも現状である。

その記憶とは、無意識の領域に収まっているアカシック的記憶であり、前世の物語りもあるが、それは情報だけでなく感覚と印象を伴うものである。しかし、この記憶をすべて一つの現在意識が保持しているかというと、実際はそうではない。これらの記憶を複数の人格が保持し、自分の中の記憶因子として持ち続けている。この複数の人格を我々は、「複体」といって、およそ一人の人間の中に12体存在していると云われている。この「複体」のことを「前世の人格=前世霊」といってもいい。

注目すべきことは、「複体」の中で、活発に機能している「複体」もあれば、うなだれて弱っている「複体」もある。例えば、よく人間関係で、Aさんと関わりを持つ時、前世でAさんと深い関わりがあった「複体」が現在意識に登場して関わりを持つようになる。このように、「複体」は、関わる人によって、複数入れ替わる特徴を持っている。

地上のエネルギーが高まっている現在、さまざまな形で、問題のあった「複体」を修正・修復するプログラムが活発化している。この時期に、修正を図りすべての「複体」が一同に介せば(12体の複体)、前回、本ブログで紹介した「クリスタル・スカル」同様、一気に神々の住まう光の世界に、大ジャンプが出来る時期に来ている。この機能は、宇宙のシステムでもあると同時に、人間の中にも同じシステムが覚醒する時を待って眠っているのである。

この修正には、過去世に縁のあった人物が、再び今世で出会いある出来事を引っさげて登場してくる。この出来事とは、大概、大きな問題事を伴っている場合が多い。その多くは、裏切り行為だったり、あるいはお金にまつわる問題事だったりする。このような人間関係は、自分の中で機能していない「不活発な複体」、あるいは「弱体化した複体」を修正するため出会わせたものであり、良きチャンスと捉えた方のが良い。同じ失敗を何世も生まれ変わる度に、繰り返してきたが今回が最後のチャンスである。

このような出来事は、宇宙の修正プログラムでもあるが、その力の正体は七次元の意思が「外在神」という形をとって人間に働きかけ、触発を行なっている行為と見てよい。この「外在神」は、主にユダヤ・キリスト教圏の父なる神 (唯一絶対の神=一神教の神)と同一の意思である。
(例)アブラハムの信仰を確かめるために神は、アブラハムに自分の一人息子のイサクを生贄の捧げものとして出すように命じられた。


この一神教の神は、「外在神」として、環境を通して人間に、「試練」を与える神でもあるが、その「試練」を無事に乗り越えることで、魂は成長し目覚める。それとは逆に、わが国の精神文化の柱である古神道の神は、実のところ「内在神」として、神本来の真を吾が内に見出すよう働きかける神である。このように、同じ七次元の意思でも、人間の内奥から入ってくる場合と、環境を通じて人間に働きかける場合とがある。

現在、「外在神」と、「内在神」の働きかけによって、人間の中に宿る「複体」の修正プログラムを執り行っている最中であるが、そこに、「カゴメの原理」が登場してくる。「カゴメの原理」とは、童歌にある ・・・ ”カゴメ、カゴメ籠の中の鳥は、いついつ出ある!”・・・ のあの唄である。始めになぜカゴメ、カゴメと二回も表現するのか?カゴメとはヘキサグラムを象った六角形であり、これら鏡で出来た万華鏡の世界に閉じ込められた哀れな人類を唄で表現している。

仏教でも「六道輪廻」といって、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天界(有頂天=自分のみの幸福)の六つであるが、おおよそ人間世界は、最悪の「地獄」から、果ては「有頂天」まで上がったり、下がったりし一向に止まることを知らず、六つの世界をグルグルと輪廻し続けているという。釈迦も、この「六道」からの解脱を仏教の教えとして説いてきた。

しかし、超自然的な原理として、「外在神」、「内在神」の働きかけにより、過去と同じ失敗を繰り返えさないよう今回が修正する最後の機会であり、問題のある「複体」よって引き寄せられた縁のある同類魂が、「カゴメの輪」を形成する。

