青い日は晴れ

こら下界。お前はゆうべも職をむなしゆしなかった。
そして疲れが直って、己の足の下で息をしている。

たく!

2009-02-10 11:02:11 | 読書


読書の秋っていうけれど、

それは農家の人らがそうしたわけで、

本当に読書しやすい時期って、

1月だと思うんだけどどうでしょう。

だって秋ってまだ夏の名残があって、

遊びたいし、

おれの夏はまだ終わってないんだぜ!

とか思うし、

冬ってどんなんでしたっけ?

と思います。

その点1月は、

外出るのだるいし、

そういえば読書してないし、

温かくなったら思いっきり遊ぶための準備期間。

というわけで、

先月買った本を読んでいるんですが、

(ああもう二月でしたね)

二冊目にジェネガンズ・ウェイクをもってきました。

これ、

買う前に数ページ読んで思わず買ってしまったけれど、

さすがに400ページはきつすぎるよ。

ベケットもきついと思ったけれど、

ジョイスさんのはさらにきつい。

どうきついかちょっと写してみます。


ジェネガンズ・ウェイクⅠ・Ⅱ(224項12行目)

おほう! この気の毒なグラッグ!
泉礼母も同じく哀れだったというじゃわい。
まことになげかわしい!
愛おしくも哀れ!
それにおか生まれのちちから受け接いだ収載ぶりも。
ときには駄弁りまくる金字塔なやつ!
毛角のはえたつらをして
目んたまが安ぴかに愛嬌よく飛び出して
のらくらしてるあの男のからだ一面に、
あの女はおちゃめったな鼻声尋問を撒き散らしたのだ。



こんな感じで400ページ続いていきます。

会話文が見当たらないけれど、

ずっと地の文なのかなあ、この小説。

わからないけれど、

とりあえず漢字が少なくて書きやすそうな文を写してみました。

文字の概念がないのか、

例えば、

quiet(静かな)



kuiet(??)

と書いたりするんです。

だから訳の柳瀬尚紀さんも、

「継いだ」を「接いだ」

に変えたりして、

本文に出てくる言葉すべてがそんな感じだから、

よけい読みにくい。

でも、そういう風に訳してくれているから、

評価されているみたいです。

このテンションで400ページ。

途中、ベケットさんもジョイスさんの手伝いをしたらしいのですが、

すごいというよりぽかーんです。

ぽかーんぽかーん。



ぽかーんとしたから日記。

最近、週末は飲み会やら麻雀やらそんな感じです。

たく! なんで男どもは麻雀ばっかりなんだ!

(飲み会はさっと終われて楽しいんだけど)

と、

そんな愚痴。

カラオケはー?

ボーリングはー?

とかそんな誘いがなくて悲しすです。

古本屋にて

2008-12-30 18:44:33 | 読書


今年もお疲れ様でしたといいながら、

とっても素敵なことがあったので報告します。

以前、サミュエルベケットについて記載して、

今後読んでいこうと抱負を述べていたのですが、

ベケットさんの小説、

めちゃくちゃ高くて買えまてん、というのが本音。

一冊3150円で、三部作で9450円。

しかもそこらの書店じゃ取り扱いしてない。

池袋や御茶ノ水辺りへ行けば手に入れることができるのですが、

池袋は乗り換えをせねばならないし、

御茶ノ水はどこになにがあるかわからなそう、

一見さんお断りの古本屋がありそう。

(ないだろうけれど)

池袋は電車で30分足らずなんですが、

バイク置くところやら仕度やら(街に繰り出すのだからそれなりの服装で!)、

が難点。

で、手っ取り早くネットでベケットを調べていたら、

近場に通販専門の古本屋があるとのこと。


以前のipodの件でもありましたが、

通販は苦手。

だからとりあえず電話をして、

なんとか手渡しで本を購入させていただけないか、

と交渉してみたら快く了解をいただき、

先ほどはせ参じて参りました。




「フィネガンズ・ウェイクⅠ・Ⅱ」

著者 ジェイムズ・ジョイス
訳  柳瀬尚紀

「マーフィ」

著者 サミュエル・ベケット
訳  三輪秀彦

「世界文学全集27」

著者 サミュエル・ベケット
(モロイ、追放された者、鎮静剤、終焉 収録)

