青い日は晴れ

こら下界。お前はゆうべも職をむなしゆしなかった。
そして疲れが直って、己の足の下で息をしている。

筧の話

2008-05-04 17:22:06 | 読書



男は、


谷に沿った街道と、


街道のそばから谷に架かったつり橋を渡っていく山道、


二つの散歩道を持っていた。


街道は見るものに事欠かなかったが、


陽気で気が散りやすく、


それに比べて山道のほうは、


陰気ではあったが、


心を静かにした。


どちらへ出るかはその日その日の気持ちが決めた。


しかしいま、


男の興味は静かな山道に向けられていた。





山道は、


つり橋を渡ったところから杉林のなかへ入っていく。


杉の枝先が日をさえぎり、


この山道はいつも、冷たい湿っぽさがあった。


そこから迫ってくる静寂と孤独から、


男の目はひとりでに下へ落ちた。


道のかたわらに生えたこけ、


この道ではそういった、


こじんまりとした自然が親しく感じられ、


またあるところには、


雨露にたたかれた赤土が岩石のように骨立ち、


枝先の隙間を洩れてくる弱い日光が、


道のそこそこや杉の幹、


男の頭や肩先にあたり、消えていった。





この道を知ってから間もなくの頃、


男はある期待をこめてこの山道を歩いていた。


男が目指しているところは、


杉林のあいだから冬のような冷気が通っているところだった。


その場所には古びた一本の筧が伸びており、


微かなせせらぎの音が聴こえた。


男の期待はその水音だった。





どういう訳で男の心がその水音に惹きつけられるのか。


男はある日、


その水音のなかに不思議な魅惑がこもっていることに気づいた。


風景の中に、不思議な錯誤が生まれているのだ。


辺りは香りもなく花も貧しいのぎ蘭がところどころに生え、


杉の根元は暗く湿っぽかった。


そして肝心の筧といえば、


この辺り一帯の古び朽ちたものに横たえているに過ぎず、


「音はそのなかからだ」


と理性を信じていても、


男が澄み透った水音に耳を傾けていると、


聴覚と視覚の統一はすぐにばらばらになってしまい、


妙な錯誤とともに、


不思議な魅惑が男の心を満たした。





男はその魅惑によく似た感情を、


露草の青い花を目にするときに経験したことがある。


草むらの緑とまぎれやすいその青は、


不思議なまどわしを持っている。


男はそれを、


青空や海と共通の色を持つことから生まれる、


一種の錯覚だと信じているが、


見えない水音がかもし出す魅惑は、


その錯覚にどこか似ていた。





水音はだんだん深まっていき、


暗鬱とした周囲のなかで、


やがて幻聴のように鳴りはじめた。


水音は閃光のように男の目の前に降り、


そのたびに姿を消した。


なんという錯誤だろう!


男は酔っ払いのように、


一つの現実から二つの表現を見なければならなかった。


一方は理想の光に輝かされ、


もう一方は暗黒の絶望を背負っていた。


そして男が二つをはっきり見ようとする途端、


それらは一つに重なって、


またもとの退屈な現実に帰ってしまうのだった。





筧は雨がしばらく降らないと水が枯れてしまう。


男の耳も日によって水音を聴き取れないことがある。


そして花盛りが過ぎてゆくのと同じように、


筧にはその神秘がなくなってしまい、


男はもう筧のそばに佇むことをしなくなった。


しかし男はこの山道を散歩し、


そこを通りかかるたびに、


自分の運命について次のように考えていた。


「課せられたのは永遠の退屈だ。生の幻影は絶望と重なっている」




著者 梶井基次郎(1928年2月)



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4 コメント

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ううう^^ (まり)
2008-05-06 14:15:53
 なんかぁ「ゼッタイ一人」そんな感じ。

 好きな感じだけど、終り方はヤダァ^^;

 小学生の頃、海からは100キロ以上離れてる京都で。
 夜中に「波の音」が聞こえた。
 布団の中でその音が聞こえる海を想像したけど、
 
 うちには、その音が「波の音で、違う何かの音が波の音に聞こえてくる」と、絶対に想像できなかった。

 
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>まりさん (ペギー)
2008-05-06 22:05:09
梶井さんは31歳で亡くなられて、
この作品は27歳のころですね。

学生のころにすでに肺を悪くしていたようで、
この作品だけでなく、様々な作品に一人、死、
孤独の色がはいっています。

たしかにまりさんの言うとおり、
締め方が少し強引な気もしますね。
比喩で進めてきたなら最後をうまくまとめようとせず、
あやふやな魅力を含めた終り方のほうが……。
とも思うのですが、
ショートショートのような簡潔な終わりを目指したのでしょうか。

まりさんの波の話を読んでいてそんなことを思いました^^

まりさんが聴いた波の音はなんだったんでしょう?
ということもありますが、
京都と海のイメージが新鮮です^^
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Unknown (ニモ)
2008-05-09 10:09:40
ケータイが部屋のどこかで鳴ってて、でもどこで鳴ってるのか分からなくて焦って探してる自分が頭に浮かびましたw音って不思議ですね~(; ̄ー ̄A
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>ニモさん (ペギー)
2008-05-10 12:45:02
そうか、現代で表すとそういうことになるんですね。
ぼくは逆にニモさんの例えを筧の話に変換してみました。
違和感ないですw
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