『宇宙の再構成プログラム』

次元変容の旅を通して … 見えてくる世界とは!

「カゴメの原理」 の補足説明!

2009-12-01 01:18:20 | Weblog
※注解として(「外在神」についての定義)を下段に追加!

 以前に「カゴメの原理」を説明したが、もう少し補足説明をすると、過去に縁のあった魂の同胞が存在し、個人の中にも過去世で様々な人格を演じてきた訳であるが、その人格はおおよそ12種類の「複体」として自分の中に存在している。その「複体」はどの人の人格の中にも様々な人格の痕跡として残っているはずである。

これら「複体」に見られる特徴は、過去に深い縁のあった人と今世で出遭った瞬間、前面にその時の「複体」(人格)が現在意識に登場し、コミュニケーションを演じてくる。つまり、その時々の出会う人によって、それらの「複体」がコロコロと入れ替わるので、自分でも「オヤ?」と思われる瞬間があるのではないかと思う。

このように「複体」によって過去世で縁のあった人々を引き寄せ再び、今世においても縁を結ぶようになる訳であるが、そのときに形成される人の輪を「カゴメの輪」と呼ぶ。この「カゴメの輪」には、プラス面の要素を持った「建設的な同胞」からなる集団と、マイナス面の要素を持った「腐れ縁的な同胞」からなる集団とがあり、必然的に二種類の縁によって引き寄せられた同胞が「カゴメの輪」を形成する。

中でも問題となるのは、「腐れ縁的な同胞」であり、今回が最後の「複体」の修正プログラムということから、12種類の「複体」をある程度、整え完成させる必要がある。そこで、12のシステムとして安定した状態で閉じるためには、過去に問題を残した「複体」すべてを整える必要がある。

それ故、欠点(カルマやトラウマ)のまま残された「複体」に対し、修正を施す必要があり、そのために与えられた天の「複体」の修正プログラムのことを「カゴメ唄」に託してある。問題のある「複体」は、常に同じような失敗を繰り返し、とかく人のせいにしたり、また環境や状況のせいにしたがる気質が強い。そこで「カゴメ唄」では、”カゴメ、カゴメ”と二回も表現しているのは、愚かな人間に対し、堂々巡りの運命を示して「籠の中の鳥」といっているのである。

その場合、宇宙の法則はそれら相手や状況は、全て自分を映す「鏡」として示しているため、相手を通して自らを観る意識に置き換え、修正すべきポイントを見出す必要がある。このように、腐れ縁によって集まった「魂の同胞=カゴメの輪」は、それぞれ異なった自らの「複体」の持つ局面(問題のある)を象徴しており、それぞれが自らの中に宿る人格の一側面を受け持っている。それ故、どことなく皆自分と似ているところがある。

「カゴメの原理」は、「カゴメの輪」に加わった相手との接触を通して、問題を抱え悩み→「鬼」になり、同様にそれぞれのメンバーが入れ替わり立ち代り「鬼」になっては、ローテーションを繰り返しながら修正する様は、正に「腐れ縁の集団イモ洗い機」といったところである。そこで、一皮剥ければ徐々に問題のある「複体」は修正されていく。その意味もあって宇宙の意思は、過去世に深い縁のあった相手と再び今世で出逢わせているのである。

 ”鶴と亀は「鏡」を挟んで異なった時間の矢が相互に交叉する(すべる)。
”これについて、別の言い方をすれば、ようするに問題解決のために悩み苦しむ時、人は「葛藤」を起こす。この「葛藤」こそが、鶴と亀の(見るものと、見られるもの)が盛んに交叉し、行き来する時の「振動」と捉えることができる。

”新たな自分を産み出す”ためには、常に問題としての「試練」が付きまとう。それを乗り越えるためには「葛藤」を通して、自らの内に「内在する神」を奮い起こす「振動」が必要であり、これを産みの苦しみである「陣痛」と喩えた。「妊娠」という字の(娠)も、(女辺)に(振える=辰)と書く。

