minority resistance

pcfx復活ブログ

ずんずん教の野望

2011年06月25日 | げーむ
昨日、JR名古屋駅でホームに到着した新幹線を降りる乗客を、片っ端から名古屋撃ちで倒していく
シューティングゲームが発売されるという夢を見た。自分で見た夢ながら、目が覚めて「なんじゃ
こりゃ」と自分ツッコミを余儀なくされたが、どうもどこかでみた構図だった。1日考え、やっと
それが「ずんずん教の野望」のワンシーンに似ている事を思い出したのだった。

世界で最もクールなゲーム会社、SEGAが1994年に世に放った問題作が「ずんずん教の野望」だ。

プレイヤーの操作するお地蔵さんで、謎の宗教団体「ずんずん教」を壊滅させるシューティング
ゲームだ。日本・アジア・欧州・米国にそれぞれ支部があり、それぞれにある派閥を全て潰して
いく。冒頭に「実在する宗教団体とは関係ありません」と出るが、1994年といえば「オウム真理教」
が世間を騒がせていた真っ只中の時代だった。

pcfxの夢に出てきたシーンは、このゲームの「日本支部」の「上野駅東北線乗り場」で繰り広げ
られる、「朝まで泥酔派」という派閥と戦う場面と似ていた。
このゲームの雰囲気はなんとなく「ごんべえのあいむそ~り~」に似ており、やはり発売はSEGA
だった。さすがはSEGAだ。



「ずんずん教」のラスボスは「地球の無意識」が具現化した「アースノイド」という奴だが、この
ゲームは2周してゲームオーバーになる。


このゲームが発売された当時、pcfxはスコアネームを「ZUN」と名乗っていたので、よく仲間に
「ZUNZUN教」などと揶揄されたものだったが、加えてオウム真理教が色々と事件を起こしている
最中に出たゲームでもあり、一部のゲーマーに「ヤベェゲーム」という印象を与えていた。

特定の宗教を信仰しないpcfxは当時、オウム真理教にかなり関心を持っていた。名古屋支部の
道場を見学したこともあり、大須のパソコンショップの「マーハーポーシャ」やオウムグッズを
販売していた「サティアンショップ」にも足を運んだ。マハーポーシャの呼び込みが大須商店街で
奇妙な掛け声や歌や踊りをしていたのは面白かったし、サティアンショップで販売されていた
「青山弁護士ノート」「尊師メモ帳」なども面白がって買っていた。

オウム真理教は「テロ集団」という印象が強いと思われるが、事件を起こす前にはいろんな著名人
がオウムを評価していた。ビートたけし、吉本隆明、中沢新一などだ。pcfxも当時、サーンキャー
哲学
や古代仏教系の本を読み漁っていたが、日本語訳された資料が少なくて困っていた。そこに
オウム真理教がそれらの翻訳本を発行しているという情報を聞いて、名古屋市の東新町あたりに
あったオウム真理教名古屋支部に買い求めにいったのだった。

「万国ビル」というわりと大きなビルがあり、その3階が名古屋支部だった。入り口付近にある
受付で本を探しているという旨を話すと、サマナ服を着た女性信者が数冊の本を持ってきた。
やたら高い本だったが仕方なく3冊ほど購入した。するとなぜか、読者登録をしてほしいので
ここに名前と住所と電話番号を書いてくれ、とユーザー登録を求められた。新興宗教への応対
には慣れていたのでデタラメを書いて渡した。これはサービスですと、オウム真理教の発行する
機関紙や麻原の著書などを差し出してきたのでもらっておいた。

その後受付の女性と古代仏教やバラモン教の話をしたのだがあまり詳しくない。上級信者らしき
男も出てきたが、これも話がシドロモドロだった。「ああ、あんまり勉強してないな」という
のは一発でわかった。それ以上は無駄のようなので引き上げたが、購入した翻訳書は割と良い
内容で、ずいぶんと役にたった。タダでもらった機関紙は石井久子が表紙に出ており、「あの時
私は光だった」などと、まるでエロ本のような雰囲気だった。また麻原の著書も「最終解脱者」
とか紹介されており、「ああ、また自称か」と、ライト感覚な新興宗教そのものといった印象
だった。


pcfxがオウムを知ったのは割と古く、「つのだじろう」のマンガの中で、空中浮遊に成功した
麻原が紹介されていたのを読んだのが最初だ。変なオッサンが上半身裸で蓮華座のまま中に
浮いてる写真があった。「オウム神仙の会の麻原氏が空中浮遊に成功」という見出しで、雑誌
「ムー」に掲載されている記事もあった。それが80年代半ばくらいの時期だったと思う。

pcfxは学術的なこと以外には宗教に興味がなかったので「ああ、また超能力か」程度の印象しか
なかったのだが、この時なんとなくだが、「この宗教は大本教と同じ運命をたどるのでは」と
思ったのを覚えている。大本教がどんな宗教団体だったのかはググってもらうとして、公安に
目をつけられる要素をそこかしこに感じたのだった。そして案の定の終焉を迎えていた。



