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キャロル、お前はどうしてこの物語が、
1930年11月に始まる、と考えたんだ?
考えるべきは時間軸だけではない。
人物もまたそうだ。
誰を中心に据えるかで事件は、
千変万化に姿を変える。
つまり事件はひとつ。
けれど物語はそれに関わった人の数だけあるのだ。
※BACCANO 第1話
【副社長は自身が主役である可能性について語らない】より
ポストモダン文学ね。
たぶん。
太宰治の人生を、
BACCANO風に書いたらどうなるんだろう。
妻と入水自殺を図った際に、
自分だけ助かったことを始まりに据えようか、
飲んだくれて金が無くなって、
仕送りを待つ気持ちを綴ったら
メロスが完成したことを始まりに据えようか。
おっと、
考えるべきは時間軸だけではなかった。
BACCANO風に書くならば、
文豪たちの馬鹿騒ぎを書いていかなければ。
三島由紀夫のモリモリ筋肉、
腕立て100回出来たところを始まりに据えようか、
太宰の写真をサンドバックに貼り付けて、
右ストレートをかましている姿を始まりに据えようか。
ああ、フィクションじゃつまらないか。
現実から始まって、
ありそうな事で脇を固めねば。
誰かがたくあん食って、
面白おかしく。
物語に終わりがあってはならないのです、
とキャロルが悟るわけ。