「葛藤」を起こすとき通常、人はどのような精神状態に措かれているかというと、「葛藤」は、そもそも理想としての本来在るべき自分像があり、それに反して問題のある「現状」が横たわっているとき、そこには「理想」と、「現実」との間に大きなギャップが生じている。そのギャップをどのようにして補い、本来在るべき理想に近付けていくかという問題に対し悩んでいる状態をいう。

この場合、理想としての自分像は、先行する未来の自分、すなわち未来的な時間としての方向性を”飛翔の象徴”である「鶴」で表し、それは未来的な希望や憧れといった明るい目標であり、一方、問題のある現実とは、過去から今日までの未だ気づいていない未解決な盲点部分を残した自分があり、その解決のためには内省し問題部分を見つけ出し、修正を施さなくてはならない。

そのためには、過去を振り返る(時間としての方向性)意識が必要であり、それを”潜伏の象徴”である「亀」として表現した。「亀」は、沼や水の中に潜伏し、頭を内側に引っ込めて籠もる習性がある。これを内省によって過去を振り返り、修正する意識の象徴として表した。深層心理の解明や禅、瞑想、修道的な精神や祈りといった領域がこれに該当する。

以前にも述べたように、ヤマト民族とユダヤ民族は、鶴(生)と亀(死)を代表する民族であると言った。ヤマト民族(日本)の国旗は白地に赤であり、鶴も頭に赤い斑点があり全身が白い羽で覆われている、これも白地に赤である。一方、亀を象徴するユダヤ民族(イスラエル)の国旗は、六角形の図形を象った亀甲模様である。

因みに、鶴の象徴である「天照大御神」は、古神道の文献の『ホツマツタエ』では男神とされているが、実際は男神的特徴を持った女神、即ち、「変性男子」を表しており、「天照大御神」の精神は神話上、ヤマトの精神的支柱として道のリーダー的役割を担っていた。一方、亀の象徴である「イエス・キリスト」は、女性的特徴を持った男子(神の子)であり、これを「変性女子」といった。何故ならば、「イエス・キリスト」は人類の罪を背負い、十字架上に磔の刑に遭った。この「受難」も、女性的な受身の精神からくる「犠牲の愛」である。

次に「夜明けの晩」とは、一日の中で一番の暗闇に覆われる「丑三つ時」という時間帯があり、この時間帯のことを「暗夜」と呼ぶ。この意識は、人が最も深刻な問題に直面し、人生の岐路に立った時など、人はそこから逃げ出すことのできない状況に置かれるが、かすかに理想を実現する可能性と、同時に失敗(闇)という不安感が入り混じり、内側で揺れ動く(期待と不安が交錯する)。

こんな時、人はいやが上でも「問題を直視」せざるを得ない。「問題直視」は、非常に勇気のいることである。その二つが内側で激しく交叉し振動する状況を「陣痛=葛藤」と呼ぶ。これは、一種の振動であり、まさしく鏡(内面の鏡)を挟んで鶴と亀がすべる現象をいう。

『2001年宇宙の旅』では、亜空間である「内面の鏡」を通し、そこで交叉する鶴と亀を同時に見ることで、一瞬の中に永遠性を垣間見る。そして、その瞬間、存在は揺り動かされ、後ろの正面に胎児となった自分が新しく誕生する。それは、老いて死に行く自分と、新しく復活再生していく自分との壮大な生命のドラマであった。

因みに、”後ろの正面”の「後ろ」とは、即ち「背」にあり!。自らの背後とは、潜在意識の働く位置を表しており、さらに過去を振り返ることで内省する意識を表わしたりする。また「背」という字は、肉体である「月辺」に「北」という字を書く。「北」とは、「北極星」を意味し、古代中国では、「天の帝=天帝(神)」が住まう方向とされてきた。「北極星」を表す「北」は、地球の歳差活動に見られる地軸の回転運動の中心を表し、地球の自転に合わせて「北極星」を中心に天空の星々は回転して見える。

「北極星」は、中心にある不動の点としていることから、「神の座」とされてきた。この「北極星」に対し、車輪としての回転体を表したものに「北斗七星」がある。この二つを併せて「北辰」(北を振る)といい、これについても「カゴメの輪」と深い関係があることが分かる。