このように、七次元の宇宙神が「外在神」、「内在神」という形をとって我々の前に進化のきっかけを投げかけて来るが、因みに、伊勢神宮の「外宮」、「内宮」はその下位構造として祭られたもの。この伊勢神宮の働きは、大和(ヤマト) ⇒ 神の元で、大いなる輪=「カゴメの輪」を実現する精神として日本民族の使命が与えられた。

そして、そこでの様々な人間模様を形作るが、カゴメの輪に加わった一人ひとりは、自己の鏡として様々な局面に位置づけられた同朋であり、他人を通して悩む問題事は、そのまま自身の「複体」を修正するヒントとして、問題解決の「鍵」が隠されていることに気付く。

このように、「カゴメの原理」は、試練として神から与えれた問題点を解く訳であるが、自己と縁があり問題を含んだ相手も、実はもう一方の自己の鏡として同じ位置にあることから、悩み苦しむことそれ自体に、何かを気付くヒントとしての「鍵」が含まれている。

この「六道」とは、まさしく籠の中の鳥状態で、外の世界に出て自由に羽ばたくことが出来ない閉鎖空間に押し込められているさまをいっている。これについても、前回のブログで、”宇宙の高位者が設定した「地球人類の保育器」”として紹介した「子宮内宇宙」でもあり、これも同じ意味合いが含まれている。

「カゴメ唄」の遊びは子供の頃、複数の子供が輪になって手をつなぎグルグルと廻りながら、鬼なった子供が輪の中央にしゃがみ込んで目をふさぎ、停止した真後ろの子の名前を当てるゲームである。中央の鬼になった子供のしゃがみ込んだ姿は、まさしく「胎児」の姿を象徴している。おぼつかない者のことを、雛=ひよっ子というが、この表現もここから来ているように思う。

江戸庶民の暮らしの中で、籠に入れられた鳥といえば、「鶏」を連想されるが、「鶏」の習性は、翼を持っているにもかかわらず、空を飛ぶ能力が備わっていない。そして、「鶏」にはトサカがあり、朝一番に、”コケ~コッコウ~”と太陽に向かって鳴き叫ぶ。

これも、ある象徴的意味が込められている。それは、本来人間は大昔、神と共にあった頃は、宇宙と交信が出来て、どんな次元にでも自由に羽ばたくことが出来た。しかし、時が経ち次第に自己にこだわるあまり、自由に羽ばたく能力を失ってしまったと神話でも語られている。

この人間本来の姿を神は、「火の鳥」=「鳳凰」=「太陽の鳥」に喩え、後の飛べなくなった人間のことを「鶏」に喩えた。「鶏」は大昔に飛ぶことが出来た「鳳凰」のなれの果ての哀れな姿でもある。それで「鶏」は、朝一番に太陽に向かって自由に飛ぶことが出来た頃を思い出し、”コケ~コッコウ~”と衝動に駆られて鳴き叫ぶ習性が出来たという。

この「カゴメ唄」の童唄といい「遊び方」といい、すべては過去からこの時期のために用意され降ろされた神仕組みである。”籠の中の鳥は、いついつ出ある、夜明けの晩”とは、来るべき2012年を目前にし、今まさにこの時期を指す。「夜明けの晩」は、”陰極まって陽に転じる” 直前の真っ暗闇に覆われた世界(暗夜)を意味し、子宮内の胎児が今まさに産まれ出る直前の状態をいう。

次に来るのが、”鶴と亀が滑った(統べった)”というフレーズがあるが、この謎は、「鶴」は飛翔の象徴であり、「亀」は潜伏の象徴である。飛翔の象徴である「鶴」は未来志向として、前向きに希望に満ち、生命力溢れて生きる生き方である。一方、潜伏の象徴である「亀」は、過去への回想を通して潜在的に内省する生き方である。

