

芭蕉像
【1688年(元禄元年)】
「新編芭蕉大成」によると、俳聖・芭蕉が生涯に残した発句は、僅か980句に過ぎないといわれる。生涯に九度の旅を重ね、紀行文発句に励んだ成果でもあるが(編・尾形仂 芭蕉ハンドブック株式会社三省堂)、この点数が少ないのか、多いのか? ちなみに小林一茶の場合は生涯に2万句を詠んだとされているが、推敲に時間をかけた芭蕉に関しては生涯作品数は別として、この1000句に満たない句の中に、唐辛子を季語にするか、句の中に唐辛子を詠みこんだものを合わせて4点の俳句が見られる。ただ不思議なことに、唐辛子が詠まれた時期は何れの句も元禄年間に集中しているのである。それは、5・7・5という短くシンプルな俳句を確立した芭蕉が、時代とともに作風を変化させていった時期と合致している。「不易流行」(ふえきりゅうこう)、である。5・7・5の俳句の形式と作法に基づいて、つねに新たな句材と、新しい表現の追求を図っていったのである。確かに、元禄年間に芭蕉は「おくのほそ道」をはじめ、代表作となる幾多の名句を残しているのである。その点、芭蕉の観察力からみて、唐辛子には句材としての斬新さが見られたのであろうか。さて、 芭蕉、初めての唐辛子の句。「隠さぬぞ 宿は菜汁に 唐がらし」である。これは、貞享5年から元禄元年にかけて俳諧紀行に出た芭蕉が、医師で弟子の俳人である、吉田(現在の豊橋)の加藤烏巣(うそう)を訪ね、宿泊したときに詠んだ句といわれる。「宿」とは、加藤家。医師の日常は、来客にも質素なもてなしであり、菜汁と唐辛子だけの食事をとりつくろわない様子に感銘をうけ、わが弟子を褒め称えているのである。ところで、この唐辛子、加藤家の庭先で烏巣(うそう)が育てていたのだろうか? あるいは、日々の食卓にのぼっていた? そうなると、庶民・町民の文化が一斉に花開いた元禄の頃には、唐辛子はごくごく身近な存在になっていたと推察されるのである。時は、元禄元年。後に、内藤トウガラシ(八房とうがらし)の名産地といわれた内藤新宿の宿場が開設される、10年ほど前の話である。

芭蕉像から見る、隅田川と小名木川
◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。