「甲州街道筋の内藤とうがらし(八房系)」
【1714年(正徳 4年)】
日本古来の原種は、数えるほどの、いわゆる野菜類。奈良時代に中国から野菜の栽培が伝わったあと、大航海時代の戦国時代から江戸時代初期にかけては、アジアから、ヨーロッパから、新野菜が続々と伝来したといわれている。人見必大が30年以上の歳月を費やして書き上げた「本朝食鑑」や、日本3大農学者の一人である宮崎安貞の農業指導書「農業全書」、そして「養生訓」と並ぶ貝原益軒の代表作とされる「大和本草」をはじめとした本草書や農書に、こういった野菜(菜)の種類・分類・栽培法の解説が見られる。それぞれが、そうそうたる定評が築かれた書物だけに、「菜譜」の存在は、やや希薄に見られがちといわれる。ところが、この農書は、広く一般庶民に分かりやすいように平易な文章と、栽培に関する実用的な内容で構成されており、さらに江戸時代初期から中期にかけて、どういった種類の野菜が存在したかを知るうえでは、かなり貴重な文献と思われるのである。貝原益軒が書き上げた花譜・菜譜(筑波常治・解説、八坂書房・発行 昭和48年)に目を通していくと、菜譜には136種類の野菜(菜)が10区分されており、生育の方法と食べる部位によって仕分けられている。人が手をかけて畠で栽培されるのが圃菜(ほさい)、野原に生えている食べられる菜が「野菜」、山で採れるから「山菜」、水辺で採れるから「水菜」といった具合に、生育の場所に菜(な)がついて区分けされているわけで、別の見方をすれば、畠で栽培される菜(な)と、野生の菜(な)の2つに大きくグルーピング整理されているのである。文化の爛熟と農業の発展が見られた元禄の頃ではあるが、まだまだ圃菜(ほさい)より野生の菜(な)の方が多かったのかも知れないのである。
今から約400年まえの江戸時代初期前後に伝来した新野菜のひとつである唐辛子は、「菜譜」(さいふ)に記された貝原益軒のグルーピングでは、番椒(たうがらし)として、圃菜(ほさい)に分類されている。野に生える野生の「菜」(な)ではなく、畠で丁寧に手をかけられ、生育されている圃菜(ほさい)というわけである。同じように、この圃菜(ほさい)に区分けされているのは、日本原産のだいこん、かぶらな、せりにんじん、ねぎ、それと、香辛菜のにら、にんにく、らっきょう、はっか、わさび、たうがらし、などなど。これらの区分けに関しては、博物学者としての知識と観察力に加えて、益軒が儒学の研究のために福岡から江戸や京都に出かけた数十回に及ぶ日本全国の見聞や、花や野菜を自宅で栽培した経験、畠での圃菜(ほさい)、唐辛子などの観察経験が生かされていると推察される。このように、唐辛子は、紛れなく圃菜(ほさい)。だから「菜譜」(さいふ)が書かれた元禄の頃、真っ赤に実った番椒(たうがらし)が、畠を赤く染めていた?
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