著者 クロード・シモン
(ル・パラス 収録)

訳  三輪秀彦 清水徹 平岡篤頼

「風景と文学」

著者 野田宇太郎


ベケットの小説が目当てだったのですが、

店主が気さくな方で、

「ジェイムズ・ジョイス、

この人がベケットの師匠にあたる人物なんですよ」

と教えてくれて、

そちらも購入。

(フランス文学に疎い自分)

そして三部作の一つ、

「モロイ」が収録されている文学集と、

日本文学で興味がある本、

野田宇太郎さんの「風景と文学」。

野田宇太郎さんは河出書房の元編集長で、

名前だけ知ってましたが、

なにより最近、風景について興味がありまして。


古本屋といっても古書専門店で、

絶版になっている書物を扱っているお店なんですが、

推定38歳の店主がとっても本に詳しくて、本が好きで、

イギリス文学、日本文学、古今和歌集の話を一時間ほどし、

四冊で3500円。

初めて会った人と本を通じて時間を共有する。

素敵な時間をありがとうございました。


読書のカテゴリーにしました。

2008-11-25 22:01:49 | 読書


さて、

パソポンがディスククリーンアップとかいう動作をしていて、

かれこれ一時間くらいウィーーーーン!

とうるさいので、

ブログの空いた日付にコピペでも貼り付けましょう。

貼り付けましょうっていっても打ち込みなんですよね。

でも暇つぶしということで、

というか本当にうるさいぞう。

ゾウはいませんけどね。

パソポンの力に頼りすぎた生活をしているから、

パソポンが使えなくなると不便ですね。

原稿、辞書、テレビ、音楽、

ブログだってそうだし、

ネットサーフィンもできない。

下の二つはパソポン(または携帯)でしかできないことだけど、

上のほう、マイライフに関わることもパソポン一つで

賄わせているから、

パソポンが使えないとやることがないです。

ブログはね、

ウィーーーーン! とうるさくても

なんにも考えないで書けるから大丈夫。

洗濯機回してるし、(洗濯中)

掃除はこの間したばかりだからまだ時期じゃないし、(なんじゃそりゃ)

ご飯は作りおきがあるし、

買物は昨日行ったし、

雨降ってるし。

読書はパソポンがあってもなくてもしているから、

気分にまかせて。

といっても、いつ終わるか分からないウィーーーーン!