一応、「北極星」を「伊勢の内宮=内在神」と定義し、「北斗七星」を「伊勢の外宮=外在神」と定義した時、「カゴメの原理」では、輪の中央にしゃがみ込んでいる子供=「鬼」の位置では、「内在神=北極星」としての本来の神である自分に目覚める意識が促され、一方、周辺の「カゴメの輪」では、「外在神=北斗七星」の位置ということから、中心の「鬼」に対し、人を介して問題提起のサインを投げ掛ける。時には、揺さぶりかけて、気付きを与える役割を担わされる。

このことは、何を意味するのか?すなわち、人は時として「外在神」の役割の担いつつ、目覚めのきっかけを「外在神」の意識(手足)に代わって動かされていることが往々にしてある!ということを物語っている。動かされている当の本人は、そのことに何も気付いていないことが殆んどである。

そのことから、人は時には、「外在神」の使いにもなるので、相手の意図や行為を、そのまま単純に捉えてしまったら、背後で働く「外在神」からの重要なサインを見落とすことになるので、注意を必要とする。とかく人生の岐路に立って迷っている時などは、「外在神」が人を動かし、ヒントを投げ掛けてくることが往々にしてあるのだ。

そのような時、相手の人格や雰囲気は普段見る相手とは、まるで違う雰囲気を漂わしていることがあるので、何者かに言わされていることがおおよそ見当がつく。そのような時、できるだけ客観的に相手を見て、自分の措かれた状況と相手の言動を「鏡」のように照らし合わせ、「外在神」の投げ掛けるヒントを注意深く、直観を働かせてながら見つけ出すようにすると良い。

このように、「外在神」は「カゴメの輪」の外周部分で機能するので、輪の中心にしゃがみ込んでいる子供から見ると真後ろに立っている子供がまさに、「外在神」の使いになっていることになる。そして、「鬼」である自分から見て、真後ろに立っている子供の名前を言い当てることで、無事に「鬼」から解放されて、外の世界に出られるという遊びである。

ここで大事なことは、名前を言い当てるということではなく、本来の意味するものは、相手を介して自分と共通する問題点を見出すことであり、それにより自らの過去を修正し、本来の神なる自己を見出すことができるという点にある。これら自らの「影」を投影した人間のことをヤキ・インデアンのドンファンは、「盟友」と呼んでいる。

実際には、これら厄介な人間がある時、自分の目の前に現れるが、大概、目の前の相手に翻弄され、心と感情は冷静さを保つことができず、かき乱されてしまう。しかし、「カゴメの原理」では、「盟友」が真後ろに立っていること自体、ある意味がある。すなわち、自らの背後とは、”自らの潜在意識で、その意味するものを捉えろ!”と、いっているのである。

因みに、輪の中央にしゃがみ込んでいる「鬼」は、籠の中の鳥状態で、悩みの姿を象徴しており、ロダンの「考える人」のようなポーズをとっている。これは、悩みのポーズであることから、葛藤に打ちひしがれている状態を表わし、これを私は「胎児」と呼んだ。胎児と同様に雛鳥も、「飛べない未熟な鳥」を象徴していて、又の名を「ひよっ子」とも呼ぶ。一方、神の元に飛んでいくことのできる親鳥のことを「鳳凰」と呼び、これに対し、地をさまよい、永久に飛べない鳥の代表を「鶏」で象徴したのである。

これらは皆、共通した内容を持っており、「お神輿」にも見られる象徴である。そこで、お祭りの時に、「お神輿」を担ぐ担ぎ手は、「外在神」の現れという見方ができる。何故なら、”わっよい!、わっしょい!” という掛け声と共に、「お神輿」を激しく「揺さぶり」を掛けるからである。その意図は、子宮内で十分に育った胎児にとって、それがあまりにも長きにわたっていたため、習慣という居心地の良さは、残酷すぎるほど死産を招いてしまう危険性があるからである。そこで、急きょ、「外在神」の働きかけにより、環境からの付加ショックが与えられることで目覚めの切っ掛けが促されるのである。この「揺さぶり」は、正にこの時期に「外在神」から与えられるのである。

