青い日は晴れ

こら下界。お前はゆうべも職をむなしゆしなかった。
そして疲れが直って、己の足の下で息をしている。

書いてみた。

2008-05-05 10:28:02 | 読書



昨日読んでいた梶井基次郎の「筧の話」を、


ぼくなりに現代文に近づけてみました。


風景描写が繊細で、


あらすじとして紹介するのは勿体無いので、


ところどころ倒置してみたり、


切り取ったり、


表現を変えてみたりしました。


「筧」と言うのは、


水を送り流す管のことなのですが、


そこからは水の流れを見ることができず、


はたしてこの水音はどこから聴こえてくるのだろう、


ということがこの話の内容で、


けっきょく男は水音を目で見ることはできません。


現れては消える水音の閃光と、


あとに残る暗闇、


男が生きる現実の世界を、


この水音探しにたとえているのですが、


読んでみると、


重要なことは結末だけではなく、


山道の美しさも、


男が常々抱えている不安も、


重要だということが読み取れます。


しかし、


読みにくい。


まず始めの街道と山道の話。


街道の話がいつか出てくるかもしれない、


とあたまの片隅に置いていると、


山道の風景描写が始まって、


ああこれは山道の話か、


と思っていると、


長々と続く山道の風景描写は、


本筋とあまり関係のないところに位置しています。


そのふらふらした状態で筧の話に入ると、


話の筋はおおよそ見当がつくけれど、


どうも本質を捉えていないような、


消化不良の状態になります。


そこから青い花の暗喩に入り、


次に閃光と暗闇の暗喩。


最後に生の幻影と絶望の暗喩で締められているから、


ぼーっと読んでいると、


本筋すら意味が分からなくなってしまいます。


これは、近代小説だから、


ということではなく、


現代を生きていくなかで、


少しずつ感性が失われているのでは?


という懸念があります。


音にしてみても、


車の音、


工事の音、


昭和はじめごろになかった様々な音によって、


思考はかく乱されてしまいます。


見るにしても、


テレビのチャンネル、


スーパーの食品、


人ごみで会う様々な人たちによって、


思考はかく乱させられてしまいます。


本来ならこのように簡約せず、


原文のもつ文字の世界に浸っていたいのですが、


現代を生きているぼくには難しいです。



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