が気になって集中できない。

今は家族が解散する小説を読んでいて、

その話を少しさせていただきます。


○○○


もう仕方がない、

テーブルと呼んでしまおう。

テーブルは、

床から生えていると表現してもいいくらい長いこと、

ここにあるのである。

脚と天板が、家具工場でくっつけられて、

何日か後にテーブルとしてこの家に到着した。

着いてすぐに、テーブルとこの家は、

このDKの、この床の上に位置を決められ、

以来、ひと昔に近い長い時がこの場所で経過した。

もう、テーブルを動かしたら、

一本一本の脚の先に根が付いてくるというくらいに

なってしまったのである。

ああ気味が悪い。


このテーブルの表面には、

ビニールの、テーブルクロスと呼ぶにふさわしいかどうか

あらためて考えたくなってしまうような一枚がかけてある。

赤と紺が、白地に千鳥格子の模様をつくっているのだが、

そう言いたくもない。

単なる小汚いビニールである。

熱い茶碗を乗せた跡がいくつか、

輪のかたちになって残っている。

大きめの輪は、いつも魔法びんを置いている場所である。

これは、熱のせいであとがついたのではない。

重たい魔法びんを毎日毎日同じ場所に乗せているので、

その圧力でこうなってしまったのである。

なにも、跡がつくほど毎日同じ場所に魔法びんを置かなくてもよいではないかと、

置く人間も思ってみたことがあるのだが、

どうせ跡がつくものならひとつだけにとどめておきたいと考えて、

このやり方を続けることにしてしまったのである。


高橋源一郎「ニッポンの小説」一部抜粋





○○○


ダイニングキッチンに置いてあるテーブルがあったそうな。

で、この小説の登場人物の一人(父親)が、

西洋風に台所で飯を食うのはやめにして、

日本人なら日本人らしく青畳で食事をしたほうがいい、

と宣言しました。

そうしてテーブルを動かしてちゃぶ台を持ってくるのですが、

このダイニングキッチンに置かれたテーブル、

家が建てられたときから使用しているものだから、

跡が残っている。

それは魔法瓶や熱い茶碗の跡なのだけれど、

毎日同じ場所に置いていたから圧力や熱で輪のかたちになっている。

ちゃぶ台の話をしなければずっと気づかなかったものだけれど、

気づいてしまう。

この、「今まで見えていなかった輪のかたちが見えるようになる」

というのが隠喩(メタファー)になっていて、

(登場人物たちが「現在」を見るようになるメタファー)

解散の話までもっていきます。

(解散って打ったはずがカニサンになった笑)

途中、ちゃぶ台で食を囲むようになったことによって起こる変化、

魔法瓶の変わりにマーマレードの瓶が置かれるようになった、とか、

息子に注意する言葉が出てこない、とか、

そうした淡々とした夕食の、密度の濃い静けさ。

テレビをつけるやりとりなどが描かれていて、

奇妙なことを考える作者の発想がユニークです。



高橋源一郎さんの「ニッポンの小説」では、

文学的ではないと書かれていますが、

文学的ではないのかもしれないけれど、小説的。

といいますでしょうか。

ぼくの浅い文学視点では、

十分文学的だと思うのですが、

巧みな文体、小説を読んでいる間にだけある空間の作りに感心しました。

ぼくも自分が納得できる自分の小説が書けたらいいなあ。

(巧みな文体、小説を読んでいる間だけある空間作りは

「個」を表すのにとっても重要で、

ぼくがもっとも欲しているところなのです)


と考えていたらクリーンなんたらが終わってしまいました。

コピペは……、

また暇なとき、

さぼったときの穴うめに使わせてもらいます笑。

読んだ小説を読み直しながら書いていても、

そのとき読んだ瞬間の感想にはならないんですよね。

文を書くと眠くなる。

これは大敵です。

私は大いに嘆き、大いに語る

2008-10-20 05:55:32 | 読書


手が松崎しげるになった原因は、

どうやらガスコンロの火が不完全燃焼しているかららしい。

不完全燃焼というのは火が赤くなっていることだけれど、

たしかに火元は青でも先のほうは赤。

ぼくはそれが以前のものより火力が強くなったせいだと思っていたけれど、

どうやら違うらしい。

そして不完全燃焼の原因というのが、

まだメーカーに確認していないけれど、

アパートがプロパンガスを使用しているのに対して、

ガスコンロは都市ガス使用。

これが原因なのではないかと思われます。

松崎しげるはほんとへこんだ。

で、今日も早めの起床だけれど、

買物やらなんやらをやっていると一日が早い。

(炊飯器ゲットだぜ)

今月発売された「文藝冬季号」を読んでいる時間も

大分とっているんですけど、

小説は時間を容赦なく使いますね。

今年から「すばる」や「新潮」にも手を出し始めているのですが、

読みきれないまま次が出版されることがよくあります。

そしてその他にも新刊と海外文庫、

興味のある小説を読み返していると、

とても時間が足りず、さらに書く作業、

毎日同じ事をしています。

形になりにくいけれど、

こうしてたまに書いているから満足です。

で、

読書の秋ということで本の話をしようと思うけれど、

なにを話しましょう。

とりあえず文芸五誌のなかなら、

文學界がおすすめです。

※新潮、群像、文學界、すばる、文藝(五大文芸誌)

出版回数が多いから興味がある内容のときだけ買えばいいし、

なにより対談が多い。

ぼくが買っている号だけそうだったのかもしれないけれど、

すばるや新潮は小説が多くて。

できれば面白そうな小説だけ読みたいぼくとしては、

読まないページがあるのはもったいない。

本末転倒ですね(笑)