西洋では、火の鳥のことをフェニックスと呼び、フェニックス神話では、親鳥の寿命が5千6百年ということから、5千6百年に一回のペースで、自ら香木を積み上げて火の中に飛び込み、復活再生の儀式を行う習性がある。そして、胎児の代わりに幼虫が灰の中から姿を現し、フェニックスである親鳥に変貌するという。これらも、大変似通った象徴表現である。

一般的に、「雛型」をいう言葉の意味することは、「始めの型」あるいは、「中心の」という表現で使われている。これも、宇宙の根本原理が根底にあるからだと思う。この中心の「雛」と関係することとして、代表的なのは、国常立神の「雛型経綸」がある。親国である日本は、世界の中心であり、「雛型」である。この「雛型」は、本体としての原型であるのに対し、世界は「複型」として位置 づけられている。

そのため、雛である日本は、どうしても親鳥になるため、「外在神」から手厳しく、しごかれることも事実。これは、新たに生み出すための葛藤や苦しみをまず最初に味わう国として、十字架を背負わされる。例えば、我が国は、世界で初めて原子爆弾が広島、長崎に投下され、そのことから原爆の危険性を世界に訴える責任があり、世界平和を実現する使命がある。

※(「外在神」についての定義)
「外在神」は、福徳を与えてくれる神だと勘違いをされる方もいるので、ここで先ず「外在神」についての定義をしておこうと思う。

ここでいう「外在神」とは、普段われわれが思う神の捉え方とは、やや異なった現われ方をする神である。つまり、「人格神」という現れ方はせず、むしろ法則的な一側面として現れる神であり、そのような捉えた方をした方のが適切である。要するに、宇宙をはじめ自然界の森羅万象は、すべて自らを映す「鏡」であり、その反映として、一瞬一瞬起こる現象には何らかのメッセージ性が含まれている。

常に、「外在神」の関与無くして精神進化は、まず起こり得ないからである。特に、意味のある出来事など、それら「共時性」現象の、すべては「外在神」からのメッセージであるという認識の下、それらの出来事を解釈し、「ロゴス的」な宇宙の言語に置き換えて翻訳すれば、更なる気付きが与えられる。

それらの現象が外在世界(他者や事柄)を通して起こることにより、”はっと”自らの盲点部分に対し、気付が与えられるからである。それが時として、「反面教師」の役で現れたり、更には、自らの悪感情に乗じて悪霊に憑依された人間が現れたりするので、自らの心の在り方に対し反省を促される機会ともなる。

極めつけは、長年の課題をある程度克服する段階が近づき完成まぎわになると、「お試し」としての現象が用意される。そして、「篩い」にかけられる訳であるが、完全にマスターしかか、どうかをテストされ、その結果を振り返ることで自ら確認できる材料となる。

そのテストに見事合格すると、次に用意されているのが、同じ課題を持った人間がある時、目の前に現れ相談を受けるようになる。そして、良きアドバイスにより課題の克服に力を貸してあげることで、相手も無事に一歩前進することが出来れば、その功績により、「外在神」から次のステージに移れる資格が与えられたりする。あるいは、前世で、もう既に資格がある者は、強制的に次のステージに、いやが上でも移されることになる。それが、釈迦が出家を決断するきっかけとなった出来事に見られる。

かつての釈迦も王宮から外に出たとき、初めて目にした光景に心が大いに揺さぶられた。それは、王宮の東の門から出たときには老人、南門では病人、西門では死者を見た。ところが、北門から出たときに出家者が歩いているのを見て、心を強く動かされ出家を決意したといわれている。人間の根本無明である「生老病死」といった「四苦」の存在に初めて気付かされた釈迦は「諸行無常」を感じて、その解決のため出家を決意したのである。そのような出家を決意させるきっかけとなった四人の存在たちも実は裏で、「外在神」の関与があり、最終的に悟りへと達したのである。

「外在神」いわく、「苦悩」は盲目的な苦しみで良くないが、「苦難」は率先してでも努力して乗り越えよ!という。もともと「有り難い」という言葉は、”難に遭うことで得るものが有る”という意味から「神」に対しての「感謝」の意を表す心の姿勢だという。