この理想とする超未来の自己像は、同時に失った能力を取り戻す超過去の自分像でもあり、両者はつまるところ、同じ円環的時間に辿り着く。両者が交叉し出会う地点は、すなわち時間の円環的法則が完了する地点(マヤ暦の時間の終わり=2012年)でもあり、それが即ち、”後ろの正面”として人類が外宇宙に出産する時ということになる。

その自己像に気付くこと、想い出すことが、重要であり、その意味から「鬼」である子供は目をふさぎ、「後ろの正面」である真の自己を必死に想い出そうとして悩んでいる姿を象っている。超未来に辿り着くであろう高自我(ハイヤー・セルフ)は、同時に無限過去へと遡ることで、親、先祖を辿り遂に人間の創造以前の宇宙神と合一している地点にまで辿り着く。これらは、円環的時間のパラドックスを垣間見る。

因みに鶴と亀の文化でいうと、鶴=ヤマト民族は、(祭り=飛翔)の文化であり、快活な「生」を謳歌し、祭りの衣装である(白装束)に身を包み「生」を存分に表現する。一方、亀=ユダヤ民族は、人間は原罪を背負って生まれてきたことを前提に「嘆きの壁」に向かって、ひたすら(贖い=潜伏)の祈りを捧げ、彼らユダヤ民族の衣装も(黒装束)に身を包み「死」を象徴している。

また、亀であるユダヤ民族(イスラエル)の国旗は、亀甲模様である六角形の図形を象徴している。一方、ヤマト民族(日本)の国旗は白地に赤であり、鶴も頭に赤い斑点があり全身白い羽で覆われている、これも白地に赤である。

これらは、「日ユ同祖論=ヤマトとユダヤは合せ鏡」として、古くから天地の和合の象徴とされ、その結びの結果、新しい時代の子供が産まれ出る仕組みが隠されている。出産時の胎児は母体から見て、頭を下に向け螺旋状に降りてくる。そして胎児から見ると降りる方向は、まさしく”後ろの正面”ということになる。

今、胎児である人類は出産目前の状態にあり、それぞれに何がしかの悩みを抱えている。問題は神から与えられた試練と捉え、その問題となる意味合いを考えつつも、前向きに生きることが大切である。釈迦が説いた仏教でも「煩悩即菩提」といって、悩みは即菩提=悟りに通じるといっている。

神社の構造も鳥居の門をくぐると参道(産道)があり、その先には本殿としてのお宮(子ノ宮)に行き着く、そのお宮の中には、御神体である「御鏡」が据え付けられている。面白いことに、「カゴメの原理」は、産まれ出るための原理であるため、神社を参拝する通常のルートとは逆のルートを辿る構造であることが分かる。

つまり、問題を含んだ相手は、もう一方の自己として位置づけられているため、その間に「御鏡」が存在している。そして、それを取り囲む「カゴメの輪」は、母体としての本殿=御宮=子宮に喩えられ、その中で胎児はうずくまり悩む。

そして、「後ろの正面が誰か・・・?」という問いに対し、悩みつつも心の「御鏡」を通して、「見るものと、見れられるもの」の観察が盛んに行き来する。まさしく、鶴と亀は「鏡」を挟んで異なった時間の矢が相互に交叉する(すべる)。その結果、自己の修正すべき問題点に気付き、同時に過去失った神である真の自己を見出すことに成功する。

これにより、目出度く問題となる「鍵」が解かれたことで、出産のための産道(参道)を通り、外の世界に出るための「扉=門」が開かれる。その門のことを「鳥居の門」といって、文字通り「鳥が居る門」と書かれている。

これら、「超未来」と「超過去」、または「生」と「死」は極限の地点まで来ると、その二つを超越し、「永遠性」という名の存在に変貌してしまう。伝説として語られている「火の鳥」、「不死鳥」はそのような存在であり、宇宙を自由に羽ばたくことの出来る光り輝く実在である。