文藝は作家の紹介をしっかりしているので面白いですが、

年に四回の発行で、

小説も若い作家ばかりなのであんまり好かないんですよね。

といっても読書の秋に文芸誌を読む人はあまりいないと思うので、

文庫の紹介を。


サミュエル・ベケット


(Samuel Beckett, 1906年4月13日 - 1989年12月22日)
アイルランド出身のフランスの劇作家、小説家、詩人。
不条理演劇を代表する作家の一人であり、
小説においても20世紀の重要作家の一人とされる。
ウジェーヌ・イヨネスコと同様に、
20世紀フランスを代表する劇作家としても知られている。
1969年にはノーベル文学賞を受賞している。

※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)


冒頭の画像の人です。

『モロイ』 『マロウンは死ぬ』 『名付けえぬもの』

の三部作を今度読んでいこうと思うのですが、

文章の作り方が面白いです。

で、

朝になってしまったので、

この辺で……。(もうすぐ7時だ)

今日はARTイベント。

前回バイオハザードで8000枚だしたので、

今日も狙っていきます。

(働け! 働け、俺!)

相思相愛

2008-05-28 19:35:02 | 読書

最近やたら時間が出来ると思ったら、


ろくに読書の時間を作っていない。


気温が温かくなって、


街全体が息を吹き返したように、


色、空の色、道路の色、


川の色が濃く感じるので、


ぼくは浮き浮きして、


つい色々なものに手を出したくなるのだ。


読書というのは、


時間の余りに嗜むもの、


という感覚があって、


作られた時間の中で空想に耽ることは、


本、本来の力に背く行為だと思う。


つまり、


本は心を豊かにしてくれるけれど、


読まなきゃいけないものではない、


という考え。


当たり前かもしれないけど、


ぼくはその当たり前がよく分かっていない。


本は常に読者に語りかけてくれるものだから、


一定の期待がそこにあって、


いくら読んでも文章が頭に入ってこないとき、


面白くないと感じる。


しかしそれは、


ぼくが本に働きかけないからだと思う。


書き手は、


文字の中に息を吹き込む。


読み手は、


その息を探し出す。


その二つが交われば、


本と対話をしているような感覚を、


思い出せるかもしれない。


人気ブログランキング←やらないか


セカチュー

2008-05-21 22:10:50 | 読書



セカチュー、


セカチュー。


セカチュー出したいなー。


ああこれ、エヴァの話。


アニメ版最終話のタイトルが、


「世界の中心で愛を叫んだけもの」


なわけ。


某遊戯でもプレミア的な扱いをされているわけだけど、


それを出したい。


と思いながら寝坊した今日この頃。


あれ?


よく考えると、


エヴァのほうが放送早くない?


調べたところ、


エヴァが1996年で、


世界の中心で愛を叫ぶ(小説)が2001年。


5年も前じゃん!


これって有名な話?


なんでも編集者がタイトルを付け直したとか。


エヴァがパろったと思ってごめんなさい。


そうかあ、そうかあ。


だって小説のほうが世間的に知られてるしさ、


かん違いしている人ってけっこういると思うよ。


編集者の人がエヴァマニアだったのかな。


それとも作者のほう?


作者自ら、


「エヴァをパろりましたー」


なんて言えないもんね。


タイトルを変える前は、


「恋するソクラテス」


という名前だったらしい。


売れんて、それは!


いいとこブスの瞳に恋をするどまりですって!


うん、ごめん。


今頃こんな話かいって感じだけど、


目からうろこだったので、


つい、ね。


読書って

2008-05-13 02:23:16 | 読書


読書好きの人ってどうなんでしょう。


この悩み、


けっこう前から持っているんです。


ぼくは今まで、


読書と縁のない生活を送ってきたから、


この趣味をすごく魅力的に感じているのですが、


他人に本の話をするとき、


ふっと隙間ができるんです。


どうしてそんなに本が面白いの?


