『宇宙の再構成プログラム』

次元変容の旅を通して … 見えてくる世界とは!

潜在的に持っている心の闇の対処方法とは

2011-05-06 23:17:41 | Weblog
質問1:”精神の死の灰(映画 『ネバー・エンディング・ストーリー』 に隠された真義!)のことです。この影響がかなり人類に大きな影を落としているような気がするのですがこれを浄化するにはどうすればよいのでしょうか?”

 確かに、地球人が吐き出す 「精神の死の灰」 は、遥かに進んだ知性と科学技術を持った宇宙人でさえも、大変に厄介で手ごわい「類」のものと言っています。更には、自分たちも 「精神の死の灰」 についてどうにかしたい。しかし、「精神の死の灰」 に近づくことは自らを危険にさらすことになるので、これ以上、近寄れない!とはっきり言っています。なので、地球人の問題は地球人自らが処理するしかないのです。これが、「宇宙の掟」というものです。

これが、あまりにも地球の内部に巨大な闇を形成しているので、大変に厄介です。以前、ミヒャエル・エンデの小説 『モモ』 にもこの 「精神の死の灰」 について触れていましたが、この根本の闇は、生命の本質的輝きである「時間の花」(生命の花)を根こそぎ枯らしてしまうほど危険なものです。小説では、「精神の死の灰」 から 「灰色の男」 が増殖していき、次々に地上の人間をマインドコントロールにかけ、おかしな方向に持っていきます。

その結果、今まで空間の中に降り注いでいた、光の感触や、ゆったりと流れる 「のどかな時間」 が地上からなくなっていき、それと同時に、人々の心にもゆとりが消えていってしまいます。最後に自然界も脅かされていきます。この大自然の背後には、四次元の精霊が生息していますが、「精神の死の灰」 に侵されると、精霊までも根こそぎ死滅させてしまう力を持ってます。丁度、海底の珊瑚を死滅させる天敵である鬼ヒトデや赤潮のようなものと考えたらよいでしょう。

この 「精神の死の灰」 の原因は、それぞれの人の潜在意識に横たわる一種のトラウマですが、その多くは、過去世に負った精神ショックが元となっています。主に、死への恐怖、孤独への不安感、皆から取り残されるという恐れ、未知に対する恐怖心、競争心・闘争心、呪い、怒り、嫉妬心、絶望感、悲壮感等があります。

これら 「精神の死の灰」 は永い歴史によってつくられた地球人の集合無意識からなる地層の記憶として存在しており、それが地球の地下深くまで伸びていて、四次元の地獄界を形成しています。かつての釈迦も、この人の根本無明である 「生・老・病・死」 に初めて触れ、衝撃を味わった一人です。当時の釈迦は、大変に恵まれた家柄であり王子であったにも関わらず、出家まで決意させ最後に悟りを拓いて仏教の教えを世に残しました。それがきっかけで 「煩悩即菩提」 という仏教の真髄を見い出しました。

現代社会でも年々、自殺者が増加していますが、その多くはこれら 「精神の死の灰」 に触れた時に起こる精神錯乱や憑依からくるものです。これら、「精神の死の灰」を浄化し、除去する方法はありますが、ただこの根本無明である 「精神の死の灰」 と真正面から向き合える人はおそらく皆無に等しいでしょう。それだけ根本の闇と向き合うには、大変に勇気のいることです。自らの潜在意識の奥に潜んでいる根本の闇を受け入れることで、吸収・消化はできます。

ただ、それには武士道に見られるような日本文化の良いところである、いさぎよい姿勢として、自らの非を認める心や、反省する心といったような精神修養の姿勢が不可欠です。多くの人は、この 「精神の死の灰」 を 「開かずの間」 に永い間、しまい込んでいて、数多く転生しても尚、一向に処理出来ないことから、大概その反動(ストレス)で、他人の批判を言ったり、他人のせいにしたりします。

それだけ、地球人は弱い存在で自分に対しては甘く、逆に人に大して厳しい姿勢を取り、他人を認めることなく批判し続け、排斥してきた歴史があった訳です。そこで闇の連中たちは、そのような地球人の弱い特質を逆手に取り、コントロールが容易にしやすくなっているという現実があります。その結果、永い間、地球社会は彼らに支配され続けてきました。

精神的な目覚めを求める人は、自らの内に残されている根本の闇を先ず、処理する手続きをしなくては、光を見ることは絶対にありません。そこで、禅や瞑想といったメソッドを一生を費やし、行っていくことが望まれます。初めて行う方は、自分一人でやることは極力避けていただき、できるだけ指導者に付いて行っていくことをお勧めします。以上のことからもわかるように、潜在意識の領域は混沌渦巻く不可知の世界ですので、甘く見ない方がよいでしょう。

これからの大変動を乗り越える秘訣!