インド教である「ヒンドゥー教」は日本神道とシステムが似ている。統治者が地方を治めていく
時に、地方の神様を飲み込んで「あれも神様、これも神様」と認定していく。そしてそのつじつま
を合わせていく「神話」が産まれるのだが、それぞれの土着信仰を継ぎ接ぎするので、たまに
強引でおかしなエピソードになることがある。ヒンドゥーではガネーシャの話などがそれだ。

それらの物語を人類学的・社会学的・文学的に読むのは楽しいものだが、なんかそれを真正面から
真面目に受け取って信じこみ、拝み倒す人もいる。面白い物語なのに、なんだかもったいない話
だ。また逆に「宗教だからダメだ」と真っ向から否定する人もいるが、それももったいない。
神話には含蓄に富んだ面白い話が多いというのに。

で、神話とは物語なので、これは現在のマンガやアニメに通ずる。素直に物語やキャラを楽しめば
よいのだが、中にはストライクに受け取って狂信化したり神格化したり厨ニ化したりする人も
いるようだ。また「オタクキモイ」とバッサリ切り捨てる人もいる。両方もったいない話だ。

ヒンドゥー教の神様たちへのインド人の信仰は、多神教である点や土着信仰の併呑などが日本神話
と似ているが、信仰のされ方は日本におけるアニメキャラ萌えと似ている側面がある。それぞれが
贔屓の神様を信仰するのだが、それが一人だけとは限らない。3人セットというのもザラだ。
例えばラクシュミ神萌えの信者は、ほぼガネーシャ神も信仰する。なぜかというと、「ラクシュミ
神はガネーシャ神と大変仲が良いから」というのが理由だ。仲が良い神様を別々に信仰するのも
おかしな話だ。このへんが多神教の面白さなんだが、一神教の連中にはこの醍醐味がわからない
らしい。すぐに「多神教=精霊信仰=原始的宗教=野蛮」というレッテルを貼りつけてくる。

また、インドでは婚前交渉はタブーとされることが多いが、だからといって男の性欲が我慢される
はずもない。ネット以前はポルノも手に入らなかったインド人男性は自分で処理していたわけ
だが、ズリネタにも事欠くので、部屋に飾ってある萌えポスターを見て抜くこともしばしばあった
のだ。つまり女神様のありがたいお姿ポスターをネタにしているわけだ。ははあ、どうりで
ヒンドゥーの神様ポスターの女神様は艶めかしく描かれているわけだ。それが罰当たりだという
人もいるだろうが、左道タントラの一つでありこれも修行の一環なのだ。日本人のオタが
かんなぎ」をネタに抜くのと大体同じであり、エロ同人誌を描くのも徳を積む一環なわけだ。

現在の日本人はインド人と比べて、少し神道に無関心過ぎる。もっとウズメとかアマテラスに
生々しい興味を向けるべきであり、ちょっとグロ志向な方はイザナミとかに萌えるべきだろう。
信仰されない神様はどんどん力を失ってしまう。オタの女神萌えや巫女萌えは国力増強になくては
ならないパワーの源であり、神社の聖地巡礼で萌え絵馬もどんどん奉納するべきであり、全国で
立ち腐っていく神楽殿を利用してオタダンスを奉納すべきなのだ。

なにかと閉塞する昨今の日本だが、その突破口はインド人に見習った、日本神道の再興にある。
もう政府が「信仰もほどほどにせよ」と困るくらいの盛り上がりを見せることが、日本再生への
唯一の具体的な方法論だ。


大本教やオウム真理教の失敗は日本神道の軽視にあり、土着神であるお地蔵さんの仏罰だ。
「ずんずん教の野望」も金地蔵と銀地蔵によって潰える。日本人の信仰が日本人を救うのであり、
わざわざ新しく宗教を作ったり輸入しなくても、いつでも答えは足元にあるのだ。


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