っていう、嫌な隙間。


それは口に出されませんが、


声の強弱だったり、会話の乱れで感じてしまいます。


だから本の話をするときはできるだけ気をつけて、


面白い話題を振ろうと心がけているのですが、


それでもそういう嫌な隙間は生まれてしまって、


読書ってつまらないものなのかなあ、


と不安になるんです。


そもそも、


絶対的に感性が違う人っていると思うんです。


こういう風に書くと棘があるのですが、


例えば、


ドラマを見るとき、


ストーリーだけ追って簡潔に内容を理解しようとする人と、


ストーリーの他にカメラワークや


そのとき役者さんが演じながら考えていたことを、


想像しながら見る人。


この二人が分かり合うのってなかなか難しいと思うんです。


例えが正しいか分からないのですが、


本って読むことに慣れてくると、


色々な箇所に興味をもってくると思うんです。


風景描写や話の布石、


さらに慣れてくると、


読む流れが止まるところ、


これを作者の身体性と関わってくるところとして、


すごく面白く感じるのですが、


そういう話ができる人は少ないですし、


普段、人と本の話をするときは、


もっともっと遡って、


ストーリーの話、


それも、


誰でも知っているだろう物語のストーリーの話、


をしなければなりません。


幸い、ここではそういう不安にならないのですが、


日常の生活、


一番身近な生活にその不安が潜んでいると思うと、


本の話をすることが怖くなってしまいます。


本の話ってどうなんでしょう。



書いてみた。

2008-05-05 10:28:02 | 読書



昨日読んでいた梶井基次郎の「筧の話」を、


ぼくなりに現代文に近づけてみました。


風景描写が繊細で、


あらすじとして紹介するのは勿体無いので、


ところどころ倒置してみたり、


切り取ったり、


表現を変えてみたりしました。


「筧」と言うのは、


水を送り流す管のことなのですが、


そこからは水の流れを見ることができず、


はたしてこの水音はどこから聴こえてくるのだろう、


ということがこの話の内容で、


けっきょく男は水音を目で見ることはできません。


現れては消える水音の閃光と、


あとに残る暗闇、


男が生きる現実の世界を、


この水音探しにたとえているのですが、


読んでみると、


重要なことは結末だけではなく、


山道の美しさも、


男が常々抱えている不安も、


重要だということが読み取れます。


しかし、


読みにくい。


まず始めの街道と山道の話。


街道の話がいつか出てくるかもしれない、


とあたまの片隅に置いていると、


山道の風景描写が始まって、


ああこれは山道の話か、


と思っていると、


長々と続く山道の風景描写は、


本筋とあまり関係のないところに位置しています。


そのふらふらした状態で筧の話に入ると、


話の筋はおおよそ見当がつくけれど、


どうも本質を捉えていないような、


消化不良の状態になります。


そこから青い花の暗喩に入り、


次に閃光と暗闇の暗喩。


最後に生の幻影と絶望の暗喩で締められているから、


ぼーっと読んでいると、


本筋すら意味が分からなくなってしまいます。


これは、近代小説だから、


ということではなく、


現代を生きていくなかで、


少しずつ感性が失われているのでは?