2011-05-02 04:14:10 | Weblog

 昨今の大震災をかわきりに、様々な既成概念、常識の範疇を超えた、まさしく想定外の出来事でもあり、これにより人々の固定観念も揺らぐと同時に、古い世界という箱(檻)も一緒に揺らぎ始めています。これら箱の変動は、あくまでも魂の「仮の宿」としての学校の一時的な解体でもあり、同時に次の高次元世界という新たな捉え方を準備するための篩(ふる)いとも解釈できる訳です。

もう既に、地上(水平軸)にある従来のような目標とすべきものや、信じて従うべきも、指針となるべき基準点は、この世の中には一切残っていないのが実情です。あるのは、宇宙の高次元という垂直軸に、未来へと続く真の目標があります。

横軸に目標があった時代・・・例えば、明治維新のように、当時、日本の文化よりも、遥かに優れた文化が西洋にあることを知り、幕府を倒して大改革を興しました。しかし、現在は外国に目標とすべきもなど一切なく、過去の時代にもありません。要するに、目で見て確認できる具体的な何か、ではもう見い出せなくなっています。つまり、目に見えない何か大切なものに、気が付かなくてはいけないのです。

元来、魂は一切の執着のない裸一貫の姿が本来の姿であるのですが、不幸にも生まれ落ちた後、社会から様々な常識という既成概念を持ち込むよう教育されてきました。その結果、人は魂の進化が目的というよりは、むしろこの物質世界に執着し生きることで現実世界との自己投影化=同一化をするようになり、この現実世界でより良く生きることが目的になってしまいました。

これらは、単に肉体を養うことだけに目的を見い出し、日々アクセクする生き方が主流だったわけです。しかし、根本的な目的をはき違えてしまった人類に対し、宇宙の意思はそろそろ変革のときを迎えるに当り、現実世界の変動が必然的に起きることで、物質世界の様々な執着を人々から手放させるための「篩い」=「禊」の時期が来たと言っております。

この時、自我という強固な枠組みが崩壊することで、魂は元の透明で純粋な光り輝く世界に返り咲くことが出来ます。自我の死を通過することで、本来の魂の居場所にたどり着くことが出来ます。ここが本来の魂の普遍的位置だったことが分かるようになるでしょう。古い時代の 「学び舎」= 「仮の宿」 で催された神(紙)芝居の幕が、いよいよ下り始めています。

旧約聖書の 『ヨハネの黙示録』 がありますが、これは、夜の終わりを意味し、よくお芝居でも 「終わり」 のことを 「跳(はね)る」 といっています。つまり、古い地球の世の神(紙)芝居が終わることを意味し、これはそのまま直訳すると 「夜の終わり」すなわち 『ヨハネの黙示録』 として理解することができます。また黙示とは 「黙って示す」 という意味があり、これは何を意味するのか?以前に宇宙に尋ねたことがあります。

これについては、要するにこの時期は、変革の時期が来たということを人々に知らせするため、無意識のうちに感じとらせている、ということです。これらは、中世の時代から天使がラッパを吹く合図=寓意図として象徴化されてきました。この時期には、その音が総ての人の胸に鳴り響いているというのです。

そして、その意味をそれぞれの人が、吾が内なる声として感し取り、魂の目覚めが急務だと感じさせている、というのです。そのため、神は「黙って示す」という暗号で示しました。もともと神という字は、「示して申す」という字からなります。では一体何に「示し申しているのか?」それは、「」とうい字を分解すると「=申に示す」という字からなっていることが解ります。

つまり、「示して申す」の「申」は「猿」とも読みます。このことから、「猿に示している」という暗号が読み取れます。では何故、猿なのか?それは、神から見て人間はややともすると、「猿」同然だ!ということです。「猿」の性質と同じ要素を持つ愚かなる人間の姿・・・!。そこで、神は人間に、「三猿」で示してあるというのです。

それが、日光の東照宮にあるあの 「三猿」 です。日光の東照宮といえば、徳川家康公の亡き後に、遺言に従って家康公の息子の秀忠(ひでただ)によて、日光に廟をつくりましたが、しかし、廟の規模が小さかったため再び、家康公の息子の家光(いえみつ)公によって、寛永元年(1636年)大規模なものに再建した歴史があります。このように、東照宮の歴史を見ると非常に新しい時代の建造物です。ここに、「眠りねこ」と一緒に「三猿」が彫刻として施されています。

三猿は、神厩(しんきゅう)の長押(なしげ)を飾る彫刻ですが、この神厩とは、東照宮の神馬(しんめ)を入れる馬屋(馬小屋)のことであり、もともと猿は昔から馬の守り神とされてきました。神厩すなわち馬小屋といえば、すぐさまイエス・キリストの産まれた馬小屋を思い出します。