という懸念があります。


音にしてみても、


車の音、


工事の音、


昭和はじめごろになかった様々な音によって、


思考はかく乱されてしまいます。


見るにしても、


テレビのチャンネル、


スーパーの食品、


人ごみで会う様々な人たちによって、


思考はかく乱させられてしまいます。


本来ならこのように簡約せず、


原文のもつ文字の世界に浸っていたいのですが、


現代を生きているぼくには難しいです。



筧の話

2008-05-04 17:22:06 | 読書



男は、


谷に沿った街道と、


街道のそばから谷に架かったつり橋を渡っていく山道、


二つの散歩道を持っていた。


街道は見るものに事欠かなかったが、


陽気で気が散りやすく、


それに比べて山道のほうは、


陰気ではあったが、


心を静かにした。


どちらへ出るかはその日その日の気持ちが決めた。


しかしいま、


男の興味は静かな山道に向けられていた。





山道は、


つり橋を渡ったところから杉林のなかへ入っていく。


杉の枝先が日をさえぎり、


この山道はいつも、冷たい湿っぽさがあった。


そこから迫ってくる静寂と孤独から、


男の目はひとりでに下へ落ちた。


道のかたわらに生えたこけ、


この道ではそういった、


こじんまりとした自然が親しく感じられ、


またあるところには、


雨露にたたかれた赤土が岩石のように骨立ち、


枝先の隙間を洩れてくる弱い日光が、


道のそこそこや杉の幹、


男の頭や肩先にあたり、消えていった。





この道を知ってから間もなくの頃、


男はある期待をこめてこの山道を歩いていた。


男が目指しているところは、


杉林のあいだから冬のような冷気が通っているところだった。


その場所には古びた一本の筧が伸びており、


微かなせせらぎの音が聴こえた。


男の期待はその水音だった。





どういう訳で男の心がその水音に惹きつけられるのか。


男はある日、


その水音のなかに不思議な魅惑がこもっていることに気づいた。


風景の中に、不思議な錯誤が生まれているのだ。


辺りは香りもなく花も貧しいのぎ蘭がところどころに生え、


杉の根元は暗く湿っぽかった。


そして肝心の筧といえば、


この辺り一帯の古び朽ちたものに横たえているに過ぎず、


「音はそのなかからだ」


と理性を信じていても、


男が澄み透った水音に耳を傾けていると、


聴覚と視覚の統一はすぐにばらばらになってしまい、


妙な錯誤とともに、


不思議な魅惑が男の心を満たした。





男はその魅惑によく似た感情を、


露草の青い花を目にするときに経験したことがある。


草むらの緑とまぎれやすいその青は、


不思議なまどわしを持っている。


男はそれを、


青空や海と共通の色を持つことから生まれる、


一種の錯覚だと信じているが、


見えない水音がかもし出す魅惑は、


その錯覚にどこか似ていた。





水音はだんだん深まっていき、


暗鬱とした周囲のなかで、


やがて幻聴のように鳴りはじめた。


水音は閃光のように男の目の前に降り、


そのたびに姿を消した。


なんという錯誤だろう!


男は酔っ払いのように、


一つの現実から二つの表現を見なければならなかった。


一方は理想の光に輝かされ、


もう一方は暗黒の絶望を背負っていた。


そして男が二つをはっきり見ようとする途端、


それらは一つに重なって、


またもとの退屈な現実に帰ってしまうのだった。





筧は雨がしばらく降らないと水が枯れてしまう。


男の耳も日によって水音を聴き取れないことがある。


そして花盛りが過ぎてゆくのと同じように、


筧にはその神秘がなくなってしまい、


男はもう筧のそばに佇むことをしなくなった。


しかし男はこの山道を散歩し、


そこを通りかかるたびに、


自分の運命について次のように考えていた。


「課せられたのは永遠の退屈だ。生の幻影は絶望と重なっている」




著者 梶井基次郎(1928年2月)



焼肉

2008-03-29 20:41:51 | 読書


先日(水曜日)、


ただうしさんと田村さんと焼肉を食べてきました。


ただうしさんとはかれこれ二年のお付き合いで、


家も近所なのでちょくちょく会ってます。


といっても、


電話をすることが多いので、


今回会ったのは半年振り、


いつのまにかそんなに経ってました。


西日暮里で待ち合わせ、ということなので、


久々の電車。


小説の話ができる、と考えると足取りも軽いです。


小説を勉強するようになって、


もう二年半になるんですね。


ちゃんと身になっているのかなあ。


最近は現代小説を読むことをひとまずお休みして、


近代小説に手をだしています。


今読んでいるのは以前買った三島の金閣寺と


梶井基次郎の檸檬なんですけど、


三島は神すぎるだけにすぐ突き飛ばされるというか、


散漫になるというか、


情景描写も美しいんですけど、


いかんせん北陸育ちのぼくとしては


京都の描写はなじみが薄い。


その点、同じ近代純文学でも梶井のほうは東京が舞台なので


いくぶんなじみやすく感じます。


でも、これを読んでいる間も


何度も突き飛ばされるので、


その間に現代小説を五冊ほど読んでいるんです。


(はあ)


でも今のブームは梶井基次郎。


檸檬は短編集なので、


突き飛ばされても読み直すことが容易なんです。


近代小説になじみが薄いぼくにとって都合がいい。


しかもこの作家さんは若くして亡くなってしまったので、


書籍はこの一作だけのようです。


(だから制覇できそうというわけです)


とまあまた本の話になると止まらなくなってしまって、


肝心の焼肉はどうなの、


ということですが、


とってもおいしかったです。


韓国の方が切り盛りしているようでして、


BGMが冬ソナ系。


ただうしさんがひいきにしているお店のようで、


店員さんと仲よく話しておりました。


たのしく話して、


おいしく食べて、


いい一日でした。