西洋では、「白馬」 のことをイエス・キリストに見立てて象徴化していました。これは、すなわち産まれ出た 「子」 としての 「真我」 でもあり、「キリスト意識」でもあります。それをそのまま 「三猿」 に当てはめると、出産の守り神ということになります。更に、正確に表現すれば、胎児が安全に産道をくぐり抜けるための 「交通標識」 のようなものです。つまり、安産を導くための鉄則がこの 「三猿」 には、隠されているということです。

この 「交通標識」 を守らない者は、事故に遭います。その 「三猿」 とは、(見ざる)・(言わざる)・(聞かざる)からなる 「三猿」 ですが、その 「姿=標識」 は、神は人間の悪しき姿=(対立感情や様々な外界の刺激といった欲望)に対して、猿の感覚をすべて封じさせたポーズをとらせています。なぜならこの時期、重要なのは出来るだけ変動する世界に対し、感情の乱れや、執着をすべて捨てさせることが重要だからです。

余談になりますが、古い路地裏などに立てられた「庚申塚」を目にしたことがあると思いますが、 これら、「庚申塚」 には、「青面金剛」 や 「馬頭観音」 といった憤怒尊の脇持に太陽と月の紋章が標されていて、そのすぐ下に 「三猿」 が 「標識」 として、石塔に彫られています。これらの風習も、道教の特色が色濃いのですが、中には神道の「道祖神」信仰から来るものもあり、そこでは 「猿田彦」 がそのまま 「三猿」 の役として道案内する神になっています。それらの意味は、無事に通過するように・・・!という願いが込められています。

なかなか、人間の持つ性(さが)から、簡単に執着を切り離すことは出来ず、外部の動きや欲望といった対象に対し、猿のようにキー・キー、キャー・キャーと激しく感情を昂ぶらせ、感覚反応を先行させてしまうからです。そこで、それらの感覚反応を全て封じることが、この時期は特に重要だということを「猿」に「示し申してある」といいます。この感覚反応を封じることで、初めて内なる魂に触れる準備が整うからです。

これにより、次に 「ダルマの原理」 が出てきます。この 「ダルマ」 は、心の姿勢として子宮内宇宙を通過(出産)するための標準装備ということになります。なぜなら、「ダルマ」 の姿は感覚を暴走させる「猿」の性を封じた姿でもあるからです。いや、むしろ「三猿」である(見ざる)・(言わざる)・(聞かざる)の目・口・耳はおろか、手足まで捥(も)いでしまった姿を象らせているからです。

以上のことを総括すると・・・この時期は、神の 「黙示」 として 「三猿」 の戒めを理解し、「ダルマ」 に帰り、「七転び八起き」 で七つのサイクルを通過せよ!という暗号が出てきます。ということは、逆に「猿」の性質同然になる現代文明推進派の人たちは、これから起きる 「禊」=「篩い」 に対し、七つのサイクルを通過できず、「七転八倒」 の苦しみにさらされる可能性が十分あります。つまり、安産とはいかず、艱難辛苦の 「難産」 か、あるいは 「死産」 の危険性が出てくるということです。

そのため、「ダルマ」 には、無時に日の目を見ることを願って、先ず 「左眼」 に墨で黒く眼を入れ、「七転び」 の後、無事に八回目で起き上がることで初めて目標が達成でき、「右眼」に墨を入れます。これは、無時に出産が完了し、新たに子供が授かる時など、または新たな年明けなどには、「目出度い」=「眼が出る」 とか、「日の目を見る」という言葉が使われます。

”カゴメ、カゴメ籠の中の鳥は、いついつ出ある。夜明けの晩に、鶴と亀が滑った!後ろの正面だあれ!”・・・いよいよ、新しい世をお迎えするための 「陣痛」 を伴う 「立替え・建て直し」 の 「儀式(お祭り)」の始まりです。

”飛ぶことを忘れてしまった籠の中の鳥は、習慣という永い眠りに浸っていたが、いよいよ新しい時代の夜が明けようとしている真っ暗な晩(魂の暗夜)に、お神輿(世界)は外部から強制的に揺さぶりを掛けられ、人類は世界という箱の中でうろたえることとなる。揺さぶりの中、うをさおしながらも・・・アッ!という瞬きする間もなく、鳥(魂の象徴)は外へと飛び出し(開放され)、目出度く鳳凰(火の鳥=真我)となって宇宙へ羽ばたき(自由性を獲得し)、魂の故郷に帰ることとなる。”

このことからも分かるように自我に対しては、衝撃的な出来事の連続ですが、このぎりぎりの限界点で、どれだけの人が魂の位置を見いだせるか?これについては、現時点ではまったくのところ未知数ですが、魂が無時に目覚めることが出来るよう、ただただ幸運を祈るだけです。